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<東京怪談・PCゲームノベル>


江戸艇捕物帖

〜channel 2〜



 ■Opening■

 暮れ六つを告げる鐘が遠くで聞こえていた。
 その料理茶屋の一室で、接待する女もおらずそれでも別段嫌な顔をするでもなく男が二人顔を付き合せていた。
 一人は高そうな羽織袴姿に恰幅のいい古狸みたいな容貌の男で、今一人は痩せぎすのずる賢い狐を思わせる男であった。
「ふっ、越後屋。そちも悪よのぉ〜」
 古狸の男が言った。
「いやいや、香坂様ほどでも」
 越後屋と屋号で呼ばれた狐顔の男が謙遜でもするように手を振ってみせる。それから徳利を取り上げ、彼が今香坂様と呼んだ古狸の杯に酒を注いだ。
 古狸が酒を一気に煽る。
「はっはっは」
 陽気な笑声であった。
「あっはっは」
 狐顔も大いに笑い返した。
 カタン。
 障子戸の向こうで小さな音がした。
 狐顔が不審に立ち上がって障子戸を開ける。
 そこには庭先を走り去る女の影と、彼女が運んでいたと思しき盆が湯飲みを乗せたまま廊下に置かれていた。
「……今の話、聞かれたやもしれませんな」
 狐顔が古狸を見やって神妙な面持ちで言う。
「うむ」
 頷いた古狸は閉じた扇子で畳を二度叩くと、反対側の細く開いた引き戸の向こうに目配せをした。
「始末せよ」
 引き戸の向こうにいた者が頭を下げ、その場を辞する。

 ――――女を追って。



 ◇◇◇



 あれが見える者はこの東京でも限られているだろう。
 爆煙を巻き上げ、まるで今にも墜落しそうな勢いで東京上空に落ちてきた謎の飛空挺は、ふと雲にひっかかってそこに留まっていた。
 落ちていたら今頃東京はなくなっていたかもしれない。
 だが、テレビカメラにも映らず飛行機も通り抜ける。
 触れる事も出来ぬあれは夢か幻か。

 時間と空間の狭間をうつろう時空艇−江戸。
 彼らは突然やってきて、何の脈絡もなく、何の理由もなく、そこに行き交う東京CITYの人間を引きずりこんだのだった。





 ■Where is...■

 目の前の世界は突然、彼らの前で光輝いた。
 まるで暗闇の中でいきなりカメラのフラッシュをたかれたような、或いは夜道を歩いていると突然ヘッドライトをハイビームで浴びせられたような、目を開けてはいられないほどの光に誰もが咄嗟に目を閉じていた。
 まぶたの裏側に乳白色の残像をつくって、やがて光は落ち着く。
 開けた目に広がる世界は姿を変えて彼らの前に現れた。


 ▽▽▽


 その扉を開けたら、そこは自分の部屋ではなかった。
「…………」
 リオン・ベルティーニはドアノブに手をかけたその体勢のまま暫くぼーっとその場に佇んでいた。
 手の中には既にドアノブはない。扉すらどこにもない。
 ゆっくりと自分の行動を反芻してみた。正直どこから遡ればいいのかさっぱりわからなかったのだが。彼が営む喫茶店は今日はいつもより繁盛していたような気がする。だからアルバイトの子を労って、それからいつも通りに店を閉めた。シャッターの鍵を確認し、いつものように帰路につく。店の閉まった商店街はいつもと同じにガランとしていたが、一角ではストリートダンサーたちが軽やかなリズムで踊っていた。
 いつも通りに自宅のマンションに帰ってきたが、鍵を開ける時も特に予感めいたものはなかった。表の顔はコーヒー店マスター、しかして裏の顔は国連配下のマーダー。幾度と無く死線を超えてきた彼だからこそ、その手のある種の勘も鋭敏であった筈だ。それが何も捕らえなかったのである。
 開けたドアの隙間から漏れ出る強い光はまるで照明弾か何かのようだ。
 しかし辺りに殺気らしい殺気がなくて、リオンは逆にそこから一歩も動けなかった。どちらへ動くのが正解なのかわからなかったからか、それともまた別の勘が働いたせいか。
「…………」
 暗い夜道にリオンは立っていた。
 マンションはない。どころか低く古い家々が並ぶ通りは空が広く、昇り始めの月が見えていた。
 はっきり言って何が起こっているのかさっぱりわからなかった。たぶん、あの光に何らかの作用があったのだとは思ったが。
 困惑げに半歩退く。足裏の妙な違和感に彼は足元を見下ろした。
 草履である。それだけじゃない。和服を着ている。以前、店のアルバイトの子に無理矢理着せられた浴衣に似ているだろうか。自分の事ながら、いつの間に着替えたんだろう、とぼんやり思う。
 肩から斜めにぶらさがる楽器を取り上げた。弦が三本しかないから三味線だろう。
 こういうのを前にテレビで見たことがある。そうだ、あれは確か……。
「三味線サムライ」
 彼はぽつんと呟いた。


 ▽▽▽


 予感めいたものがあったのだ。
 このドアは開けてはならない。
 直江恭一郎は最近とても調子が良かった。いろんな事が順調に進んでいた。デパート警備の仕事が何事もなく半年も続いているのである。快挙であった。
 だからそれは警告であったに違いない。
 脳裏を過ぎるのはあの日の悪夢。
 制服紛失、身分証紛失、名札紛失……etc.
 何枚の始末書を書かされたか知れない。その上、あのいでたちだったのだ。遊んでいるのかと怒鳴られ二時間もの説教をくらった嫌な思い出である。
 あの悪夢が、今再び繰り返されようとしているのだ。
 このドアは開けてはならない。
 しかし車は急に止まれないように、起こしてしまった動作を瞬間的に止めることは至難であった。最早ドアノブを握った手は回してしまった後なのである。
 あの悪夢の始まりのような光がドアの隙間からあふれ出していた。反射的に胸ポケットからバッジやら名札を剥ぎ取り、身分証明書を投げたのは間に合ったのか、間に合わなかったのか。
「…………」
 静まり帰った夜空がある。
 風は便宜上右から左へ吹き荒んでいった。恐らくは彼の心の中も。
 この光景を彼はよく知っている。
「やっぱりか!」
 恭一郎はがっくりうな垂れた。
 言いたい事は山ほどあったが誰に言っていいのかわからない。
 諦めにも似たため息が漏れる。
 こうなっては今更どうにもならないだろう。何か解決しなければならない問題が起こっているのだ。走り出した電車を途中下車するには死を覚悟してのダイブしかない。であるなら、終点まで付き合った方がマシというものである。後は、出来るだけ早く目的地にたどり着けるよう尽力するだけだ。
 情報収集も兼ねて彼は町へ出る事にした。
 勿論、天守閣をかっこよく飛び降りたりなどしない。彼は前回で懲りていたのである。


 ▽▽▽


 最初、起きなきゃ、と思ったのはそれが夢だと思ったからである。
 残業で書類に埋もれたまま眠ってしまったのだと思った。だからつねった頬が痛いばかりで一向に目が覚める気配がないのに半ば途方に暮れた。どうやら自分は起きているようだ。
 神宮寺夕日は辺りを見渡した。
 何かの怪奇現象にでも巻き込まれたのか。別段慌てた風もないのは、焦ってもしょうがない事を知っているからだろう。わかっている事から順に事態を整理していくしかない。
 実家の広間を思わせる畳敷きの部屋。ただ、天井に電気は無い。着ていた筈のスーツはいつの間にかこの部屋にお似合いの着物に変わっていた。実家でも着物を着ている事の多い夕日だが、こんなに衣文を抜いた着付けは初めてである。
 しかもこの歳でオレンジはちょっと派手じゃなかろうか。夕日が内心で舌を出していると彼女の目の前の障子戸が開いた。
 入ってきたのは着物姿の小さな子供。その子供は部屋の片隅にあった行灯に火を点した。
 時代劇のような光景に、夕日はまるでタイムスリップでもしたような錯覚にとらわれた。実際そうなのかもしれない。まるで江戸時代か何かのようだ。
「夕日はまだ帰らないの?」
 子供が尋ねた。
「え? 私?」
 夕日は見覚えの無い子供に名前を呼ばれ困惑げに首を傾げた。
「えぇっと……」
「うちは楓。はよ、覚えてな」
 どこか懐かしいイントネーションで子供が名乗るのに、夕日は曖昧な笑みを返した。
「ごめんなさい、楓くん」
「ほんで、えぇのん? 新婚さんが」
「は? 新婚?」
 楓の言葉に、夕日はきょとんとした。
 よりにもよって新婚。
 誰と誰が。
「きっと旦那さん、今頃待ちぼうけやで」
 からからと笑いながら楓が夕日の脇をつついた。まだ小学生くらいなのに、ませたガキである。
 しかし、それを突っ込む余裕など既に夕日にはなかった。なんと言っても新婚なのだ。
 彼氏いない暦が年齢と同じな彼女にとって、それは何とも遠く新鮮な響きであった。
 タイムスリップした世界で自分は誰かの新妻なのか。最早、この状況を確認している場合などではなかった。未来の旦那さまかもしれないのだ。さっさと帰って是非にも未来の旦那さまの顔を拝まなくては。
「帰らなくちゃ」
 夕日は慌てたように立ち上がった。
「お疲れさん」
 楓が送り出す。
 そうして部屋を出ようとした夕日だったが、ふと思い出したように彼女は楓を振り返った。
「私の家ってどこかしら?」
「は……?」


 ▽▽▽


「またか……」
 シュライン・エマは両手を万歳したままぼんやり呟いた。
 つい先ほどまで草間興信所で資料の整理をしていた彼女である。椅子の上に乗って高い棚の資料を詰め込んでいた、そのままの体勢だ。
 目を開けていられないほどの強い光を浴びるのはこれで二度目である。
 シュラインはその、今にも倒れそうなボロ長屋の一室で深いため息を一つ吐き出した。
 継ぎ接ぎだらけのダークカラーの着物はおしゃれとは程遠い古着である。
 三和土に天秤棒とその両端に桶が二つ。どうやら今回は棒振りといったところらしい。一体どういう基準でそうなっているのか。
 引き戸を開けようとすると立て付けが悪いのかなかなか開かなかった。はしたないかしら、などと内心で呟きつつ、誰もいないのに蹴りを入れて引き戸を開ける。
 外はもう陽が落ちて、昇りはじめた月が夜を仄かに照らしていた。
 情報を集めるには向かない時間だろうか。後一刻もすれば木戸の閉まる時間かもしれない。彼女の記憶が確かなら木戸が閉まるのは夜四つ。木戸とは防犯の為に各町内の入口毎に置かれた門の事である。これが閉まると医者か産婆くらいしか通してもらえなくなるのだ。江戸時代は今のように時間が正確ではない。暮れ六つといえば日が沈む時刻であり、当然季節によっても天候によっても時刻は変わる。そういうアバウトなものであったから、夜四つがいつなのか正確にはわからないのだ。
 いっそ、情報収集も兼ね湯屋に足を運んで汗を流したい気分だったが、江戸初期の湯屋は混浴の筈である。
「確か、寛政三年に混浴は禁止された筈なんだけど……」
 一口に江戸時代と言っても、ここがそのどの辺りの時代なのかよくわからない。
 明日まで待つか。
 そう思って彼女は再び自分の家らしい長屋に戻った。
 しかしぼろぼろのあばら家である。汚いと言えば汚い。掃除がされていないとかそういった類の汚さではないが、年季が入っているのだ。
 こういうところには必ず出そうな予感がして、彼女は引き戸の前で立ち止まってしまった。こんな時に思い出さなくてもいいのに。
 幽霊だろうが、謎の生物だろうが、大抵のものはちっとも怖くない彼女だが、茶翅のアレだけはどうしてもダメだった。
 嫌な予感がする。
 あの炊事場のあたりに。
 嫌な予感とはえてしてよく当たるものなのだ。
 夜はまだまだ長そうだった。


