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『 Call my name ― 永遠という名の篭の鳥が出逢ったモノクローム・ノクターンという温もりの場所 ― 』
断ち切れたのは糸。
あたしとあたしの家族を繋いでいた糸。
あたしとあたしの大切な友人を繋いでいた糸。
あたしとあたしが愛する人を繋いでいた糸。
あたしと世界を繋いでいた糸。
かつて人だったあたしは盲目という闇の鳥篭に囚われた翼無き小鳥だった。だけど愛を謳う唄は歌えていた。
でも視力という翼を手に入れた瞬間に、その代価ともいうべきあたしはあたしをそれまで繋いでいたその糸のすべてが断ち切れる音を聞いた。
あたしはあたしを繋いでいたその糸全てを失って、ただ切れた糸をその心に抱く。
真っ暗な闇の中であたしが憧れていた事。
鏡に映るあたしの顔を見る事。
目の前に居る人たちの顔を見る事。
世界の美しい物を見る事。
明るい太陽の光りを見つめる事。
闇の中でずっと憧れていた、目に見える世界。
世界を見るという事。
それが叶う事など無いと想っていた。あたしは生まれながらの盲目。
そしてそれが叶えば、あたしは人ならざる者へとなっていた………。
失ってしまった。
奪われてしまった。
盲目の鳥篭の中で、あたしは羽ばたく事なんて知らなかった。
自分には翼があるなんて想ってもみなかった。
それは硝子の翼。
空を飛ぶにはあまりにも儚く、そして頼りなく。
だからあたしには翼など無いにも等しく。
それでもあたしは笑えていた。
生きようとしていた。
繋がっていたから、糸で、繋がりたいものと。
盲目は盲目なりに、見える光り在りし世界に憧れて、その胸を恋煩いのように切なく光り溢れる世界に痛めながら。
見えぬ世界なれど、伸ばした指先はいつもあなたの手と触れていたから。
だからあたしは硝子の翼を閉じていた。
でも開こうとしていた。
飛ぼうだなんて想わなかった時期があった。あなたに出会うまでは。
それは辛くは無かった。
―――ううん、嘘。本当は辛かった。哀しかった。翼を広げて空に飛びたかった。だけどあたしは盲目の闇という鳥篭の中で震えてはいたけど、でも、そう、独りではなかった。
繋がっていた、あたしは。糸で、世界と他の人に。だからあたしはその鳥篭の中でも唄を囀る事ができた。
明日に生きる希望を見る事が出来たのだ。
あなたに出逢えたから。
でもそれがすべて断ち切れた日、盲目の闇から解放されて、視力を得た日に、あたしは代わりに他の全てを失った。
愛したあなたを失った。
あたしは半分といえども吸血鬼。人外のモノへと変貌してしまった、から。
視力を得た。
永遠の生を得た。あたしは不老不死。永遠に17歳のまま。
渇きはあるけど、それでもその渇きの苦痛やおぞましさと比べてもそれは、素晴らしい事だったのかもしれない。
永遠に果てぬその命。若さ。美貌。
だけどあたしは――――
イヤァ。
あたしは、あたしは、あたしは、あたしは、あたしは、あたしは、あたしは、あたしは、あたしは、失った。
失ってしまった。
限りある命の煌き、美しさ。
散らない花よりも、限りある時の中で咲き乱れる花の方が美しい。そう、桜。桜が美しいのはその儚いまでの散り際の瞬間。
あたしはあたしを愛してくれた人の肌の温度を覚えている。
繋いだ手、そこから移った温もりがあたしを包み込んでくれて、だからあたしはあの盲目の闇の中にもその温もり…絆の糸に繋がれて、闇の中に溶け込んで、消えてしまうことは無かったのだ。
だけどあたしは半分とはいえ吸血鬼となってしまった。
それはいかほどに人という存在にとって罪深き事なのであろうか?
それによってあたしは時間という物から切り離された。故にあたしは永遠。
―――あたしはそれを生き地獄と呼ぶ。
この世は苦界。
それでもその苦界を人が生きられるのは人と人の繋がりが在るから。温もりが在るから。あたしにはあなたが居てくれたから。
それさえあれば人はどこへだって飛んでいける。そう、鳥は翼があるから、帰る場所が無いからどこへでも飛んでいけるんじゃない。
帰る場所が、疲れた翼を温めてくれる温もりがあるから、どこへだって飛んでいけるんだ。
ねえ、あたしは永遠なんだよ?
そんな温もりが独り、永遠を生きるあたしにあると想う?
