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誰かがそこに
【オープニング】
草間武彦は、困惑していた。
ここしばらく、自分の周囲の反応が、どうもおかしい。
たとえば、軽く食事でもしようかと喫茶店に入れば、一人にも関わらず、水とおしぼりが二人分やって来る。
映画館でも電車の改札口でも、同じだ。自分一人だけなのに、どういうわけか二人分を請求される。とはいえ、彼が「自分は一人だ」と主張すると、喫茶店のウエイトレスも映画館のチケット売り場の係も駅員も、皆怪訝な顔をしながらも、「そうですね。すみません」と自分の非を認めるのだ。
(いったい、どういうことだ?)
嫌な予感がしつつも、なるべく深く考えまいと、それについて彼は棚上げにしていた。ところが。
「――ちゃん、ここのところ顔見なかったけど、元気そうじゃない」
久しぶりに会った碇麗香が、草間の隣に視線を走らせた後、そんなことを言ったのだ。
彼女の呼んだ名が、自分のものではないことは明白だ。というか、それ以前に名前そのものが、聞き取れなかった。
しかし麗香は、愕然としている彼に向かって、何事もなかったように自分の近況などを話して、立ち去って行った。
事ここに至って草間も、やっと自覚する。
(俺……何かに憑かれてるのか?)
だが、だとしたらいったいどうしたらいいのか。
結局彼は、悩んだあげく、友人たちに相談することにしたのだった。
【1】
シュライン・エマは、草間興信所の事務員として勤めている。といっても、本業は翻訳家で、たまにこっそりゴーストライターの仕事もしているという人間だ。そして、この一月ばかりはどういうわけか、そっちの仕事が立て込んでいて、あまり草間の事務所に顔を出せなかった。
だから、久しぶりに事務所を訪れ、草間から何かに憑かれているらしい――という話を聞いた時にはさすがに驚いた。しかし。
(憑かれているというよりも、なんだか一緒にいる人の姿が見えていないような……そんな印象だわ)
シュラインは、ふと眉をひそめて胸に呟く。
たしかに彼女自身、霊感はない。それでも幽霊スポットへ行けば、寒気を感じたり、嫌な気分になったりするといった程度の経験はある。が、今の草間からは、そういう感じを何も受けないのだ。霊的なことが原因でないならば、草間に問題が――それも心理的なものがあるのでは、と考えるのはさほど間違った方向ではないだろう。
なにより彼女が気になるのは、麗香の態度だ。その呼びかけ方からしても、ごく親しい相手が草間の傍にいると認識してのこととしか、彼女には思えなかった。
「その現象が起き始めたのが、いつごろからか、覚えてる?」
シュラインは、ソファに座した草間の隣に腰を下ろし、訊いた。
「一月ぐらい前だな。……外で食事しようとして……」
言いかけて、ふいに草間はまじまじと彼女を見やる。
「いや、そうじゃないな。最初はおまえだ」
「私?」
「ああ。翻訳の仕事が忙しいから、伝票の整理だけするとか言ってここに来て……俺にコーヒーを出してくれただろ。あの時、おまえは二人分作ったんだ。自分も飲むのかと思ってたら、おまえはそのままさっさと帰っちまって、俺は呆れたもんだった。そう、あれが最初だ」
言われてシュラインは、記憶を探る。そして、思い出した。ただし、彼女のそれは草間のとは少し違っている。彼女がその時、二人分のコーヒーを用意したのは、零がいたからだ。
(まさか、武彦さんが見えてない相手って、零ちゃんなの?)
