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<東京怪談・PCゲームノベル>


非科学事件 ♯8


 電話の呼び出し音までが前時代的なものであったから、その館だけがまるで、19世紀のヨーロッパに置き去りにされているかのようだった。もしくは、19世紀のヨーロッパから、すっくり持ち出してきたかのようである。
 りりりりん、とベルが家主を呼んでいた。
 6度目のベルが、中途で途切れた。
 5度目のベルが鳴り終わるまで、電話のそばには誰もいなかったはずなのだ。唐突にそこに現れたのは、小柄な、この館の主に他ならない。
「はい?」
『マリオン・バーガンディ君かな』
「はい」
『帝都非科学研究所の、物見と云う者だ』
 家主――マリオン・バーガンディが、知らない名前だった。知人は多いほうだが、その彼の脳内名簿の中に、物見という名前は挙がっていない。『帝都非科学研究所』という機関名も然り。
 しかし、向こうに名前を知られているということは、かえってマリオンの興味をそそった。彼はとりあえず、話を聞くだけ聞いてみたのである。
 報酬は出せないが、ひとつ、マリオンに頼みがある――物見鷲悟と名乗る男は、そう言った。


 得意の力も使わず、その日のうちに、マリオンは物見から伝えられた住所のもとに足を運んだ。車から降りたマリオンが見上げたのは、東京の――いや日本中のどこにでもある雑居ビルだ。時間は午後3時をまわったところで、商店街は気だるい沈黙につつまれている。人影はまばらで、風が街路樹を揺らす音がいやに大きく感じられた。
 古ぼけたドアを押せば、目に入るのはがらんどうの1階フロア。そして、2階へと続く階段だ。猫のような好奇心が、マリオンを導いた。2階への階段を上れば上るほど、紅茶の香りが強くなってくる。
 ――へえ、渋いですね。シッキム紅茶とは……。
 甘いものと古き良きヨーロッパを愛するマリオンだ。紅茶を知らぬはずもない。漂ってくる上品な香りは、インド産のシッキム紅茶のものだった。
 『帝都非科学研究所』――古い看板を見つけると、ガラス戸の向こうに、物見鷲悟の姿をも見つけることが出来た。

 物見鷲悟は上背のある紳士で、小柄なマリオンがその前に立てば、親子ほどの身長差があらわれた。若い外見のわりに達観したマリオンの眼差しと、物見の黒い瞳とは、似通った光を湛えている。マリオンは手土産を小脇に抱え、とりあえず、笑顔で物見と握手をした。
「はじめまして、マリオン・バーガンディです」
「物見鷲後だ。面識もないのに急な呼び出しですまない。報酬も用意できないときている」
「いえ……シッキムをいただければ、それで」
 カップに入った紅茶を見つめて、マリオンはふわりと微笑した。それから、手土産を物見に手渡す。リンスター財閥重役一同御用達のスコーンとアプリコットジャムだ。
 部屋の中のものは、何もかもが古びていて、使いこまれていた。研究所というよりは郷土資料館の事務所だ。パソコンも古いものだし(ひょっとすると外見が古いだけで中身はカリカリにチューンされているのかもしれないが)、電話もいわゆるダイアル式の『黒電話』ときている。
 けれどマリオンにはその昔懐かしい機材やたたずまいそのものが嬉しかった。シャープや直線や曲線よりは、人の手によってつくられた多少の歪みが心地よい。
 研究所の中を見回したマリオンは、ふと、それを見つけだした。彼が見慣れているものだ。クラフト紙に包まれているが、その形と大きさから見当をつけるのは容易だった。
 額縁である。
「あれが――」
「ああ、そうだ。きみに相談したいものだよ」
 スコーンを載せた皿とフォークを手に、物見が頷いて、額縁に手をかけた。するすると包みは剥がされていく。
 やがてあらわになった絵画を目の当たりにして、マリオンはほうと感嘆のため息を漏らした。

 カンバスに油彩で描かれているのは、物見鷲悟の肖像だった。アンディ・ウォーホル似の顔立ちと髪型――ウィッグのような白髪に、鬱陶しそうな前髪、黒縁の眼鏡。黒いスーツと白いシャツ、ネクタイ代わりに締められたリボン。
 まるで鏡のようだ。その真正面に立っているのは、物見ではなく、いまはマリオンなのだが――生き写し、という言葉が相応しい。マリオンは屈みこんで、言葉もなく、じっとその絵画に見入った。
 荒目の亜麻カンバス。ごく一般的なものだ。絵の具とオイルの匂いも新鮮だった。つい最近に描かれたものに違いはない。それに――描かれている物見は、いまの物見の姿そのものだ。物見がマリオンのように、何十年も前から変わらない容姿であるという場合を除いても、この絵が21世紀中に描かれたものであることだけは間違いない。
 そして――これを描いたものは並みならぬ才能と情熱、若さ、経験がある。
絵画と添い寝をしかねないほど絵画と密接した生活を送るマリオンだ。わずか数分の注視で、わかってしまう。
 『ドリアン・グレイの肖像』――オスカー・ワイルドの幻想怪奇小説を、マリオンは思い出した。この肖像画には、あの小説を連想させる耽美と、……狂気があった。
「素晴らしい作品です」
 マリオンは大きく頷きながら、ようやく言った。
「しかし、この絵に問題があるのですね」
「その通りだ」
 額縁を抱えたまま、物見が肩をすくめた。