 ▽▽▽


 今日もいつも通りの賑わいを見せていた。東京の片隅にある小料理屋、山海亭。その主人である一色千鳥は最後の客を送り出して外へ出た。
 暖簾をたたんで開店の札を裏返す。
 中へ入って内側から鍵をかけようとした時、それは起こった。
 この感覚は知っている。
 次に目を開けたら江戸時代。そう思って開いた目に飛び込んできたのは予想を裏切らない光景だった。
「どこかの小料理屋の厨房でしょうか……」
 辺りを見渡して千鳥が呟いた。
「暖簾を下げてきてくれ」
 しゃがれた声が背を叩く。振り返ると見知ったばばぁがキセルを持って立っていた。懐かしい顔に千鳥は目じりを下げる。
「これは、梅さん」
「何だい」
 梅はのんびりと煙を吐いて、ちっとも動き出す気配の見せない千鳥を睨んだ。
「今日は何かあったんですか?」
「何もないよ。さっさと暖簾を下げてきてくれ」
「はいはい」
 千鳥は肩を竦めながら暖簾を下げに表へ出た。
 外は既に陽が落ちて暗くなっている。人も少ない。
 辺りを見渡して千鳥は不思議そうに首を傾げてみた。
「おかしな具合ですね」
 以前、梅と出合ったのは吉原の遊里の中にある茶屋だった。そこで梅は遣り手を務めていた筈である。
 しかし今暖簾を下げようとしているこの店は、あの時の茶屋とは違うようだ。普通の小料理屋らしいし、外も遊里には見えない。
「そういえば、鍵をかけているところだったんですが……」
 戸締りを心配しつつ千鳥は呟いて、この日2度目の暖簾を下げたのだった。


 ▽▽▽


 突然、焚き火が燃え盛った。
 ように見えた。
 食欲の秋である。馬肥ゆる秋である。
 本郷源はあやかし荘の庭先で、今日学校の芋掘り大会で取ってきたばかりのさつまいもを焚き火の中へ放り込み焼き芋を作っていた。
 焚き火の傍らにしゃがみこんで、つついたり、転がしたりしながら焼け具合を確認する。
 と、突然、焚き火から目も開けていられないような光が迸った。黄金のさつまいもでも掘り当てていたのか。
 反射的に光を遮るように手を翳す。
 光が収まって目を開けた源は、半ば呆気に取られたようにそこにしゃがみこんでいた。
 畳敷きの部屋である。今の今まで屋外にいた筈なのに、屋内にいた。
 瞬きを二回して、ゆっくり部屋を見渡す。
 和風の部屋だった。テレビで見る時代劇のようだ。
「本郷さま」
 と、障子戸の向こうから声をかけられ源は考え深げに顎を指でなぞってから言った。
「何用じゃ?」
 堂に入った物言いである。とても六歳の子供とは思えぬ言いっぷりであった。歳の割りに遜られる事に慣れているのは、彼女がいくつも店を経営するオーナーだからだろうか。もしかしたら潜在的に偉そうなだけかもしれない。
 一人の髷を結った男が入ってきた。時代劇でよく見かける与力に酷似している。源は座りなおした。
 何やら小難しい事を固い口調で並べ立て、最後に本日の取調べの帳簿とやらを置いて辞する与力に源は立ち上がる。
 最早ここがどこか、とか、一体何が起こっているのか、とかはどうでもよくなっていた。
 裃姿に満足している。
 北町奉行本郷源の守という自分の肩書きにも満足したらしい。時代劇は好きなのだ。
 源はその世界に何ら疑問を抱くことなく、或いはこれを夢とでも思っているのか、ただ勧善懲悪に胸を膨らませたのだった。


 ▽▽▽


 まぶしい光に薄っすら目を開けると橋が見えた。
 当たり前だ。
 今日は橋の下に寝床を確保したのである。
 貧乏人シオン・レ・ハイは普段は公園のベンチや廃屋を寝床にする事が多い。しかしこの日は運悪く、どこも満員御礼だったのだ。いや、誰に御礼するのかは甚だ疑問だが。
 とにもかくにも最近の不景気が祟っているのか場所が開いてなかったのである。
 かくて仕方なく小さな橋の下に寝床を作る事にしたのだった。はっきり言えば雨露凌げればどこでも良いのだが。
 今日は一日朝から晩まで空き缶拾いを手伝った。仲良くなったホームレスのおじさんに頼まれて、ずっと空き缶を拾い続けたのである。
 自分も無一文でありながら。
 彼はあまり要領のいいタイプではなかった。それが彼の美点でもあるのだが、彼はそんな次第で疲れていた。
 ついでに空腹でもあった。
 目を開けていると空腹を思い出してしまう。
 故に睡魔に抗わなかった。
 どれほど光が瞬こうとも、彼は眠りの中から覚醒する事を拒んだのだ。だから他の者達のように驚いたり、仰け反ったり、脱力したりといったこの状況にリアクションを返すのは結果として翌朝まで待つ事になった。
 彼はいまだ夢の中。


 ▽▽▽


 どうして扉をぶち破るのか。
 答え。そこに扉があるから。
 道がなければどうするのか。
 答え。作ればいい。
 デストロイヤー紫桔梗しずめは今日もブラジルのサンバを目指して走っていた。ハーレーをかっ飛ばし、海をも渡って突き進む。そんな事が出来るのか。世の中気合さえあれば何とかなる。そんな信条を持っているのかどうかはともかく、この日も彼は東京湾海上をハーレーで突き進み999枚目の扉をぶち破っていた。
 途中海上保安船と接近遭遇。
 この場合、どちらが進路妨害であったのかはいろいろ議論の余地のあるところだろう、しかしはた迷惑な迷子おやじはのたまった。
「邪魔するものは許さん!」
 祝、1000枚目。
 その扉を突き破ったその時だった。世界は白く光り輝いた。
「祭りか!?」
 やっと、サンバにたどり着いたのか。
 光に向かって彼は何の躊躇いもなく飛び込んだ。
 馬小屋があった。
 広い馬小屋である。そこには何頭もの馬が繋がれていた。以前にもこんな事があったのだが彼の記憶は都合よくリセットされているらしい。
「祭りじゃないのか!?」
 不満げに彼は大声をあげて、それから何の迷いもなく一際豪奢な鞍を取ると前回と同じ白馬の背に乗せた。馬上に上がり手綱を振るう。
 夜中にはた迷惑この上ない話だろう、馬は立ったまま寝るのだ。寝ていたのである。しかしそんな事はしずめの知ったことではない。ハーレーが行方不明した今、目の前にある乗り物で代用するしかないと思っているのか。相変わらず何の疑問も無くこの世界に馴染んでいる。
「上様ーー!!」
 馬小屋に上裃姿の初老の男が駆けて来た。若年寄の畑倉である。彼は勇気を持ってしずめの馬の前に立ちはだかった。
 しかし、しずめの歯牙にもかからなかったようである。
「邪魔じゃー!」
 しずめは一つ咆哮をあげて走り出した。
 ぷちっと馬の足元で何かが潰れるような音も掻き消され、最近修理が終わったばかりの江戸城の城壁には大穴が穿たれたのだった。


 ▽▽▽


 居候先の庭で雪森スイはしゃがみこみ、庭の池の中を覗き込むようにして、鯉に餌をやっていた。
 いや、正確には餌は持っているがまだやってはいない。手を叩くと寄ってくる鯉が餌を欲しがって口をパクパクやる様を見るのが好きなのだ。
「ほれほれほれ」
 餌をやる振りをして面白がっている。
 怒ったのか鯉が一際大きく跳ねた。まるでスイの指を餌だとでも勘違いしてるかのように食らいついてきたのである。
 反射的にスイが手を引いた。
 その瞬間、目を開けていられないほどの光がスイを襲った。
 突然の事にはいろいろ慣れている。
 かつても異世界からこの世界に迷い込んできた経験の持ち主だ。
 たとえ、いきなり世界が変わったって、『彼』は動じたりなどしない。
 目を開けるとそこには池があった。
 ただ、鯉達が餌を欲しがって足元に群がったりはしていなかったが。
 そして、その池はちょっとばかり大きくなっていた。
 何となくスイは辺りを見渡す。
 庭もいつの間にか広くなっていた。
 2mほど先にあった筈の縁側が、今はあんなに遠くになっている。
「…………」
 スイは手を叩いたが、鯉はもう寄っては来なかった。
 代わりに、池の上を馬で走りくる者があった。
「かっこいい……。あれが水ぐもの術か……」
 馬は大きく嘶いてスイの傍らを駆け抜けていく。
 こうしてスイはその後を追いかけ江戸城の庭から街へと出たのであった。