思わず顔を上げ、彼女はあたりを見回した。そういえば、今日はまだ零の姿を見ていない。
「武彦さん、零ちゃんは?」
尋ねる彼女に、草間はきょとんとした顔になった。
「それ……誰だ?」
「誰だって……妹でしょ、武彦さんの。そりゃ、たしかに血はつながっていないけど」
驚いて返すシュラインに、草間は笑い出した。
「俺には妹なんていないぜ。妹どころか、家族は誰もいない。天涯孤独の身の上だ。そんなことは、おまえだって知ってるだろうが」
「嘘……! 武彦さん、零ちゃんのこと、覚えてないの?」
思わずシュラインは、草間に取りすがる。あれほど大事にしていた零のことを、こうまできれいに忘れてしまっているとは、信じられなかった。
だが、草間は彼女の剣幕に驚いたようだ。
「だから、覚えているもいないも、俺には妹なんか最初からいないって」
困惑気味に答える彼を、まじまじと見やってシュラインは、改めて嘘でも冗談でもないのだと確信した。そのまま唇を噛んで、考え込む。
(どういうこと? どうして武彦さんは零ちゃんのことを覚えてないの? でも、そう……。これで、武彦さんが自分に『憑いている』と思っているのが、零ちゃんかもしれない可能性は大ね。ただ、武彦さんが『自分は一人だ』と主張すると、他の人にもその存在がわからなくなる、というのが奇妙だわ。連鎖反応を起こしているだけなのか、それとも、誰か武彦さんの目から零ちゃんを隠したい人が、周囲に烏合するように頼んで回っているのか……)
ともかく、今必要なのは、なぜそうなったのか原因を探ることと、草間と零が本人たちの気づかない間になんらかのトラブルに巻き込まれているなら――そうに違いないだろうが、トラブルを解決することだ。
そう決めて、シュラインは顔を上げた。
「わかったわ。とにかく、どうすればいいか二人で考えましょ」
彼女は、できるだけ明るい声で言って、彼の背を励ますように軽く叩く。
そこへ、事務所のドアが開いて、刑事の青島萩が姿を見せた。
【2】
刑事といっても、青島萩は、主に心霊現象や怪奇、不思議関連の事件を担当している、いわば草間の刑事版のような男だ。百八十六センチの長身に、短い黒髪と黒い目をしている。年齢は二十九歳だという。
「よう」
明るく声をかけて来たものの、二人の間の拭いきれない重い空気に、すぐに気づいたのか、尋ねた。
「どうした? 二人ともシケた顔しちゃって。ケンカでもしたか?」
「いや、そういうわけじゃないんだが……。ほら、この間、電話で話しただろ? あの件で、ちょっとな」
草間が困惑した表情のまま、言った。彼はどうやら、萩にもその現象について、相談を持ちかけていたらしい。
「ああ、あれか」
萩も、すぐに納得したようにうなずいた。そして、続ける。
「話を聞いた限りじゃ、麗香さんの知り合いっぽくないか? 名前は聞き取れなかったけど、『元気そうじゃない』とかなんとか、言ったんだろ? 彼女」
「ああ」
うなずいて、草間は何か言いたげに、シュラインの方を見やった。
黙って二人のやりとりを聞いていた彼女は、その視線に小さく溜息をつく。そして、口を開いた。
「そのことだけど……私は、武彦さんと一緒にいるのは、零ちゃんじゃないかと思うのよ」
「零さんが?」
途端に萩は、目を丸くして問い返す。
「でもなんで。……零さんが、武彦に見えないってわけ、ないだろ?」
「ええ。でも、武彦さんは零ちゃんのことを覚えていないし……今、ここにはいないみたいなの。少なくとも、私には零ちゃんの姿は見えないわ」
答えてシュラインは、この刑事が霊力を持っていることを思い出し、訊いた。
「あんたには、見える?」
言われて初めて、萩はあたりを見回した。
「ああ……。そこに……ソファの傍に立ってる。でも、これは……」
ソファの横の空間を指さして、彼は眉をひそめる。
「幽霊というのとは、ちょっと違う感じだな。でも……似てる。なんていうか、うまく言葉にできないけど、幽霊ってのは魂だけの存在で、何か未練があってこの世に残っているもの、だろ? でもこの零さんは、違う所にいるみたいな感じだ」
「違うところ?」
シュラインは、思わず問い返した。
草間は、ぎょっとしたように萩が示したあたりを、見詰めている。「零」が誰なのかわかっていない彼には、そこに幽霊がいるらしいという認識しか、ないのだろう。だけでなく、麗香と会った時の話を参考にすれば、彼には「零」という名も聞き取れていないのかもしれない。
萩は、そんな草間をちらと見やって言った。