「私は自分の肖像画を誰かに依頼したことなど一度もない」

 油彩によって描かれているのは、物見だけだ。背景は、闇の中に沈んでいる。一見すると、何も描かれていない黒一色のベタのようだ。
 確かに、紅茶とそれを楽しむための食器には金をかけているらしい物見だが、電話さえ昭和の時代のものなのだ。わざわざ肖像画を依頼するとは思えない。
「突然送りつけられてきたというわけですか?」
「差出人の名前はなかったがね、……心当たりはなくもない」
 マリオンは金の目を絵の物見から現実の物見に向け、黙って話を促した。
「最近、似たようなケースが各地で報告されている。肖像画を頼んだ覚えがないのに、こうして送りつけられるということだ。しかし、そうして肖像画を受け取った人間は、皆心当たりがあるのだよ。肖像画を依頼したことはなくても……『似たようなケースが各地で報告されている』ということを、知っている」
「……『突然届く肖像画』の噂を聞いた人のところに、送られてくるというわけですね」
「そうだ。私がこの絵画の噂について調べ始めたのはつい3日前になる」
「3日!」
 マリオンは思わず声を上げて、目を見開いた。
「これほどの絵を1日や2日で仕上げるのは不可能ですよ」
「やはり、そうか。私は絵に疎いが、専門の君から聞けば自分の考えにも自信が持てる」
 失礼、とマリオンは物見から肖像画を受け取って、壁に立てかけ、今度は背景を注視した。
 この背景は、決して黒一色で塗りつぶされているだけではない。茶や赤、青も巧みに混ぜこまれているし――
 ――なにか、描いてある。
「描いてありますよ……」
「ん?」
「この絵には、世界があります……」
 額縁に手をかけて、マリオンはこくりと生唾を飲みこむ。
 それから、物見を見上げた。
「少し行って様子を見てきます。迷ったら、シッキムの香りを辿って戻ってきますから……必ず戻ってきますから、どうかお待ち下さい」
 どこへ行く、とは物見も尋ねない。言ったマリオン本人すら、行き先を知らない。ただ、物見は頷いて、傍観者の立場に立つ意を表した。
 マリオンは絵画の中の世界に目を向ける。虚像の物見が置かれている世界に向かって手を伸ばす。音もなく世界は繋がり、マリオンの手をぐいと引っ張った。


 なぜ自分だけがいつまでも、のんびりだらだらと歳を重ねていくのだろう。
 人生は80年だ。少し前まで、人生というものは50年だった。
 マリオンが気がついたとき、欧州と日本の人間の寿命はだいぶ長くなっていた――しかし、やはり、275歳まで生きている人間はいない。
 自分はサンジェルマンの生まれ変わりだとでも?
 そもそもサンジェルマンはもう死んでいるのか?
 こうして『世界』と『世界』を行き来しているうちに、きっと、マリオン・バーガンディの世界の時は狂ってしまった。マリオンが見つめ、訪れる世界は、等しくどこかが確実に、狂ってしまっていたから。
 なぜ自分だけはのほほんと、正気を保っていられるのか。
 或いはもう、すでに狂ってしまっているのか?


