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過ぎる夏の夜との邂逅
うだるような夏の暑さは九月にはいってからも続き、いっそ腹立たしくさえ感じられる。
共に連れだってどこぞへ旅行に行く程に仲の良い友人が居るわけでもなく、特定の女が居るわけでもない。
夏の長い休みは、日常とさほどに変わり映えのない毎日だった。退屈なばかりの時間に夏の暑さが加わって、意味もなく苛立ってみたりもしていた。
玄は退屈を満面に滲ませて、隠す事もせずに大きな欠伸を一つ吐く。それと同時に授業の始まりを告げるチャイムが鳴り響き、教室内はにわかに静けさを取り戻していった。
窓の外から流れこんでくる風が、玄の汗を拭い去っていく。
――――ざわり
冷たいものが首筋を撫でたような感触を覚え、玄は眉根をしかめてみせる。
……なんかわからねェが、こっちに寄ってきていやがる。そう思い浮かべた、その時。開け放たれたままの扉から、教師がにゅうと顔を覗かせた。
「――――先生、休み中、どちらかへご旅行されていたんですか?」
教壇に着いた教師にそう訊ねたのは、穏やかな微笑みを浮かべた少年――城ヶ崎由代。
玄は由代の言葉を、頬づえの姿勢で聞きとめる。その眼は、由代ではなく、教師の手元へと向けられている。
「おお、さすがだな、城ヶ崎。実は初めて海外旅行なんてしてきたんだが、いや、実に有意義な旅行だった!」
教師は由代の言葉に何度もうなずいて、手にしている白い布を顔の前へと持ち上げた。
教室内がざわめきはじめる。
どこへ行って来たのかと問う生徒の声に、教師は嬉しそうに目を細ませた。
白い布が退けられ、その下からあらわれた小さな像を教室中に見せびらかすと、教師は満面に笑みをたたえて胸を反らせる。
「ペル」「ペルシア、ですか?」
教師が答えようとした矢先、由代の声がその言葉をさえぎる。
教師は少しばかり驚いてみせつつも、さすが城ヶ崎は博学だななどと感心してみせている。
玄はその遣り取りなどには気を向けず、ただ真っ直ぐにその像へと目を遣っていた。
それは手の平に軽く収まるほどの大きさの石像だった。
長い年月を風雨の中で過ごしてきたのか、その表面は削られて丸みさえ帯びている。あまつさえ所々が欠けてもいる。
窓の外から流れこんでくる風が、玄の首筋を撫でていく。
――――オ、オォ――オオオ、オオォ――――
風の声だろうか。耳元を、なにかがささやき過ぎていく。
それは、獅子のように見えなくもない顔をしていた。胴には二対の翼をもち、その額部分からは角がふたつ伸びている。
長い歳月と風雨は、その刻まれた形までをも溶かしてきたのだろうか。顔に刻まれたその表情は、どろりとしていて、気味の悪い様相を滲ませていた。
それは、小さなガーゴイル像のようにも思えなくもない。ガーゴイルは魔除けのためのものだと云う。
ああ、ガーゴイルならば、欧州のどこぞで土産物として並んでいてもおかしくはない。浮かれた日本人がそれの意味もろくに知らず、調子づいて買い求めてきたとしても、なんら不思議ではないだろう。
――――だったら、なぜ。
思い、石像を睨み据える。
教師は得意げに旅行の土産話を生徒達に聞かせ、教室内には楽しげな笑い声などがさわさわと揺れている。
教師は石像を手に持ったまま、教壇の上をゆっくりと歩き回っている。そしてそれは玄の席の側へも及び、教師は”どうだ、羨ましいだろう”とでも云いたげに、その像を玄の前へと突き出した。
石像の、溶けたその顔が玄の眼を真っ直ぐに見とめる。
夏の終わりを知らせる蝉の声がけたたましいほどに響き渡っている。
玄は、その像の眼を凝視した。
刹那。夏のうだるような熱風が――否、燃え滾る焔が巻き起こした熱風のような圧力が、玄の全身を貫いた。
オ、オ、オオ、オオオ
耳の奥でなにかが猛り狂った嘲笑を響かせている。
「――ん? どうした、早津田。おまえ、顔色が」
玄の異変に気がついたのか、教師が玄の傍へと歩み寄った。が、それより早く、椅子を鳴らし立ち上がった者がいた。
「先生、僕が早津田くんを保健室に連れて行きます」
それは由代の声だった。
由代はそう述べてかつかつと玄の傍へと歩み寄ると、その腕を抱え持つようにして立ちあがらせた、
