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<東京怪談・PCゲームノベル>


その者の名、“凶々しき渇望” 【 第三話 】

■01

 …薄らと瞼を開いた目の前の景色に、まったく覚えが無い事に綾和泉汐耶は気が付いた。無機的な部屋。自分は眠っていた――? …のではなく気絶させられたのが正しいか。少しずつ思い出す。刑事に呼ばれての事情聴取の際に起きた事。兄の力を封印した書物から破いた頁――それも念の為と言う事で予め条件を付けた上で身に付けていた特に強力な退魔の力がこめられた頁、その力が解放された途端の半身飛ばされ血まみれになった姿がまだ瞼の裏に焼き付いている。…佐々木晃と言う刑事――否、殺人犯である“凶々しき渇望”の。
 尋常では無かった。それはイメージ力に比するとは言え、兄の力は『退魔』の力。それは強力ではあっても――『物理的』な意味での効力は、また別の話な筈だ。それなのに兄の力は“凶々しき渇望”に対し、あれだけの威力を、齎した。それに加え、佐々木晃と言う男は既に死亡しているのではと言う疑惑まで、事情聴取直前にシュライン・エマ経由で聞いている。
 この“凶々しき渇望”――佐々木晃と言う男は、何者なのか。
 少なくとも、自分の見た状況や聞いた事柄を考え合わせると――真っ当な人間では有り得ないと言う結論になってしまう。…それは、殺人犯と言う意味で無くとも。何らかの形で、既に『人間』の範疇から外れている存在。
 そこまで思考を巡らせつつ、事情聴取時に申請者リストを佐々木晃に見せた事を思い出す。汐耶はぱぱっと自分の身を確認するがそのリストは手許には無し。それも当然か。事情聴取の際に持っていた筈のバッグからして見当たらない。身に付けていた書物の頁は御丁寧に皆取られたようだ。所持品は一切無くなっている。…ついでに掛けていた銀縁の伊達眼鏡まで無いようだ。
 リストが無い。そうなれば次はリストの場所を確認する必要がある。…自分の封印能力が施されたままならその場所は余程の事が無い限り把握する事が可能。すぐに見付かったリストの場所は――警視庁。鑑識の証拠品保管場所? …“凶々しき渇望”に持って行かれた訳ではないのか。それともわざとそこに置いておく事にしたのか。ただ少なくとも、相手は刑事の顔も持っていたのだから警察は安心出来る場所じゃない事は確か。
 ともあれ、場所を把握するなり汐耶はリストに封印を掛け直す。…その段になって、もう一枚手を考えておいた方が良いかと判断する。自分が今居る建物。この場所自体に自分の力をごく薄く流しておく。この建物自体を封印するようなつもりで――その前段階で止めておくような形で、建物の内部の把握を考える。同時に、その方が自分の存在や行動の目晦ましにもなる訳で、一石二鳥。それから――ここから逃げるならその途中の事も考える必要が出てくる。…研究施設ならセキュリティ等も確りしている筈。直接見付かった時の緊急対処の為――防火シャッターを即時下ろしたりと逃亡・脱出に使えそうな設備をいつでも使えるように把握しておく事も大切。
 そこまで実際に行動に移しながら、汐耶は改めて当のリストに意識を戻す。リストに載っている情報もいじれるか――出来そうだ。名前、住所、電話番号、書名。一つ一つ変化させ――消去する。これで――リストを見た者の記憶にも影響が出る。『蝿の王に唆され堕ちた者の可能性』。シュラインの言っていたその話が頭に残っている。それに、意識を失う寸前聞いた年嵩の男の声が気にもなる。“凶々しき渇望”による殺人事件には別の存在が介入している事がはっきりした。それもあの場で――曲りなりとも警察が厳重な警備態勢を取っている中、何処からとも無く現れあの“凶々しき渇望”さえも下位に見ていたような存在。それが蝿の王である可能性もあるか――…? とにかく、要申請特別閲覧図書閲覧の申請をするような者となれば、様々な形で利用されそうな要素は幾らでも持っている訳で。…まずはリストの悪用で第二第三の唆しを受ける者を増やさないように努める必要がある。
 リストの方を片付けた後、汐耶は改めて自分の身を確かめてみた。所持品が一切無いのはこの際仕方無い。眼鏡が無いのが多少心許無いが――逆に考えれば能力のリミッターを外している状態とも言える訳で、ここは敢えて好都合と取る事にする。…服はところどころ派手に血が付着して強張っている――が、これは自分の血では無い。自分の身体に傷や怪我は無い。特に目立った痛みも無い。…腹を殴られた時のものと思しき鈍い痛み――と言うより違和感のようなものは残っているが、それだけだ。服に付着した血は間近で被ってしまったからこそ付いてしまっただけの事。この血は――“凶々しき渇望”こと佐々木晃のものだから。
 …この服もう着れないわねと嘆息しながらも、汐耶はふと気付く。無機的な室内で微かな腐臭。何処から――自分。それに気付き、顔を顰めながらもその源を細かく確認。…この血の汚れから?
 あまりの結論に汐耶は再び顔を顰める。どうして、自分が気絶する直前に目の前で出血し、直接被ってしまった血液から、微かなものとは言え腐臭がするのか。…鉄臭さやら生臭さだけであるなら納得が行くが、これは。
 事前情報と今の状況を合わせて考えればある程度想像は出来るが――確認が取れない以上、これ以上の想像はしたくない。

 …とにかく私は、無事になる。
 閉じ込められはしていても。
 …自身に対してあれだけの事をした相手を無傷でおくのは何故だろうか。
 何処か、繋がらない気がする。
 興信所に齎された“凶々しき渇望”による殺人事件に関する依頼――あの凄惨な儀式殺人をやってのけた相手が、自分を害した存在を閉じ込める以上は放っておく、その事自体が。
 …生かして閉じ込めておく事が必要だったのだとしても、それはそれで幾らでも腹いせの手段は考えられる。そして――あれ程の殺人事件を起こした当人なら、自分の身を害した私に対して何らかの腹いせを平気でしている方が、納得できる。が、自分の身を振り返っても――何も無い。
 無機的な部屋を改めて確認する。唯一の出入り口らしい扉には――鍵が掛かっているようだ。それも、ハイテクの賜物、電子ロック。何やらかなり金の掛かった施設と見て取れた。機密も高そうだ。…何かの研究所か。
 思いながらもふと、扉の縁の――鏡面になる金属部分に映り込む自分の顔に気が付いた。
 驚いた。
 自分では当然、覚えがない。
 ………………ごく簡単にだが何者かの手で、汐耶の顔が、拭われていた。道理で、顔の血は殆ど気にならなかった訳だ。きっと初めは服同様、顔にも派手に血が付着していたのだろうに。額の辺り頤の辺り、布か何かで拭われたような形で、ごく微かにだけ血の痕が残っている。
 その事実に、汐耶は目を細めた。

 …そんな事が出来た相手は。

 何にしろ、ここから出なければ何も始まらない。
 汐耶は電子ロックの解除を開始した。
 …『封じられている』と解釈できるものなら、自分の能力でそれは可能な事になる。


■05

 頭の中で響く声。
 ――君に、最も相応しい名を与えよう。

 …視界に映るは白い壁。無機的な。冷たい壁が目の前に。
 夢ならばとの儚い希望。
 茫洋と浮かぶ無駄な思考。…俺は莫迦かと自嘲する。

 違う。
 夢などでは決して有り得ない。
 目の前にある現実。
 自分がここに居る理由。

 ――これだけは憶えておくんだね。
 ――君は私から定期的に魔力の供給を受けなければその肉体の組織を維持する事が出来ない。

 絶命した筈の自分。
 なのにどうしてここに居る。
 絶望が目の前に。
 理解と共に感情が激発した。

 …それでも。
 止まらずを得なくなる。
 どう言葉を返したかなど思い出したくもない。
 可能性は、絶望の中にだけ。

 ――どうかね?
 ――君が能力者を一人連れてくる毎に、それを――魔力を与えてやろうじゃないか。
 ――生きたいんだろう? この私を殺す為に……。

 ああその通り。
 それ以外には何も無い。
 復讐だけしか残っていない。
 俺には。

 ………………姉貴を殺したてめぇをぶっ殺す以外に、何がある。
 他は、知ったこっちゃねぇ。

 ――但し、私を殺した瞬間に君の命も尽きる。
 ――それでも私を追うと言うなら止めはしないよ。
 ――…君にそれが出来るかどうか、わからないが…。

 時間の猶予は、俺次第。
 …能力者を。
 生贄を。
 生きる為。
 殺す為。
 …言うなりになる以外に、猶予は作れない。
 罪も無い人間を手に掛ける。
 自分の為だけに。
 罪人は、自分。
 もう二度と、戻れない。
 刑事にも。
 人間、にも。