「ああ、うん。だから、二次元とか三次元とか言うだろ。もともとは、数学の話だけど、二次元は平面で、三次元は立体で、四次元は空間で。で、二次元に住む生物がいるとしたら、そいつには三次元に住む生物は見えないし、三次元に住む生物にも四次元に住む生物は見えない……っていう、なにか、そんな感じっていうか」
自分でもうまく説明できていないと思うのか、萩はまたもどかしそうに顔をゆがめ、がしがしと頭を掻いた。
たしかに、的確な説明とはいえなかったが、シュラインにもなんとなく、わかったような気はする。つまり、零は死んだりしたわけではなく、自分たちには認識が難しい世界に、なんらかの理由で飛ばされたということではないのか。
彼女がそう言うと、萩は「あー、そうそう。そんな感じ」と大きくうなずき、そして草間をまた見やった。
「にしても、零さんのことを覚えてないって……本当か?」
「だから、そんな人間は知らないって言っている」
二人が勝手に話を進めているのが面白くないのか、それとも彼女たちの口調が自分を責めているようにでも聞こえるのか、草間は仏頂面で答えてソファの背に身を預けた。
それを見やって、シュラインと萩は思わず顔を見合わせる。それから萩が気を取り直したように言った。
「……ともかく、俺は一度、麗香さんに会って話を聞く方がいいと思うんだがな」
「そうね」
シュラインもうなずいた。
その時、またもや事務所に訪問者の姿があった。
【3】
やって来たのは、セレスティ・カーニンガムだった。
一見すると二十代半ばと見える、長い銀髪と青い目の美貌の青年だ。しかし実際は七百年以上も生きている人魚である。そして、リンスター財閥総帥で占い師でもあった。
その本性ゆえに視力と足の弱い彼は、ステッキを手にしている。
シュラインとは友人だが、萩とは初対面のようだ。互いに挨拶を交わした後、セレスティは自分が今日、ここを訪ねた理由を話す。
「草間さんが、何かに憑かれているのではないか……という相談をお受けしたものですから」
「武彦さん、セレスティにも話したの?」
思わずそちらを見やるシュラインに、草間は肩をすくめて言った。
「セレスティなら、長く生きている分、何かわかるかもしれないと思ってな」
平気そうな顔をしているが、本心は深刻に悩んでいたようだ。
彼の言葉に、セレスティは小さくかぶりをふる。
「残念ながら、私は霊力はありませんので、電話をいただいてすぐに何かわかるということはありませんでした。ただ、気になったのは碇嬢の態度です。それで、彼女に電話してみました。すると、碇嬢はその時、草間さんと一緒にいたのは、零さんだとそう教えてくれたのです」
「やっぱり……」
シュラインは思わず呟き、萩と顔を見合わせた。
「シュライン? 何かそちらも手掛かりがあったのですか?」
その様子に、セレスティも驚いたように尋ねる。
そこでシュラインと萩は、かわるがわる彼が来るまでにわかったことを話した。
途端に、セレスティも目を丸くする。
「草間さんが、零さんのことを忘れてしまうなんて……」
「だから、俺はそんな奴のことは、知らないって……」
草間は、ますます不機嫌な顔になりながら、言った。
「……本当に、覚えてないようですね」
セレスティはまだ驚きが覚めない様子で呟き、それからシュラインと萩をふり返った。
「ところで、私はこれからアトラス編集部へ行くつもりなのですが、お二人も一緒にいかがです?」
「アトラスへ? でも、どうして?」
シュラインが問い返す。
「何か、碇嬢が手掛かりを持っているかもしれないと思ったので。それで、あちらへ行く前に、草間さんにその現象がいつごろから起り始めたのかとか、そういうことを訊こうと思ってこちらに寄ったんです」
セレスティの言葉に、シュラインと萩はなるほどとうなずいた。
やがて彼女たちは、草間を交えて四人で、セレスティの乗って来た運転手付きのリムジンで、アトラス編集部へと向かった。
【4】
セレスティがあらかじめ、アポイトメントを取ってあったからだろう。シュラインたち四人は、すんなりと麗香に会って話を聞くことができた。もっとも麗香自身も、多少暇な時期だったのだろう。余裕の伺える顔つきで、彼女は四人を白王社ビル一階の喫茶室へ誘った。
そこで彼女は、再度あの日会ったのが、零であることを証言した。
「一月前ねぇ……」
その後、一月前、何か仕事を草間に依頼しなかったかと問う彼女たちに、麗香は首をひねる。
