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<東京怪談ノベル(シングル)>


     


 その場処に、特に何があるというのでもなかった。
 史蹟や神社仏閣の話も聞かなかったし、人里からも少々離れ、一応は舗装された道が近くを通ってはいたが、それだけだった。有名な山も湖もない。川にさえ、道路を離れて林に分け入らなければ出逢えない。水源は近いとは思うが、湿地帯が広がるばかりで、水流をなすには至らなかったのだろう。
 槻島綾は地図をざっと眺めただけで、車を停めて林の道に入った。誰が利用するのか知れぬこういった小道は、どの場処にもあるものだ。もし私有地などの表示に行き当たったらすぐに戻ればいい。取材先からの帰り道、車窓に見た鮮やかな緑と匂いに惹かれて、綾は休憩を兼ねて林を歩いてみることにした。
 今回の取材にも、特に題材などは指定されなかった。綾の思うままに、筆の進むままに、文章を綴ってくれれば良いのだと、そう言われている。担当者、編集部、そして読者、皆々本当に恵まれていると思う。
 だから綾は、景色を書く。
 この目で見たありのままの風景を伝え、想いを添えて。その場処にあふれていた色彩、渡る風、匂い、温度、音――文章ですべてを表現するのは到底無理な素材ではある。けれどそこから何を描写するのか、択び取るのが綾の仕事だ。景色のなかに、ふと目を奪われるものが必ずある。そうして、それに出逢った刹那に、頭のなかに次々と文章が浮かんでくるのだ。そのために常に筆記具は携帯している。けれど何度書いても、何度読み返しても、それに出逢う瞬間の感動には、敵わないと、思う。
 たとえば、この時も。
 林を抜けると、草原が広がっていた。風がいっそう強く巡って、膝丈ほどの緑を払ってゆく。一面、その原だった。遠く、低い山々より、澄天に薄く刷かれた雲の影が近い。
 山の彩りは既に紅も加えていたが、草と空のあおさはまだ秋に馴染みきれてはいないようだ。風の伝える熱も心地好く、季の移りの間。見渡しても、対面の林に区切られるまで地を覆いつくす千草の緑と、さらにひろく世界を包む蒼空、そればかり。
 そのなかに、さっと薄紅が翻る。
 ともすれば見逃してしまいそうなほど、小さな彩だった。視界を過ぎったその色を追い、眼を凝らして初めて、草々の間にちらちらと見え隠れするのに気づく。そちらへ足を進めようとして、ふと立ち止まった。
 空と大地のあいだ、ぽつり、ひとり在る小さな花。その身は絶えず揺々と、しかし周囲の緑草に埋もれることなく、凜として薄紅五瓣を天へ向けている。
 思わず綾は、深く呼気を落とした。そしてすべての感覚で、その花を捉えようとする。焼きつけようと、する。忘れぬよう、己がうちに留め置いて、やがて文字を成して、他者へも伝うること叶うように。
 花は、ほんとうに小さな一輪だった。よくよく見てみれば、何も珍しい種のものではない。道端にもその姿を見る名もなき花。しかし果てのないこの風景に、決して呑まれぬ力づよさが、今も綾を引き留めている。この渺々たる曠野において、その花はたしかな孤高を持していた。
 このために、旅をしているのだと思う。今回の旅も、この名もない花のためにあったのだと、すんなりと納得できてしまうほどの感慨。
 昂揚する気分を抑えて、綾は花を、花を取り巻く景色を改めて眺める。今や花は景の中心だ。この感動をどのような言葉に表すべきか、何をまず伝えれば良いだろう。様々思うとともに、早くこの感覚を誰かと共有したいと欲する。ひとりより、誰かとともに見る風景は何倍も美しいものだ。せめて、今この時の綾の心に深く響くそれを、此度の旅路の最上の土産としようかと、綾は屈んで花へ手を伸ばした。
 寸前、掌を握りこみ、止める。
 花を手折るということは、この景すべてを消し去ることと同じだ。無粋も甚だしい。綾は己の非礼を花へ、景色へ詫び、かわりに薄紅をそっとひと撫ぜして、立ち上がる。花は変わらずただそこに。
 天空と大地の中心をふたたび一瞥し、振り返らずその場を後にした。
 爽籟だけを連れて。

 その風を掴むように伸ばした指は――軽やかにキーを叩いた。
 灯りの抑えられた部屋のなか、耿々と明るいディスプレイに文字が連なってゆく。
 風が、いかに優しかったか。花を揺らす厳しさより、戯れの感の強い草原の風の、ほのかな熱と香り。
 画面を埋める文字は、数行を一気に入力されることもあれば、一文字も増えずに数分が過ぎ去ることもある。綾はときおり目を瞑り、今ここにはない景色を思い起こしながら、必死にその感覚を記憶から掬い上げ、また掴もうとした。
 景色を書くということ、それは、名前をつけることと同義ではないだろうか。
 あの空に、草に、風に、名など存在しない。ただ在るだけのものたち。綾のようにそのひとつひとつを余すところなく覚えようとする者は稀有だろう。大抵の人間には、意識されることなく過ぎ去ってゆく諸々である。
 花も、もしかしたら綾以外のひとの目には触れぬのかもしれない。曠野の孤高にはそれこそが相応しいようにも思うが、綾はその花に対して懐いた想いを、言の葉にして、多くのひとへ、伝えたいのだ。
 旅に出る。道を往き、空を眺め、風を追い、花を見る。
 ただそれだけのこと。
 ただそれだけの行為のうちに、感動と落胆と驚きと、さまざまに思い巡らして、必ず何かを得る。
 ただ在るだけのものたちが“在る”ということを、自分の文章を通して知って欲しい。あの瞬間の感動を共有して欲しい。そして景色の中心が、違わずその花であると頷いてくれたら、嬉しい。
 花を示すことは容易だ。“そこに花が咲いている”と記せば、誰しも何らかの花の存在を思い浮かべるだろう。それは勿論、大きさも色も香りも、各人によって違う。その時点では、花はまだ、各人のなかだけにある花なのだ。
 そこに、名をつける。
 綾の言葉で、綾の表現で景色を形づくってゆく。その場にある存在を、丁寧に、零さぬように、表してゆく。そうして綾だけのものだった景色は、文章を読んだ人々のなかに同じく、広がる。
 綾はディスプレイの文字をざっと見直す。指は先ほどから止まったままだった。文は、ちょうど空と草原の様子を書き終えたところだ。次は肝心の、その風景の中心の描写だった。
 ゆっくりと、瞳を閉じる。緑のなかに薄紅が泳ぎ、まるで風を生み出しているのは自分だとばかり、まっすぐ、揺るぎない姿、追い求める。 
 ふたたびキーボード上を走り出した指は、名もなき花の名を紡いだ。
 ――“     ”と。


 <了>