 …貴女を、愛していた。否――今もまだ愛している。…過去だけの話じゃない。
 が――今になってそんな事を言っても意味が無い。
 ずっと、後悔が渦巻いている。
 それは今自分がしている事に対してでは無く、過去、自分が『出来なかった事』に対して、の。
 …最愛の人を護れなかった事に、対しての。
 …自分の想いをぶつける勇気が無かった事に、対しての。

 ――追い続けるが良い。
 ――どんなに求めても決して得られない望みを。
 ――凶々しき道に堕ちた君の魂は、永遠に潤う事は無いのだから…。

 …消せない声を振り払う。
 ふと、片腕を目の前に上げてみる。
 気のせいか、腕の動きが鈍い。軋んでいる気さえする。
 …そうそう何度も腕吹っ飛ばされりゃ、おかしくなるのも仕方無いか。
 無感動に思いながら腕を下ろす。

 …わざわざ貴方が見回る必要は無いんじゃないですか。
 …それ程今回の被験体は危険があるのですか。
 別に。
 そう。別に理由なんか無い。だが…なら何故、被験体のあの女を、俺は直接見回っているのか。
 …ここに居る連中の思う疑問、それは確かにその通り。
 その通りだが――理由など知るか。むしろ、こちらが知りたい。
 ただ。
 何故か、落ち着かないだけで。

 佐々木晃――否、“凶々しき渇望”は部屋を出る。
 被験体を捕らえた檻の定期的な見回り――それは本来、他の構成員…研究所のもっと末端の連中に、任せているべき事。
 なのに何故か自ら、動いている。
 …正体不明のバカ強い『力』で俺の半身をふっ飛ばした当の相手、なのにどうとも思わない。…関係無い。
 彼女のその顔に付着した、自らの流した、汚れた血を拭ったのはどうして。
 そんな無駄な――どうでも良い事を。
 ………………それは、良心の欠片が起こさせた行為かもしれない。ただ、自覚は無い。考えもしない事。
 すべて、気の迷い。
 そう、思い込む事にしている。

 気のせいか――多少動き難くなっているとしか思えない自分の身体に顔を顰めつつ、“凶々しき渇望”は研究所の廊下をひとり歩いて行く。
 つい先日捕らえたばかりである被験体の様子を、見回りに。


■10

 …電子ロックを外す――『封じられた扉を解放する』のとほぼ同時。綾和泉汐耶は自分自身にも『封印』を掛けていた。その方が気付かれ難くなる。リストの封印時に施した、建物全体に元々流していた力も合わせたならば自分自身の気配からして相当辿り難くなる筈だ。…超常の手段を用いたとしても。
 通路に出、歩き出す。檻の中同様、通路に出ても相変わらず無機的で人気は無い。…檻の中と何か違うとも思えない。この場所自体が、檻の如き。
 時折、自分の歩いている付近を、能力をもって把握したその感覚からも探ってみる。枝分かれする道が殆ど無いようだ。出くわしたら最後か。一人二人…数少なければどうにかなるだろうけれど――。
 と。
 思ったところで、気が付いた。
 …誰かが、来る。こちらに向かっているその相手は一人だが、周囲を見渡してどう考えても自分の側に身を隠せる余地がない。…来た道を戻っても同じだ。檻まで戻ればそれはやり過ごせるだろうが――もし、こんな調子で定期的に誰かが見回っているとなると――何度やっても同じ事、結局、完全に身を隠したままでは逃れられないと言う事になる。
 そうなれば、ここは――何とかしてしまった方がいい。
 思い、汐耶は覚悟する。…もし何か魔術等超常の手段を使われたとしても、先程から建物全体に流している力がある――見定められる。反射神経さえ間に合えば、何らかの形で相手の技や力の封印は出来る筈。
 それに――たった一人で歩いてくる、この、人物は。
 …出来るなら問い質したい事が多々ある相手でもあり。
 好都合と言ってしまっていいのか悪いのか。