来る途中で草間は、その現象が始まったのが、一月ほど前からだということを、萩とセレスティにも話したのだ。むろんシュラインも、その最初の時、自分は零の分もコーヒーを出したのだと付け加えた。
考え込んでいた麗香は、やっと何かを思い出したらしい。呟いた。
「そういえば、あれも一月ぐらい前のことだわ」
そして、話し始める。
それは、一月ほど前のこと。アトラス編集部に、差出人不明で小さな寄木細工の箱が届いた。包まれていたのはそれだけで、いったいどういう謂れのあるものか、説明の書面などもいっさいない。とはいえ、編集部ではこうした届けものはわりとよくあることなので、麗香は霊能力者に見てもらったあと、さほど危険がないなら記事にすればいい、ぐらいに考えていた。
そこへ、たまたまやって来た草間が、それに興味を示した。
その箱は、中に何か入っているらしく、ふると音がするのだが、蓋が開かないようになっていた。寄木細工ということは、おそらく箱を構成している板を順番に移動させて行けば、蓋は開くのだろう。
草間は、持って帰ってそれに挑戦すると言い出したのだ。
麗香も一応止めたのだが、結局草間は彼女の言葉を聞き入れず、それを持ち帰ってしまった。
「――その後、何があったのかは、知らないわ。翌日、電話してみたけど出ないから、夕方、事務所を訪ねたのよ。彼はソファで眠ってたわ。そうね、零ちゃんはいなかった。箱はテーブルの上に置いてあって……だから、メモを残して私はそれを持って帰ったわ」
「武彦さんは、そのメモのこと、覚えてる?」
麗香が話し終えるのを待って、シュラインは草間に訊いた。
「ああ……。そういえば、何かそんなメモを見た気がするな。けど、そんな箱のことなんて、俺は知らないぞ」
うなずいて言うと、彼は思い出したように付け加えた。
「そうだ。あの時もそんなふうに思って、メモは丸めてゴミ箱に捨てたんだった」
「あの時は、ずいぶん熱心だったのにね」
麗香が小さく笑って、肩をすくめる。
それへ、萩が尋ねた。
「それで、その箱は今どこに?」
「沙耶の所よ」
麗香がためらいもなく答える。
草間の元から持って帰って来た後、麗香はそれを霊能力者に見せたのだそうだ。すると、強大な力を持つ悪霊を封じてある箱だから、このままどこかの神社へでも預けて、そっとしておけと言われたのだという。それで、預ける神社を探している時、高峰沙耶が現れ、ぜひゆずってほしいと言って来たのだった。
「彼女なら、少々のものでも平気だと思ったから、渡したわ」
麗香は言って、話をしめくくった。
シュラインたちは、思わず溜息をつく。これでは結局、草間に何があったのかは、わからないままだ。
萩が、他に何か草間に関係するようなことはなかったかと訊いたが、麗香は首を横にふるばかりだった。そこで彼女たちは、麗香からその箱についての資料を借りることにした。資料といっても、その時麗香が撮った箱の写真が何枚かと、霊能力者の鑑定を簡単に書き移したメモぐらいのものだ。
草間興信所へ戻り、シュラインたちはそれをテーブルの上に広げた。
まず、メモの内容の方は、麗香の字で「強大な力を持つ悪霊」「恨みの念が凄まじい」「一度封印が破られ、再度施された形跡がある」「二度と開けてはいけない」「誰も触れてはいけない」「神社に預ける」といった断片的な言葉が書きつけられている。
「この、『一度封印が破られ、再度施された形跡がある』というのが、なんだか気になりますね」
指先で、メモに触れて内容を読み取っていたセレスティが、軽く眉をひそめて言った。
「そうね。それと、この『誰も触れてはいけない』というのも気になるわ。だって、実際には少なくとも送り主と麗香さん、武彦さんの三人は触っているわけでしょ」
うなずいて、シュラインも言う。
一方、写真の方を眺めていた萩は、顔をしかめて彼女たちをふり返った。
「こっちの写真は、すげぇぞ。……写真でもこうだからな。ちょっとでも霊感があったら、これの実物なんざ、言われなくても触りたくなくなるだろうよ」
「そんなに……?」
「ああ。写真からでも、恨みの念がばんばん吹きつけて来る」
目を見張るシュラインに、萩はうなずく。そして、草間に視線を巡らせた。
「おまえ、よくこんなの触る気になったよな」
「……そう言われてもな。覚えてないんだ。その箱のことも」
草間は、小さく肩をすくめて言う。
そういえば、白王社でもそんなことを言っていたのだと思い出し、シュラインは軽く眉をひそめた。
(零ちゃんのことだけじゃなく、記憶全般に欠落があるってこと?)