 ■Welcome to Edo■

 薄闇の向こうから一人の女が駆けて来た。
 髪を振り乱し、何かから必死で逃げようとでもしているかのように、どこか怯えた色を滲ませて時折後ろを振り返っている。
 荒い息を吐きながら、女は足を取られたように前のめりになった。
 リオンは反射的に女に手を伸ばした。女を抱きとめる為だ。
 殺気が彼を襲う。
 金属のぶつかる甲高い音が辺りに響いた。
 別の何者かが女の元に放たれた吹き矢を叩き落したのだ。
 先ほどまで全く気配を感じさせなかったその影にリオンはいつもの癖で胸元に手を差し入れる。
 しかしそこに愛銃の感触はない。
「大丈夫ですか?」
 と言ったのは目の前の黒い影の男。
 とはいえ夜の闇に溶け込んで見えるが男が着ているのは全くの黒というわけではない。それゆえか、仄かな月明かりでも気づかぬほど夜陰に紛れている。いや、それだけではあるまい。リオンとてそういう道に生きるものだ。これほどまでに気配を消して動くとは。
 再び金属の交わる音がした。
 地面に匕首が落ちる。
 刃がどす黒いのは恐らく毒のせいだろう。
 リオンは腕の中で支えている女を見下ろした。
 命を狙われているのか。
「逃げろ」
 と、忍者装束の男が言った。
 リオンは促すように女の顔を覗き込む。
 自分を見上げる女の顔は助けられて安堵したものではなく、ただ驚愕に目を見開いてた。
 動かない二人に業を煮やしたのか、男は落ちていた匕首を拾い上げると二つ、無造作に投げた。殆ど動きはなかったろうか。
 投げた先はリオンが感じていたのとほぼ一致している。
 遠ざかる追っ手の気配。
「おい……」
 と、リオンが女に声をかけると、女はリオンの腕を振り払って、忍者装束の男の胸へ飛び込んだ。
「……え? なっ……!?」
 慌てたような声をあげて明らかに動揺している男に、リオンが首を傾げる。
「や…やめ……」
 見知った……というわけでもないのか。女に抱きつかれて男は慌てたように彼女のの肩を掴み引き離そうとしている。
 にもかかわらず次に続いた女の言葉に、リオンは愕然とした。
「助けてください」
「…………」
 リオン・ベルティーニ、ほんのり凹んだ青い春の一事であった。


 ◇◇◇


「おや、こんな夜更けに来客ですか?」
 暖簾をたたもうとして千鳥は気づいたように顔をあげた。そこに忍者装束姿の恭一郎と、金髪碧眼に三味線をぶら下げた男と、それから、若い女が立っていた。
「あ…あの……」
 恭一郎が言葉を捜すように言いかけるのを、何を勘違いしたのか、合点がいったように千鳥は頷いた。
「あ、ちり紙ですね。今、持ってきます」
 それから、ふと、女の顔を覗き込んで言った。
「そちらは……もしかして椛さんですか?」
 以前会った時は花魁の姿をしていたので、一瞬わからなかったのだ。今彼女は質素な小袖を着ている。まるでどこかの町娘のようだ。
「私を知ってるの?」
 女が首を傾げた。
「おや? 椛さんにあって椛さんにあらずですか。梅さんといい、相変わらずおかしなところですね」
 しかしそれ以上深く追求しないのは、この世界でそれが無意味な事を知っているからかもしれない。
 肩を竦める千鳥を椛は困惑げに見やった。
 千鳥は柔らかな微笑みを返して店の中へ彼らを促す。
「まぁ、立ち話もなんですから奥へどうぞ。ここはどうやら梅さんのお店らしいので」
 千鳥に続いて三人も店の中へ入った。
 店の戸締りをしながら千鳥は奥へ声をかける。
「梅さん、お客さんです。私の知り合いなんですが」
「あぁ、それなら奥の部屋に……あんた」
 呼ばれた梅が顔を出し、金髪碧眼の男に目を剥いた。
「え?」
 リオンが梅の凄まじい形相に気づいて後退る。
「その髪、その目、バテレンだね」
 梅がしゃがれた声で言った。
「バテレン?」
 リオンは日本語が堪能ではあったが、その言葉は聞いた事がなかった。
「キリシタンか?」
 梅が重ねて尋ねる。
「はい」
 リオンは答えた。彼は生粋のカトリック教徒である。
「……この店にはあげられん」
 梅は唾でも吐き捨てるように言った。
「何故ですか?」
 リオンがムッとしたように尋ねる。彼はイタリア人とドイツ人のハーフである。故に日本の歴史には疎かった。ましてや、江戸時代キリシタン狩りが行われていた事など知ってるどころか、ここが江戸である事にすら気づいていなかったのである。
「キリシタンじゃからじゃ」
 梅はさらりと答えた。
「差別ですか」
 リオンが嫌な顔をする。
「何とでも言え」
「…………」
 リオンと梅が睨み合う。正に一触即発を止める者はこの場にはいなかった。
 千鳥は奥の厨房に暖簾を片付けに行ってしまっていたし恭一郎と椛は二人を暖かく見守っているだけだったからだ。
「これを踏めるなら考えてやろう」
 梅は懐から何やら取り出した。
「これ?」
 リオンが首を傾げる。
「これじゃ」
 梅がそう言って取り出したのは一枚の紙切れだった。
「……何ですか、これ?」
 リオンは地面に投げられた紙切れを覗き込んだ。へのへのもへじに毛の生えたような斬新なイラストである。子供の落書きの方がうまいかもしれない、と本気で思えるような凄まじい絵だった。
「お前さんたちがあやめ奉っておるイヘス様とやらじゃ」
 梅が言った。
「…………」
 これがイエス様。何とも素晴らしい絵にリオンは深いため息を吐いた。これをイエス様なんて呼ぶ方が罪かもしれない、なんて脳裏を過ぎる。
 とはいえ、見た目はどうあれイエス様と言われたものを足蹴にしていい理由などない。
 再び二人の睨み合いが始まった。
 そこへ暖簾を片付け終えた千鳥が出てきた。
「何をしてるんですか、奥にどうぞ。はい、直江さん」
 奥へと促しながら千鳥は恭一郎にちり紙を差し出した。
「いや、まだ出てはいない……です」
 恭一郎は手を振って言った。まだ、と。何とも微妙な言い回しである。彼は女性に不慣れであったので女性と接すると鼻血を吹いてしまう事が度々あったのだ。
「おや、そうでしたか。これは失礼しました。少しは女性に免疫も出来てきたようですね」
 千鳥が笑みを零す。
「まぁ……それなりに……たぶん」
 恭一郎は俯き加減に答えた。
 二人を奥の座敷に上がらせて座ると、千鳥はお茶を淹れて二人の前に並べる。
「それで、今回は何があったんですか?」
 千鳥が口火を切った。
「彼女が何者かに追われていた」
 直江は千鳥にかいつまんでその時の状況を話した。
「毒とはまた、穏やかじゃありませんね」
「…………」
 椛は沈うつな面持ちで俯く。
 確かに穏やかではない。命を狙ってと考えていいからだ。
「どうして追われていたんですか?」
 千鳥が尋ねた。
「それは……たぶん、私が聞いてしまったからです」
 椛は重い口を開いた。
「何をです?」
 千鳥がその先を促す。
「人を殺す相談を……」
「!?」
 恭一郎が目を見開いた。
「何ですって?」
 千鳥が椛の顔を覗き込む。
「…………」
 椛は、微かに震えているようだった。
「詳しく話を聞きましょう。その前に……」
 千鳥はすっと立ち上がり座敷を出て行った。
 玄関先で睨み合う二人の前に仁王立つ。
「二人ともいつまで遊んでいるんですか?」
「いや、俺は……」
 リオンが千鳥を振り返った。
「キリシタンはダメじゃ」
 梅が睨みつける。
「今はそんな事言ってる場合ではありません」
 千鳥が有無も言わせぬ声音で言った。


 ◇◇◇


「新妻……」
 その言葉を口にするだけで夕日は頬が緩みっぱなしになった。楓に教えてもらった自分の家へ向かう。
 ドキドキしながら玄関の引き戸をノックしたが返事がない。そっと開けると誰もいなかった。
 どうやら旦那様はまだ帰ってきていないようである。
 夕日は早速夕食の準備に取り掛かった。
 帰りがけに買った魚を焼いて味噌汁を作るのだ。その準備だけして彼女は固まってしまった。ガスコンロじゃなかったからである。火打ち石なんて使った事がない。しかしこんなところでめげたりしないのが彼女である。
 夕日は隣の家に火を貰いに行くと、何とか釜土に火を起こした。
 不慣れながらもそれなりに夕食を用意する。
 たった焼き魚と味噌汁とご飯なのに一刻もかかってしまった。
 丁度上手く盛り付けが出来た頃、引き戸を叩く音がする。
 夕日は、身なりを整えて引き戸を開けた。
「お帰りなさいませ、旦那さ……」
 そのまま固まった。
 最後の「ま」が出ないまま、開いた口も塞がらない。
 引き戸から入ってきた男の顔を見て硬直する。
 相手の男も固まっていた。
 暫しの沈黙の後夕日は男を指差して大声で言った。
「あの時の鼻血男ーー!?」
 他に言いようは無かったのだろうか。


 人を指差してはいけません。
 と、小さい頃何度も兄に叱られた事をほんのり思い出しながら夕日はそこに正座していた。
 目の前に、ご飯と焼き魚と味噌汁が並んでいる。
 その更に向かい側に男が正座していた。恭一郎である。かつて東京で彼に鼻血をかけられたほろ苦い思い出が強すぎる夕日は、咄嗟にその名前を思い出せなかったらしい。だからと言って鼻血男もないだろうが。
 言われた本人もほんのり落ち込んでいるようだった。
 しかし夕日とて決して悪気があったわけではない。
 長い沈黙の後、恭一郎が口を開いた。
 恭一郎の話によると、つまりはこういう事だったらしい。
 夕日が越後屋から出てくるのを見かけた恭一郎は、捜査協力を頼みに訪れたのである。
「越後屋?」
 夕日は、新妻と未来の旦那様の事で頭がいっぱいで、自分の勤め先がどこの大店か知らなかったのだ。
 恭一郎は順を追って、越後屋と香坂様と呼ばれる人物の密談の話、それからその密談を聞いてしまった女の話、そして、この江戸艇の事をかいつまんで説明した。
「つまり、越後屋の悪事を暴けばいいのね。わかったわ、協力する」
 夕日は警視庁に勤める警部補である正義感の女であったから、すぐに捜査協力に応じた。
「お願いします」
 恭一郎はそう締めくくる。
 それに夕日は神妙な面持ちで先ほどからずっと気になっていた事を尋ねた。
「で……あなたが私の旦那様なの?」
「は?」


