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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


ゆったりと、ゆっくりと。 〜かよわき兵士たち〜

 時計が十一時を鳴らした。暇なときほど、時報のついた時計なんて拾うもんじゃないと後悔してしまう。そもそも心理相談所に音をたてるものはあまり置くべきではないので、時計を買う金ができたらあの時計は外そうと門屋将太郎は考えていた。
「でも、まずその金だ」
金を溜めるためには客が来なければ始まらない。なのに客が来ない。本末転倒というやつで、取らぬ狸の皮算用すらやる気が起きない。
「俺はこんなに真面目にやってんのに、どうして客はわかってくれねえんだかなあ」
広いだけがとりえの机に二本の足を投げ出した臨床心理士の台詞ではなかった。
 そのとき、チャイムが鳴った。
「客だ!」
弾かれたように立ち上がると、将太郎はすぐさま待合室へ駆け出していく。受付さえもいないこの相談所では将太郎がすべての業務をこなさなければならないのだ、というのは建前で実際はチャイムを鳴らしてはみたものの廃品回収用の雑誌が積み上げられた入口で半分の客が逡巡しまわれ右をしてしまうので、出迎えてそれを阻むためであった。
「いらっしゃいませ、ようこそ!」
心に悩みを抱えて訪れる心理相談所で、こんな歓迎をされてはたまらない。けれども幸い、扉を開けた向こうに立っていたのは客ではなかったので、明るい返事が戻ってきた。
「久しぶりね、元気?」
「姉貴!」
砂埃の染みついた大きなリュックを背負い、洗いざらしのシャツと明細模様のパンツにごついブーツを履きこなすいかにも旅帰りという様相のこの女性は将太郎の実の姉、フリージャーナリストとして世界を飛び回っている門屋京華である。大きな目とくっきり赤い唇は、化粧をしていないにも関わらずまた実の弟の目から見ても、かなり美人だった。
「お茶ちょうだい、お茶。成田から直接タクシーで来たから、まだなんにも飲んでないのよ。久しぶりに日本のお茶が懐かしいわ」
がぽりと音を立ててブーツを脱ぎ捨て、京華は遠慮なく相談所に上がりこむ。将太郎の顔が赤黒く染まっているのにはまったく頓着せず、勝手に急須と綺麗な湯のみ、それに茶葉を探し出し、やかんを火にかけていた。
「それにしてもあんたのとこ、はやってないのねー。お茶っ葉、こんなのしかないの?」
見たとこお客もいないようだし、と追い討ちをかける。
「・・・・・・な・・・」
ようやく、玄関に立ち尽くしていた将太郎から声が出た。
「なにやってたんだ今まで!」
俺の家に来るより先に会社に電話しろ、と将太郎は雷のように怒鳴った。

 実は京華は、たった今将太郎の前に現われるまで消息不明だった。半年前亡国へ取材に飛び立って、二ヶ月前からまったく連絡が取れなくなっていたのだ。弟である将太郎のところへも契約していた会社から連絡が来ていたのだが、将太郎は周囲を不安にさせてはとずっと秘密にしていた。
「こっちは、死んだかと思ってたんだぞ!」
「なに馬鹿なこと言ってんの、こうして生きてるじゃない。足もちゃんとついてるわよ」
確かに、玄関に転がっているブーツは現実のものである。
「人の噂なんかに踊らされてる暇があったらもっと真面目に仕事して、いいお茶を買いなさい」
「・・・・・・」
そう、昔からこういう性格だった。他人がなんと心配しようとも彼女自身の立てた人生設計は完璧で、誰かの干渉さえ入らなければ世界は綺麗に回っているのだ。こうして自分が無事に戻ってくることも、計算なのだろう。
「ああ、気を使ってくれなくてもすぐに帰るわよ。お茶飲んで、あんたとちょっと話をすればね」
馬鹿野郎と、将太郎は重ねて怒鳴りたかった。むしろ一日でも二日でもここに残って、家族を安心させてやれと命令したいところであったが、ぐっと飲み込んだ。京華の格好を見ていると、さすがにそこまでは強く出られなかったのだ。
 本来京華は貧乏なバックパッカーのような格好を好む性格ではない。むしろ四六時中、目を開けた瞬間から完璧な化粧とスーツで武装するタイプなのだ。もう、体の底からジャーナリストという血に溢れているのである。
 だが海外へ、とくに戦地へ出るときはさすがにそんな格好はしていられない。そんなとき京華は女ではなくジャーナリストとしての自分を優先させて、今のような格好を纏う。そんな姉を、将太郎は認めている。だからこそ、日本へ戻ってきた姉が一刻も早く服を着替えたがっていることに逆らえないのだ。
「・・・で、その話ってなんだよ」
急須に残った茶を自分の湯のみに移しつつ、将太郎は珍しくしんみりした心持ちで京華の前に腰を下ろした。恐らく、こちらの近況でも知りたいのだろうと思ったのだ。

