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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


遡りの月 〜永久の許し〜



月のささめきは何処へ。果てなど本当に存在するのかすら解らない大空には昼間よりも深い、群青色の絵の具が塗り込められている。満天の、と形容するには幾分物足りない星達は空を照らすのに精一杯で、住宅地の生温い光は夜が深く成るに連れて徐々に消え失せ、今や歓楽街の淫靡なネオンだけが心許無い地上を照らしていた。
心臓の更に奥底、傷口よりも遥かに深い所で裏切りと謂う名の破片が疼いている。赤ワインで渇きを潤す事は出来ても、痛みを焼き捨てる事は出来なかった。
飢えている。
アドニス・キャロルの唇から低い呻きが零れ落ちる。思った以上に大きく響いた其れは酷く獣めいていた。
「大丈夫ですか、何処かぶつけました?」
自分の運転に支障があったと思ったのだろう。運転席でハンドルを握っていたモーリス・ラジアルの眉が微かに歪んだのを見て、アドニスは如何にか口角だけを持ち上げる笑みを繕った。
「キミの所為じゃない。少し頭痛がするだけだ」
「そうですか…辛いようでしたら直ぐに言って下さい。医療は得意の範疇ですから」
ああ、助かるよ―――――其の言葉を最後に会話は止んだ。モーリスは不調のアドニスを気遣って言葉を掛けないようにしているのだろう、心做し車の運転も先程より緩やかな気がした。
モーリスは時折、この辺は若い女性に人気の洋菓子店があるんですよ、と気紛れに喋った。返答など求めていない、説明口調と呼ぶには余りに親しみ深い、柔らかな声色だった。
暫く車を走らせると歓楽街の都塵は遥か後方に遠退き、簡素な街並みが前方に広がった。建物の数は減少したが、建物自体の縦幅も横幅も歓楽街の小さなスナックやホテルとは比べ物に成らない。
小高い坂を登ると再び平地が広がる。其の上に聳え立つ巨大なホテルを見上げると自分が蟻にでも成ってしまったかのような錯覚を覚えた。縦に長い長方形の箱には数え切れない程のガラス窓がびっしりと嵌め込まれ、入り口の前には屈強そうなガードマンと制服姿のホテルマンが中と外とで距離を置いて立っている。二人は車を駐車場には乗り入れず、直接入り口に向かった。
痛みの所為か、其れとも長時間助手席に座っていた所為で両足の感覚が鈍っているのか。アドニスは車から降りる際に少しよろめいてしまって幾分恥ずかしい思いをした。
モーリスは手馴れた様子でホテルマンに予約の名前を告げ、車のキーと車を預け、部屋の鍵を受け取る。素早い。アドニスは感服した。
「行きましょうか」
「一寸待ってくれ。こんなホテルに来て如何するつもりだ?」
先立って歩き出すモーリスの背中を戸惑いがちに追いながら、アドニスは声を掛けた。
考えてみれば自分は何の目的も告げられていない。綺麗に月が見える場所が在るんです、と携帯で誘い出されて来てみれば行き先は誰が見てもそうと分かる高級ホテル。ただっ広いホテルのフロアには凹型の長いカウンターと背の高い観葉植物を取り囲んだ丸いソファが三席、花瓶やガラス細工や大理石の置物などが絶妙なバランスで飾られ、その場に立っているだけで花と香水の混じり合った香りが衣服に染み付いて行くのが分かる。モーリスはエレベーターの前で立ち止まると、アドニスを振り返り、嫣然と微笑んだ。
「無粋な事を聞かないで下さい。こんな所でする事は決まっているでしょう」
扇情的に歪んだ月型の唇に眩暈が、した。



