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<東京怪談ノベル(シングル)>


ハムに乾杯

 異界暦三一〇年。いや、五二七年だろうか。年代は無意味かもしれない。
 ここは、日々暮らす世界とは異なる場所。一言で「異界」と表しても、それは数多ある世界の一つに過ぎない。
 今、彼が机の引き出しから潜り抜けたその先につながる世界が、その時どのように呼ばれていようとも。彼の現身が生きる時との繋がりは、定かではないのだから。
 ともあれ、とある異界のとある場所にて。ヨーロッパの古城を思わせる、重厚な石造りの建物の前に、次々と馬車が止まった。煌びやかな正装に身を包んだ紳士淑女が、引きも切らずに石の城へと吸い込まれていく。
見晴らしの良い丘に位置する小さな城は、帝国宰相府に属する庁舎の一つである。中央府からは若干距離がある為、日常には使われていない。しかし、眼下に広がる景色は、今日のような日には最適だった。
 コバルトブルーの海に整然と並ぶ船は、いずれも戦場の大海を翔けるもの。
重ねた年月を滲ませる、宰相府支庁とは対照的に、最新型の機動的な船影が、沈む夕日の中に浮かび上がる。
 だが、今日は戦場へ向かうためではなく、支庁での祝典に合わせての停泊だった。
「いや、それにしても今回の戦いは我が軍の圧勝でしたな」
 祝勝パーティーの始まりを、今や遅しと待つ人々の顔は、皆晴れやかだ。
 建物の佇まいに合わせて、会場となる広間も、華やかでありながら落ち着いた装飾で彩られていた。
 艶を消したすべらかな深紅の敷物は、適度な長さの毛足で人々の足音をやわらかく吸い込む。時の皇帝の肖像画を掲げた正面の踊り場には、豪奢なシャンデリアが、無数の細かい光を振りまいていた。
「一体、どなたの功績ですの?」
「それは、あなた、言わずとも知れているではありませんか」
 室内の数箇所に設けられた、待合のテーブルの周りでは、イブニングドレスに身を包んだ令嬢達がさんざめく。
「いつにも増して、舞弥様の采配が冴え渡っていたとか」
「流石は、【疾風狼】の二つ名をお持ちのお方。自在に兵を操る速さにおいて、舞弥様の右に出る者はいないという訳ですわね」
「いやいや、ご婦人方。少々お待ちいただきたい」
 軍服に身を包んだ青年が一人、令嬢達の会話に割り込む。
「確かに、御田卿が殊勲者であるには違いない。だが、何も卿一人の手柄では……」
 途端に、おしゃべりに興じていた令嬢達から青年に、氷の視線が飛んだ。
「あ、いや、その。確かに卿の速攻が要ではありますが……」
 もごもごと口ごもる青年を軽く睨んでおいて、令嬢達は扇の影でくすくすと笑っていた。

 定刻より随分早く会場に着いた人々に、そのように噂されているとは、知ってか知らずか。御田舞弥(みた・まいや)は、リズミカルに馬車に揺られていた。
 できることなら、旗艦と同じ名を冠した愛車【ベイオウルフ】で、風を切って走りたいものだ。丘を取り囲む森は、秋の色に染まり、爽やかな風はさぞ心地よいだろう。
 しかし、祝典に出席する以上、それなりの体面やしきたりがある。それに、実のところ、動力がなく補助輪付きの彼の愛車では、長い斜面には不向きなのである。
 故に、戦場では【疾風狼】の異名を持つ彼も、今は大人しく、のどかな馬車に収まっていた。
 きちんと整えた礼服の胸には、階級章が誇らしく輝く。ただ、どう撫で付けても収まらない蜂蜜色の髪だけは、元気にあちこち飛び跳ねていた。