 絵画を知らない人間は、きっと顔をしかめるだろう。ここには、油彩道具の臭いが満ちている。油絵の具は所詮油であるし、その油を薄めたり伸ばしたりすることが出来るのもやはり油だ。慣れなければならない油の臭いは、しかし、絵画を愛するマリオンにとって、けして悪臭ではない。
 黒と茶と暗い赤、暗い青。光が弱々しい世界が、広がっている。
 マリオンの目は、色素が薄かった。わずかな光でも、『見る』には事足りる。
 ここは、礼拝堂のような部屋だった。そして壁いちめんから、視線によく似たものを感じる。目をこらせば、見えてきたのは、壁をびっしりと埋める肖像画だった。
 世界中のあらゆる人間の肖像は、ずらりと並び、闇の中からマリオンを見つめている。マリオンはその視線を見返しながら、一歩前に歩み出た。
 かつぅん、と靴音は意外なほど大きく響いた。
 少し進んだ先に光がある。
 カメラ・オブスクラで覗いた世界――レンブラントの絵画の中にあるような、くっきりとした現実感のある光。その光を背にし、イーゼルに掲げたカンバスに向かう、ひとりの画家がいた。
 マリオンは画家から一種の狂気を感じ取ったような気がした。しかし、悪意や邪気はなにも感じ取れない。画家はただ一心不乱に、カンバスに向かって筆を動かしているだけだ。
 しばらく無言で、マリオンは光の中を見ていた。
 出来上がったばかりであるらしい肖像画が、光の中にもある。マリオンは新しい肖像画の中に、よく知る人の姿も見出した。あまりにも完璧なその肖像画の中でも、その人物は変わらず気高く、美しい。マリオンはあらためて息を呑んだ。
「それを持って帰りたいかい?」
 画家はカンバスから目を離さず、不意に言った。若いような年老いているような、無邪気なような老獪なような、よくわからない声だ。
「……ええ」
 マリオンの声は対照的に、かすれていた。
「構わないが、ちょっと待ってくれ」
 がりっ、とパレットから山吹色を取って、画家はマリオンを制した。
 知人の肖像画を見つめながら、マリオンは尋ねる。かすれた、声のままで。
「……なぜ、このような? あなたは、一体?」
「わたしはただの鏡だ」
「……その通りです」
「ここにある絵も、みんな、ほしいと思った人間が持っていく。大概が自分の絵をね。みんな自分がどんな人間なのか不安に思っているということさ。自分を知りたい人間が、自分の姿を求めているんだ。それは罪ではないし、なにもおかしな考え方じゃない。わたしは人類がはじまったときからずっと存在している。人類がわたしを必要としている限りはね」
 画家は話しながら、筆を持ち替えた。
「……ただ、最近は、絵をほしがる人間が減ったかな」
「皆さん、恐れているのかもしれません。もしかすると、見たくはないと逃げているのかも」
「それもまたひとつの生き方だ。……さあ、出来た。自分の絵を自分で取りに来た人間は珍しいよ、マリオン・バーガンディ」
 マリオンは振り返った。
 たった一つの窓から射し込む光が、『自分』を照らし出している。
 ――ああ。
 200歳の老人に見える。28歳の少年に見える。無邪気に微笑んでいるようでもあり、老獪な邪笑を隠そうとしているようにも見える。山吹の絵の具であらわされた、金色の瞳。
 亜麻のカンバスに映っているのは、マリオン・バーガンディだ――。
「確かに、これは……私」
 手を伸ばし、マリオンは絵を取った。
「私です……」

「自分の絵を、自分で取りにきた。きみはきっと、誰よりも自分のことを知りたがっているんだよ」

 油絵の具の臭いを引き裂き、シッキム紅茶の香りがやってくる。はあっ、と大きく息を吸い込むと、マリオンは親しい知人と自分の肖像画を抱え、走り出していた。
 黒と茶と赤と青の影が、マリオンを包む。
 マリオンが再び目を開けたとき、目の前には、物見鷲悟の姿があった。

「……それは、きみの絵だな」
 物見は黒い目をしばたいて、マリオンが抱えてきたものを見つめた。
「真相は、わかったかね?」
「ええ。単純なことです。それに……肖像画を手にした方に危険が及ぶこともありません。持っていても大丈夫だと思いますよ。恐らく、歳を取れば肖像画も歳を取る……という報告がそのうち出てくるでしょうけど」
「中途半端な『ドレアン・グレイの肖像』だな。……危険なものではないことは、わかっていたが」
「絵を手に入れた方はきっと、よほどのことがない限り絵を手放そうとは思わないでしょう。絵は、本人が望んだから届けられた。それだけのことです」
 彼らは、鏡を手に入れただけだ。
 マリオンはふたつの肖像画をそっと研究所のデスクに置いて、にっこりと物見に微笑みかける。
「さ、事件は解決。お茶にしませんか」
 物見は自分の肖像画を眺めていたが、マリオンのその一言にぴくりと反応した。はっきりとしない微笑を浮かべて、物見は頷き、絵を置いたのだった。




<了>


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   非科学事件調査協力者
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【4164/マリオン・バーガンディ/男/275/元キュレーター・研究者・研究所所長】

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               物見鷲悟より
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 先日はいいジャムをありがとう。貧乏性でな、まだ使い切らずに残っているよ。
 絵のほうは……お知り合いの分も渡したのかな。
 そうして手元に渡ったということは、きみも、きみの知り合いも、自分の姿が自分の思い描いているものの通りなのか、知りたがっていたというわけか。
 人間は哲学する生き物だ。答えがない問題ほど答えを求め続ける。
 ありがとう。いろいろと考えさせられる事例を記録に残せたよ。
 機会があれば、また。
 今度はアッサムのミルクティーなど、どうかな。