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幻影浄土〜ある研究者の手記〜
●古き思い出への召喚
宇奈月慎一郎が王禅寺に呼び出されたのは、秋の声も強くなった十月のことだった。
「すみません、急に呼び出して」
慎一郎を待っていたのは王禅寺の住職の孫、万夜だ。住職自身も長く不思議の物に関わっているが、最近はまだ中学生の万夜が窓口であることが多い。
その日、和室の一室に通されるまで、慎一郎は自分が呼ばれた理由を知らなかった。
「これを」
和卓の上にそっと置かれたのは、古ぼけた一冊の本だった。硬い感じの、しっかりした表紙だが、タイトルは見えなかった。
「これ、巡り巡って、この寺にやってきたようなんですけど……多分、宇奈月さんにお渡しするのが良いんじゃないかと思って」
「僕に?」
きょとん、とした顔で慎一郎は聞き返した。自分に渡すべきものが、この寺に流れ着くなんて、慎一郎自身に思いつかなかったからだ。
「はい」
差し出されたその本は、慎一郎の記憶の中にはなかった。
手にとって、開いてみるまでわからなかった。
「……これは」
それは日記だった。
その字には、見覚えがあった。
昔。もう、今から振り返ったなら遠い昔。
彼の前から突然に消え失せた、彼の親しい人の文字に見えた。
いや、まさか、と思う。
それは遠い記憶の中にあるもので、記憶違いなのかもしれないとも思う。
それを確かめるように、慎一郎はページをめくった。
日記は、ある年の初めから始まっていた。
『新しい年に、日記も改めた。
一昨年の夏に手に入れた書の訳もやっと、目処がついてきた。
ずいぶん長くかかったが。
これが落ち着いたら、しばらくは休もう。
慎一郎とも、ここのところ、ちゃんと話をしていない……』
この年の半ば、彼は行方不明になっている。
それから七年が経って、失踪宣告によって戸籍からは抹消された。死体は出ていないが、おそらくは死んでいるであろうと法的に判断されたのだ。
今はそれから更に、歳月を経ている。
ぱらぱらとめくると、日記は半分ほどを過ぎたところから白くなっていた。
彼の行方が知れなくなったのは、確かこの年の前半のうちだったと慎一郎は思い起こす。
慎一郎は一番前に戻って、日記をめくりなおしていった。
●古き日記の足跡
『訳に間違いがなければ今まで知られていた書とは、異なる解釈も可能な話だ。
現地に行って、確かめて来るのが良さそうだろうか。
妻に話してみよう』
彼は魔術師であった。
そして彼の研究は、古き異形なるものにまつわるものだった。異形の……神と言うべきなのか、それすらも超えた存在か。古い魔術と、古い力と、神とも呼ばれた古いもの。それらを研究して、自らの力へと変えていた。
じわりと慎一郎の胸によみがえってきた記憶の中で、彼との繋がりはそればかりだった。子どもに聞かせる話ではなかったのではなかろうかと、今となっては思いもするが。
しかし、それがなかったのなら、今の慎一郎も存在していない。
慎一郎は、その影響で世界の不思議を求めて歩くようになったのだから。
彼に、邪険にされた記憶は慎一郎にはない。やや疎遠であったことは間違いないが、たまに会った彼は優しく、慎一郎には甘かったような気がした。
『慎一郎と約束をしていたのを忘れていて、怒られてしまった。
明日にはイギリスに飛ぶ。
帰ってくるときに、何か土産でも買ってこよう』
――慎一郎
彼が慎一郎の名を呼んだときの声が、脳裏によみがえる。
記憶は一つ掴み出されると、次々に止め処なくあふれてくるようだ。
『仲間には偽書ではないかと言われたが……
しかし、偽書にしてはと思う。
この書についての研究は進めていきたい』
日記の中に出てきた書の名前について、慎一郎は考えてみた。
自宅の蔵書の中に、含まれていただろうかと。
少なくとも、彼が訳したであろう訳文は見たことがない。後は、原書だ。
だが、ぱっと思い浮かぶ中にはなかった。
しかし個人所有とは思えないほどの蔵書を誇る彼の自宅の書斎の本のすべては、慎一郎自身であっても記憶していない。
それで、自宅に帰ってみなければわからないか……と思考を止める。
『久しぶりに家に帰ってきた。慎一郎はもう寝ていた。
研究も、もう大詰めを迎えていると思う。
明日には、またイギリスに発つ』
一日の分の日記は短い。
覚え書きのように短い文章が並んでいた。