 ◇◇◇


「魚〜、魚!」
 棒振りの威勢のいい声が朝霧の向こうから聞こえてくるのに、千鳥は店の裏口から顔を出した。
「おや、色っぽい魚売りですね」
 見知った顔に揶揄が滲む。シュラインは照れたように手を振った。
「何言ってるのよ」
 そうして桶を置く。
「魚いただけますか?」
「えぇ」
 魚を取り出すシュラインに千鳥がふと気づいたようにその顔を覗き込んだ。
「その目、どうしたんですか?」
 彼女の目は腫れていた。目の下には濃く暈が出来ている。シュラインはペロリと舌を出した。
「昨日眠れなくて……」
 耳がいいのも困りものだった。釜土の辺りから聞こえてくるカサカサという音が気になって眠れなかったのである。それがカマドウマなら構わない。しかし、茶翅のアレだったらと思うとどうしても確認する勇気が持てなくて、朝まで殆ど一睡も出来なかったのだ。
「大丈夫ですか?」
「ダメかも」
 シュラインらしからぬ弱気な発言である。
「もし何でしたら、この店に泊まってはどうです? 僕も住み込みで働いていますし、部屋も開いているようですし。梅さんの店だから大丈夫ですよ」
 千鳥が提案した。
「本当? 助かるわ。もう、あの音だけは」
 徹夜はいくらでもどうにかなる。昼間仮眠を取ればいいのだ。しかし、アレと一緒に寝ているかもしれないという事実が精神衛生上、非常によろしくなかった。
「こちらも助かります。実は昨日、深川の小料理屋で越後屋と香坂という人物が密会していたようして」
 千鳥が若干声を顰めて言った。
「密会?」
 シュラインの顔も自然と引き締まる。
「密談を聞いてしまった椛さんが奴らに追われていたのを直江さん達が助けたんですよ」
 それにシュラインは腕を組んで暫く考えた後、こう言った。
「今回は、つまりはそういう事ね」
 千鳥が頷く。
「話が早くて助かります。椛さんは梅さんの知り合いの廻船問屋さんの若隠居さんのところで預かってもらっています」
「それで私は?」
「情報を集めてください。特に越後屋の密談相手、香坂とやらの素性を」
「香坂……って苗字があるって事は……」
 武士であろう。江戸時代、名字帯刀を許されているのは士農工商の士にあたる者達だけだ。或いは、その権利を買った一部の豪商人もいるが、こちらは屋号で呼ばれるのが常である。
「わかった」
「小料理屋の女中なら、もしかしたら香坂の素性を知っている者があるかもしれません」
「確かにそうね」
「私も越後屋の厨房にでも潜入できればいいのですが」
「わかった。魚売りがてらに探ってみるわ」
「お願いします」





 ■Intersection■

 シュラインが天秤棒を肩に担ぎ朝霧の残る町を歩いていると、その背に声をかける者があった。
「魚屋さん」
「あら?」
 シュラインが振り返る。
「貴女もやっぱり来てたのね」
 羽織を羽織った大店の女中らしい女が肩を竦めて笑っていた。綾和泉汐耶である。
「お互い様にね」
 シュラインも笑みを返した。
「……お魚いただけるかしら」
「えぇ。活きのいいのがあがってるわ」
 そう言ってシュラインは桶を広げてみせた。
 それを覗き込みながら汐耶はどこかやれやれと呟く。
「全く……予告もなく呼び出すのは何とかならないものかしら」
「本当よねぇ。私、今回新品の服だったのよ。まだ一回しか袖を通してなかったのに、酷いと思わない?」
 シュラインが腕を組んで納得のいかない顔付きで言った。
 汐耶も頷いている。
「一体、服はどこへいっちゃってるのかしらね?」
 着物姿で返されるのも正直勘弁して欲しいと思うのだが、それまで着ていた服が戻ってこないのも納得がいかない。
「さぁ? でも、お気に入りの服だったのに……」
 シュラインは自分の出で立ちを振り返った。
 振り売りの着物にため息を一つ。このかっこで草間の事務所に帰るのかと思うと憂鬱だった。今度は何て言われる事か。
「今回は幸い自宅だったから良かったけど……」
 汐耶が言った。誰かに見られる事もないし、いつもの部屋着だったのもまだマシだろう。
「羨ましいわ」
 シュラインが心底羨ましげに言う。
「今回は一体何があったのかしら?」
 汐耶は首を傾げてみせた。
 それにシュラインは周囲を見渡してから声を潜めて言った。
「さっき一色さんに会ったんだけど……」
 そうしてシュラインは事情を話す。越後屋と香坂が密会をしていた事、その話を椛が聞いてしまった事。
 今回ここに強制召喚されたのは、恐らくそれが原因と思われた。
「越後屋ね」
 汐耶が確認するように言った。
「えぇ」
 シュラインが頷く。
「こちらも探りをいれてみるわ」
「噂好きの女中にでも話が聞ければいいんだけど、大丈夫?」
「大旦那様がもうすぐ大店同士の寄り合いがどうとかって話してたから」
 大旦那に続く『様』の部分を少しだけ語調を強めて汐耶が言った。
「大旦那様って、もしかしてやっぱり?」
 シュラインが思い当たったように尋ねる。
「もしかして、やっぱり」
 汐耶が請け負った。
「似合うわよねぇ……」
 名前は出なかったが互いの間では意志の疎通があったらしい。
「さまになってるわね」
 汐耶も頷いた。


 その頃、朝が滅法弱くて寝所で寝息をたてていたはずの、汐耶が勤める大店の主人――セレスティ・カーニンガムが一つくしゃみをした。
 セレスティは不快そうに眉を顰めて寝返りをうつと、再び眠りの中へ落ちる。
 閑話休題。


 汐耶がふと思い出したように尋ねた。
「この前のみんなも来ているのかしら?」
「さぁ、まだ全員は見てないんだけど」
「何かあったら情報お願いね」
 汐耶が言った。
「また魚を売りに来るわ」
 シュラインがペロリと舌を出してみせる。
「暫く焼き魚が続きそうね」
 汐耶はぼんやり空を見上げた。


 ◇◇◇


 目が覚めるとそこは橋の下だった。
 シオンはぼんやり目をこすって顔をあげた。
「何だか橋が小さくなってしまったような気がします」
 彼が見上げている江戸日本橋は、東海道・中山道・甲州道・日光道・奥州道と呼ばれる五街道の基点であり、江戸時代、日本の流通の中心であった。しかし橋自体は実は小さく、長さ37間しかない。ちょうど彼が眠る前に見ていた橋の幅くらいの長さであったから、小さくなってしまった、ようなレベルの話ではないだろう。木造になっているのだ。明らかに別の橋である。しかし、そういった機微に疎いシオンは別段その事に気づいた風も無く、橋の袂にあがった。
 総髪を後ろで束ね、着流しに絵筆を握っている。
 このシチュエーションには何となく覚えがあった。
「あぁ、また来てしまったようです」
 やっと、彼はそこがどこだか気づいたようである。
 とりえあえず浮世絵でも描いてそれを売ってお金を稼ごう。彼にしては珍しく建設的な事を考えて彼はお絵描きの準備をした。
 そこへ一番最初のお客様が現れた。
 源である。
 彼女はシオンの前に座って諸肌脱いでみせた。
「わしの背中に桃花吹雪を描いてくれ」
 源は時代劇が好きだった。北町奉行と聞いて連想されるものは一つしかなかったのである。しかし刺青では時間もかかるし、何より後で消えないのが難である。ついでに痛そうだ。
 という事で、絵を描いてもらう事にしたのだった。何ゆえ桃花吹雪なのか。そこは女の子らしく、という事らしい。
 シオンはさっそく意気揚々と絵を描いた。彼が思うところの桃花吹雪。
 シオンは桃花吹雪を描き上げた。じっとりと汗が滲むほどの渾身の作品である。
 これはどうでもいい事かもしれないが、それが桃花吹雪と思っているのは、描いて貰った人間と、描いた人間だけかもしれない。
 先々気鋭の何とも微妙な絵を描くシオンの絵を、他の誰が見たところで桃花吹雪と気づく者はなさそうだったからだ。
 尤も、源がそれを桃花吹雪と思っているのは、彼女には背中が見えなかったから、だけの話である。
 桃花吹雪と言ったのだから、桃花吹雪の筈だった。
 気づかぬ内が花というものであろう。
 ついでに「ありがとうなのじゃ」と言って立ち去る源から、絵を描ききって満足してしまったシオンがお代を取り忘れたのも、気づかぬ内が花であったろうか。


 ◇◇◇


「貴様、いかさましやがったな!」
 その賭場で上半身裸に背中に竜の刺青をした男がいきり立った。
 賽を振っていた男がそれを剣呑と振り返る。藍染の着流しに片肌脱いでさらしを巻き肩膝付いている。髪は青い。
 男はチラとも悪びれもせず言ってのけた。
「うるせぇ、ちっと試してみたかっただけだ」
 スイはテレビで見る時代劇が好きだった。これでも元の世界の更に元の世界ではシーフだったのだ。手先は器用だ。だから一度やってみたいと常々思っていたのである。いかさまというやつを。そこに悪気は一切ない。あるのは本当にテレビのような真似が出来るのか、という純粋な好奇心と興味本位だけだった。
 ちなみにこれは余談になるが、彼が何故今こんな場所にいるのかと問えば、昨夜あっさりしずめに撒かれた彼が迷子の末辿り付いた場所がこの賭場だっただけである。青い髪に青い瞳、透き通るような白い肌に背も高い。その外見は、賭場を仕切る者達の間でいろいろ物議を醸したりもしたのだが、彼が難なく踏み絵を踏み躙って見せた事で、彼はあっさりこの賭場に受け入れられたのだった。
 話を元に戻す。
「何だと!?」
 賭場を囲んでいた荒くれ連中が一斉に立ち上がってスイを取り囲んだ。竜の刺青の男を先頭に鞘走る。
「やるか!?」
 多勢に無勢だ。しかしスイは臆した風もない。あまり表情の出ない顔だったが、口ほどによく喋る目がウキウキしていた。何度も言うが彼は時代劇が大好きなのである。
 それはまさに一触即発の時であった。
 突然、竜の刺青の男の後ろ壁がスイの方に向かって倒れてきたのだ。砂埃が辺りに舞い飛び、さすがにスイも着物の袖で鼻と口を押さえた。
 手を振って土煙を払うと、そこに一人の男が立っていた。
 竜の刺青をした男とは似ても似つかない。もろ肌も脱いではいない。
 羽織に刻まれた葵のご紋は気のせいか。
 男は壁の下に人が倒れている事も気づかぬ体で倒れた壁の上に仁王だった。
「ここはどこだ!?」
 しずめである。
 しかしスイは全くその事に気づいていないようだった。ただ目を輝かせて彼は言ってのけたのである。
「お前すごいな。慌てん坊将軍か? そんな事出来るのか!? 忍者か!?」
 どうやら竜の男が化けたと思ったらしい。


