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<東京怪談ノベル(シングル)>


heaven on earth

 寒蝉の声が、日々沈む速度を増す夕陽を送っている。
 神居美籟は顔を上げ、山の端に僅かに残る残光を面に受けながら空と山の際に目を遣った。
 茜に染まりながら渡る雲は、季節の風の変化と共に流れる先を変えたように見える。
「もう、秋だな」
夏の名残の強さを示すように煌と目を射る赤に目を細め、美籟は視線を転じた先に在る細い刃の如き月の姿に瞼に込めた力を抜く。
 夕陽に染められるかのように徐々に色を変じつつある楓、枝を伸ばしたその先端に懸かる月の清けさは、四季の移ろいの影響があまりないようだが、やはりその美しさを愛でるには秋が最上だ。
 夏の盛りをまさしく謳歌し、生気に充ち満ちて賑わしく降り注いだ蝉の声が力強い彩りを失った今、変わって足下の草むらから立ち上る秋の虫の涼やかな声が、賑わしく生命を歌っている。
 季節の混じる曖昧な空気は微妙なグラデーションを形作り、冷気が下に蟠るのと同じくして秋の気配は地に下る程に色濃い。
 季節の変遷を香りとして、明確に感じ取りながら、美籟はゆっくりと、苔生した石畳に沿って歩を進めていた。
 秋も深まれば直ぐに冬に転じ、虫の音一つない静けさを越えてまた春が巡る。
 人間の身であれば幾度も体験する四季も、たった一つの季節を生きて死ぬ、虫達の儚い命にとっては想像もつかない世界であろう。
 その儚さに己が身を重ねて、美籟は息を吐く。
 他愛ないとも愚かとも、思える感傷を重ねてしまうのは、夏の鮮やかさが未だ強く意識に残る今、鈴を転がすように快い秋の音が細く侘びしく聞こえてしまうせいか。
 香道を伝える家に相応しく整えられた広い日本庭園は、どれだけ自然に見えようとも岩の配置、植わっている植物の一つをとっても人の手の懸かった造形で、その意味で自然の物はない。
 時間が造り上げた景観を幾ら真似ようとしてみても、滑稽でしかない。
 などと言い切ってしまえば、丹精している庭師に失礼かと、美籟は自嘲の笑みを上らせた。
 邸と同じ旧さを持つ庭は、その当時から風景を変えぬと言う。
 変わり続ける自然に適わぬ悠久を求めているのかと思う程に律儀な、それが何処か歪んで感じられるのは、何一つとして人の手を介さない物はないと言う事を知る為か。
 しかし、美籟はふとそれだけでない事に気付き和装の膝裏に手を添えて布地に皺を行かぬよう気遣いながらその場に膝を折った。
 整然と、綿密な計算で以て形作られた風景……だが、この造られた庭にも何処からか入り込んだ小さな命は、少なくとも計算外の筈だ。
 緑に満ち、水があり。
 彼等は自分達に快い、畢竟、命を繋ぐ環境があればそれで充分。
 人の手に因ろうが因るまいが、儚い時を生きる虫達に憂いは存在しないのだろう……命の限りに歌い求め。次代に命を繋げるその為だけに生きて、死ぬ。
 彼等と同じように、命を連ねるそれだけに生きる目的があれば、楽だったろうか。
 だが、美籟は人間だ。死を思い、生に悩み……身に沿って離れぬ己が宿業を感じずに居られない。
『護』と奉られながら、その実、まさしく命を継ぐ為だけに生かされている、彼女が生きる事で約束される恩恵、それ以外を求められる事のない目的のない己の命の、所在を思わずに居られない。
 蝉達ももう直ぐ次の夏に逝ってしまう。今、生を歌う羽虫等も雪の前に消えてしまうだろう。
 そして。
 自分も太陽から見れば、月から見れば。そして地球という一つの個体から見れば、哀れなほどに短命な存在でしかない。
 地球46億年の歴史を1年に換算すると、人類が出現したのは、大晦日の午後11時37分頃。そんな記述を不意に思い出す。
 太古代、4月の末頃に生命が誕生してから、環境に応じ、最も命を繋ぐのに相応しいと思われる形を選択して、連綿と続いてきた生命の先端に居るのだ……儚い虫たちも、自分も。
 命は珠の連なりに似る。
 その全てが目に見える形であるとすれば、地球は真珠のような魂の連に彩られている事だろう。
 自分もその先に存在する一珠である、その事実に大差はない。
 しかし彼等は己が短命であるとは知らず、それ故に抗おうとも思わない……玉が響くようにゆらゆらと、穏やかに命を繋ぐそれだけで満足しているのだ。
 美籟は己が宿業を知っている……四代毎に現われる『護』は、新しい『護』が生まれれば不要となる。
 代々の『護』がそうであったように、求められるのはその業に流される事のみ、その、覚悟のみ。
 それを由とせず、受容れられない自分の心が軋みを上げているのを感じてしまうのだ。
 望む物は違う筈だ。自分が真に求めるものは……。
 胸に湧き上がる、衝動的な問いが掻きむしるように答えを求める、それに美籟は天を仰いで瞼を閉じた。
 そうして否、と。
 思考の全てを否定する。
「今更、何を……」
 虫の音は止まない。少なくとも彼等は、歌う事を好いているのだろう。自分と同じように。
 それだけで、それだけで。
 満足すべきだと宥める理性と裏腹に、押し込められた感情が奥底で蟠っているのを自覚する。
 問いなど知らない。故に答えなど無い。その諦観こそが自分を護ってきた筈だ。
 何も望まない、何も。そうして感情に蓋をして、生きるのだ。限りの時までを……儚い命と同じように。
 瞳を開いた美籟の視界には、未だ星の姿なく茜と藍との境界の曖昧な空。
「……私は愚かだな」
自嘲の笑みを深め、美籟は再び目を閉じると、思いだしたように鳴き出した寒蝉と、鈴虫の声に耳を澄ませた。