無いよ、そんなモノ………
繋いでいた、手。
その手から移る温もりがあたしを生かしてくれた。温めてくれた、あの盲目の闇の中で。
繋いでいた、手。あなたの手。
それがあたしの全て。大切な絆。宝物。幸せの全て。
だから半吸血鬼となって、あなたに置いていかれた時に、それが辛くって、哀しくって、心に痛くって、あたしは…………………
「いやダァ―――――ァッ」
絶望と孤独に泣いたんだ。
置いていかれて、哀しくって。
置いていかれて、苦しくって。
置いていかれて、寂しくって。
置いていかれて、見えるモノが変わって。
置いていかれて、何も見たくなくなって。
そう、あたしは何も見たくなくなった。
見えて嬉しかったのは鏡に映るあたしの顔。
―――喜びの表情が浮かぶのは、あたしの手を握ってくれるあなたの手の温もりがあたしの手に移るから。
温もりは無くなった。もう、浮かばないよ、微笑なんて。
見えて嬉しかったのはあたしの周りの人たちの幸せそうに笑う顔。
―――置いていった人たちの後ろ姿にそれは変わってしまった。それのなんと惨たらしい事なのだろう………。
見えて嬉しかったのは世界の美しさ。
―――あたしが囚われた永遠という名の世界は、色を失った。
全てが灰色。モノクローム。
あたしが見たいモノはもう何も見えない。
見たくないモノしか見えないなら、あたしはもう何も見たくはない。
だからあたしは瞼を閉じた。
世界が美しく見えたのは、あたしが笑えたのは、あたしの手に移るあなたの手の温もりがあったから………。
……………。
――――――『 Call my name ― 永遠という名の篭の鳥が出逢ったモノクローム・ノクターンという温もりの場所 ― 』
【T】
「いらっしゃいませぇー」
からーんと鳴った扉につけられた鐘。
あたしはその音色に合わせて、お客さんを出迎えるの。最高の笑顔を浮かべて。
このお店、アンティークショップ【モノクローム・ノクターン】の子たちを迎えに来てくれた人だもの。感謝しても感謝しきれない。
ここの子たちはあたしを呼んでくれた。昔のあたしが誰か、誰か、誰か、って誰かを呼んでいたように、あたしを呼んでいた。
そうして見つけてきた子たち。
ここはその子たちの休む場所。
ここで休んで、出逢って、そうしてまた新たな時を始めるの。
幸せな、時を。
幸せになるために。
「あの、このヴァイオリン…弾いてみてもいいですか?」
手に取られたのは半年前に迎え入れた子。
「はい、どうぞ」
奏でられるヴァイオリンの音色はどこか哀しげな音色を奏でる。別れてしまった前の弾き手を忘れられないから。この子は。
うん。あたしもわかるから。瞼の裏はあの人の顔を、手は触れた手の温もりを今もちゃんと覚えているから。
でもね………
―――その人はあなたを迎えに来てくれたんだよ。
「その子は名も無いヴァイオリン職人が作り出しました。その作家は名器ストラディヴァリウスに憧れて、その設計図を得て、それとまったく同じモノを作り出そうとしたそうです。ですが、当たり前のようにそれと同じ音色など奏でられる訳も無く、彼は祖国に残してきた母を想いながら、妻や子どもたちに苦労をかけながらも、子どもの練習用のヴァイオリンを作りながら最高の音色を目指してヴァイオリンを作り続け、そしてとうとう最高のニスを得て、その夢を叶えたそうなんです。ヴァイオリン奏者のあなたなら聞いた事がないでしょうか?」
「はい。名器ストラディヴァリウスがその最高の音色を奏でる理由は、そのニスにあると。ヴァイオリンに塗られたニスが影響を及ぼしている、というのは音大の講義で聞いた事があります」
「このヴァイオリンには様々な気持ちが込められて作られて、そしてその作家からこのヴァイオリンを譲られたのはひとりの女性ピアニストだったそうです。交通事故で自分のヴァイオリンを失ってしまった彼女は貧乏で新しいヴァイオリンを買えずに困っていて、そして作家がこのヴァイオリン、初めて最高の音色を奏でてくれたこのヴァイオリンを彼女に譲り渡したと。そして彼女はこのヴァイオリンと共に無名でありながらも音楽界をのし上がり、最高の楽団に入って、有名な奏者になったのだと」
「………すごいですね。そしてこのヴァイオリンはだから私にはとても重過ぎる」
彼女はヴァイオリンを棚に戻そうとした。
その彼女にあたしは微笑む。
「あなたはどうしてうちのお店に入ってこられたのですか?」
彼女は少し逡巡して、それから苦笑しながら言った。
「呼ばれたような気がしたんです。でも、勘違いかと。だってこの子は前の持ち主さんをまだ覚えているから」
「はい。忘れられないかと想います。それでもこの子は間違いなくあなたと出逢ったんです。このお店、アンティークショップ【モノクローム・ノクターン】は翼を休めるための宿り木なんです。ここで翼を安め、そして新しい大切な人と出逢う。別れは、出逢いの始まりなんですから」
