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<東京怪談ノベル(シングル)>


彷徨う味覚

 白王社近くに、コーヒーと洋食を出す店がある。小さな店だが美味いので、アトラス編集部員や、編集部を訪れるものたちがよく顔を出す。
 二階堂裏社も、常連のひとりであった。
 はるかな異界より、彷徨をかさねて、この世界にたどりついた裏社である。文字通り「違う世界」であるここでの暮らしにも、ようやく慣れてきたといったところだ。編集部に出入りして、多くの人々に会い、さまざまな出来事の遭遇するうちに、彼はこの世界の常識を学び、身に着けていった。だけれども――
「いらっしゃいませ」
 店員が、ドアを開け、身を屈めて入ってきた裏社の巨躯をみとめて、声をかけた。
 裏社は、この世界では多くの時間を、人間という種族の姿で過ごす。人間としての彼は、見上げるような長身に分厚い筋肉の鎧をまとった大男である。だが、接してみれば、彼が意外とおだやかな青年であることを、誰もが知る。
「コーヒーを」
 カウンターの席につきながら、裏社はなじみの店員に言った。
 コーヒーは、彼がこの世界のもので特に気に入った嗜好品である。
 やがて出された、カップに入った漆黒の液体。裏社は迷うことなく、カウンターにあったボトルのひとつを手に取って、コーヒーカップにそれを注ぎ入れた。
 ――すなわち、ウスターソースを。
 店員はもういつものこととして気に止めないが、たまたまそれを目にした客がぎょっとした顔をする。
 だが彼は平然と、カップの中身を味わうのである。
 見た目こそ変わらないが、馥郁としたコーヒーの香りには、つんとスパイシーな匂いが混じり、味はふしぎな酸味を帯びる。
 これが裏社のお気に入りの嗜好品であり……、異界から来た《観光竜》の、奇妙な味覚のあらわれなのだった。

 *

 カウンターにずらりと並んだ容器の列を指して、これは何かと訊ねたとき、誰かが答えたのだろう。それは《調味料》というものであり、食べ物にかけて味をつけるものだ、と。裏社は実に素直に理解した。だから、出されたハンバーグに、その調味料を順番にかけていったのだ。ソースに、しょうゆに、塩に……それから砂糖。そこが中華料理屋で、酢やカラシやラー油があれば、それもかけていたはずだ。
 なんともいえない複雑な味になった挽肉を咀嚼しながら、《観光竜》は、異世界の味と習慣を(いささか間違って)覚えた。《調味料》によって、さまざまな粉飾をすることが、この世界の料理の食し方だという知識が彼の脳にインプットされる。

 それ以来――
 裏社と食事の席をともにしたものたちは、とにかく、彼が何を注文しようと、出てきたものに、テーブルの上にある調味料を全種類、大量に入れてしまうのを見て、大慌てで止めたり、目を見開いたり、悲鳴をあげたりしなくてはならなくなった。
「ちょ――っ、に、二階堂さん、それ、七味とうがらしですよ!」
「……そうですね」
「そうですね、って、クリームあんみつにそんなものかけたら!」
「――? うまいですよ、でも……」
「あっ! 醤油まで!」
「だって、置いてあるから」
 もともとついていた黒蜜も、もちろんかける。
 あんことアイスクリームの上に赤い七味が散った様は、彩りこそ美しかったけれど。
 その後、こんこんと諭されて、「テーブルの上のものを全部入れなくていい」のだと、裏社は学んだが、それでも、彼のセレクトは、この世界の人間には理解しづらいものだった。
 そして、いつのことだったか、大型のスーパーマーケーットに足を踏み入れた裏社は、棚を埋め尽くす、さまざまな種類の《調味料》を前に、自分がまだまだ、この世界のことを知らなかったことに気づいたのだった。《調味料》にこんなに種類があったなんて!
 カートにいっぱい、それらを買い込んで、彼は新たな味の探究に乗り出したのは云うまでもない。
 ポタージュスープにブルーベリージャム。
 ごはんに豆板醤とピーナッツクリーム。
 エビフライにメイプルシロップとゴマ油。
 クリームコロッケに生わさびと黒砂糖。
 イチゴショートにからしマヨネーズ。
 そして食後はもちろん、ウスターソース入りのコーヒー……。
「あの……、二階堂さん……」
 ある日の彼の昼食は、白王社近くのコンビニで買ったベーゴンエッグサンドイッチと、わらび餅と野菜サラダとフルーツ牛乳なのだが、この場合、わらび餅は別にデザートのつもりではないらしい。きなこの上から、編集部の冷蔵庫になぜかあったぽん酢をかけているのがその証拠。
「なにか?」
「あ、いや、ええと……、わらび餅にぽん酢って……どんな味がするのかな……って」
「どんな味って?」
 おずおずと、編集部の打ち合わせスペースの机を借りて昼食を摂ろうとしていた裏社を見つけて、記者が訊ねてきたが、彼は真顔で反問した。しながら、記者が見ている前で、フルーツ牛乳はサラダにかけられ、サンドイッチはパンとベーコンエッグのあいだに大量の練乳が絞り出される。
「……いや、別にいいんですけど……。あ、そうだ、二階堂さん。このあいだ、北海道に取材に行った人のお土産。誰も手をつけないから、二階堂さんに差し上げます」
 よく考えると失礼な理由で、記者はそれを裏社に手渡した。
「いいんですか。ありがとうございます」
 にっこりと、大男は子どものように笑った。
 小さなパッケージには、『ジンギスカン・キャラメル』の文字――。
 その日以降、編集部はちょっと微妙なものを見つけると、裏社に買ってきてやる、あやしいメニューを見かけたら、裏社をその店に連れて行く、というのがちょっとした流行になったようだった。けれど、何を食べても、わりとあっさりした顔で、「美味いですよ」としか云わないので、ブームとしてはすぐに下火になったようだが……。

 ここは複雑な世界だ、と裏社は思う。
 なにもかもが多様で、混沌だ。
 編集部の記者たちによると、彼の食生活は、相当、奇矯なものらしいが、この多様で混沌とした、複雑な世界の一部として、そう基準から外れているとも、彼には思えないのだった。
 スーパーには、また新しい商品が増えていた。
 めんたいこマヨネーズと、八丁味噌と、洋梨ジャムを買って、これは何に合うだろうかと考える。
 最近、彼は自分で料理をつくることも覚えた。
 それを、料理と呼ぶことができるなら――、であるが。
 その日は、前述の《調味料》に加え、ゴーヤといわしとドリアンと甘納豆とドッグフード『いぬ、えらい勢い:大型犬用』とトイレの置くだけ芳香剤を買った。
 それで何をつくろうとしているのか、ということはもとより、彼がべつに犬を飼っているわけでもないことも、トイレの芳香剤を切らしているわけでもないことも、決して余人が深く追究してはいけないことであった……。

 *

 裏社は、通りがかったコーヒーショップで、コーヒーを注文する。
 コーヒーは、彼がこの世界のもので特に気に入った嗜好品だった。
 カップを受取りながら、彼はカウンターのあたりを見回して、店員に訊ねた。
「あの……、ウスターソースは置いてないんですか?」

(了)