彼女は胸に呟き、考え込む。
(もしも、一月前のあの箱を手にした前後からの記憶が、欠落しているのだとしたら、零ちゃんのことも、その一端だとは考えられないかしら)
彼女は顔を上げると、草間に訊いた。
「先月、私が最後に事務所に仕事に来たのは、いつだか覚えてる?」
「ええっと……たしか、二十日ぐらいだろ。アトラスへ行く前に話した、おまえが伝票の整理だけするって来て、俺に二人分コーヒーを出して帰った日だ」
草間は、考え込みながら言う。
「じゃあ、その前に私がここに来たのは、いつだった?」
「う〜んと。十日だな。経費の支払いと、客からの振込みが集中してるからって、パソコンに張り付いてたぞ、たしか」
草間は、再び考え込みながら答えた。記憶に間違いはない。
そんな二人のやりとりに、萩とセレスティは顔を見合わせた。
「シュライン、それが何か今回のことの手掛かりになるんですか?」
セレスティに問われて、シュラインは返す。
「わからないけど……武彦さんの記憶の欠落が、いつからのものなのか、調べられないかと思って」
「なるほど。たしかに、零さんのことと言い、アトラスでのことと言い、まったく覚えていないんだものな」
うなずいて、萩は尋ねた。
「それで、どうなんだ?」
「今訊いた部分は、間違っていないわ」
言って、シュラインは改めて草間を見やる。そして、再び尋ねた。
「《幻の島》のことを、覚えている? そこにいた、霊鬼兵のことを」
「なんだ? そりゃ」
草間が怪訝な顔になり、答えを求めるように彼女たちを見やる。
シュラインは、小さく溜息をついた。そして、自分のデスクの上から、小さなスタンドに入った写真を持って来る。そこに写っているのは、シュライン自身と草間、そして零だ。いつだったか、ハワイへ行った時のものだ。
「これを見て」
シュラインは、それを草間に差し出す。彼は、言われるままに写真を見やり、そして怪訝そうに眉をひそめる。
「この女の子、誰だ?」
「それが零ちゃんよ。……写真の場所は、ハワイ。行ったの、覚えてる?」
「ハワイ旅行は覚えてるさ。けど……こんな女の子、知らないぞ」
シュラインの言葉に草間は、まじまじと写真を見詰めながら呟いた。
そのやりとりを見やって、再び萩とセレスティは顔を見合わせる。
「記憶の欠落……と言うにしても、変ですね」
「ああ。消えているのは、零さんに関することと、アトラスから持って来た箱に関することだけ、みたいだな」
セレスティが言うのへ、萩もうなずいた。
「つまり、今回の件に、この寄木細工の箱が何か関係している可能性が高い、ということね」
シュラインも二人をふり返って言う。
その時だ。草間のデスクの上の、電源を落とされていたはずのパソコンが、いきなり軽い音を立てて起動を始めたのだった。
【5】
驚いてそちらに駆け寄ったシュラインたち四人の目の前で、パソコンは勝手に立ち上がるとメモ帳を開いた。キーボードが緩慢に動いて、画面に文字が打ち出される。それは「ネクタイピン」と読めた。
「ネクタイピン?」
画面の文字に、一同は思わず顔を見合わせる。
「これはたぶん、零さんからのメッセージだ」
言ったのは、萩だった。
「今、パソコンが立ち上がり始めた途端、姿は見えなかったが、幽霊とは微妙に違う気配を感じた。あれは、アトラスへ行く前に俺が見た零さんの気配と同じものだ」
「シュライン、何か思い当たることはないですか?」
セレスティに問われて、シュラインは考え込む。が、すぐに顔を上げた。
「たしか、今年のバレンタインに、零ちゃん、武彦さんにネクタイピンをプレゼントしたはずよ」
「それ、どこにあるんだ?」
萩に問われて、シュラインは草間をふり返る。が、彼はこの展開について来れていないのか、顔をしかめてただパソコンのモニターを睨みつけているだけだ。
これはだめだとシュラインは、萩とセレスティをふり返った。
「たぶん、武彦さんの部屋のどこかだと思うけど」