「もうそろそろ時間ですのに。舞弥様はまだお着きにならないのかしら」
 先ほど舞弥の噂をしていた令嬢の一人が、広間の入り口にちらちらと目をやった。
「仕方ありませんわ。舞弥様がお使いになるポイントは遠いのですもの」
 その時、取次ぎの者が厳かに、舞弥の到着を告げた。
 扉がゆっくりと両側に開く。
「あら?」
 噂話に興じていた令嬢たちの傍らで、これまで話に加わっていなかったおさげ髪の少女が首を傾げた。
「迷子かしら」
「まあ、あなた何を言ってらっしゃるの?」
 噂好きの、というより、舞弥のファンらしい令嬢が、大仰に驚いてみせた。
「あの方こそ、今をときめく帝国海軍上級大将、御田舞弥様ではありませんか」
「ええっ」
 今度は、おさげ髪の少女が軽く瞠目する。流石にこの場に招かれるだけあって、大声をあげるようなはしたない真似はしない。
 しかし、彼女が驚きを見せても、無理はなかった。
 開いた扉からゆっくりと、落ち着いた足取りで入ってきた男性は、癖がある明るい蜂蜜色のショートカットに、知性を湛えた穏やかなグレーの瞳の持ち主だった。
 そのパーツだけを見れば、確かに戦場で勇名を馳せる、【疾風狼】その人と得心できる。
 だが、全体は。どう見ても10歳に満たない少年でしかない。
「ひょっとして、あなたこちらは初めて?」
 呆然とするおさげ髪の少女に、令嬢の一人が声をかけた。
「舞弥様は、こことは違う時の流れで生きるお方。だから、舞弥様のお体は六年分しか時が経っていない。だけど、この帝国においては、数多の戦を潜り抜けた、歴戦の勇者でいらっしゃる」
 ここでは、ごくありふれた話だわ、と令嬢は付け加えた。
「やあ、御田卿。遅いじゃないか」
 男が一人、歩み寄った。舞弥と共に海軍の双璧と並び称される、今一人の者ではないが、僚友である。
「千両役者は最後に登場って訳か」
 たちまち、舞弥の周りに人だかりができた。
 既にあちらこちらで繰り返されてきた、戦の思い出話や自慢話が、舞弥の周りで弾む。
 程なく祝勝会の開始を告げる鐘が鳴り、帝国元帥が踊り場の下に立った。簡単な挨拶の後、彼はちらりと舞弥に目を向けた。
「では、乾杯の合図は、この戦における第一の功労者に頼もう」
(え)
 舞弥は僅かに硬直した。
(『乾杯』の一言だけで良いんだよ)
(元帥閣下も、それ以上難題は仰らないさ)
 周りでひそひそと僚友達が耳打ちしつつ、舞弥を押し出した。
 別にあがり症であったり、挨拶が嫌いな訳ではない。
 ただ、如何せん、いくらこの世界において歴戦の兵であろうと、実際に彼が生きた時間は六年分しかない。用兵で天才的な能力を発揮しても、その他の部分は小学一年生レベルなのだ。
 気の利いた演説を行ったり、そつなくこの場を逃れる術は、まだ育っていない。
 元帥の指名は、けして嫌がらせでない。第一の功労者としての賞賛は、大変な名誉なのだ。
 僚友達が言う通り、ただ一言『乾杯』と言えば、元帥の賞賛に応えられる。
 意を決して、舞弥は元帥と並ぶ位置に進み出た。居並ぶ人々と対峙すると、戦場では感じない緊張感が生まれる。
 舞弥は頭の上まで高々と、精一杯グラスを掲げた。
「それでは、みなさんの、けんこうを、しゅくして」
 第一声で、ずるりとおさげ髪の少女が滑りかけた。
 天使のボーイソプラノを推測させる容貌とは裏腹に、素晴らしいだみ声だった。
 しかし、他に動じる者は一人もいない。
『乾杯!』
 しーーーーーーーーーーーん。
(おかしいな。どうして、誰も乾杯しないんだろう)
 舞弥の頭上では、たっぷんと乾杯のシャンパンが揺れている。
 人々の胸元では、掲げ損ねたグラスが、上げたものか下げたものかと揺らいでいる。
「失礼します」
 澄んだ声と共に、人々の間にさっと道ができた。
 その間を静々と、給仕係が生ハムを胸元に捧げて進んで来た。
「どうぞ」
 恭しく差し出された生ハムの大皿を前に、今度は舞弥が困惑を浮かべた。
「卿は生ハム(プロシュート)を所望したのではないよ、フロイライン」
 くつくつと、微笑ましげに元帥は笑みを浮かべた。
「今一度、乾杯(プロージェット)をお願いできますかな?」
(あ)
 勘違いに、覚えず顔を赤らめる舞弥だった。