研究の内容についての記述は少なかったが、ときおり綴られていた。
この年、彼はイギリスと日本をたびたび行き来していたようだ。
『今日も、書にあると思われる場所に行ってきた。
何もなかった』
途中から、更に一日分の文章は短くなっていった。
そして、別人のもののように、字が乱れている。
『今日も行ってきた。
あれは(解読不能)』
時には、まったく読めないほどに乱れた字の上を、更にぐしゃぐしゃにペンで塗りつぶしたような日もあった。
『私は、このまま研究を続けても良いのだろうか。
このまま続けていれば、引き返せないことになるような気がする。
どうしたら』
……たまに、ふと正気に戻ったような、そんな文章の綴られた日もあった。
日付は、彼が失踪した日のものに近づいていた。
そうだ、彼はイギリスから帰国するはずの日に、帰国してこなかったのだ。
慎一郎は、改めてそれを思い出した。
あの頃、慎一郎はまだ子どもだったが、母についてイギリスへも渡った。彼の住んでいた部屋は、そのときにに見た記憶がある。
何もない、がらんとした部屋だった。
私物は片付けられていたので、最終的には事件ではなく、覚悟の失踪であろうと判断された。だが失踪する理由がわからなくて揉めたんだった、と、そこまで思い出す。
『すまない。
だがもう帰れはすまい。
帰ったなら、ああ
いや、私はなぜ帰らないのだろう。
何故なのかわからない。
ただ、帰ってはならないのだ』
彼が失踪した日の日記は、やはり乱れていた。
私物を片付けるのが、そのときの彼の限界だったのだろうか。
行き先は同じイギリスの、そうは離れていない都市だったようだ。
それは正気ならば、逃げるための選択には思えなかった。
『もう帰れない。
あれが来る』
同じ、短い文章が続く。
何かに怯えている。
そんな日記が何日も何日も続いた後……
『もう、逃げ切れない。
あれが追って来た。
私があれを最初に見たのはいつのことだったのだろうか。
憶えていない。
憶えていないが。
昨日今日ではないことは間違いないだろう。
だが、そんなことはどうでも良いことかもしれない。
この日記を、誰か読む者はいるだろうか。
もしいたならば、これを日本にいる妻と息子に届けて欲しい。
せめて謝りたい。
何も言えなくてすまなかった。
黙って姿をくらませて、帰れないですまなかった。
だが、もう、直接には言えない。
あれが来ている。
廊下で、何かを引きずるような音がしている。
そこまで来ているんだ。
近くなっている。
扉の外まで来ている。
扉が』
日記は、そこで終わっていた。
慎一郎は文字の書かれた最後のページを舐めるように見つめて。
それから、日記帳を閉じた。
●古き追憶の行方
「どうしますか?」
万夜に問われて、慎一郎は物思いから帰ってきた。
「そうですね……とりあえず、持ち帰ります」
慎一郎は、日記を抱いた。
「……そうですか」
「ええ。お知らせくださって、ありがとうございました」
慎一郎はそして、王禅寺を出た。
山門を出るところで、呼ばれたような気がした。
そして何処ともなく振り返る。
「僕は負けませんよ」
慎一郎は、見えない、なにものかにそう告げた。
追われるのではない。これから自ら、それを追いかける。
手持ちの蔵書の中に原書が残ってさえいれば、きっと追いつける自信が慎一郎にはあった。
「待っていなさい……すぐですから」
「……お父さん」
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登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【2322/宇奈月・慎一郎 (うなずき・しんいちろう)/男/26歳/一応召喚師】
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ライター通信
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多少、雰囲気、出てるでしょうか……? 思いの外時間がかかってしまいました……遅くなりまして、すみません。
余談ですが。昔々、サンチェックのあるゲームをしましたが、その頃は上手くRPができませんでした。今なら、少しはできるでしょうか……?
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