「よし。手分けして探そう」
萩の号令で、彼女たちは草間の部屋へ向かった。
零もおらず、シュラインもしばらく来なかった草間の部屋は、本や衣類が乱雑に所かまわず積み上げられ、灰皿には煙草の吸殻が山をなし、ベッドはぐちゃぐちゃという、まさに一人ぐらしの男の部屋を、絵に描いたかのような状態だった。
だが、今はそんなことにかまってはいられない。とりあえず、タンスの中やサイドボードの引き出しなど、手分けして調べて行く。
やがて。
「あったぞ! こいつじゃないのか?」
オーディオセットの乗った棚を調べていた萩が、声を上げた。シュラインとセレスティもそちらへ駆けつける。萩が、手に持った青いビロードの箱の中身を、シュラインに示した。彼女は、軽く目を見張る。小さな翡翠の飾りがついたそれは、たしかに零が草間にプレゼントしたものだ。買う時一緒に行って選んだのだ。間違いない。
「これよ」
うなずくシュラインに、彼らはとりあえず草間にこれを見せてみることにした。
事務所の方に戻り、萩がネクタイピンを草間の目の前に突き出した。
「武彦、見ろよ、これを」
ふり返ってそれを見やった草間の目が、大きく見張られる。
「これ……は……」
低く呟き、彼はおそるおそるそれに手を伸ばした。だが、手に取った途端、雷にでも撃たれたように身を震わせ、その場に棒立ちになる。
その時。
『シュラインさん、萩さん、セレスティさん、私に手を貸して下さい。萩さんは超能力で、セレスティさんは水を操るその力で、私を引いて下さい。お願いです。早く!』
シュラインたち三人の頭の中に響いたのは、零の声だった。
その声に操られるように。
「零さんは、そこだ!」
萩が、事務所の入り口付近を示す。同時に彼とセレスティは、それぞれの力をふるった。
と。零の姿がぼんやりと、まるで幻のように事務所の入り口の傍に浮び上がる。
「零ちゃん!」
シュラインは駆け寄って、その手を取った。まるで、煙を捕えようとしているかのような、頼りない感触だったが、たしかに手応えがある。それを信じて彼女は、自分の方へと引き寄せた。途端、零の姿ははっきりと実体を持つ、生きた人間のものとなった。
「シュラインさん!」
「零ちゃん! よかった」
すがりついて来た零を、シュラインも思わず抱きしめる。
と、背後に人の気配を感じて、彼女は顔を上げた。そこにいたのは、草間だ。彼は大きく目を見張ったまま、零を見詰めている。だがやがて。
「零……」
彼の口から、低い呟きが漏れた。
「お兄さん!」
零は、シュラインの腕を離れて草間に駆け寄ると、彼にすがりつく。
ようやく零のことを思い出したらしい彼に、シュラインたち三人も安堵の笑みを浮かべるのだった。
【エンディング】
事の起こりはやはり、アトラスから持ち帰った寄木細工の箱にあったようだ。
事務所で箱の蓋を開けることに成功した草間は、それによって中に封じられていた悪霊を解き放ってしまったのだ。今にして思えば、すでに最初から彼はそれに魅入られ、箱を開けさせられたのだろう。というのも、解放された悪霊は、草間の体を己の器として欲したのだった。零は、その悪霊から彼を守って戦い、なんとかもう一度箱に封印することに、成功した。しかし、双方のエネルギーのあまりの大きさに、次元に亀裂が生じてしまい、零はそこに落ちたのだ。草間の記憶の欠落も、そこから生じたものだったようだ。
零は、次元の亀裂から出るために、ずっと草間と行動を共にして、こちらの人間に働きかけ続けていた。それが、少しでも霊感のある人間や、もともと彼女を知っている人間には、瞬間的に見えていたのだろう。
また、零の存在を関知した人々が、草間の「自分は一人だ」の主張に同調したのも、次元に亀裂が生じた影響だったようだ。つまりは、彼の記憶をこそ「正常」だとして、周囲の認識を修正する方向に、自然の力が働いたのだろう。だが、シュラインたちのような、もともと零を知る人間には、それは通じなかった。