「懐かしい。日本橋」
 日向久那斗は晴れた空に唐傘をさして橋を渡りながらぼんやり呟いた。
 記憶が確かなら、この先に美味しいだんご屋があったはずである。その先の小路の茶店のあんみつがこれまた絶品なのだ。甘味処なら大抵は記憶の片隅に残っている。久那斗は軽やかな足取りでだんご屋を目指していた。
 白壁土蔵が続く大店の並んだ日本橋大通りは、人ごみでごった返していた。大八車が忙しくなく通りを駆け抜けていく。
 その一本辻を曲がって久那斗は近道を試みた。
 狭い通りを行き交う相手に唐傘をぶつけてしまう。
「ごめん」
 呟いて傘を下ろした。
「おや?」
「浮世絵師さん」
 久那斗がシオンの手にした絵筆を見て言う。
「はい。何か描きましょうか?」
 尋ねたシオンに久那斗は首を横に振った。
「いらない」
「そうですか……」
「だんご」
「え? この先にだんご屋さんがあるのですか?」
 久那斗の片言をしっかり読み取ってシオンは笑みをこぼした。しかしその顔はすぐに曇る。
「食べたいのはやまやまですが、私には先立つものがありません」
 シオンはがっくりうな垂れた。
 刹那、突然傍らの家が半壊した。
 巻き上がる土煙にシオンが久那斗を庇う。
「あ……」
 晴れた煙に佇む男を見つけてシオンは「ひっ……」と喉の奥で悲鳴をあげた。
「頭が高いわぁぁ〜!!」
 怒鳴りながら男――しずめが暴れていた。
 久那斗は呆気に取られたようにそれを見ていた。
 シオンのように慌てて頭を下げたり、他の者達のように逃げ出したりしなかったのは、偏にしずめが自分を見ていないからであろう。
 しずめは青い髪の男をはったと睨みつけていた。言わずと知れたスイである。
「…………」
 スイはしずめの猛攻を軽やかに、かつ楽しそうに躱している。その度に辺りの家は壊れていった。はた迷惑にもほどがある。
 しずめの蹴りが飛んだ。
 反射的に久那斗は右へ一歩退いた。
 しかし頭を地面にこすりつけていたせいで、傍らのシオンはしずめの蹴りに気づかなかったようである。
 顔をあげたところにしずめの蹴りが入った。
「あ……」
 と言ったのはスイである。
「ぎょぇぇ〜〜!!!」
 吹っ飛ばされるシオンにスイがやれやれと肩を竦めてみせた。別段心配している様子はない。
 誰がこの事態を収拾するのだろう。め組だって無理に違いない。火事より酷い。いや、火事場に彼がいたら助かるかもしれないが。何といってもこの時代の火消しは破壊消防である。
 それはさておき今は火事ではない。
 誰かデストロイヤーしずめを止める事の出来る者はいないのか。
 スイはどう考えても火に油を注いでいるだけだ。
 そこへ――。
「ぶぁっかもーん!!」
 しずめの側頭部に飛び蹴りを入れて、一人のしわがれたばばぁが現れた。
 もしかして奥さんか、と誰もが思ったに違いない。しずめをそのたった一撃で撃沈せしめたのである。見事な往生であった。
 しわがれたばばぁ、しずめの天敵――梅はキセルをくるりと手の中で回すと、しずめの腹の上に座って一服した。
 誰もがぽかーんと口を開けてそれを見守っている。
 いや、誰もというのは過言であったか。
 スイは目を輝かせて梅を見つめていたし、しずめに蹴りを入れられ意識を失っていたシオンは起き上がって「あぁ……上様」などとやっている。
 そういえば、しずめは今巷で人気の『慌てん坊将軍』に似ていた。
 見た目も、だが、何より破天荒なところが。
 やがて一服終えた梅がしずめを引きずって去っていく。あの巨体をあおの小柄な体で軽々と。
 その一部始終を見ていたらしいチンピラ風のごろつき共がスイに声をかけた。
「先生、その腕を見込んで頼みたい事があるんでさぁ」
 久那斗は不審げに首を傾げる。先ほど、冷や水屋で浪人達に声をかけていた連中と同じだったからだ。何やら不穏な匂いがする。
 近々出入りでもあるのだろうか。
 しかし意外にも奴らはシオンにも声をかけていた。
「どうだい、若いの。腹減ってんならうちに来ないか?」
 腕に覚えのありそうなスイならともかく、シオンはどう考えたって真逆だろう。誰彼構わず、なのだろうか。
 久那斗を残して嵐はゆっくり去っていった。


 ◇◇◇


 リオンは昨夜からの梅との鬼気迫る踏み絵攻防に耐え切れず、店を飛び出し平川のほとりをとぼとぼと歩いていた。
 そんなにキリシタンが嫌いなのか、行く先々に、あのへた絵が置かれているのだ。何度うっかり踏みそうになった事か。
 川縁で小石を拾って投げる。水面を二回ほど跳ねて沈んでいく小石に疲れたようなため息を吐き出していると、突然背後から声をかけられた。
「貴殿も東京人でござるか」
 振り返ると、そこにはおかっぱくらいの髪の長さの少年が髪を結うでも無く立っていた。
 東京というのだから、きっと彼もこの時空艇の人間ではあるまい。昨夜、千鳥からこの世界の話は聞いていた。ここは東京上空に浮かぶ時空艇の中で、ここに広がる世界は江戸時代に相当するのだとか。
「ん、まぁ、そんなとこだ」
「三味線……」
 少年、楓兵衛がリオンの首からぶら下がる三味線を指差した。
「あぁ、これか」
「弾くでござるか」
「いや、ギターなら弾けるんだが……もしかして弾けるのか?」
「三味線は良いでござる」
 兵衛はそう言ってリオンから三味線を取り上げると川縁に腰を下ろして軽く爪弾いてみせた。
 リオンも何となく隣に並んで座る。
「ここを緩めると弦が抜けるでござる」
 そう言って兵衛は三つある糸巻の一つを軽く回してみせた。
「へ?」
 リオンは面食らったように兵衛を見返した。三味線の使い方を教えてくれるというのだろうか。しかし調弦の仕方とは違ったようである。
 兵衛はわずか首を傾げて言った。
「……同じ匂いを感じたでござる」
「同じ……ね」
 リオンは何とも曖昧に肩を竦めた。彼の言わんとするところが、東京から来た、という部分にあるのか、はたまた別のところにあるのか、推し量るように兵衛の横顔を見つめやる。
 兵衛は三味線の音を合わせて軽く弾いてみせた。
 それが一曲終わる頃、リオンはふと思い出したように口を開く。
「あ、そうだ。越後屋とつるんでる香坂ってのは、先の老中で不行跡があって今は老中を追われた譜代大名だそうだ」
「それは……」
 兵衛が咄嗟に立ち上がってリオンを見下ろした。
「同じ匂いを感じたんだ」
 リオンはそう言って兵衛から三味線を受け取ると笑顔を返した。
「かたじけないでござる」
 兵衛は既に走り出していた。


 ◇◇◇


「こんな昼間から火盗改か? 大忙しじゃな」
 江戸城から西に立ち並ぶ武家屋敷の一角は人通りも少ない。林に紛れてその大名屋敷を見上げていた紫桜は、突然背後から声をかけられ面食らった。
 振り返った先に子供が立っている。
 兵衛と同い年くらいだろうか、着流しだったが髪は結っていない。いずれ同じ境遇の者であろう。
「あなたは?」
 紫桜が尋ねた。
「わしは遊び人の源さんじゃ」
 源が楽しそうにそう言った。それから真面目な顔に戻って大名屋敷を振り返る。
「香坂を調べておるのか」
「えぇ」
 応えた紫桜の顔が不思議そうに曇っていたのか、源が言った。
「兵衛から聞いておる」
 それに合点がいったように紫桜は頷いた。
「火盗改でも難しいかの……」
 源は呟いて紫桜を振り返った。
 町奉行が裁けるのは町人までである。しかし火盗改は町奉行・寺社奉行の管轄を超え、更には御家人や旗本にまで手が届く。それらを検挙する事が許されているのだ。とはいえ香坂は先の老中である。江戸時代、老中の地位を得られるのは譜代大名の中でも二万五千石以上の者。恐らくそれを裁けるほどのとなれば老中か将軍以外にないようにも思われた。
「…………」
「奴本人は動かんじゃろうが」
 源は呟いた。
「え?」
 紫桜が目を見張る。
 香坂が動かなければ、彼を見張っていても仕方がない。
「その為に越後屋と組んだ筈じゃからな」
 源が言った。
「……あなたは?」
「遊び人の源さんじゃ」
 源が笑った。


 紫桜に言ったとおり、町奉行である源には香坂に手を出す事が出来ない。しかし暗殺計画を止める事は出来る。越後屋が実行犯であるなら。
 確たる証拠は現時点でないが、それならそれで自白に追い込む事も出来る。
 事が大きくなれば、必ず、上にまで話がいく筈だ。でなければ、自分が上様に仔細を話してもいい。


 ◇◇◇


「先生! こっちでさぁ」
 越後屋の三下の安っぽい男どもが腰を低く構えスイを店の奥へと促した。
「うむ」
 スイがその後に続く。スイの後ろにも似たような手下共が連なっていた。
 書類を運んでいた夕日がその一人に呼び止められた。
「おら、先生にお茶を持ってこい」
 突然声をかけられ、夕日が慌てて振り返る。
「は…はい……って、スイさん!?」
「あ、お前」
 スイが夕日に気づいた。着物を着ていたのですぐにはわからなかったらしい。
「何だ、お前は先生と知り合いか?」
 男が尋ねた。
「え、えぇ……」
 夕日が頷く。
「なら、しっかり接待してやってくれ」
「…………」
 夕日はスイの案内された客間に入ると、三下らが出て行ったのを確認してスイの腕を掴み寄せた。
「ちょっ……何やってるのよ?」
 声を潜めて夕日が尋ねる。
「何の話だ?」
 スイは不思議そうな顔で夕日を見やった。
「こいつらは悪者なのよ」
「なに?」
 首を傾げつつも、何やら目が楽しそうに光ってるのを見つけて夕日は事情を説明した。
「そうか」
 スイは目を輝かせた。楽しそうだ。
 時代劇が大好きなのである。
「捜査ならまかせろ」
 口ほどにものを語る目は『まかせろ』ではなく『やらせろ』と語っているようだった。


