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◆◇記憶◇◆
暗い海を覚えている。雲間に揺れる淡い月の形さえ覚えている。永遠に繰り返される波の音、夜目に白い波がしら。ゆっくりと砂に埋もれていくミュール。砂は‥‥まだ熱い。うつぶせのまま動かない黒い人影。潮風に乗って何かが焦げた様な異臭が漂ってくる。眼も耳も鼻も、あの夜の記憶を消せない。海を背に立つあなたの姿、感情の見えない顔、何も伝えてこない瞳、殺戮の余韻に明滅を繰り返すその手‥‥。
「もう、嫌!」
結は思わず抑えていた気持ちを言葉に出した。誰もいない家の中、自分だけの部屋で勉強机に向かっている。中間テストが終わったからって気を抜いてはいられないのに、こんなに頭の中がグルグルしていては勉強に専念なんか出来るわけがない。
「ハッキリさせる! させてくる!」
結は勢いよく立ち上がった。教科書もノートも手早く閉じてとりあえず隅に置く。時計はもう午後10時半を廻っている。人の家を訪ねるには不適切な時間だが、店の方ならまだなんとか大丈夫だろう。一度決めたら迷わない。結は薄手のジャケットとバッグを取り、玄関に向かって階段を駆け下りた。
不意に笑みが浮かぶ。誰もいない暗い空間。洗ったサイフォンを乾いた布で拭いている。何故笑ったのだろう‥‥自分でもよくわからない。わからないことは‥‥別にどうでもいい。わからないままでも良いし、わかってしまっても別に悔やまない。洗い物をするのも、店先の掃き掃除をするのも、食事をするのも、誰かを消してしまうのも、どれも同じ事。特別な事は何もない。けれど‥‥あの子の相手をするのは楽しい。何が起こるのか予想出来ないところが楽しい。そう、多分これは『楽しい』という気持ち。
電子音の音楽が鳴る。小さな音がどんどん大きくなる。玲は布を置きカウンターの隅へと向かう。ズボンのポケットから取り出した携帯電話は普段使っているものとは違う、黒い真四角の機種であった。
「‥‥はい」
何気ない声で返事をする。
『最近は頻繁で申し訳ない』
「気にすることはありません。僕は気にしないタチですから‥‥ご存じでしょう」
『‥‥だったな。では本題に入ろう』
コツコツ。小さな音がした。ガラスを叩く音だ。施錠してしまった店の扉を外から叩いている音だった。分厚いガラス越しに見知った顔が見える。結だ。電話をしながら近寄ると、慌てた様な困った様な顔をして大きく体を曲げてお辞儀をした。意識しなくても笑顔を作る事が出来る。演技とは違う。これはSKILLの様なモノ。
『どうかしたか?』
「いいえ。なんでもありません」
電話の受け答えをしながら扉の鍵を開ける。ゆっくりと外向きに開く扉をあけると、結はもう1度お辞儀した。電話で会話中なのを気にしてか声は出さない。玲も身体をひねってスペースをあけ、結の肩から二の腕の背側に手を添えて店の中へ招き入れる。照明はほとんど消えていて、カウンター奥の玲が普段仕事をしているあたりだけが明るい。営業時間内とはまた違った雰囲気だ。
「あの‥‥忙しそうですよね」
ごくごく小さな声で結は言った。すぐに玲は首を横に振る。
「わかりました。えぇ‥‥じゃ、いつも通りに」
玲が携帯電話のボタンを押すとピと軽い電子音がして回線が切れる。
「申し訳ありませんでした。せっかく来ていただいたのに‥‥何か飲みますか? まだなんでも出来ますよ?」
結の瞳に映る玲は、優しげに笑いカウンター席の真ん中へと誘う。物静かな優しい人。ちょっと年は離れているけど、大人ぶってなくて年若い結を子供扱いしたり馬鹿にしたりしない。そんな人だと思っていた。大人みたいに鄭重に扱われるのがくすぐったかったけれど、嫌いではなかった。少し背伸びしている感じが心地よかったのだ。けれど、それはみんな嘘だったの?