出逢いは別れの始まり。
―――かつてのあたしが忘れていた言葉。
そして絶望に苛まれていたあたしに永遠と言う時間を生きる力をくれた言葉。
「心は大切な人を忘れないけど、でもまた新たに自分を想ってくれる人に出逢えれば、心は嬉しいと想うから。幸せになる権利ありますよね。幸せになるために生きるのは人も物も同じ。だからあたしはこのお店に皆を並べるんです。また新しい人に出逢って、幸せになれるように。この子たちは生きて、いるんですから。出逢いは奇跡です。そして必然でもあるんですよ」
「出逢いは奇跡。そして必然………そうですね。そうだと想います。私はこの子に出逢って、心惹かれた。今はまだ私の片想いだけど、でもきっといつか両想いになれますよね、店長さん」
「はい。それではそのヴァイオリン、あなたにお渡しします。アンティークショップ【モノクローム・ノクターン】のその商品に込められた想いを汲み取ってくださる方だけにお売りするんです」
そしてその子は彼女に引き取られていった。
あたしが聞くことのできるその子の声はとても嬉しそうだった。
「良かったね。優しい人に出逢えて」
「うわふぅ。ノージュさんすごく嬉そうでしね♪」
あたしの顔の前に飛んできたスノーちゃんにあたしは頷いた。
「嬉しいよ。嬉しい決まっている。だってあの子はずっと誰か、誰か、誰か、って泣いていたんだもん。だからそんな子が誰か、その誰、を新しい持ち主さんの名前にできるんだもん。そんなに嬉しい事はないよ」
あたしがそう言うと、スノーちゃんはそのどんぐり眼を瞬かせた。
「誰か、誰か、って言ってるんでしか?」
「そうだよ」
あたしは頷く。
そしてあたしは瞼を閉じる。
両手を広げる。
「世界はね、音で満ちているの」
―――この感覚はあたしが人間だった時から持っていた。
暗闇の中の世界は音で満ちていて、そして人ならざる者となった時にあたしはこの声が聞こえるようになった。
世界が、自然が、人が、物が心の奥底から発する悲壮な声が。
―――あたしは知っているから。
「その音色の中に混じる、声。誰か、誰か、って皆人を求めている。置いていかれて、寂しくって。辛くって、哀しくって………。だからあたしは迎えに行くの。あなたは、独りじゃないよ、って。ここは宿り木。誰かと別れた子たちが、その翼を休めて、また新しい誰かと出逢えるまでの」
「ノージュさんは…」
「ん?」
「ノージュさんも誰か、誰か、って呼んだ事があるんでしか? わたし、前に聞いた事があるでし。人の感情が分かる人は、その人もその感情を持っているからだって。だからノージュさんも………あるんでしか?」
あたしの上に向けた両の手の平の上に正座して座ったスノーちゃんにあたしは頷いた。
「うん、あるよ」
―――うん、あるよ。あたしも真っ暗な孤独の闇の中で、誰か、誰か、誰か、って泣いた事が。
「でもだからこそ、このアンティークショップ【モノクローム・ノクターン】と出逢ったんだよ、スノーちゃん」
「ほへぇ?」
涙目で小首を傾げた彼女にあたしは笑う。
「では、君にあたしがいかようにしてここと出逢ったか、教えてしんぜよう。美味しい紅茶を飲みながらね♪」
「はいでし♪ あっ、美味しいクッキーも忘れずにでしよ」
手の平の上で小さな妖精はもう泣いた顔にかわいらしい笑顔を浮かべた。
【U】
ノージュ。
そう呼んでくれる声があった。
ノージュ。
そう呼びながらあたしの手を握ってくれる手があった。
家族が居て、友人が居て、そして大好きな人が居て、その人たちの温もりに包まれて。
あたしが目が見えないのは、そうした人の温かさの代償なのかもしれない、そうあたしは想っていた。
だけどあたしは半吸血鬼となって、時から切り離されて、そうしてあたしは、あたしだけは変わらずに居て、周りの人たちは緩やかに歳を取り、そうして死んでいった。
家族も、
友人も、
そして愛しき人も、
歳を取り、
あたしの目の前で緩やかに流れる生という名の時間を終えた。
あたしだけ、置いていかれた。
あたしは歳を取らぬから。
時間から切り取られた空間を生きる者だから。
―――あたしは、人では無いから、置いていかれた。
あたしが住んでいたのは地方の小さな田舎町だった。
人だった頃のあたしを知る人たちが皆居なくなったその町に当然のようにあたしの居場所は無くなってしまった。あたしは吸血鬼。半分、といえども。
人の生き血を啜るあたしを恐れる人々の、忌み嫌うその心が、あたしを苛み、そして絶望させる。
血に渇き、進む吸血鬼化。
この町にこれ以上は居てはならない。
あたしはそう想った。
大好きな、だけどもうそれは人ではなくなったあたしを苛む陽光を閉ざす厚いカーテンに日の光りを遮られた暗い部屋で。
家のどこかで硝子窓が割れたのは、町の誰かが石を投げつけたから。
ドクンッ―――
出て行け、化け物め!