 ◇◇◇


「いらっしゃいませ、廻船問屋の若旦那さん」
 千鳥はそう言って回線問屋の若旦那の菊坂静と、その連れの桐生暁、聖嵐優夢とそれから久那斗を出迎えた。二、三言葉を交わした後、久那斗を残して三人を奥の座敷へ案内する。
 そこには既にセレスティ、汐耶、シュラインらが集まっていた。
 今夜、行われる大店同士の寄合いに越後屋が出席する。その前に事前に打ち合わせをしようと集まったのだった。
 三人が出された座布団に座ったのを確認して汐耶が口を開いた。
「何とか情報を聞きだせるといいんだけど」
「別に聞き出す必要はないでしょう。何かを探っていると奴らに思わせる事が出来ればいいのでは」
 静が言い出す。
「どういうこと?」
 シュラインが怪訝に首を傾げた。
「きっと向こうから何か仕掛けてくる筈ですよ」
 静は何とも楽しげな笑みを零す。
 それにシュラインは考え深げに指で顎を撫でた。確かに、こちらが何かを探っていると知れれば、相手が何かを仕掛けてくる可能性は高い。だがそれは危険を伴うだろう、それ故椛は命を狙われたのだから。
「越後屋さんは最近不貞の輩を集めていると聞きます。彼らがそれほどの情報を持っているとは思えませんが」
 セレスティが言った。
「確かに、それもそうですね」
 仕掛けてきた連中を一網打尽にしても、にわか雑魚では情報を吐かせるのは難しいだろうか。
 そこで誰もが口を閉じた。
 障子戸の向こうに人の気配がしたからだ。障子戸を開くと、おしるこのお椀を持った久那斗と、お茶の盆を持った千鳥が入ってきた。
 皆の前にお茶が並ぶ。
「とりあえず情報を整理しましょう」
 汐耶が提案した。
「越後屋と香坂は誰かの暗殺を計画している」
 と、シュライン。
「香坂は先の老中で不行跡があって今は老中を追われた身です」
 そう言ってセレスティはお茶を一啜り。
「老中? って事は譜代大名ですね」
 優夢が呟いた。
「一体、誰を……」
 彼らは殺そうというのか。
「返り咲き」
 ぽつりと久那斗が呟いた。
「返り咲き?」
 暁が首を傾げる。
「なるほど」
 静が頷いた。
 千鳥も納得したような顔付きだ。
「大名とはいえ職を追われては実権を何も持っていないのと同じ。彼が再び執政をと考えているなら……」
「返り咲くなら老中ね」
 シュラインが断言する。
「それには老中の空席が必要というわけです」
 静がまだ湯気のたちのぼるを湯飲みを取り上げた。
「現老中は四人くらいかしら」
 汐耶が首を傾げる。
「なら、その四人の誰か、という事になるわね」
 とはいえ現時点では四人の老中の名前もわからない。
「恐らく実行犯となるのは越後屋でしょうね」
 千鳥が言った。
「その為に人を集めて、という事ですか……」
「いざとなれば香坂は越後屋を切ればいいわけですから」
 事がたとえ露見したとしても、越後屋の口を封じ証拠を消せば、後は知らぬ存ぜぬを通すだけでいい。
「暗殺を阻止する。その為に決行日と場所を付き止める」
 それが先決だろう、汐耶が言った。
「最悪、越後屋を潰せば阻止は出来るわね」
 シュラインが頷く。
「後は、香坂の方……」
「それなら、俺が香坂邸に忍び込むよ」
 暁の名乗りに優夢が驚いて振り返る。
「暁さん?」
 心配そうに自分を見上げる優夢に暁は笑みを返した。
「大丈夫。芸者にでも化けて老中とやらの件を聞き出してやる」
「でも芸者は通常二人一組が基本よ」
「それなら私が行くわ」
 シュラインが手を挙げた。
「三味線は弾けるのですか?」
 静が尋ねる。
「口パクみたいなもので良ければ」
「?」
「ベケベンベンベンベン……なんてね」
「声帯模写ですか」
 静が感嘆の声をあげるのにシュラインが肩を竦めてみせた
「えぇ」


 かくして、暁とシュラインが準備をして『梅の小町』を出たのは日暮れ間近の事であった。
 まもなく、暮れ六つの鐘が鳴るだろう。
 静とセレスティは大店の寄合いに参加する。
 汐耶は、香坂邸へ派遣する芸者を入れ替わらせる為に吉原へ走った。
 千鳥は寄合いに出す料理の仕込みをしている。
 久那斗と優夢は奥の座敷で鶯餅を食べながら皆の吉報を待っていた。


 ◇◇◇


 その夜――。
「えぇい、廻船問屋の若隠居どもめが……隠居なら隠居らしくしておればいいものを……」
 寄合いの只中、はばかりに席を立った越後屋は、はばかりには行かず店先に出て、そこに屯していたガラの悪い連中に、今にも地団太を踏みそうな勢いで忌々しげに吐き捨てた。それから声を潜める。
「始末しろ」
 それに連中は夜陰に紛れて散れ散れに消えた。
 丁度同じ頃――。
 大名屋敷の立ち並ぶ香坂邸では一人の芸者が三味線に合わせて舞を演じていた。といっても、現代のストリートダンスなら得意だが、日本舞踊とはちょっとばかり縁遠い暁である。彼の所属する劇団で一度講習を受けた程度のレベルしかないのだ。
 仕方なく暁は早々に奥の手を使った。彼の中に流れる吸血鬼の血がなせるわざである。甘美な幻惑を。
 とはいえ、こんな連中から血を貰う気など全くない。
 暁は香坂にはべると徳利を手にその杯に酒を注いだ。
「香坂様、今日は上機嫌ですのね」
 女の声色を真似る。
 香坂は気づいた風もなく機嫌の良い顔をしていた。
「明日になれば、事が成就する」
 香坂は口憚るでもなくそう言って酒を煽る。
 明日……。三味線を弾く振りをしながら、シュラインは内心で呟いた。決行日は明日か。
「明日、何かあるんですか?」
 暁が酒を注ぎながら尋ねる。
「うむ、知りたいか?」
 香坂はだらしなく目じりを下げ鼻の舌を伸ばして暁の肩に手を回した。
「はい」
 暁はその手を振り払うでもなくしおらしくげに笑みを返す。それは殆どの成人男性が抗えないような妖艶な笑みであったろうか。
 よもや、彼が実は男だと気づく者はあるまい。
「明日回向院で老中浅川殿の法要がある」
 暁がチラリとシュラインを盗み見た。シュラインが小さく頷く。
 その時だった。
 奥の障子戸が開いて一人の小袖袴の男が入ってきた。興ざめした顔で香坂が男を睨んだが、男は香坂の傍らに膝をつくと何事か耳打ちした。香坂の顔色が変わるのに暁は退く。既に聞きたいことは聞けたのだ。長居の必要もあるまい。
 二・三言葉を交わした後、男は立ち上がって、おもむろに床の間に飾ってあった槍を一本掴みあげた。
「何奴!?」
 誰何の声と槍を天井に突き刺すのとでは、どちらが早かったであろうか。
 男は障子戸を開け放って屋敷中に轟く声で言った。
「曲者だ! であえぇぇぇ!!」
 家臣らしい者達が一斉に駆けつける。
 暁とシュラインは、怪訝に首を傾げながらもその混乱に紛れて香坂邸を後にした。
 一方、天井裏である。
 突き刺さった槍先を兵衛は反射的に避けたが、薄皮を裂かれて腕に血を滲ませていた。
 舌打ちしつつ後退し梁の上にあがったところで誰かが向こうから馳せてくるのに気づく。
 敵かと一瞬身構えた兵衛だったが、二人とも髷を結ってはいなかった。恐らくは彼らも東京人。
 忍者装束に短髪の男、直江恭一郎が兵衛の傷に気づいて頭巾を裂いた。
「大丈夫か?」
 声を潜めつつ兵衛の腕に布を巻きつける。
「掠り傷でござる」
 兵衛は困惑げに答えた。
「かっこい〜。こんな小さいのにサムライボーイだ」
 やっぱり忍者装束の青い髪をした男が感嘆の声をあげた。スイである。
「あぁ、もういいから。見つかった。急いで逃げるぞ」
 大声で話すスイに恭一郎は頭が痛くなるのを感じながら、兵衛を小脇に抱えると走り出した。
「おう」
 スイがしっかりその後に続く。
「だ、大丈夫でござる。拙者、自分で走れるでござるよ」
 と、兵衛は小さくもがいたが、どうやらそれは恭一郎には届かなかったようである。
 何故なら。
 スイが意気揚々と『それ』を取り出したからだった。
「こういう時の為に準備してきた」
「煙幕か?」
 走りながらも尋ねた恭一郎にスイは誇らしげに頷いた。
「上様から貰った」
「上様?」
 恭一郎の脳裏に嫌な予感が過ぎる。上様といって思い浮かぶ人物はたった一人しかいなかった。
「ダメだ! 奴は慌てん坊将軍だぞ!」
 恭一郎が止めに入った時には、しかしスイは『それ』に火を点けた後だった。
 勿論、それは煙幕などではなかった。
「たーまやー!」
 結論から言えば、それに目くらましの効果はなかったが、誰もが一瞬動きを止めるぐらいには役に立った。
 恭一郎はスイと兵衛を両脇に抱え、その場を脱兎の如く走り去ったのである。
 香坂邸の庭に上がる打ち上げ花火を振り返りながら『梅の小町』の店先でセレスティは呟いた。
「あちらも派手ですねぇ」
 彼らの周りには越後屋が手配したと思しき連中が伸びていた。


「わしを入れんで祭りを始めるとは何事じゃー!」
 『梅の小町』の一室から花火を見たしずめが雄たけびをあげて、祝一枚目の戸を蹴破ったのは、それから間もなくの事である。





 ■Final stage■

 主人のいぬ間にと夕日は裏帳簿を探していた。今夜、越後屋は大店同士の寄合いの後、どこかへ出かけると話していた。今夜しかない。香坂と取引をする為に多額の金が裏で動いている筈である。必ず使途不明金があると思われた。
 主人の部屋の床の間の引き戸から文箱を引っ張り出して夕日は中を確認する。
「あった……」
「何をしているんです、夕日さん!?」
 突然襖が開いた。
「……シオン……さん?」
 帳簿を手に慌てて後退った夕日は見知った顔が怖い顔で自分を睨んでいるのに気圧された。
「いけません、泥棒なんて。すぐに返してください」
 シオンが言った。正義感に満ち溢れた顔だ。彼はどうやら微塵も越後屋を疑っている様子はない。それどころか、信じきっている。
「越後屋さんには一宿一飯のご恩があります」
 彼はきっぱり言い切った。
「これは、違っ……」
 夕日は更に後退る。
「違いません。物を盗むなんていけない事ですよ」
 シオンはそう言って一歩前へ進み出た。
 何とか事情を説明するより他ない。夕日は一つ深呼吸して口を開いた。
「悪いのはか……」
「くせものだー!!」
 夕日の言葉を遮るように、別の者がシオンの後ろから出てきて大声で店の者達を呼ばわった。
「え?」
 驚いたのはシオンの方である。
「違っ……」
 夕日が弁明の言葉を継ごうとしたが、男は用心棒どもに言った。
「殺れ」
 その言葉にシオンは慌てふためいた。知っている者だからこそ大人しく盗んだものを返したら見逃すつもりでいたのだ。それがいきなり、殺すとなったのである。
「ごめんなさい」
 夕日はシオンにそれだけ言って帳簿を手に庭先へ走り出た。この程度の相手なら下手な立ち回りよりも走って逃げた方が速いに違いない。彼女には100mを2秒で駆け抜ける足がある。
「夕日さん!?」
 ただおろおろおろする事しか出来ないシオンを残して。
 男共が夕日を追いかける。夕日は加速しようとしたが、すぐに逃げ道を塞がれてしまった。越後屋が雇ったらしい三下どもに囲まれ足を止める。
 そこへ源とリオンが駆けつけた。
「大丈夫か?」
 源が夕日を庇って身構える。
「え、えぇ……」
 小さな子供に庇われて夕日は半ば呆気にとられたように頷いた。
「それをしっかり持っておるのじゃ」
 そう言って源は駆け出した。リオンと共に彼らを取り囲む連中を適当に叩きのめす。
 奴らが地を舐めるのに、源は老中暗殺に於ける企みについて彼らを自白に追い込むと、もろ肌脱いで見せた。
「この桃花吹雪が……」
「桃花吹雪?」
 思わず声をあげてしまったのは夕日である。
「なんだ、あの絵は?」
 地を這いながらも男共が顔だけあげて口々に言った。
「呪いか?」
「え?」
 言われて源は自分の背中を覗き込む。しかし見えない。辺りを見回し、源はその部屋にあった姿見で自分の背中を確認した。
「素晴らしい絵です」
 描いた本人が一人惚れ惚れと呟いた。
「なっ?! なんだ、これはーーーーーーーーー!?」
 どうやら、それはやっぱり描いてもらった本人にも桃花吹雪には見えなかったらしい。そこへ、町方同心らが大挙して押し寄せてきた。