「…脱出していたとはな」
 汐耶が視覚で直に姿を見つけるよりも先。聞き覚えのある声が聞こえた。真っ直ぐに向けられているリボルバーの銃口。そのグリップを確りと握っている手。繋がっている腕。そこを包む白い袖。それはあの時とは別の服ではあるが――赤い色など少しも散ってはおらず。あの時、汐耶の用意した本の頁の力で吹っ飛ばされていたとしか思えないその半身も、何事も無かったように、元通りにそこにある。
 赤い色は、ただ、その髪色だけ。
 血の痕など何処にも無い。
 銃口を向けたまま、汐耶へと近付いてくる姿。
 瞳の色だけは、ここに連れて来られる直前の記憶と合致する。…あの瞬間、黒だった瞳が金色へと変わって見えていた。…ならばこれは、“凶々しき渇望”、当人だ。
 …ある程度想像が付いていたとは言え――完全に無傷な姿には、さすがに驚いた。
「貴方――」
「…夢でも見たかと思ったか? …夢じゃねぇよ。俺ァ確かにてめぇに半身吹っ飛ばされた」
 物騒なもん用意してやがって…とんだ手間食わされたな。まだ身体が軋みやがる…相当、痛かったぜ?
「おかげで――また」
 …屈辱的な目に合わされた。そうとでも言いたげな凄まじい憎悪を込め、“凶々しき渇望”は汐耶を睨め付ける。グリップを握る手にも、ぎり、と過剰な力が込められた。が、引き金に掛けられている指の方は、まだ抑えられている。
「…とにかく、それだけ苦労して連れて来た被験体だ。…今更ここから逃がす訳には行かねぇんだよ」
 言い切ると共に引き金を引き絞る――引き絞ろうとする。
 が。
 瞬間、びくりと“凶々しき渇望”の姿が目に見えて強張った。何かに気を取られた様子。そして同時に――過剰に掛けられていた握力故に派手に狙いが逸れてしまったか、これだけの近い位置でありながら拳銃から吐かれた弾丸は標的に当たりはしなかった。ほんの僅か、掠ったのみ。それも、汐耶が動く際にほんの僅かの時差で置いて行かれた髪の端が切れただけ。…さすがに聴力が一時奪われはしたが、それだけで済んだ。汐耶の髪の端を切り取った銃弾は遥か後方何処かにぶつかり、キィンと高い音が響く。
 発砲とほぼ同時か少し前、汐耶は身体を沈め床面を蹴っている。唐突に集中が途切れたかに見えた“凶々しき渇望”の姿に怪訝なものは感じたが、それでも黙って撃たれるつもりも無い。動いている方が新たに狙いは付け難い。そう思っての行動。隙が出来たら動くのみ。
 そのまま汐耶は“凶々しき渇望”へと肉迫し、拳銃の機能の封印を考える。…隙が何故出来たかははっきりしないが好機は好機。一拍遅れて“凶々しき渇望”は自分に近付く汐耶へともう一度銃口を向け直す。同時に聞こえていた悔しげな舌打ち。
 そして、今度こそ逸れようの無い至近距離で、汐耶の正面、間近に銃口が定められる。
 が。
 次に引き絞ろうと指先に力が込められた引き金は――引く事が出来なかった。
「…な…っ」
「ぎりぎりね。拳銃の機能は封印したわ。…撃てない筈よ」
 小さく息を吐きつつ、汐耶は“凶々しき渇望”を鋭く見返し、流れるような動きで――まだ何が起きているのか、何をされているのかわかっていないだろう隙を衝き、低い位置から拳銃を握るその腕を取る。細腕ながら鍛えられた動きで“凶々しき渇望”の身体を床面へと投げ落とした。
 と、その背後――少し離れたそこに、悠然と歩いて来ている姿が一つ。先程の“凶々しき渇望”の態度からして、汐耶は事情聴取のあの時、意識を失う直前現れたもう一人かと咄嗟に警戒したが――そうではない事に即座に気付けた。
 現れていたのは――神山隼人。
 自分と同じ件で動いている、草間興信所の調査員の一人。
「御無事で何よりです。綾和泉さん」
「――神山さんが来て下さったから、でしたか」
 彼の集中が途切れたのは――“凶々しき渇望”に隙が出来たのは。
 ほっと安堵の溜息を吐きつつ、汐耶は隼人へと話しかける。隼人も隼人で、投げ飛ばされた“凶々しき渇望”の姿をちらと見ながら、汐耶へと小さく微笑んでいる。
「ここまで来ていながら貴方にすべてお任せしてしまった事にはお詫び申し上げます。…まぁ、私の存在でほんの少しだけでもお役に立てたのならよかったのですが。…彼が私に反応したと言うのなら――挟み撃ちになりそうだと思ったからかもしれませんね?」
「神山さんにも――興信所の皆さんにも、御心配お掛けしてしまったようですね。…油断してました」
「いえ、残された状況から考えて――貴方が油断したと言うより、完全に想定外の隠し玉があった――もしくは居たのでは、と思えたのですが」
 だって、あれは――綾和泉さんがこちらの“凶々しき渇望”さんを、一時は何とかしたのだと思えましたからね。で、その後、何か考えも付かなかった事が起こって、それで攫われてしまったと――そんな風にお見受けしたのですが。どうやら、今貴方にお怪我もないようですし。
 如何です? と汐耶に問う隼人。ええ――と汐耶もまた素直に頷いた。
 そして、攫われるまでの経緯を手短に話そうとしたその時、“凶々しき渇望”の微かな苦鳴が聞こえた。同時に、その上半身がゆっくりと起こされている。…その手にあった拳銃は、既に落とされ少し離れた位置に転がっていた。
 何故か――髪の色も瞳の色も、どう言う加減でか黒く――戻っている。
 呻くような声が零れた。
「…ンで…逃げねぇで呑気に話し込んでやがる…」
「それは貴方にも色々窺いたい事があるから――と言うより、今の貴方に大した害があるようには思えないからですよ。もし本気で我々を――綾和泉さんをどうにかしようと思っていたのなら、ただの拳銃よりも様々な魔術を使った方が貴方にしてみれば確実のような気がしますが。今までの“凶々しき渇望”としての鮮やかとも言える手口を見ればそう思えるのですがね、佐々木さん?」
 …その辺り、どうなんでしょう?
 上半身だけ起こした“凶々しき渇望”――佐々木晃に向け、平然と問うてみる隼人。…元々、今の晃の様子を見ていて大した害になるとは思えない――そう思ったからこそ先程も何も手を出さず、ただそこに自分が居る事だけを晃に知らせた訳で。…事情聴取時に協力するか否かの返答を保留した、それを有無を言わさず許させた自分がそこに居る事を。
 そんな隼人の平然とした問いに、晃はまともに答えない。
「…るせえ」
「お答え頂けませんか」
 何故魔術を使わないのか。
「ンなチカラ欲しくて持った訳じゃねぇ…俺は土人形じゃない本当は刑事で居たかっ…――」
「ふむ。…それでわかった気がしましたよ」
「…なに…?」
「貴方は自分で起こしたくて事件を起こしている訳ではありませんね? 今の貴方の発言とその口調からすれば貴方は望んで魔術を使っている訳ではない…“凶々しき渇望”の殺人の手口は総じて魔術を使用していると思えるのですが…貴方自身はむしろ魔術と言うものを厭っているようにお見受けしますね。その上で土人形と言われては…どなたかに魔術を使用する駒のように扱われていらっしゃる?
 それから…貴方の被っていた刑事と言う仮面は、今はともあれ元々は本物だった――少なくとも“凶々しき渇望”になる以前は、我々調査員の前で見せたあの姿が本当だった――と言う事にもなるんでしょうか。それでいて刑事と言う立場に今でも特別な思いを抱いてらっしゃるとなると…例え何か理由があっても、自分の意志だけであれ程の残虐さを見せる連続殺人犯にまで堕ちるとは少々思い難い」
 …裏にどなたか、いらっしゃいますね。
「それは私も思ったわ」
「!」
 受けるように汐耶。隼人の話す言葉に同意する彼女に、晃は弾かれるようにそちらを見る。
「…私をここに連れて来る直前、貴方は殆ど血達磨だった。それなのに平然と動いてた。だから――あまりの事に不覚を取ったけど、今思い返せば――あの時まともに状況把握してられたなら、あの程度軽く避けられてたのは簡単に想像付くの。貴方の動きは確実に鈍かった。腕に力を込めるのも…私を気絶させるだけでさえ大変そうだったんだから…到底一人で動ける状態じゃなかったわよね。それに別の声がしたわ。あの時。…貴方の仲間――いえ、そうだけど、そうじゃないんじゃない?」
 考えつつ、汐耶が挑むように晃を見る。
「被験体と言ったわよね。…何の実験だか知らないけど――被験体って言ったらどうせ消耗品よね。生かして捕らえておく必要があるにせよ別に優遇しておく必要はないわよね? どうしても逃がさないつもりなら檻に放り込んでおくだけじゃなく、直接拘束するなり――足折るなり腱切るなりして身動き取れないようにしておくの当然だと思うし、それ以前にもっと乱暴な扱い受けてると思うわ。
 ――…なのに貴方は、なんで私の顔に付いた血なんか拭いてるの」