ドクンッ―――
殺してやる!
ドクンッ―――
うちの子どもを殺したのはおまえだろう!
ドクンッ―――
その暗き感情があたしを人では無くそうとする。人の暗き感情があたしを吸血鬼にさせる。進んでいく。吸血鬼化が。
「ぅぅぅっ」
喉は渇き、血液中のパチルスは赤血球を求める。
囁くのは吸血鬼のあたし。人が鶏や豚、家畜を喰らうように、吸血鬼が人の生き血を啜るのは真理。それは生きるため。それに罪悪感を抱く必要など無い、と。
でもあたしの手は人の温もりをまだ覚えているから、それはイヤァ。絶対に嫌だ。
「あたしは、あたしは、あたしは――――――ァッ」
あたしは毛布を頭から被ったまま部屋を飛び出した。
家の裏度から飛び出す。
太陽の光りがあたしの全身を焼く。とても辛く、吸血鬼特有の渇きが酷くなる。
久方に表に出れば町の様相は変わっていた。
あたしを見て悲鳴を上げる人は居ない。ただ毛布を頭に被るあたしを見て、眉根を寄せる人は居た。
―――その事実があたしをまた苛む。
それは要するにもうこの故郷である町にあたしを知る人は誰も居ないという事なのだ。
皆、死んでしまった………。
置いていかれてしまったのだ、あたしは。
「ノージュ? ノージュさん? こっち」
唐突に耳朶に飛び込んで来たのは幼い子どもの声。
「あなたは?」
「いいから、こっち」
あたしの手を握るその子の温もりをあたしは知っているような気がした。
その子の家は町の外れにあって、そしてその家の壁にはまだ人であった頃のあたしの絵がかけられていた。
「この絵は?」
「先生の絵」
その子は泣き笑いのような表情を浮かべて、あたしの手をきゅっと握ってくれた。
その手の力と温もりにあたしは消えたくなる。
「名前は?」
「―――だよ」
その名前には聞き覚えがあった。あたしよりも七つ年下だった男の子。あたしが人だった頃、幾度か挨拶した程度の、そんな子。
「好きだったんだって、先生。ノージュさんの事。目が見えないのに、いつも元気で、凛と笑っていて。だから………。先生、死ぬまでノージュさんの事を心配していた。俺、戦争孤児だったんだけど、でも先生に引き取られて、ずっとノージュさんの事を聞かされていたんだ。ずっと会ってみたかった、ノージュさんに」
目頭が熱くなった。
忘れていた、そんな感情は。
世界中の誰からも嫌われていると想っていた。
「ノージュさん、逃げ出そうとしていたんだろう、この町から。だったら俺も連れて行って。俺も先生が死んで、独りだから」
独りだから―――
その言葉が何よりもあたしの心を震わせた。
だからあたしたちは、手と手を取り合って、この町から逃げ出した。
【V】
「小鳥は翼を羽ばたかせて故郷という名の鳥篭から逃げ出したのよ、スノーちゃん」
そう、小鳥は鳥篭から逃げ出した。
故郷という鳥篭から。
羽ばたく翼が奏でる羽音は二重奏だったけど、でも途中でその羽音はあたしの硝子の翼が奏でる音色だけとなる。
目に見えたのは時間だった。
あたしだけを除いて、緩やかに流れて行く時間。
出逢った時はまだ子どもだった男の子が、青年へと成長して、そしてあとはもう坂を下るように歳を取り始めた彼を見て、あたしは怖くなった。
―――また置いていかれるのが。
置いていかれたくなくって、
だからあたしは置いていく、彼を。