 ◇◇◇


 町奉行所内にある白い砂利を敷き詰めた庭、通称お白州。ここでは日々町奉行が裁判を行っていた。
 上の間に座しているのは北町奉行本郷源の守である。
 その右側に徒目付と吟味与力、左側に小人目付けと列繰方与力、書役同心が机を並べている。その一段下に並んでいるのは見習いの与力達だ。
 下男に縄尻を取られた越後屋の主とその店の者達は、庭に敷かれたむしろの上に座らされていた。その中には勿論、シオンの姿もある。
 証人である夕日は、両端に敷かれたむしろに座っていた。
「えぇい、まだ白を切るか……」
 源は立ち上がると引きずるほどの長袴を蹴って一歩踏み出した。
 町奉行がまだ子供と思ってバカにしているのか、むしろの上に捕らえられた者達は何ら悪びれた風もなくそっぽを向いている。
 源は諸肌脱いで彼らに背を向けた。
「この何だかよくわからない絵に見覚えはないか!?」
「…………」
 確かに、何だかよくわからない絵、だった。昨夕見た時から、誰もがそう思っていたに違いあるまい。しかし絵を見せられる前から彼らは薄々感づいていた。偉そうな子供だったのである。唯一シオンだけが純粋に驚いて「ははぁ〜」などと額をむしろにこすりつけて平伏していた。
 しかし、あんなものを背中に描かれたのには、シオンを除く誰もがちょっと同情を禁じえないでいた。刺青でなくて良かったかもしれない。
「未遂であったとはいえ、老中を暗殺を企てるなど言語道断なのじゃ。百叩きの上、江戸所払いを申し渡すぞ。引っ立てぃ!」
 源が言い放った。下男らが彼らを引っ立てていく。シオンを残して。
 シオンは越後屋に騙されていたのだ。そう夕日が証言したので彼は無罪放免となったのである。
 引っ立てられていく者達の背を見送って源は裃をなおした。
 しかし、町奉行が裁けるのは町人だけである。
 源は遠い目をして呟いた。
「後はお頼み申すのじゃ上様」
 呟いてから、ふと脳裏を上様が過ぎっていった。
 何故だか源は不安を掻き立てられる。慌てん坊将軍。
 お白州を出て行こうとするシオンと夕日に源は声をかけた。
「わしらも行くか」


 ◇◇◇


 一方、香坂邸。
「老中暗殺は失敗に終わりました」
「何だと!?」
 報告を受けた香坂が腰を浮かせた。
「越後屋は町奉行の手が入り今頃は……」
 報告の者が頭を下げる。
「この大事に何たる失態。うむむ……き奴らから事が露見する前に何とかせよ!」
「はっ」
「と、そうはいかないぜ」
「何奴!?」
 開かれた襖の向こう、その庭でリオンは三味線の弦を揺るめながら微笑んだ。
「名乗るほどのものじゃない……うぉ!?」
 間髪いれずに吹き矢が飛んでくるのを三味線で弾き落として、抜けた三味線の弦を構える。
 思ってたより短い。
 いや、こんなものか。テレビのようにはいかないのものだな、と首を傾げていると、三味線の胴の部分がごそっと落ちた。
「何だ、仕込みになってたのか」
 普段は弦で止まっていたが胴が抜け落ち太棹の先に現れたのは両刃の刃物だった。刃渡り15cmといったところか。
「えぇい! やれぇぇぇ!!」
 香坂が怒鳴り声をあげるのに、臣下の輩が一斉にリオンを取り囲んだ。
 そこへスイが割ってはいる。
「まぜろ」
 と、彼は小さく呟いた。
 リオンが首をすくめる。まるで、その隙に乗じるように、家臣の一人が刀を振り上げて切りかかってきた。
 リオンがそれを紙一重で躱す。
 スイが走り出した。腰をかがめて男が刀を振り下ろすよりも速くその懐に潜り込み、その勢いを保ったまま男の鳩尾に拳を叩き込む。
 間髪いれず横から突っ込んできた二人目の刀に真横に飛んで一つ息を吐いた。
 刹那、三人目がそれを見ていたリオンに切りかかる。
 リオンは持っていた三味線の仕込み刀で小さく弧を描いた。その軌道に鮮血が続く。
 思わずその場にいた誰もが一瞬動きを止めてしまう程、あざやかに。リオンは次々に切りかかってくる刀を全て紙一重で躱しながら、彼らの利き腕を狙って切り裂いたのだ。二度と刀が掴めぬ程度に。
 スイも負けてはいられない。
 彼は素手のまま、奴らと対峙していた。
 敵が刀を振り上げて、振り下ろす。
 その一連の動作の直前、スイはバク転して後ろに退くと着地の瞬間前に走り出し、刀を振り下ろした男の傍らに立った。スイの手刀が綺麗に男の頚動脈に納まる。
 更にスイは敵の集団に走りこみ、綺麗に手刀と蹴りをお見舞いして彼らを一瞬にして昏倒させた。倒れている連中に滅多に表情を顔に乗せることのない彼は微笑みかけたのである。
 それで、敵はひるんだのか少しの幕間が出来た。
「えぇい! 何をしておるか!!」
 香坂の罵声が飛んだ。
 刹那、大きな爆音が辺りに響き渡った。
 シュラインである。
 実際に何かが爆発したわけではなかったが、彼らの気をそらせるには充分だったろう、リオンが駆け抜ける。
 その傍らにいた五人ほどが地を舐めた。
 しかし多勢に無勢か。
 香坂までの距離はまだ埋まらない。
 と、香坂のいた部屋の天井から一人の忍びが舞い降りた。
 恭一郎である。
 咄嗟に香坂を庇った側近と刃を交える。
 それは、明らかに彼らしくない太刀捌きであったろう。
 刀は切るのであって、殴るための道具ではない。
 確かに安物の刀は血肉に切れ味を鈍らせ、二・三人も切れば切れなくなってしまい、後は殴打の武器としてしか使えなくなる事はままあるのだが。
 それはまるで、剣道場で子供たちがひたすら面の練習をしているような、上から下へただ何度も打ち下ろすだけの動作であった。
 但し凄まじい気合のこもった攻撃である。受ける者はただ防戦を強いられた。
 恭一郎は怒っていたのである。
 ここに連れてこられた時から。
 これでデパートの警備員が首になったらと思うと彼の怒りは収まりきらない。如何にしてくれよう、この怒りをぶつける先を、彼はずっと探し求めていたのである。
 まして、こんな所に連れてこられたばっかりに、女の子からは鼻血男などと蔑まれたのだ――とは自業自得・因果応報・鼻血を天に向かって吹いたら自分に降りかかった、というレベルのものであって、この辺は多分に八つ当たりも含まれていたが。
 こいつらさえいなければ。
 恭一郎は渾身の力をこめて刀を振りかぶった。
 次の瞬間、彼のすぐ傍らの壁が木っ端微塵に砕け散った。
 意表をつかれて恭一郎がそのまま固まる。
 いや、他の誰もがぎょっとしただろう。
 刀を振り回しながら現れたのはしずめだった。
 彼は『梅の小町』を出て花火の打ち上げられた場所を目指してやって来たのである。途中迷子になったりしたので、少し時間がかかったが。
「祭りじゃー! 喧嘩祭りじゃー!!」
 そう言って彼は誰彼見境無く突撃を開始した。
 それに香坂が慌てたように庭に下りて膝を付く。
「上様!」
 地面に額をくっつけた。他の家臣らもそれに倣って平伏している。その場に立っているのはこの状況が今一理解出来ない数名ぐらいだろうか。
「は?」
 恭一郎は最早開いた口が塞がらない。相変わらず刀を上段に構えたまま佇んでいた。
 リオンは意味がわからないといった顔をしている。日本の歴史に弱い上に、別段、時代劇が好きなわけでもなかったからだ。
 シュラインは困惑げに肩を竦めて傍らを振り返った。
 そこに、いつの間に来ていたのか千鳥が苦笑を滲ませ立っている。
「本当に、慌てん坊将軍にそっくりじゃな……」
 源が腕を組んでしみじみ呟いた。
 スイは楽しそうにしずめを見ていたが、頭が高いと言われて下げるような性格では元からなかった。
「ははぁ〜、上様〜」
 などとしずめを前に香坂の脇で地面に額をくっつけて平伏しているのはこの世界の人間をおいて他にはシオンぐらいしかいなかっただろう。
「…………」
 それを夕日は呆気に取られて見つめていた。
「えぇい! このような場所に上様がおられる筈もないわ! 斬れ! 斬り捨てぇ!!」
 香坂が絶叫する。
 家臣たちがしずめを取り囲んだ。
 それを祭りの合図と勘違いしたのか、しずめが楽しそうな咆哮をあげる。
 しずめは斬りかかってくる家臣を次々に掴んでは投げた。
 混戦と乱闘の最中、しずめの投げた家臣の一人が恭一郎を襲う。
 刀背で打ち落とそうとしたが、しずめのバカ力力(リキリキ)の前に押し負けた。
 そのまま一緒に吹っ飛ばされ恭一郎は庭の池に落ちる。
 誰かを下敷きにして。
 誰か、はスイだった。
「すまない!」
 慌てて恭一郎はスイの上からどこうどした。そうして手を付いた場所が、ちょっとばかりよろしくなかったようである。
 ぐにゃり。
 それは、さらしの上からでもはっきりわかった。
 柔らかい感触に、血の気がざーっと引く音と、血がカーッと頭に昇っていく音が殆ど同時に聞こえた。
「お前……女だったのか!?」
 ふくよかな胸の感触が恭一郎の手の平の中に刻まれる。
 そう。スイは『彼』ではなく『彼女』だったのだ。
「邪魔だ」
 彼女は冷たく言い捨てて立ち上がると、恭一郎をなぎ払い、水浸しになった着物の前を肌蹴た。
「びしょびしょになってしまった」
「あぁ、スイさん。ダメよ、帯をはずして肌蹴たら……」
 夕日が慌てて止めに入るが、事態は既に遅かったらしい。
「血の池になってしまいましたね」
 千鳥がポツンと呟いた。
 血の池に半分気を失った恭一郎がぷかぷか浮いている。
 源がそれを岸から棒でつっついた。
「おおい、生きておるか?」
 乱闘の方は収束に向かっているのか、殆ど立っている者はない。屍と化した家臣たちの真ん中でしずめは、シオンを足台にして香坂を担ぎ上げていた。
「一件……落着かしらね?」
 シュラインが呆れたように呟いた。