「…」
「答えられない?」
「………………見てられなかっただけだ」
 俺の腐った血で汚れた顔が。
 がくりと俯き、晃は観念したように吐き捨てる。
「能力者狩りなンざ…本当はやりたくもねぇんだよ。だが…やんなきゃどうしようもねェ。逃げられるなら逃げちまえといつも思ってたさ。…てめぇもだ。捕まえさえ出来りゃ――奴の魔力と引き換えられさえすれば後はどうでもいい。俺は奴の魔力さえ受けられれば――奴の寝首をかける場所に居られればそれでよかったんだ――…」
 …ここは能力者を狩り出し、その血肉を解体し利用して生体兵器を作り出している虚無の境界の施設。
 自分がしていた事は、その手伝い。
 手伝わなければ、自分の命が繋がらない。自分のこの命は奴の魔力が無ければ続かない。奴の魔力は手伝わなければ手に入らない。…命が惜しい訳じゃない。それだけを考えるなら今すぐ死んだって良い。
 自分はただ、機会が欲しいだけ。
 命を繋がなければ、決して叶えられない願いがある。そして命を繋げられる手段が目の前にある。
 だから、その為だけにここに居た。
 ………………奴を――ベルゼブブを殺す、その機会を得る為だけに。
 晃の話をそこまで聞いて、隼人がぽつりと呟いた。
「それは、亡くなったお姉さんの仇を取りたい、と言う事なんでしょうか?」
「――…てめぇ…っ!」
「実は草間興信所サイドでは随分前から貴方の事をマークしてたんですよ。事情聴取の際には結局出し抜かれてしまいましたが。…ですがまぁ、そんな訳ですので、貴方やお姉さんの事情もある程度存じ上げております。そして貴方はどうも、御自分の事よりお姉さんが絡む事にこそ本気でお怒りになりそうだ」
 それに、葉月さんにも色々伺っていますし。酷く憔悴してらっしゃいましたよ。貴方と言う同期の御友人が“凶々しき渇望”であった事。余程辛かったのでしょうね。どうしても貴方を止めたいと、何も無ければ誰にも言うつもりは無かった…と言う事まで、話して下さいました。
 と、隼人が続けるなり――晃の目の色が変わる。
「黙れ」
「…当たりですね」
「黙れ…ッ」
 声を荒げ、晃は隼人へと食ってかかろうとする。何処が逆鱗に触れたか、凄まじい怒気がぶつけられる。黒く戻った髪と瞳が、再び色付いた。髪はざわりと赤く燃え、瞳は金色に。
 が。
 隼人に食ってかかろうと腰を浮かせた時点で、その横から汐耶の声が投げられた。
「…手伝ってあげても良いわよ」
 晃は思わず動きを止める。
 汐耶を、振り返った。
「――…なに?」
「まさか、本当に魔王ベルゼブブと来るとは思わなかったけど…そいつ、放っておいたらまた何度でもこの手の厄介事を引き起こしそうだものね。こんな事にそう何度も巻き込まれたくはないわ。…貴方の場合はそっちの禍根が無くなればこっちに手を出す事は無さそうだし殺人も打ち止めにしそうよね? だったらここは枝葉より根を絶つ方が肝心でしょ」
「てめぇ――本気かよ」
「都合悪いの?」
「いや…じゃねぇけどよ」
 途惑うように口篭もる。
 まさか、そう言われるとは思わなかった。
 と。
「折角ですから私もそのお話、乗りますよ」
 静かに微笑み、隼人も晃にそう言っている。…隼人にすれば、ベルゼブブには『目』を潰された借りがある。事情聴取時に返答を保留した話――元々、協力する事にも、吝かではないと思ってはいた。そしてその――協力を頼みたい事と言うのは、それなのだろう。
 今この場で汐耶から話がそう転がるなら、むしろ好都合。
 そんな態度の隼人を見、晃は何とも言えない複雑そうな表情になる。
「――」
「手数は多い方が良いんじゃないですか? 相手は魔王なんですし。綾和泉さん御当人の方で先にそう仰るなら、彼女をここに攫ってきた事について我々の方が怒る筋合いでは無いでしょうしね」
「…てめぇら」
「意外って顔ね」
「…たりめぇだ。俺はてめぇに何した」
「能力の選別でか何でか知らないけど軽くストーカーしてたわよね。事情聴取したホテルでは多分怨霊か何か嗾けもした。で、気絶させてここに攫って閉じ込めて…所持品全部取り上げてもいたか。それと顔に付いた血拭いて…後、今さっき髪の先少し切ったわよね。もう聞こえるようにはなったけどまだちょっとだけ耳も痛いかしら。ああ、血で汚れてもう次に着れそうにないこのスーツも被害に入れて良い?」
「…」
「逆に私の方が余程酷い事してると思うけど? 貴方の身体容赦無く吹っ飛ばしてるわ今も投げ落としてるわ。それは私はやられたら倍にして返す方だけど、今回の場合――差し引きで考えれば『予め先に倍以上返してある』ようなものでしょ。実際無傷で閉じ込められてただけだし、ま、色々不愉快な環境に置かれはしたけど、結果として私の方が大した事されてない気がするわ」
 あっさりと言う汐耶。平然と並べられる科白に、晃は呆気に取られているようで言葉もない。そんな晃の顔をちらと見直し、汐耶の方もまた、呆れたように小さく息を吐いていた。
「…ねぇ、何で私たちに先に言ってみなかった訳?」
 今私たちが手伝うと言って、拒否しないくらいなら。
 …自分の後ろに居る存在。そいつを倒す手伝いをしてくれと。どうしてそれを言い出さなかったのか。…その事、言う機会ならかなりたくさんあったわよね? 私を攫った事情聴取の時とか。…草間興信所が首突っ込んでるって知った時点でそう言う発想に行かなかった?
「貴方個人の細かい事情は知らないし知りたいとも思わないわ。…突付かれたくもないでしょうし殺人鬼の理屈なんか聞かない方がいいと思うもの。でもね、罪も無い人殺しといて一人で悲劇ぶって格好付けてるのは許せないわよね。元々手段を選ばないくらい肚括ってるのならどんなに気に食わない他人だって自分の本心抑えた上で騙してすかして幾らでも利用すれば良いでしょ。譲れない絶対の目的があるならプライドも何も棄てた方が遣り易いに決まってる。自分に都合のいい舞台はもっと作りようがある筈よ」
 …あんな事情聴取セッティングした以上承知だろうけど、草間興信所の面子なら貴方にとっても利用のし甲斐はあると思うしね。…草間興信所って別に正義の塊じゃないの。当然、噛み付かれれば容赦しないけどそこはそれだけの話。…初めから素直に言いさえすればその件に関してだけなら協力する事に何も問題は無かった筈よ。私たちも結局、突き詰めれば今回の一連の事件をどうにか決着付けて後顧の憂いを無くしたい訳だから――黒幕ブッ倒すって話なら元々利害が一致している事になるもの。
「ま、その後まで協力するかどうかは当然別問題だけどね。誰もそう簡単に凶悪犯罪の幇助までするつもりはないから自分で始末を付ける必要はあるだろうけど」
 興信所の依頼と葉月さんの手前もあるし、あの殺害手口を見てはさすがに同情できないものね?
「…誰もてめぇらに尻拭い頼む気はねぇよ。あれは承知の上で俺が犯した罪だ」
 同情なんざ要らねぇ。…それにどうせ後の心配なんざ要らねぇんだよ。
 ――…目的を果たしたなら――俺の身体は元々保たねぇ。
 晃は硬い口調で告げつつ、落とした拳銃を拾う。今度こそ立ち上がった。一度拾い上げた拳銃を見てから何も言わずに汐耶を見る。察したか、封印はもう解除してあるわよと汐耶もぽつり。それを受け――汐耶の言葉を信じたか信じないかはわからなかったが、無言のまま晃は拳銃のシリンダーを一度スライドさせ、元に戻した。残弾でも確認したか、もしくは手に戻った拳銃の具合を、重みを確かめるような仕草。…そしてそれっきり、汐耶にも隼人にも銃口を向ける気配は一切ない。
 その事を認め――隼人は静かに頷く。
「…どうやら、お話は纏まったと思って良いようですね」
 では、折角ですからこのまま早速魔王さんを叩きに行ってみましょうか? …興信所の他の皆さんも…それぞれこの生体学研究所に乗り込んでいますから、今なら陽動が利きますよ。
 皆さんのところに使い魔を置いて来てもあるので、連絡も取り合えますし。
「…!」
「居場所さえわかれば可能です。…と言う訳で佐々木さん」
 魔王の――御大の居場所、お教え頂けますか? …御存知なら、ですけれど。
「…付いて来い」
 こっちだ。短くそう告げ、晃はあっさりと踵を返し歩き出す。簡単に自分たちに背を見せた晃に、隼人と汐耶は顔を見合わせた。そして汐耶はこくりと頷く。…建物一帯に微弱ながら能力は流したまま、ある程度の構造は把握できている為――晃の誘導に嘘があっても気付ける筈、とその意味で。
 隼人もまた――ベルゼブブの居場所を元々承知な事は完全に隠したまま、先を歩く晃の背をちらと見、汐耶に頷き返している。…晃の促す方向に、嘘は無い。