目に見える世界は憧れていた世界だった。盲目の時に。
でももうそれは心ときめく美しき光景では無く、モノクロームの寂しき光景。
この手を包んでくれるあの人の温もりがあったればこそ美しく見えた世界。
笑えたあたし。
永遠の時を生きる孤独なあたしは誰よりもそれを心に刻み込まれた。
見えるモノが苦しくって、哀しくって、寂しかったあたしはだから瞼を閉じた。
見たくは無かった。
盲目の鳥篭から移された孤独の鳥篭。
盲目の鳥篭の中では翼は羽ばたくのを待ちわびていた。きっとそのまま盲目の鳥篭に居たのなら、その鳥篭の蓋を開けてくれた彼の温もりに勇気付けられて、あたしは硝子の翼を羽ばたかせていた。憧れ続けていた青空に。
それはとても怖く、勇気のいる行為だったけど、でもあたしは確かにあの人の温もりを感じていたから。
でも孤独の鳥篭はそんなあたしから全てを奪った。
断ち切れた糸をその胸に抱いてあたしができた事はただ己の不幸を嘆き悲しむ事ばかり。
孤独の鳥篭はこの広いモノクロームの世界。
ノクターンが奏でられ続けるここで触れ合う人は、だけど擦れ違う人の影にも等しい頼りなくも儚い陽炎。
触れるのに躊躇って、
重ねあうのが怖くって、
伸ばした指先を、だけど触れる寸前で止める事が哀しくって、
心は疲弊して、意識は摩耗する。
鳥は翼があるから、帰る場所がないから、どこへだって飛んでいけるのではない。
帰る場所があるから、だからどこへまでだって飛んでいける。帰る場所が在れば、その故郷の温もりが疲れた翼を休めてくれるのだから。
だけどあたしにはもう故郷と呼べる場所は無く、そして別れてしまったあの彼も、当の昔に死んでしまっている。それほどの時が流れても、あたしは変わらずに17歳のまま。
硝子の翼であたしは飛び続ける。
この孤独の鳥篭、世界の空を。
哀れな鳥よ、硝子の翼を羽ばたかせてどこへと飛ぶ?
どこにもおまえの止まる枝など無いにもかかわらずに。
聞こえぬか? おまえのその硝子の翼、細かく走った罅に耐えかねて、砕け散らんとしているその悲鳴の音色が。
聞こえている。
聞こえているよ、あたしの心があげる、声。
誰か、誰か、誰か、誰か…………
―――心は何時だってそう叫び続けていた。
あたしは置いていかれるのが嫌で、だから瞼を閉じて、人を拒絶したのに、
でも心は哀しいまでに誰かを必要としていたんだ…………
「寂しいよぉ。寂しいよぉ。寂しいよぉ。誰か、誰か、誰か、あたしを助けてぇ―――」
助けてぇ―――
終り無き夜のノクターンの中であたしは叫び、そして聞こえた、声。
誰か…………来てェ………
それはとても哀しげで、消え入りそうな声だった。
―――そしてそれは自分でもわかったんだ。
それはとても寂しくって、消えてしまいそうなあたしが誰かを呼ぶその声にとても似ているって。
ううん、同じだった、あたしの声と。
だからあたしはそこへと向かった。
そこは日本、という土地だった。
【W】
「日本、ここでしか?」
「そうだよ」
あたしはお茶のお代わりを彼女専用のティーカップ(古いミニチュアのカップ)に煎れて、頷いた。
+++
誰?
あたしを呼ぶのは誰?
声は聞こえていた。
ずっと。
止む事無く、聞こえ続けていた。
あたしを呼ぶのは誰?
あなたは何がそんなにも哀しいの? 辛いの? 苦しいの?