「それにしても他の人たちはどこへ行っちゃったのかしら」
 シュラインが首を傾げる。彼女の言う他の人とは汐耶達のことであった。
「どうやらここには二つの時間が流れていたようですね」
 千鳥が言った。
「二つの時間?」
「えぇ。簡単に言えば一つの回線に同時に二つのラインが繋がってたようなものです」
「…………」
「途中、混線もあったようですが、今頃はそれぞれのラインに戻ったのではないですか」
 言った千鳥にシュラインがやれやれとため息を一つ。
「相変わらず変なところよね」
「確かに、人騒がせではありますね」
 それから千鳥はそちらを指差した。
「どうやら、回線が切れる時間のようですよ」
 そこに椛と梅と楓が立っていた。


「ありがとうございました」





 ■Ending■

 その瞬間、世界が白く光り輝いた。
 ここへ訪れた時と同じように。


「…………」
 目の前には自分の部屋があった。どうやら戻ってきたらしい。話に聞いてはいたがこうやって実際に帰ってきてみると、ホッと力が抜けた。
 まるで夢を見ているようだった。夢だったのかもしれない。
 しかし着ているのは着慣れない和服だ。
 リオンは這うようにしてリビングのソファーに腰を下ろすとテレビのスイッチを入れた。今は着替える気力すらない。
 テレビでは丁度『慌てん坊将軍』の再放送をやっていた。
「これか……」


 何かが床に落ちる音がした。恭一郎はゆっくりそれを振り返って、思わず感極まりそうになった。
「間に合ったのか……」
 そこに落ちたのは、彼が江戸艇に呼ばれた直前投げた、身分証やら名札やらだったのである。これさえ残っていれば、後は制服紛失だけだ。それぐらいなら何とか許してもらえるかもしれない。
 恭一郎はそれらを拾い上げて当直室に入った。そこにあるパイプ椅子に座って人心地つく。全身が疲れていた。
 それから彼はふと思い出したように呟いた。
「しまった……制服の替えをロッカーに用意しておくんだった……」


 池には恭一郎は浮かんではいなかった。
 代わりに鯉が餌を求めて口をパクパクやりながら集まっていた。
 どうやら居候先の家の庭に戻ってきたようである。時間は経ってないという話は本当なのだろうか。嘘だったら鯉は二日もこうやって口をパクパクしていた事になる。
「…………」
 スイは一瞬首を傾げてからびしょ濡れの着物に家に戻った。シャワーを浴びたい。
 それに、いくら鯉が口をパクパクやったところで、江戸艇に行く前に持っていたはずの鯉の餌は最早どこにもないのだからあげようもないのだ。
 池では鯉が今か今かと餌を待ちわびていた。


 橋の下に倒れていた。
 江戸日本橋とは違う大きな橋である。自分を押さえつけるなにものかに魘されながらシオンはゆっくりと目を開けた。
 自分の上に巨大な野犬が乗っている。
 つい先ほどまで、恐れ多くも慌てん坊将軍様がご乱心になられたかの如く大暴れをされ、自分はその上様に足蹴にされていたのだが。
 どうやら今は犬に足蹴にされていた。
 シオンが起き上がると野犬がシオンから降りて遠巻きに睨んでくる。
 どうやらシオンの寝ていた場所は彼らの塒だったらしい。
「わ、すみません。すぐどきます。すぐ失礼しますから」
 シオンは慌てて立ち上がって、野犬に追い立てられるように走り出したのだった。


「帰ってきたのね」
 椅子の上でシュラインはホッと安堵の息を吐き出した。わかっていた事とはいえ、やっぱり買ったばかりのお気に入りの服が戻ってこない事実は切ない。継ぎ接ぎだらけの古着の着物ってどのくらいで売れるのかしら、などと胡乱な事を考えながらシュラインは椅子を降りた。
 とりあえず高いところの資料は先ほど片付けた分で終わりの筈だ。
 後は誰かに、というよりこの興信所の所長に、今の姿を見られる前に着替えてしまいたい。
「今日はまた珍しいカッコだね」
 背後から見知った声をかけられ、ため息を一つ。どうやら間に合わなかったようである。


「…………」
 残業の書類を前に夕日は一つため息を吐いた。当たり前の話だが仕事は減ってないし終わってもないし、そのままである。元の世界に戻ってきたのだ。
 聞いた話が本当なら、今は江戸艇に行く前と行った後で時間は寸分変わってないらしいが。これで実際に二日経っていたら大問題である。
 しかし、今の彼女にとって、たとえ二日経っていたとしても大した問題ではなかったかもしれない。
 ついでに言えば、今自分が着物を着ているという事実も大した問題ではない。
「未来の旦那様……」
 彼氏いない暦と自分の歳が等しい彼女はぼんやり呟いた。


「どうやら戻ってきたようですね」
 千鳥はホッと胸を撫で下ろして店の鍵をかけた。相変わらず時間は全く進んでいないようである。さすがに今回は二晩も向こうで過ごしたのだからと思っていたが、店に備え付けの壁掛け時計は秒針がゆっくり進んでいるくらいだ。時計に表示される日付も変わっていない。
 店の鍵をかけずに来てしまったので、多少気になっていたのだがさすがは江戸艇と呼ぶべきか。
「また、着物が新しくなってしまいましたね」
 苦笑を浮かべつつ千鳥は袖を伸ばした。江戸時代の着物は微妙に袖丈が短いようなのだが、かえって料理をするには邪魔にならなくていい。しかし今まで着ていた服はどこへ消えてしまっているのやら。


「どうやら戻ってきたようじゃな」
 源は焚き火を見下ろしながら呟いた。向こうで話は聞いていたが、本当に時間も場所も変わらずに戻ってこれるとは信じがたかった彼女である。だが焚き火を見る限り、時間が経ってしまったようには見えなかった。そも二晩も経っていたら今頃焚き火は燃え尽きている。
 しかし裃に長袴は微妙に着慣れなくて動きにくい。
 源は裾を払ってしゃがみこむと、木の棒を掴んで焚き火の中をかき回した。丁度いい頃合で芋が焼けている。
「仕方ないのぉ」
 着替えに戻っている暇はなさそうだった。


 扉をぶち破り、壁を突き破り、ハーレーに跨っていたライダースーツの男が突然、羽織袴に変わったのに、海上保安船のその場にいた乗組員らは全員呆気に取られた。
 彼を捕縛するために用意した麻酔銃を手に、彼らは誰一人引き金を引けなかったのである。開いた口の閉じ方は思い出せないし、皿になった目は白と黒が点滅しそうな勢いすらあった。
 しずめが江戸艇で過ごした時間はここには流れていなかった。まるでしずめがいない間だけ時間は止まっていたかのように。
 そして、しずめが戻ってきてからも、半ば時間は止まっているようだった。
 しずめは大声を張り上げた。
「祭りじゃー!」





 時間と空間の狭間をうつろう謎の時空艇−江戸。
 彼らの行く先はわからない。
 彼らの目的もわからない。
 彼らの存在理由どころか存在価値さえわからない。
 たが、彼らは時間を越え、空間をも越え放浪する。
 たまたま偶然そこを歩いていた一部の東京人を、何の脈絡もなく時空艇−江戸に引きずりこみながら。
 戸惑う東京人の困惑などおかまいなし。
 しかし案ずることなかれ。
 江戸に召喚された東京人は、住人達の『お願い』を完遂すれば、己が呼び出された時間と空間を違う事無く、必ずや元の世界に返してもらえるのだから。





 ■大団円■





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1883/セレスティ・カーニンガム/男/725/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【4621/紫桔梗・しずめ/男/69/迷子の迷子のお爺さん?】
【4929/日向・久那斗/男/999/旅人の道導】
【3359/リオン・ベルティーニ/男/24/喫茶店店主兼国連配下暗殺者】
【3356/シオン・レ・ハイ/男/42/びんぼーにん +α】
【1449/綾和泉・汐耶/女/23/都立図書館司書】
【5228/直江・恭一郎/男/27/元御庭番】
【5453/櫻・紫桜/男/15/高校生】
【4782/桐生・暁/男/17/高校生アルバイター、トランスのギター担当】
【4471/一色・千鳥/男/26/小料理屋主人】
【1108/本郷・源/女/6/オーナー 小学生 獣人】
【3940/楓・兵衛/男/6/小学生 兵法師】
【3586/神宮寺・夕日/女/23/警視庁所属・警部補】
【3304/雪森・スイ/女/128/シャーマン/シーフ】
【5566/菊坂・静/男/15/学生/「気狂い屋」】
【3661/聖嵐・優夢/女/16/高校生兼北辰一刀流道場師範代】


異界−江戸艇
【NPC/江戸屋・楓/女/9/子役】
【NPC/江戸屋・椛/女/20/若い女役】
【NPC/江戸屋・梅/女/52/老婆役】


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■         ライター通信          ■
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 ありがとうございました、斎藤晃です。
 楽しんでいただけていれば幸いです。
 ご意見、ご感想などあればお聞かせ下さい。

 版権に抵触する恐れのあるプレイングには、
 こちらでアレンジを加えさせていただきました。
 予め、ご了承ください。

 人数の都合上、共有部を含む二本立てとなっております。
 エンディングが2種類用意されておりますので、
 機会があれば、別のエンディングもお楽しみください。

 たくさんのご参加、本当にありがとうございました。
 またお会い出来る事を楽しみにしております。

 尚、今回江戸艇に参加された記念に、
 江戸艇での成敗ピンナップを受け付けております。
 現像は江戸艇−写真館にて行っておりますので、
 是非、ご参加ください。

 時空艇−江戸 〜写真館〜 さちILさま
 異界ピンナップ:10月15日 0:00 OPEN予定。
 ※江戸装束姿になります。
 ※記念に時空艇江戸写真館のロゴが入ります。