「ですが、どうしてネクタイピンが、戻るきっかけになったんですか?」
記憶の戻った草間と零が、交互に語る話を聞いて、セレスティが尋ねた。
「悪霊と戦った日の翌日、お兄さんは、学生時代の友人の結婚式に出席するはずだったんです。それで、ちょうど私がここへ礼服と一緒にネクタイピンを持って来て、お兄さんにこれでいいか訊こうとしたら、箱の蓋が開いてしまって……」
「じゃあ、もしかしたら、あのネクタイピンには武彦の零さんに関する記憶や、その時の記憶が全て焼きついてしまっていたってことか?」
零の言葉に、萩が問い返す。
「はい。いろいろやってみて最後には、お兄さんの記憶が戻れば、次元の亀裂も修復されて、傷が膿を出すように、私を本来いるべき次元へ押し出そうとするだろう、と考えたんです」
「なるほど。それで私たちにあのメッセージを寄越したというわけですね」
うなずいて続ける零に、セレスティも言った。
「はい」
再びうなずく零に、シュラインは思わず目をやる。
「ごめんね、零ちゃん。私がもっと早く、あんたの姿が見えないことに気づいてれば……」
「いいえ、シュラインさんのせいじゃありません。私が、あの箱を封印が解かれる前に、お兄さんから取り上げていれば、よかったんです」
零は、笑ってかぶりをふると、そんなふうに言った。
そして、事務所にはこれまでと同じ日々が戻って来た――はずだった。が。
「お帰りなさい」
シュラインは、外から戻って来た草間に声をかけ、整理していた伝票から顔を上げて、何げなく尋ねる。
「あら、お客様?」
「は?」
草間の怪訝な声に、彼女は再度そちらを見やって、思わず目をしばたたく。たしかに、草間の傍に若い男が立っていたと見えたのに、今見直すと、誰もいないのだ。
(気のせいかしら?)
そうは思ったものの、少しだけ嫌な感じを覚えて、彼女は顔をしかめた。
(あとで、青島さんに電話して、寄ってもらうように話しておく方がいいかも。それで何か憑いているなら、払ってもらわなくちゃ)
そんなことを胸に呟き、彼女は一つ溜息を落とすと、再び伝票整理の作業に戻る。
草間が、怪奇現象と疎遠になることは、当分ないようだった――。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0086 シュライン・エマ 女性 26歳 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1570 青島萩(あおしま・しゅう) 男性 29歳 刑事(主に怪奇・霊・不思議事件担当)】
【1883 セレスティ・カーニンガム 男性 725歳 財閥総帥・占い師・水霊使い】
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■ ライター通信 ■
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参加いただき、ありがとうございます。
ライターの織人文です。
今回の依頼は、「草間と一緒にいるのは零である」ということを
最初に設定しての窓開けでした。
とはいえ、誰もそれを指摘する方がおらず、
他の結論に導くプレイングばかりならば、それにならうつもりでした。
が、みごとシュライン・エマ様が設定していた結論を指摘して下さいましたので、
それと他のお二人のプレイングを合わせて、このような形となりました。
●シュライン・エマさま
いつもお世話になっています。
まさにビンゴな内容のプレイングで、鋭いな〜と感心すること
しきりでした。
少しでも楽しんでいただければ、幸いです。
それでは、またの機会がありましたら、どうぞよろしくお願いします。
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