■11

 …魔獣の吼える声が轟いた。
 ベルゼブブが静かに語り掛けた直後、それに応えるようにアバドンと呼ばれた魔獣――佐々木恭子の屍を核として造られた生体兵器――は攻撃を開始した。巨体ながら敏捷性も低くない。異様なくらいに膨れた腕が目の前の餌――天薙撫子を連続で襲い来る。腕は一本や二本では無く複数。とは言え当然――撫子の側も黙ってやられる訳も無くそれらを躱していた。躱し様に置き土産も忘れない。妖斬鋼糸――神鉄製の鋼糸と霊符を駆使しそれら腕の動きを封じる。刀よりも糸の方が小回りは利く為、咄嗟にはそちらを選択。
 佐々木恭子の頭部を持つアバドンの姿に凍り付いていた葉月政人も床を蹴っていた。守らなければならない民間人が目の前に居る。ならば先に身体が動く。草間興信所の調査員である天薙撫子。既に草間興信所へ忠告はした筈だが――彼らがそれで黙っている訳も無いか。実際、所長からも直接言われている。だがそれでも警察官である以上守り切らなければならない相手。例え――その民間人を襲っているのが、過去に憧れを抱いた人であっても、調査員の彼女の方が自分より余程強力な能力者であっても――それで放り出せる訳も無い。政人は撫子を庇うよう、自分へと注意を引き付けるようにアバドンへと肉迫する。そしてFZ−00の光電磁フィールドを発生させた状態で巨体を何とか無力化させようと試みた。
 が、アバドンの方も黙って受けはしない。鋭い牙を持つ顎が巨体に似合わぬ俊敏さで、己に迫る政人を狙う。先程封じられた腕を気にもせず、食欲――そんな欲求が本当にあるのか知れないが――のままアバドンは目の前の餌を求めた。
 葉月様! そう叫ぶ声が聞こえたのとほぼ同時。政人の目の前に展開されていたのは無数の妖斬鋼糸。その糸がFZ−00へ達しようとするアバドンの顎を止めていた。物理的な力では無く霊力――否、神力と言うべきか――それが通された糸で動きを封じている。撫子の身には女神の如き神々しさが帯びており、その背に三対の翼が薄らと見えていた。…仲間は全力で庇う覚悟。
 それに、ただでさえ葉月様と佐々木様、そしてそのお姉様とは――…。知ってしまっている以上、撫子としては余計に政人にこの相手と戦わせたくは無い。…ここは自分がやらなければ。そう思う。
 とは言えこのアバドン、ただ倒してしまうのは躊躇われる相手である事に変わりは無い。…佐々木恭子様の肉体を核に悪しき力で造り出された生体兵器、ならばと撫子はアバドンに対し、神力を込めた妖斬鋼糸で拘束したまま浄化を試みようとした。
 が。
 地面を――建物自体を揺るがすような雄叫びがアバドンから発される。絡まる無数の妖斬鋼糸から逃れようと手足が振り回される。周囲に置かれた生体サンプルの水槽ごと、当の部屋ごと破壊しようと言う勢いの暴れ方。床材を踏み割る。壁材を割り砕く。凄まじい力――撫子は妖斬鋼糸に込めた神力を強め、印形を組み縛する真言を唱えるが――唱え切れない、時間が足りない、間に合わない。撫子の努力も空しく、アバドンは無数の妖斬鋼糸を振り払っている。
 と。
 アバドンが妖斬鋼糸を力尽くで振り払ったそこで――興味深そうなベルゼブブの声が響いた。
 少し離れた位置、火の粉の掛からない場所で彼らの戦いを悠然と見物している。…撫子と政人の前、アバドンの巨体は絶妙にベルゼブブを庇う位置で立ちはだかっている。これでは――ベルゼブブを直接狙えない。
「…にしても――本当によく育ったものだね。三ヶ月前とは比べるべくも無い程成長してくれた」
 あの時は、佐々木君の五体を何とか食い千切れるくらいの力しか無かったのにね。
「…何ですって」
 耳を疑うようなベルゼブブの言葉に、思わず、声を上げる政人。
 と、ベルゼブブは口許だけで笑い、言い直す。
「聞こえなかったかな。三ヶ月前、佐々木君の人間としての命を奪ったのはコイツだよ。そして同時に――コイツの為に甲斐甲斐しく『餌』を運んでくれたのも佐々木君だ。彼は本当によく働いてくれたよ」
「っ――そんな筈…!」
「いいや? 嘘の王の称号に悖るような話だが、どうも君たちに話す言葉は事実ばかりになってしまうね? …ああ、そう言えば佐々木君はまだコイツとまともに対面してなかったかもしれないな」
「――っ」
「それより。…私と話をしている余裕など君たちにあるのかな?」
 からかうようなその言葉通り、再びアバドンは咆哮する。対峙する撫子、政人もまたはっとしてそちらを見る。撫子だけに任せる訳には行かない。…何の為のFZ−00。
 と。
 二人がアバドンと再び対峙したのとほぼ同時、二人共に憶えのある気配が政人の現れた入口の先、その通路から感じられた。…シュライン・エマ、海原みなも、坂原和真。それとこれは政人の方は知らぬ話だが――興信所で事前に神山隼人が喚んで見せていた使い魔――ベルゼブブの息が掛かっていない下級悪魔も一匹、共に居る。連絡役のつもりで調査員に付けたか。
 そして、彼らよりややこちらに近い場所――間に入るよう、もう一つ唐突に人間の気配が現れる。
「!」
 今度は撫子がはっとしてそちらを振り返った。こんな場所。『人間』の気配が唐突に現れるとは思い難い。不吉。思うが――何が出来る間も無いその刹那。唐突に現れたその気配が人間では有り得ない『魔』の気に変化、爆発するように膨張したのと同時。
 素手では到底間に合いそうにない。咄嗟にそう判じたのか和真の【キーマテリアル】が発動。『魔』の気の持ち主の攻撃を、誰か――シュラインを庇い、受け止めるように前に飛び出している。が――どう考えても、無謀だ。その『魔』の気の持ち主も尋常では無い。
 受けるのは無理です! 叫ぶと同時に間に合わないと思いながらも撫子は助力の為妖斬鋼糸を『魔』の気の持ち主へ放つ。が――糸の端も届かない内に和真の姿は【キーマテリアル】で構築、実体化させた鍵ごと『魔』の気の持ち主に派手に吹っ飛ばされ通路の壁に激突している。
 がん、と重い音がした。

 …攻撃を受けようとし――叶わずそのまま吹っ飛ばされた和真を見てから、『魔』の気の持ち主――スーツの青年から変化した女性型の悪魔は余裕の態度でゆったりと髪を掻き上げる。
「…あら随分手応え無いのね? このアスタロトが手を出すまでも無く放っておいてもよかったかも」
 クスリと笑みを浮かべ、アスタロトと名乗ったその悪魔は小さく肩を竦めている。一方、体勢を崩しながらもシュラインは通路の壁に激突し崩れた和真へと駆け寄っていた。自分を庇った和真に手を貸し介抱しながらも、自分たちを襲ったアスタロトを鋭く見返し、『声』を使っている。声帯を用い音の波動を利用。並々ならぬ相手であっても聴力はある筈。そうでなくとも――空気に触れている以上振動は伝わる。時間稼ぎ程度にはなる――。
 シュラインの用いた、目にも見えず魔力も関係無い攻撃の正体にアスタロトは咄嗟に気付けない。ただ――何? と怪訝そうに呟き、ある程度の攻撃の効果はあったか、くらりとよろめいた。そこに、シュラインの思惑通り隙と見たか、隼人の使い魔がアスタロトに牙を剥き襲い掛かった。彼我の実力差を考え、卒無くヒットアンドアウェイの方法を選択、即座に元居た位置――シュラインの肩に戻っている。そして、たった今傷付けて来たアスタロトを振り返り、威嚇。
 同刻、和真を襲ったアスタロトのその手指や腕に細い糸が絡まり、動きの邪魔をしている――妖斬鋼糸、和真の危機を見、少し遅れながらも撫子が咄嗟に放ったもの。アスタロトは下級悪魔から自分に付けられた傷、そして正体不明の不調に顔を顰めてからその糸の存在に気付き、憎々しげに呻く。
「やっぱり、放って置かない方が良さそうね。…こんな屈辱を受けるとは」
 吐き捨てつつ、アスタロトは再び自分の邪魔をした和真と、不調の原因を作ったらしいシュライン、そしてその肩に留まる下級悪魔を睨み付け糸を振り払う。撫子は魔獣――アバドンの方で手一杯。やや離れた位置にいるアスタロトの動きを封じるのは、遅れる。
 と、そこに。
 皆とアスタロトとの間を遮る形で大量の水が、ざ、と流れ込んで浮遊していた。邪魔をする――壁になる。アスタロトの視界に入っていなかったみなもが起こした行動。
 突入以前に打ち合わせをしていた、水霊使いであるセレスティ・カーニンガムの助力も借りて。