あたしはね、あたしは………、あたしは、あたしはね………
明治、そう呼ばれていた頃の日本で、あたしは探し回り続けた。
ふいに聞こえ出したその声にあたしは戸惑う事も無く。
ただ声が聞こえ続けるから、休む事無く。
だって誰よりもあたしがわかるから、あなたが誰か、そう誰かを呼ぶ声に込めた願いが。
愚かにもあたしは願ってしまう。
もう置いていかれるのが嫌で、人を拒絶しながらも、どうしようもなく人を欲し続けるあたしは、同じ声で泣き続けるあなたなら、それも許しあえるかもしれないと想うから。
―――共に居る事。
そしてあたしは…………
立ち止まってしまったのは、あの置いていかれるのが嫌で、置いてきた彼が、その後どうなったかを想ったから。
「勝手な」
あたしは顔を両手で覆って、その場に泣き崩れた。
独りが嫌で、人を求めて、
そしてその人に置いていかれるのが嫌で、置き去りにして、
そうしてまた独りとなって、それの繰り返し。
あたしはもう、自分がどうしたらいいか、わからなくなってしまった。
道に迷った幼い子どもと一緒だ。
消え去りたい。
このまま消え去りたい、そう願ってしまう。
それでもその声は止む事無く誰かを呼び続けて、あたしはそれを無碍に聞き捨てる事はできなくって。
そうして辿り着いたのが、一軒の家だった。
【X】
あたしが辿り着いたそこには誰も住んでは居なかった。
ただ誰かのまだ温もりが消え去らない場所、そういう場所だった。
東京の一角。
日々変わり続けていくその場所に辿り着いたあたしは、埃が積もったそこに足を踏み入れた。
「お店だったの?」
何のお店だったのかまでは分からない。でもそこには故郷の町にあったようなお店の雰囲気がした。
心の残り香、それがあった。
古い机。
あたしはその机の上に落ちていた陶器を置いた。
カツン、とそれが奏でた音色はそれがあるべき場所に辿り着いた、その音色のように聞こえた。
でもあたしを呼んだのはこの子ではない。
あたしを呼んだのは、誰?
「誰だったんでしか?」
小首を傾げながら訊くスノーちゃんにあたしは微笑んだ。
「それはね―――」
――――誰か、ずっとそう叫び続けていた声は止んでいた。
だけどすぐにあたしの耳には他の誰かの声が聞こえ始めた。
そう、他の、だ。
「どういう事?」
よくわからない。
それでもあたしはその声に呼ばれるままに長屋、と呼ばれる場所に行き、そこに置いていかれたままとなっていた着物と出逢った。
「あなたがあたしを呼んでいたのだね」
本当にどうしてその時にそうしようと想ったのかは今でも分からない。
ただあたしはそれをそのままにするのもしのびなくって、着物を持ち帰って、あの家の棚の上にたたんで、置いた。
あたしとこの家と、そして着物と陶器。
「なんだか………」
―――家族になったようだ、あたしはそう思い、そして本当にどれだけぶりか自分でもわからぬほどに久しぶりに笑みを浮かべた。自然に笑みが零れ出た。
笑みが零れ出て、そしてあたしは泣いた。泣き続けて、そうして泣き止んで、また笑う。何故だかあたしは旅を止めて、ここに居着く事にしよう、そう想った。
そう想ったその時には実は、誰か、そう呼ぶ声に呼ばれて持ってきた品々で部屋は溢れかえっていた。
暮らすには不便なこの家をあたしは掃除した。
相変わらず目は見えなかったけど、でも吸血鬼の感覚と、それから盲目だった頃の経験でこの家の間取りは把握していたから、掃除はすんなりと済んだ。
この家屋もあたしの家族。
着物も陶器も家族。
久方ぶりの家族。
物なら置いては、いかれない。
心のどこかで安堵を覚える自分にあたしは笑いを覚えた。
「はいはい、ごめんよ」
綺麗に扉を磨き上げて、棚のひとつに花を活けた花瓶を飾って一息つけた頃にいい匂いをさせる物を持って、年配の女性がやって来た。
「こんにちは。今度隣に引っ越してきた者だけど、これからお世話さんになりますよ。はい、引越しそば」
「は、はあ。あの、あたしはノージュ・ミラフィスと言います」
「はい」
瞼越しに彼女が笑うのがわかった。
それから彼女は部屋を見回した。
そして衣擦れの音。
「まあ、この着物。とても綺麗な色合いね。お幾らかしら?」
「へ?」
あまりにも突然の申し出にあたしは慌てふためいてしまう。そんな事は考えてはいなかったから。
それでもその申し出を嬉しいと想ったのは………
「あの、その着物、本当に美しいと、欲しいと想ってくださりますか? 大切に、してくれますか?」
「ええ、それはもちろん。あたしゃ、こう見えても着物には少し五月蝿いんでね。これは確かにそう高い値段を張れる生地じゃないけど、でも染め上げた色合いはとても綺麗なんだ。だから気に入った。大事にするよ」
「じゃあ、お譲りします」
あたしはいくらかのお金を頂いて、そして着物は彼女に貰われていった。聞こえた声は嬉しそうな着物の声だった。
成り行き、という事になるのだろうか?