結は動かなかった。動けなかったのかもしれない。うつむいてしまう顔をキッとあげ、まっすぐ玲を見つめる。
「教えてください、玲さん」
カウンターの向こう側に廻った玲は、洗って拭き終わったサイフォンを組み立て始める。結はカウンターに駆け寄った。
「お願いします、答えてください。あの海で事‥‥あれはなんだったのか教えてください」
「海?」
手を止めて玲が顔をあげた。結が知らない表情だった。あの夜の海の様に何もかも飲み込んで知らん顔をしてしまう暗い海の様な‥‥虚無?
「見たままですよ、結さん。真実はもうあなたの中にある。それなのに、一体何を僕に聞きたいと言うのですか?」
いつも通り穏やかに笑ったまま玲は答える。けれど、視線はサイフォンに向けたままで結を見ようとしない。
「は、はぐらかさないで下さい!」
逡巡も戸惑いも躊躇いも一瞬消えた。結は身を乗り出す。
「あの夜の海辺で、あなたは人を殺した。いいえ‥‥あなたがいて、その足元に焦げて死んでしまった人がいたのを見ただけです。あなたなんですか? あなたが殺してしまったんですか?」
答えは‥‥ない。いつのまにかサイフォンの中で沸騰したお湯がシュンシュンと小さな音をたてている‥‥ただそれだけ。
「‥‥玲さん」
結は名を呼んだ。微かに玲の前髪が揺れる。
「聞いてどうするんですか? 結さん」
それは何気ない口調だった。普段世間話をするような‥‥気持ちの揺れも高ぶりもない、何気ない言葉。けれど、眼が違っていた。足が一歩後ろに退く。玲の視線にに無言の圧力を感じていた。唇を噛みしめて踏みとどまる。決着をつけたいから、迷って堂々巡りをしていたくないからここまで来た。だから、うやむやで終わらせたくない。だから、逃げない。
「人が死んでいるんですよ。命が奪われているんですよ。ハッキリさせなきゃいけないんじゃないですか? 玲さんが事件のこと、知っているならちゃんと警察に言わなきゃ‥‥」
「可愛いですね、結さん。本当にあなたらしい」
玲は笑っていた。珍しく声をあげて笑う。アルコールランプを消しサイフォンの珈琲をカップに注ぐ。結には明るいバラ色のカップを用意し、自分用に白いカップを取り出す。独特の芳香が辺りに漂った。琥珀よりもなお濃い闇色の珈琲が結の目の前に差し出される。
「僕はね、あなたとこうして珈琲を飲む一時が好きでしたよ。自分の好みに仕上げた店で、好みの珈琲を好みのカップであなたと飲む。とても楽しい時間でした‥‥残念です」
「‥‥玲、さん?」
「よくテレビやドラマであるでしょう? 秘密を知られすぎてしまった場合のシーン。主人公なら九死に一生を得て助かりますけど、脇役や端役の人は悪い人に殺されてしまうんです」
「私を殺すんですか?」
自分でもびっくりするほど結は冷静だった。しっかりとした視線で玲を見つめ返す。心の奥底で嵐の様に荒れ狂う思いがある。けれど、今は表面に出てこない。もっと別の、闘志にも似た強い気持ちが結の心を占めている。目の前の人がどんな人だったとしても、心は負けない、くじけない、そんな思いが何度も交差する。玲も結をじっと黒い瞳で見つめている。そう‥‥見つめ合う2人。
「‥‥」
先に視線を逸らしたのは玲だった。先ほどとは違う、苦笑めいた笑みが浮かんでいる。
「玲さん?」
「負けました、結さん。あなたの勝ちです。あなたの言うとおり、僕は人を殺しました。けれど、それは皆あなたの為なんです」
意外な展開だった。そしてびっくりするほど近くに玲の顔が迫ってくる。
「ご存じなかったかもしれませんが、あなたは狙われていたのです。あなたが持つ人にはない力を欲しがる邪悪な組織が‥‥出来ることならこんな事、あなたには知らせたくなかった。僕の力であなたをどんな風にも当てず大事に守っていたかったんです」
「私の‥‥ため? ですか?」
事実の確認がこれ程ドキドキするものなのか。満足に言葉が出てこない。それなのに、目の前の玲はゆっくりと且つしっかりとうなずく。
「あなたのためなら‥‥僕は悪魔にもなれる」
あま〜〜〜い! 甘すぎる!!