 …みなもが水の壁を作り出した直後――と言うより水に触れている以上ほぼ同時と言った方が正しいか。水を介してみなもからセレスティの元に連絡が入る。…撫子と政人の姿を見付けた。二人が交戦中の化物が佐々木晃の姉・佐々木恭子である可能性。そして人間の姿から変化した別の悪魔――アスタロトに襲われ自分たち三人も交戦中である事。受け取り、セレスティはそのまま外部――リンスターの手の者及び対超一課のトレーラーに居た運転手へとそれら情報を伝達した。それ以上の細かい指令は出さない。出さなくとも彼らなら最良の判断を下すと信じている。
 これも殆ど同時の事。アスタロトから仲間の身を守る為みなもの作り出した水の壁を、セレスティの方からも能力をもって強化する。…水を介するならばセレスティにとっては軽い事。…人魚の末裔にして水を操る事が可能なみなもとならば、離れていても以心伝心、殆ど時差無しで連携できる。情報の伝達も――その技も。身体が弱い以上、戦闘時に自分がすぐ側に居れば文字通り足手纏いになってしまう可能性も否定出来ないと思っているが、離れた位置で能力だけを操るならば――それなりに戦闘の役に立てる自信はある。事前に配水管の位置も完璧に把握、要された時に即時みなもに使い易い位置のそこから水を送り出していた。
 セレスティは現在、周辺にある水殆どすべてを支配下に置いている。少し意識すれば水の壁として自在に展開出来る程度に保持したまま、生体学研究所の内部、細い通路に草間武彦、そして源・由梨と共に居た。
 撫子と政人の事も、二人が戦っている相手についても気にはなるが、ここはまず汐耶の救助が目的。水を介してみなもに問う。汐耶嬢の姿は確認できそうですか。出来ません。ならば神山君は。現場のホテルで別れたっきりで使い魔さんから連絡もありません。“凶々しき渇望”の姿は見えるか。見えません。他の存在が確認出来るか――答えは同じ。
 と。
 水を介しセレスティがみなもと交信&水の壁強化の補佐をしているところで、通路の奥から何かが飛んで来た。小型の、異形の悪魔の姿。その姿を見るなり武彦が咄嗟に由梨とセレスティを庇いそれに対峙しようとする――が、即座に察し、違います、とセレスティが武彦を止めた。こんな場所で悪魔が出てくれば敵方、そう思いそうだが――調査員の神山隼人も黒魔術を用いて悪魔を喚び使役する。そして今現れたこの悪魔には一切の敵意が無い。…ならば、隼人の使い魔。
 セレスティ以外もそれに気付いたか気付かないかのところで、その悪魔から隼人の声が発された。
『綾和泉さんは無事です。…それから今佐々木さんもこちらに居ます』
「…何だと!?」
 汐耶については朗報だが――もう一人は。
 その男が居るならそんな呑気に連絡している場合では無いだろう。…残虐なる殺人を犯し、汐耶を攫った当の相手。それを話す隼人の悠然とした口調も相俟って、武彦は声を荒げる。
 が、セレスティがそれを制止した。
「ちょっとお待ち下さい草間君。…神山君、今『佐々木さん』と仰いましたよね」
 …何故“凶々しき渇望”と呼ばないのですか。
 セレスティはそこを気に留めた。隼人の発言に隠された意味。
『ええ。今は佐々木さんでいいと思いますよ』
「それは記憶が戻った――正気に返ったと言う事ですか」
『…いえ、正気と言うなら元々全部御承知の上での行動ではあったようです。…あまり本意では無かったようですが。まぁ、綾和泉さんの事も何だかんだで気に懸けていたようですし彼女は無傷と言って差し支えありませんのでそこは御安心を。それより、やっぱり黒幕さんの存在が一番の問題だったようですよ』
「そうでしたか。やはり、あの――…」
『名前や称号は出さないで下さい。思わせ振りな事も極力言わない方がいい――これだけ側で直に名前を口にしてしまったらその時点で相手に筒抜けになる可能性が高いですから』
 私の把握していないところでその名を口に出されてしまっては誤魔化し切れませんから。…心の中でだけそう続け、隼人は使い魔を介し忠告を与える。で、こちらとしては黒幕さんを直接叩きに行こうと思ってるんですよ、とセレスティらの答えを待たずに続けた。
『…警戒すべきすべての視線が天薙さんや葉月さん、坂原さんにエマさん、海原さん…そちらに向いている今こそが好機かもしれませんので』
「側に――居るんですね」
 その、黒幕――蝿の王ベルゼブブは。
『ええ』
「…佐々木氏も御承知なのですか」
 殺人も何も承知の上でしていたと言うのなら――今、黒幕を倒す事を彼が承知するのですか。邪魔をなさる可能性は。
『承知も何も、彼自身の悲願でもあったようです』
 黒幕さんを殺す事。
「…」
「どうなってるんだ…?」
『ひとまず、彼に関しては取り敢えず大丈夫です。少なくとも今はこちらをどうこうしようとは考えていませんよ。それより…現在は草間さんにカーニンガムさん、それと源さん…貴方がたの動きが我々を除けば恐らく敵方から一番見え難いところにある。広範囲の水を使っていたり外とも連携取ってますから余計に攪乱されてるんでしょうね。…陽動と、他の方々のフォロー、宜しくお願いします』
 一方的に言ったところで、使い魔から隼人の声が聞こえなくなった。そして、ぱたぱたと異形の皮膜が扇がれ、小さな悪魔は由梨の肩に大人しくちょこんと留まる。由梨は驚いたようだったが――肩に留まった使い魔の事はさて置き、すぐに腑に落ちたような顔になっていた。
「佐々木氏は…ずっと、機会を窺っていたって事なんでしょうか」
 黒幕の方の懐に飼われた状態で、黒幕の方をこそ、倒す為に。
 由梨のその呟きに、武彦は眉間に皺を寄せる。
「…それだって限度があるだろうが。…本意でなくてあれだけ残虐な――まるで楽しんでるようにさえ見える殺人を犯せるか?」
「生半可では意味が無かった、って事なんでしょう。…直にぶつけられない憎悪を被害者の方々に転嫁していたのかもしれません。本意でないならその方がまだ精神的に楽でしょうから――勿論、被害者側から考えればそれは到底許される事ではありませんが。ですが…自らも本気で堕ちなければ、その位置に居られなかったと言う事なのかもしれませんね…それだけの相手、そしてそこまで思い詰める動機」
 思わせ振りにそこで切り、セレスティは武彦を見る。
 武彦は嘆息した。
「…やっぱりそこに行き着く訳か」
 彼の姉の存在に。
 そして――全部承知の上のようだと隼人は言っていたが…撫子&政人と交戦中だと言う魔獣が、その姉らしいと言う事まで――奴は、本当に承知なのか?
 武彦は不意にそこに気付き、怪訝そうな顔になる。…今までに調べた内容。検討した話。奴が調査員に見せていた刑事である姿。政人から聞いた話。シュラインから聞いた話。由梨の推理。汐耶に、隼人に手を出していない事。倒す事が悲願である、と言う話が本当なら。
 …確信出来る。違う。
「奴は、知らない――…」