気の良い隣人はとても品揃えの良い古道具屋があると宣伝してくれて、そしてあたしが悲痛な声を聞いて連れて来た子たちは貰われて行く様になった。もちろん、その物に込められた心がわかる人だけに。
「ここは宿り木のようだねー」
ある時、美味しい豆大福を買ってきた、そう言いながら隣人の彼女がやって来て、一緒にお茶を飲んでいる時に彼女がそう口にした。
確かにそうかもしれない、あたしはそう想った。
あたしに聞こえる悲痛な声。誰か、と呼ぶ声。
それは置いていかれた物たちが奏でる声。
置いていかれて、哀しくって。
物たちだって心がある。
だから哀しい。絶望する、置いていかれたことに。それでも心は求めるから。求めずにはいられないから、人を。独りを知っているからこそ。
あたしもそうだから。
呼ぶ声はあたしを呼んで、あたしはその子たちをここへ連れてくる。持ち主を無くして飛べなくなったその子たち。ここはその悲しみに傷つき、疲れた翼を休める場所。
そうして出逢う場所、新しい持ち主と。出逢えれば、羽ばたける。独りじゃないから。それは悪い事じゃない。求められるその喜びを前の持ち主も喜んでくれる。だってその前の持ち主の想いも全て汲み取って、迎え入れてくれるのだから。
孤独なだけのあたしの永遠の生。
―――その何の意味も無いような永遠という名の時の正しい過ごし方を見つけたような気がした。
そしてそれはきっと正しい過ごし方。
あたしは独りの悲しみを知っているから、知っているからこそ、誰かを求めずにはおれないその気持ちがわかるから、だから少しでも多くの子を助けたいと望むから、そしてあたしは望めば叶えられる時間を持っていて、耳を持っている。
歯車が自分の中で噛みあう、そんな音を聞いたような気がした。
【Z】
スノーちゃんは泣きそうな顔をしていた。
「ノージュさんは、ノージュさんは救われているんでしか? 誰か、誰か、誰か、って言っていた時から…」
「うん」
あたしは頷く。
「とても酷い事をしたのに、なのにあたしを想ってくれていた子が居た。その子があたしを救ってくれたんだよ」
そう、その子が。
あの日一緒に手を繋いで故郷の町を飛び出したあの子。
あの子はもう町には居場所は無いと言っていたけど、でもそれは多分嘘。あたしに付き合ってくれたのだ。
あたしは独りになるのが嫌で、人を拒絶して、それでも人を求めて、あの子を隣に置いた。
とても屈折した感情。
子どもから青年へとあの子が成長して、そしてとうとうあたしはまた老いていく人間を見たくなくって、あの子を置き去りにした。
この永遠という名の時の過ごし方を見つけられたような気がした時、あたしはふいにその子の事が、気になりだした。
それまで見ないフリをしてきたその子の事。
あたしはあの子に何と謝ればいいのだろう?
店を休みにして、あたしは故郷の町へと行った。
でももうそこは無く、あの子の手がかりを見つける事は絶望的に思えた。そして当に死んでいる、それだけの時間も流れていた。
それでもあたしは運が良かった。いや、それは必然であったのだろうか?
店に出入りしていたお客さんに絵に詳しい人が居て、そのお客さんがあたしが描かれた絵を見た、というのだ。
あたしはその人に連れられてその絵がある場所に行った。
驚いた事にそれは同じ東京だったのだ。
馬車から降りると、どこか懐かしい匂いを感じた。
画廊であるそこへ入る。そして声が聞こえたんだ。あたしの名前を呼ぶ。
「おや、これは驚いた。本当に先生の祖父が描かれた女性にそっくりだ」
手で触れる。声が、止む。そして代わりにあの日に一緒に手を繋いで町から逃げ出した時のあの子の手の感触と温もりが、息遣いが蘇って、あたしは涙を流し、泣いた。
その人によると、あの子は絵の修復師として成功して、この画廊のオーナーも彼に師事したという。
そしてこの絵はあの子の死の間際にオーナーが受け取ったのだとか。あの子はずっとひとり身であたしを想っていてくれたという。あの子を育てた彼のように。
絵はオーナーの好意であたしに譲り渡された。
家まで送ってくれるという申し出を断わって、あたしは歩きながら帰った。
分厚い雪雲が覆った空。案の定、雪が降り出して、あたしの体を静かに打つ。
じっとりと染みていく雪の冷たさに確かに身体はかじかんだのだけど、でも両腕に抱いた絵から伝わってくれる温もりが温かいから、あたしは平気だった。
そして雪が白く染め上げた道を足跡を残して歩いたあたしは、家の前に辿り着いた。
思えばもしもこの家があたしを呼んでくれなかったら、あたしはあたしの時間の過ごし方にも、そしてこの絵にも辿り着けなかった。