ホテルの最上階。流石にスウィートルームを名乗るだけあって、内装は素晴らしく豪華で夜景は喩えようが無い程、美しかった。味気無かった夜空には何時の間にか細い弓形の、狐の瞳を思わせる三日月が白々と輝いている。星々も女王の帰還を喜ぶかの如く其の身を精一杯煌かせていた。
「アドニス」
アドニスはモーリスに招かれる侭、キングサイズのベッドへと身を寄せた。モーリスの肩を抱き、細く柔らかな髪の中に鼻先を埋めると、最高級の香水より上等な薔薇よりも甘美な馨りが脳を蕩かせる。
もしも願いが叶うのならば此の侭、ずっと酔いしれていたい。
だが、遠退き始めていた胸の痛みはアドニスのささやかな幸福さえも見るも無残に奪い去って行った。
モーリスの指先がアドニスの耳の裏側から頬骨のラインへ、頬骨のラインから首筋へ、首筋から肌蹴た鎖骨へと緩やかに下って行く。そして、透き通った金属音と共に指先は胸元に留まった。
「如何して何時も此れを付けているのです?」
他愛も無い疑問がモーリスの舌から滑り落ちる。其れはアドニスに些細な動揺と一時的な金縛りを与え、モーリスに十字架を外させる隙を与えた。銀色の十字架はいとも容易くアドニスの首から離れ、モーリスの手の中に収まった。金具が外れる音がアドニスの理性を崩し、其の瞳に暗い光を宿らせる。
熱い。最早其れしか考えられない。
アドニスは本能に従順に従い、モーリスの腕を掴み荒々しくベッドに押し倒した。引き裂いたシャツの胸元からボタンが弾け飛ぶ。部屋の明かりに照らし出された白い首筋に唇を這わせると、薄い皮膚の下に確かな血の滾りを感じた。
惜しみながら白い牙を突き立てる。えも言われぬ甘い感触はアドニスを虜にし、只管に血を啜らせた。
モーリスは抵抗する所か薄っすらと頬を上気させ、アドニスの背を引き寄せた。
「いいですよ、吸って下さい。貴方の罪悪感も恍惚感も私で充たされるのなら本望です」
血を吸われている間、モーリスは譫言のようにアドニスの名を繰り返した。余りに真摯な其の行為は、献身的な信者が神に赦しを乞う祈りの儀式を連想させた。
一度手放した筈の理性は実に唐突にアドニスの体に舞い戻って来た。先ず、最初に人間としての意識を取り戻し、其れから本能に支配されていた手足の自由を取り戻し、そして言葉を取り戻す。
「俺は一体何を…モーリスは……?」
ベッドのシーツを煩わしそうに押し退けながらアドニスはモーリスの姿を探した。ベッドの向こう側にロザリオを掴んだ片手が乗り上げている。アドニスは自分の心が瞬間的に凍て付くのを感じた。
アドニスはモーリス、と震える唇で数時間前まで―――アドニスの意識の中ではほんの数分前なのだが―――自分に微笑み掛けていた彼の名を呼んだ。返答は無く、代わりに血の気を失った手首が弱々しくベッドの向こうに落ちる。
ベッドを降りたアドニスが其方へ向かうと、ベッドの脇には白い顔を更に白く染めたモーリスが横たわっていた。首筋には二つの傷跡が生々しく残されている。アドニスが理性の最後に取り戻したのは、絶望だった。
気が狂いそうな悲しみとは裏腹にアドニスは実に冷静にモーリスの体を担ぎ上げ、ベッドの上に寝かせた。胸の上に両手を組ませ、其の手を温めるように自分の手を重ねる。
「何故抵抗しなかったんだ、ロザリオを此の胸に突き立てれば俺を殺す事も出来たのに」
彼は酷く悲しんでいた。涙こそ流さなかったが悲しみに胸を食い尽くされてしまいそうな程、彼はモーリスの死を悲しんでいた。涙が流れないのはきっとモーリスが自分の心を涙ごと連れ去ってしまった所為だとアドニスは考えた。
「知らなかったよ…裏切るのにも痛みが伴なうなんて」
十分経っても、一時間経っても包んだ手は冷たい侭だった。熱を放つ事も吸収する事も出来ずに、冷たく凍っている。其れでもアドニスはモーリスの側を離れる事が出来なかった。離れたくなかった。
其の時、微かな呼吸がアドニスの耳に届いた。続いて掴んだ手の指が小刻みに痙攣し、モーリスの蝋人形のようだった顔に仄かな朱色が広がり始める。
信じ難い出来事にアドニスはそっと自分の耳をモーリスの胸に押し当てた。
コトコトコト。アドニスを生かし続けた、モーリスに生きる喜びを与えた鼓動が奇跡の旋律を奏でる。
アドニスは長い睫毛を震わせてモーリスの顔を覗き込んだ。固く結ばれていたモーリスの唇が静かに綻ぶ。仕方がありませんね、とでも言いたげな笑みだった。
「自分で自分を殺す?命を絶つにも一人では寂しいでしょう。其の時は私が貴方の全てを貰います。此れも我儘です、私の」
如何して其処まで誰かを許す事が出来るのだろう。アドニスは其の許しに縋りそうになる自分を戒め、眉を顰めた。
「そう言って許されてまたキミを傷付けたくない…好きだから」
自分で告げておきながら、アドニスは矛盾にも困惑した。自分がこんなに切なく、こんなに熱っぽく誰かに愛を囁ける人間だった事に驚かずにはいられなかった。人を愛する事に人を信じる事にあんなにも臆病だった自分が。モーリスは熱を取り戻した指先で困惑しているアドニスの頬をそっと優しく撫でた。
「許すのは貴方だからですよ」
アドニスの胸の奥でふつりと何かが途切れた音がした。何が途切れたのかは解らない、けれども何か言い尽くせない感情がアドニスの心を占めた。ベッドに乗り上げて、モーリスの体を抱き竦め、幸福の馨りを嗅ぐ。其処で漸くアドニスは自分が堪らなく嬉しいのだと謂う事に気が付いた。
「アドニス、熱いキスをして下さい」
モーリスがアドニスの首に手を回して小悪魔的に目を細めた。死に掛けた、正確には一度死んだと謂うのに全く変化を見せないモーリスにアドニスは小さく微笑んだ。
「アドニスは此の体の以前の持ち主の名前で…本名はキャロルだ」
「……キャロル」
少し照れたように紡がれた響きはアドニスの唇に吸い込まれ、昇り始めた朝日が二人の影を照らし出す。首筋の傷跡が消えてしまっても、其れは見えない愛の証。







初めまして。アドニス・キャロル様、モーリス・ラジアル様。
作者の典花です。この度はPCシチュエーションノベル(ツイン)のご依頼を戴きまして誠に有難う御座います。
連作のラストを飾るなんて重大な役割を戴けるなんてとても光栄です。
色っぽい文は余り書いた事が無く少し戸惑い気味でしたが、とても解り易い上に魅力的な設定でしたので思った以上にすらすらと書く事が出来ました。
其の割に完成がギリギリになってしまい申し訳御座いません。
機会が御座いましたらまた依頼して下されば幸いです。其れでは本当に有難う御座いました。