 ところが京華は、将太郎が聞く体制を取ったと同時にまるで機関銃のように喋り出した。戦地で体験した生活の不自由さやら、その戦地へたどり着くまでの移動手段の劣悪な環境、さらにはそんな仕事を自分に頼んできた契約会社の愚痴まで。一つの確固たる主張を胸に抱く女は一度喋らせると、黙ることを知らないのだ。
「だからね、将太郎。あの国は独裁政治で、しかも独裁者は国外にばかり目を向けていて国民の生活向上にはまるで意識を向けてないのよ。だから反乱が・・・」
「悪いけど、俺にはまったくわかんねえ」
一応そのセリフを何度も繰り返しているのだが、京華は一方的に語りたいだけらしく気にしない。
「各地で起きる反乱に独裁者はもう激怒状態でね、腹いせになにしたと思う?日本ならまだ中学生かそこらの子供たちを根こそぎ徴兵よ、徴兵。信じられる?わかる?子供を取り上げられた母親の気持ち」
「母親の気持ち、ね」
これは将太郎にもなんとなくわかるが、京華はもっと強く怒っていた。
京華は十数年前に仕事と家庭の両立を目指し結婚したが、数年前に離婚した。互いを嫌って別れたわけではないので、家族を失う辛さには身を貫かれる思いがするのだろう。
「今回の取材ではね、この問題について特に詳しく調べてきたのよ。もう思いっきり書いてやるんだから」
「じゃ、しばらくは東京か?」
「そうなるわね」
多分またいつものホテルか、あのホテルが埋まってたらあっちのホテルねと京華は二三のホテル名を並べる。一年の三分の二を海外で過ごす取材の多い生活をしている京華は決まった自宅を持たず、ホテルを転々としていた。家具や衣類は、専門の業者に預かってもらっているらしい。
「さてと。あんたに散々喋ったら大分すっきりしたわ」
そろそろ行かなくちゃね、と京華が湯のみを置いて腰を浮かせた。普段の将太郎ならここでただ、見送るだけなのだが。
「・・・・・・」
沈黙は、次の言葉を生み出すための準備である。姉の顔を見下ろし、しばし唇を噛んで、そして将太郎は声を発した。
「このまま東京に、住めないのか?」

「あんたがこの家明け渡してくれるの?」
しかし姉はやはりしたたかかである。将太郎の真剣な言葉を、撫でるようにするりとかわす。
「・・・・・・!」
今度こそ真剣に、将太郎は姉との縁を切ろうかと考えた。これまでどれくらい、姉のことを真剣に思ってはこうやってかわされてきたことか。ありとあらゆる言葉が、姉の体の周りをすり抜けていくのだ。
「冗談よ」
しかし姉はそのとき初めて、真面目に笑った。姉が真面目に笑うと、やけに寂しそうに見えるのだと将太郎は知った。
「固定の仕事は探してる。東京の家だって、早めに決めたいと思ってるわ」
私は一人じゃないのよと京華。その言葉の意味は、今学校で算数を勉強している。
「ま、今日明日に見つかるなんて無理な話だけどね。これまで無理言って現場駆け回らせてもらってたのに、急に東京に残りたいなんて言い出したって、簡単に聞いてもらえそうにもないし」
京華は今までのわがままが祟ったわねと空笑いで強がって見せるのだが、やはり将太郎には切なく、痛々しく映った。だが、この自分の生涯設定を変えるときの痛みを乗り越えていけばまた新たな道が開けるのだ。姉はそれを、既に知っている。
「頑張れよ」
「あんたに言われなくたって」
へらず口だけは、健在なのだ。自分を打ちのめすこの声が、最後の姉の砦である。
京華が将太郎に愚痴をこぼすのは、本当に最後のところで倒れそうになるのを堪えるために、立て直すためにやっているのだろう。そう考えると、半年間の消息不明期間というのが京華にとってかなり過酷な時間だったことが知れる。
「じゃ、行ってくるわ」
しかし辛い顔を将太郎以外の人間には決して見せない京華、戸籍上の家族にさえもだ、重く頑丈なブーツを再びはきこなし、玄関を胸を張って出て行く。
 その後姿はどこか、戦場へと向かわされる善良なる魂を持った幼い兵士に似ていた。強くあらねばならない、しかし本当はかよわい彼に、彼女に幸いあれと将太郎は目を閉じた。