「ありがとう」
あたしは硝子の翼を持つ。
その硝子の翼は走った微細な罅に悲鳴をあげて、あたしは堕ちそうになったのだけれども、そのあたしに翼を休める場所をくれたこの宿り木、家。あたしの帰る場所。居場所。
独りの寂しさをきっとこの家も知っていた。
そしてあたしの誰か、と叫ぶ声を聞いた時、この家もきっと誰か、そう叫び、あたしを呼んだのだ。
独りの寂しさを知る者は、だからこそ誰かを求めずにはおれないから。
「あたしとあなたはお互いを必要としあったのだね」
あたしは静かに家に触れる。
でもきっとそれは誰でも良かった訳では無い。
心が呼び合うからこそ起きた奇跡。必然の出会い。
まず最初にあたしとこの家が出逢って、そしてたくさんの誰か、と、同じようにそう叫ぶ子たちがまた新たな持ち主と出会う場所となった。それもまた必然の事なのだろう。
そしてそのための一つとしてあたしがこの永遠という名の時間にあるのならばそれもまた良いのかもしれない、そう思えるようになった。思えるようになったのはこの居場所のおかげ。
「そしてあなたたちのおかげだよ」
そうだ。あたしは見てきた。このお店で、物に宿る心は永遠なのだと。前の持ち主はいなくなってしまったのだけど、物にはその心が宿っている。残っている。そしてその心はそれを宿す物と共にまた次へと受け継がれていく………。
心とは、永遠なのだ。
そう、あたしが気付けなかった事。
それは心は永遠だという事。
確かに触れ合う人たちは擦れ違う人たちの影のような陽炎にも等しき存在なれど、でもその心はあたしというモノの中に永遠に残るから。
あたしはその温もりを力に変えて、この永遠という世界を、鳥篭を羽ばたいていけるから。
だからあたしは独りの絶望に嘆き苦しみ、閉じた瞼を、開いたんだ―――
「モノクローム・ノクターン。あなたとあたしのお店の名前は、アンティークショップ【モノクローム・ノクターン】、それでどうかしら?」
モノクローム・ノクターン、その名前に喜んでくれている、そう感じた。
そして温かな心を胸にして、見た世界は、とても哀しいぐらいまでに美しかった。
【ラスト】
「これがその絵なんだよ、スノーちゃん」
あたしに生きる力をくれた絵。あたしは永遠に独りではない、と教えてくれた絵。そして心とは永遠だと教えてくれた絵。
「本当にとても綺麗な絵でしね」
「うん。スノーちゃん、紅茶、もう一杯いかが?」
「はい、くださいでし♪」
「うん」
あたしは頷いて、紅茶をティーカップに注いで、それから美味しそうに紅茶を飲むスノーちゃんを眺めてから、アンティークショップ【モノクローム・ノクターン】を見回す。
あたしの居場所。
前の持ち主の想いをその身に抱いて、また新たな持ち主さんと出逢えるその時を夢見る子たちとの居場所。宿り木。
あたしの永遠という名の時間の過ごし方、それは誰か、と叫ぶその子たちを救い出し、その誰か、を新しい持ち主さんの名前にする事。
そのために過ごす永遠という名の時間。見届けるために、たくさんの誰かを求める子たちの次の幸せを。
その想いを胸に、あたしは今日も力一杯生きて、います。
自然に笑みが零れ出た。
それにつられるように笑うスノーちゃんにあたしは提案する。
「クッキーもいかがかしら、スノーちゃん?」
「はい、食べるでし」
「はい。どうぞ♪」
― fin ―
++ライターより++
こんにちは、ノージュ・ミラフィスさま。
いつもありがとうございます。
このたび担当させていただいたライターの草摩一護です。
今回はご依頼ありがとうございました。
ノージュさんをまた書けて、とても嬉しかったです。^^
今回はノージュさんとアンティークショップ【モノクローム・ノクターン】との出逢いという事で、それがもたらした奇跡、心の救い、そういうノージュさんの心の成長を任せていただけてすごく嬉しかったです。^^
ノージュさんの設定の中にある物の悲痛な響きを聞けるという能力や、そうして救われてきた物たちが並ぶモノクローム・ノクターンという場所はとても素適で、大好きなので、だからそれを目一杯に書けて、とても嬉しかったのです。^^
本当にこのような大役を任せていただけてありがとうございました。
とてもとても嬉しかったです。^^
本当にもうこれで、このお話がPLさまにお気に召していただけたら、それは本当に幸せです。^^
ご依頼、ありがとうございました。
それでは今回はこの辺で失礼させていただきますね。
ご依頼、本当にありがとうございました。
失礼します。
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