 …このアバドンと対峙して余所見をしている余裕はない。和真を助ける為アスタロトに妖斬鋼糸を放ったのを隙と見たか――アバドンは即座に撫子に襲い来る。と、今度は政人がその巨体の腕を押さえ極めていた。骨も折ったか。痛み故か異様に甲高い絶叫が轟く。政人は思わず、許して下さい恭子さん、と心で謝罪していた。…もう、対峙してどれだけ経ったか。随分長く感じる。が――アバドンにあまり消耗した様子は無い。
 一方、通路側。アスタロトから仲間を守ろうとみなもが張った水の壁。それを今度は武器へと転用。水を介してセレスティと連携し、出来れば捕縛――出来なければ押し流すようなつもりで、アスタロトへとその水の塊をまるごと押し流し圧を掛けた。通路を塞ぐ形にまでなっていた水の塊、咄嗟に避け切る隙間が見付からなかったか短い悲鳴を残しアスタロトは水の塊に押され部屋へと転がった。
 そのタイミングで撫子さん! 葉月さん! とシュラインが部屋へ向け大声で呼ばわっている。同刻、和真も【キーマテリアル】を構築したままで部屋へ転がり込み、まだ立ち上がり切れないアスタロトへと攻撃を仕掛けた。隼人の使い魔もまた爪を光らせその助力を開始する。みなももまた、先程投げた水の塊を、防御にしろ攻撃にしろ――再び操る為に構築し直した。
 わざと起こした無謀とも言える派手な動き。目立つよう。…汐耶の無事だけは今行動を起こす直前、隼人の使い魔から聞かされた。それ以上は話す余裕は無かったが――直後のタイミング、みなもがはっとしてシュラインと和真の顔を見上げていた。即座に察しシュラインが、しっ、と人差し指を唇の前に立てている。黙ってとでも言う仕草。シュラインのそれを見、反射的にみなもはそのままこくりと頷く。シュラインにはみなもがはっとしたのは何故かわかっていた――それは恐らく、セレスティから水を介して、晃が汐耶と隼人の二人と同行していると教えられたのだと。
 …シュラインの耳には撫子と政人がアバドンと交戦する向こう側、話していた内容からして魔王ベルゼブブだろう――少なくとも今回の黒幕だろう未確認の存在がそこに居る事、そしてそのまた先、部屋の奥にある通路か何か――とにかく隼人と汐耶、それともう一人記憶にある固有の音持つ存在が近付いて来ている事がわかっている――聴こえている。何故か三人共に固有の音が異様に聞こえ難くはなっているが――床を蹴る微かな駆ける音だけでも、シュラインの耳に判別は出来る。
 それらの状況から判断して、彼ら三人が何を狙っているか理解した。
 …隙を衝く気だと。
 ならばこちらに求められているのは――陽動。派手にやった方が、視線はこちらに向く――そして同時に、アスタロトと言う新手が戦闘力で劣る自分たち三人側にも来てしまったとなれば――戦闘力で勝る二人と離れて戦うよりも合流した方がまだ戦略が考えられると言う事もある。
 撫子は再び無数の妖斬鋼糸を部屋内に展開、アバドンの拘束を試みた。みなもとセレスティの連携で操られた水も、それを手伝うようアバドンの動きを翻弄する。その間に今度こそ印形と真言で縛する術が完成、撫子の浄化の力がアバドンにとってのダメージになる。
 アスタロトと【キーマテリアル】を握る和真が対峙しているところ、そちらには疲労の色濃い和真と入れ替わるよう政人が割り込んだ。政人なら装着しているFZ−00により、膂力でなら悪魔とでも充分張り合える。それを認めたか、和真は【キーマテリアル】を解除し政人に後を譲った。前後して、シュラインの肩に留まっていた隼人の使い魔も、そちらの隙を衝こうと見計らい、攪乱するよう打って出ている。
 と。
 拳銃の激発音が響き渡った。ほぼ同時、この世のものとは思えぬ絶叫が耳を劈く。
 その部屋にいる者の動きが俄かに停止した。誰――白の上下に身を包んだ燃えるような赤い髪の人物――佐々木晃の手に握られたリボルバーから細く煙が立ち上っている。着弾したのは撫子の妖斬鋼糸に拘束されたアバドンの背――と言っていいのか、とにかく正面では無さそうな部位。だがそれはどうでもよかった。そこに到るまでの弾道に、ベルゼブブが居た事の方がその時の晃には重要だった。…その時、実験体の成れの果てと思しきアバドンの姿は殆ど晃の視界に入っていない。
 さすがに魔王と言うべきか、撃たれる事に直前で気付いたようで振り返り様に銃弾を素早く避けている。避けてはいたが――避け切れはしなかった。腕を掠り、服の一部が持って行かれている。
 汐耶と隼人の姿も晃のすぐ側、やや下がった位置に居た。汐耶は封印を適宜こなせるよう狙っているのか、建物全体に流してある力の方の感覚で周囲を見ている。隼人はその場で黒魔術を行使、攻撃系の使い魔を複数喚んでおり、現れたそれらが――晃が先に銃で狙った魔王へと間、髪入れず躍り掛かっていた。
 …ここまで来る途中、自らのみならず隼人と晃に対しても施していた汐耶の封印が物を言った。三人共に気配がまったく見えない。不意を打たれたベルゼブブは少し驚いたような顔をしていた。そこに銃を構えた晃の姿を――そして自分に躍り掛かろうとする複数の悪魔に、隼人と汐耶の姿を見付けると不快そうに目を細める。それを確認して――正面から憎い魔王の顔を見て、激情のままに声を上げつつ晃は再び引き金を絞る。が、ベルゼブブは名に見合う形にも思える三対の羽を羽ばたかせ、ふわりと浮いていた。…初めの一発以外は掠りもしていない。隼人の使い魔の爪と牙からも逃れていた。
 その結果を確認もしない内、晃はその場で片膝を突き、続けて左手も勢いよく床に突いた。途端、左腕に付けられた黄の腕章、『魔法の鏡』のひとつ、『ソロモンの大いなる印』――その印形が描かれた腕章がぼう、と光を帯びる。
 ぶわりと気が膨れ上がり、手を突いたそこから複数の悪魔たちが姿を見せた。
 が。
 晃の喚起の声に応え現世に姿を見せた悪魔たちは…――。
 ――…現世に解放されるなり、倒せと命じられたベルゼブブでは無く、晃の方に襲い掛かっていた。肩口に、足に、腕に食い付く。きゃきゃきゃ、と異様な笑い声まで響いていた。
「…なっ」
 驚く晃に、憐れむようなベルゼブブの顔が見える。
 当然だろう、と唇が動いて見えた。
「今君が喚んだのは、私の可愛い子供たち――私の配下の者になるのだがね?」
 …私に牙を剥く訳が無いだろう?
「――っ」
 ベルゼブブにでは無く逆に晃へ――晃たちの側へと襲い来る下級悪魔の姿。隼人は自分の喚んだ使い魔で即座に対抗。組み付いた小さな異形同士で食らい合いが始まる。汐耶は下級悪魔のその姿を見極め一体一体封じ、確実に数を減らしている。…眼鏡が無いせいか、乱暴なくらい強力な能力発現――もう、触れた時点で存在自体を掻き消していると言うのが正しいように見えたのは気のせいか。
 それらを顧みもせず、晃は自分に纏わり付く邪魔な下級悪魔を力尽くで引き剥がしベルゼブブへ向け再び発砲。晃はベルゼブブ以外、目に入ってもいない。魔術で駄目ならこちらしかない。掠る程度とは言え一度は効果を齎したその武器しか。
 だがそれでも――ベルゼブブは動じない。狙いが外れている訳でもない――ただ、続けて撃っても晃が喚んだ当の悪魔がいちいち庇い弾を受けている。程無く――引き金を引いてもかちりと、音が鳴るだけになった。
 弾切れ。
 派手に舌打ちし、晃は腕章を付けた側の手を再び床に突いている。また喚ぶ気か。次は使役し切れると思っているのか。…無謀ですよ。思い、その行為を止めさせる為、隼人がその手をそっと押さえていた。晃が凄い目で隼人を睨む。邪魔をする気かと。
 いいえとゆっくり頭を振り、隼人は私の喚んだ使い魔の命令権をお貸ししましょうと静かに告げる。貴方は御自分で手を下したいのでしょうし、ベルゼブブの配下でさえなければ――今みたいな事は起きないでしょうからね、とこれ見よがしにベルゼブブを見ながら、続けた。そして、勝手は殆ど変わりませんからと晃を押さえたそこで自分でも床にするすると簡単な魔法円を描いている。インクも何も見えないのに指がなぞったその場は光が残っている。そして――描き終えたと見るなり、光が爆発した。
 直後、何処から現れたのか――隼人の声に応えた怨霊や悪霊、下級悪魔の類がその場に喚び出されていた。晃は驚き、それらを見る。そうしてから、隼人は晃を促した。驚いている暇はない。…「利用出来るものは利用しろ」。即座に晃は判断しベルゼブブを倒せと迷わず命令を下す。
 と、隼人の言った通り、今隼人が喚び出した悪魔は晃の命令を素直に聞きベルゼブブへと襲い掛かった。悠然と中空に佇んでいた魔王の瞳に今度こそ険が帯びる。ベルゼブブも先程隼人が使い魔を使ったのと同様、自らの配下で即座に対抗した。…先程晃が喚んでいた悪魔をそのまま利用。が――僅かの間で新しく喚ぶ間は無く、彼我の数の差が多少出来ていた。使役されぶつかり合った悪魔同士殆ど互角ではあったが――隼人側の方が出した手数が少し多かった。必然的にベルゼブブの身にまで命令のまま攻撃――下級悪魔の手が伸び、その爪が掠る。
 僅かながら不機嫌そうに顔を顰めると、再び背の羽を羽ばたかせベルゼブブは軽やかに退いた。…晃に命令権が貸された隼人配下の下級悪魔の爪に掠られ、ほんの少しだけ傷付いた頬。そっと拭うと、ベルゼブブは目を細め隼人を見た。
「まったく…余計な事をしてくれるね」
「そっくりそのままお返ししますよ」
 と。
 隼人が言った、その時。
 がくり、と唐突に晃の姿が傾いでいた。
 見れば片足の膝から、力が抜けている。…否、力が抜けただけでは無く――そこから体組織がもう崩れ始めているようで。気付いた隼人がそのまま倒れ込まぬよう咄嗟に腕を取り、汐耶も殆ど同じタイミングで応急手当として『負傷した部位の存在自体の封印』を施す。が――それでは、既に崩れてしまった部分が戻る訳では無い。その封印で痛みは消えても、最早二本の足でまともに立てない事に変わりは無い。
 続けて、隼人に支えられたのとは逆の腕が――肩口からぼとりと落ちている。己で喚んだ下級悪魔に食い付かれた部位。だが、肉が噛み千切られたと言うより――当人が否定した土人形の如く崩れ落ちた、そんな――唐突過ぎる脆さが感じられた。隼人の、汐耶の目が険しくなる。…これは攻撃を受けた故では無く晃の身体の方の問題か。…汐耶の持っていた書物の頁、退魔の力で半身吹っ飛ばされた時の後遺症もあるのかもしれない。
 …が――そんな状態に置かれても、晃が目の前の魔王を憎々しげに睨む目から、力は失われない。
 今が最後で最大の好機、今この魔王を殺せずにどうする――とでも言いたげに、そんな身体でありながらまだ晃は目の前の魔王へ向かって行こうとする。が、それも叶わず、前のめりに倒れ掛かるところを隼人と汐耶に止められた。…今の貴方では無謀、これ以上どうにかなるとは思えない、と。
 ベルゼブブは晃や隼人、汐耶のその様子を中空からただ見ているだけ。更には――急激な魔力の消耗によると思われる晃の肉体崩壊を見、慮る声まで掛けている。…もっと魔力が欲しいなら今この場で意地を張るのは止めたらどうだね、ここで君の望みが潰えてしまっても良いのかい? と。
 その声を黙れと撥ね付け、晃は吼えた――が。
 汐耶の施した封印と言う応急処置、それでは到底追い付かない自らの体組織が少しずつ崩れていく感覚にさすがに集中が途切れかけると同時に――ふと、魔王の背後が視界に入る。