「甘かったですか? もしかして砂糖入れ過ぎてしまいました?」
目の前に玲の顔があった。あわててのけぞりカウンターの椅子から転げ落ちそうになる。
「きゃ‥‥」
「危ない!」
結の左腕を玲が掴む。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です。ごめんなさい」
「いいえ‥‥珈琲いれなおしましょうか? お砂糖で甘くなりすぎてしまったんでしょう?」
いつものように笑って玲が尋ねる。そう、いつもと替わらない笑顔だ。
「そんなことないです。適量です。大丈夫です」
背中がかぁっと熱くなった。一体なんてヘンテコな想像をしてしまっていたんだろう。頬まで熱くなった気がする。
「今日はね、結さんはもう来ないかと思っていたんですよ。ほら、この前試験で数学がイマイチだったって言っていたでしょう? だからしばらくは勉強に専念するのかと思っていたんです」
「‥‥はぁ」
そうなのだ。けれど、どうしても勉強に集中出来ないからこうして営業時間外だと判っていて来てしまったのだ。けれど、どうやって話をしたらいいだろう。さっきの想像みたいにモロ直球でなんて聞けやしない。絶対に無理、あり得ない。
「結さんに嫌われてしまったかなって‥‥」
「え? 嫌うなんて、そんなことないです! 絶対に」
「よかった」
玲は少し照れくさそうに笑った。年上の大人の男性なのに、そんな表情は可愛いなって思ったりする。そう、こんな風に笑う人が殺人なんてするわけがない。あれはきっと、何か見間違えたのだろう。一瞬だったし、夢かもしれないし‥‥だって、気が付いたら全然別な場所で眠っていたわけだし。
「私も来てよかったです。家に帰ってもう一頑張り勉強します」
結は丈の高いカウンター席から滑る様にして降りた。
「もう遅いから、送っていきましょうか?」
「いいえ、大丈夫です。駅でタクシー拾って帰りますから。じゃお休みなさい」
「おやすみなさい」
小走りに扉へと向かい、結は玲に軽く一礼して外へ出る。玲は珈琲カップを流しに降ろすとゆっくりと扉に向かい鍵を閉めた。そして振り返る。扉を背にした玲の表情は‥‥。
結は代々木駅へと走っていた。今夜の自分はちょっとどうかしていたのだと思う。有りもしない事を怪しみ疑い、こだわりすぎていた。けれど、ちょっとさっぱりしたかもしれない。これなら今夜‥‥はちょっと遅いから無理だとしても、明日からはバッチリ勉学に勤しんでしまえるだろう。期末試験は父が泣いて喜ぶ程の高得点をゲットして、お年玉アップと旅行なんかもねだってしまおうか。
「なんか良いことあるかも〜かな?」
客待ちの列をなす駅前のタクシー乗り場へと、結は軽い足取りで走り続ける。
「あれ?」
さっき玲に掴まれた左腕が痛かった。ジャケットを脱いでみるとうっすらと指の形に痣が出来ている。テイルランプの禍々しい紅が、結の全身を鈍く照らしていた。
『問題はありません。何かあれば僕が処理します‥‥だからご心配なく』
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