 ………………ベルゼブブのその姿を通り越した、後ろ。

 先程から居る事はわかっていた。いたが――意識はしていなかった。なのに今になって、そちらに意識が向く。化物――実験体の成れの果てと思しき大きな影、アバドン。それと交戦中の興信所の面子。と、晃の意識が向いた事に気付いたか、何故か――何処か焦ったような、苦しげな表情で撫子やみなもが晃を視界に入れている。FZ−00を纏い表情の見えない政人からさえ、佐々木さん! と必死に叫ぶ声が――どう言う訳かこちらへ来るな、見るなと制止したがっているような――奇妙に切羽詰まった印象の、それでいて晃の事をこそ考えているような声が投げられた。…彼らが助けに来たのだろう汐耶の姿より、“凶々しき渇望”の――晃の姿の方に反応している――何故だ?
 晃は思わず自分のすぐ側に居る汐耶に隼人を茫洋と見、そちらの様子に今までと特に変わりが無い事を無意識の内に確かめてから――やはり訝しく思い、交戦中の化物、その姿を確認しようとじっと見てしまう。
 憎き魔王の姿よりも――何故か、そちらへ向く意識。

 と。

「ああそうだった、さっきちょうど話していたところなんだよ。君はまだコイツとまともに対面してはいなかったね、と」
 何処か、笑みを含んだ声が晃の目の前から聞こえた。
「懐かしいだろう? 君のお姉さん――三ヶ月振りの…感動の再会だ」
 そんなベルゼブブの声もまともに耳に入らない。
 見るんじゃないと頭の中で警告が鳴り響く。けれど視線を逸らせない。
 厭な冷たい汗が背を伝った。

 …ベルゼブブの背後、興信所の面子が動きを封じた、『化物』。

 能力者や霊鬼兵の血肉を利用した奇怪なるキメラ。
 ――“喰らう”魔物『アバドン』。

 人の手足を体組織を、法則性無く組み合わせ造られた、醜悪なる怪物。
 その、一部に。
 ………………佐々木晃の姉・佐々木恭子の頭部が、見えていた。
 それも――まるでその怪物自身の頭部であるかの如く、眦を吊り上げ、咆哮している姿。
 …漸く、目に入った。

 凍り付く。
 瞠目した佐々木晃の表情から、一切の色が失われていた。

【続】


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    登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
×××××××××××××××××××××××××××

 ■整理番号/PC名/ノベル収録シーンNo.
 性別/年齢/職業

 ■1883/セレスティ・カーニンガム/03・07・11
 男/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い

 ■1449/綾和泉・汐耶(あやいずみ・せきや)/01・05・10・11
 女/23歳/都立図書館司書

 ■1855/葉月・政人(はづき・まさと)/02・03・06・09・11
 男/25歳/警視庁超常現象対策本部 対超常現象一課

 ■2263/神山・隼人(かみやま・はやと)/03・04・10・11
 男/999歳/便利屋

 ■4012/坂原・和真(さかはら・かずま)/03・04・07・08・11
 男/18歳/フリーター兼鍵請負人

 ■0328/天薙・撫子(あまなぎ・なでしこ)/03・04・09・11
 女/18歳/大学生(巫女):天位覚醒者

 ■5705/源・由梨(みなもと・ゆうり)/03・07・11
 女/16歳/神聖都学園の高校生

 ■1252/海原・みなも(うなばら・-)/03・04・07・08・11
 女/13歳/中学生

 ■0086/シュライン・エマ/03・07・08・11
 女/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員

 ※表記は発注の順番になってます

×××××××××××××××××××××××××××

 …以下、公式外の登場NPC

 ■“凶々しき渇望”(佐々木・晃)
 ■ベルゼブブ(成沢・玄徳)
 ■アスタロト(住田・和義)
 ■佐々木・恭子

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           おしらせ
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 ※なお今回、文字数が只事で無い事(すみません/汗)を鑑み、御挨拶的なライター通信は省略する事に致します。御了承の上、御容赦下さい(礼)。ちなみにノベル本文は…皆様それぞれの登場シーン中心に適当に分割してありましてそれで一応一つに話が通っていると思われますが、こちらの思惑としてはできれば『頭に打った数字(01〜11)のシーン順に一本通して』読んで頂く事を希望。…それでやや長めの一本の話にも読めると思われますので。