「……多分、暑気にあたりでもしたんでしょう」
心配そうに玄を見ている教師に、由代は穏やかな微笑みをみせる。
その穏やかな眼差しは、教師の手の中の像へも向けられたが――。由代のその表情は、あくまでも穏やかな微笑みを浮かべたままだった。
ざわめきだした教室を後にして、ようやくどうにか自力で立てるようになった玄は、小さな舌打ちさえしてみせて由代を睨みつけた。
「――――もういい。俺から離れろ、城ヶ崎 。ヤロウが引っ付いてるなんざ、暑苦しくてかなわねえ」
吐き捨てるようにそう告げて、ふらつく頭を抱え、数歩。
由代は「ふむ」と小さく唸り、玄の半歩後ろをついていく。
「……早津田くん、どうしたの。まさか本当に暑気あたりなわけではないだろう?」
訊ね、玄の顔を覗きこもうとするが、玄はやはりそれを睨みつけてかぶりを振った。
「うるせぇ、近寄るな。てめえみてえなのが授業中にフラついてていいのかよ。とっとと教室に戻んなよ」
きつく睨みつけながら、玄は不意に口元に片手をそえる。
「いや、僕だからこそ、こうしてフラついてても問題ないのさ。日頃の積み重ねがあるからね」
「……っち」
由代の微笑みに大きな舌打ちをひとつ返す。
「俺ぁ、てめえみてえなのは」
いけ好かねえんだ。そう続けようとした矢先、腹の底から弁当の中身が逆流してくるのを覚えた。
気がつけば玄は慌てふためいて走り出し、手近のトイレのドアを押し開けたのだった。
結局は早退というかたちで、早目に家路へとついた玄は、自室の窓から外の景色を眺めていた。
日暮れていく西の空に、薄く広がる筋状の雲がある。
カナカナと鳴く蝉の声が聞こえ、吹く風がほんのりと夏の終わりを思わせる。
――日中はあれほどに暑さを誇示しているというのに、夕方ともなればこれほどまでにその表情を変容させるのだ。
読みかけていた漫画雑誌を閉じて床に放り投げると、玄はその視線を、窓から見える窯――玄の父が表向きの顔を維持するために使っている――の向こうに見える歩道へと投げ遣った。
大通りから大分入りこんだ小さな路地で、小学生が数人寄り集まって遊んでいる。虫捕りでもしているのだろうか。アミを片手に、あちらの庭こちらの庭で元気な声をはりあげている。
その子供達の間を縫うようにくぐり抜け、玄の家へと向かってきている人影がひとつ。
玄はその横顔を確かめて、思わず驚きに目を見張った。
「……城ヶ崎!?」
腰掛けていた窓枠から転げ落ち、意味もなく頭をかきむしる。
「あのヤロウ、何しに来やがった?」
カナカナと鳴くひぐらしの声が響き渡る。
由代は早津田の名が刻まれた表札を確かめると、手にしてきたバッグの中からプリントを数枚取り出して、それを片手にチャイムを鳴らした。
わずかに間を置き、玄関から顔を覗かせた玄の母親に、手馴れた所作で頭をさげる。
「はじめまして。玄くんのクラスメイトの城ヶ崎と申します。――玄くんの分のプリントを届けようと思って、お邪魔させていただきました」
やわらかな笑みを乗せてそう告げると、玄の母はその表情を晴れやかなものへと変容させた。
ややの間を置き。
玄は自室の戸が叩かれたのに気がつくと、気鬱そうに眉根を寄せて溜め息を洩らした。
先に母親が自分を呼んでいる声がしていたが、玄はわざとそれを無視していたのだ。
――――城ヶ崎が自分を訪ねて来ていた事には、既に気がついていたから。これを無視して押し通し、面会する事なく追い返そうと考えたのだ。
だがしかし。部屋の戸を叩いた主は、その穏やかな声音で静かに告げた。
「早津田くん、気分はどうだい? ――早津田くんのお袋さんが、お茶と菓子を持っていけっていうから、あがらせてもらったよ」
穏やかな――しかし、どこか笑い声を押し殺しているようにも聞こえる声に、玄は立ちあがって戸を開けた。
「城ヶ崎、てめえ、誰に断わって家に入ってきやがった!」
「やあ、元気そうだね」
眉根を寄せて城ヶ崎を睨みつける玄に対し、由代は人懐こい笑顔で応じる。
「良かった。キミが早退した後も、少しばかり大変だったんだよ」
そう云うと、由代はむしろ通い慣れた部屋へ立ち入る時のように自然に足を進めた。
運んできた盆は、目に入った玄の机の上に。――机の上には教科書やノートといった勉強跡は少しものこされていない。由代は笑顔でそれを確かめると、肩越しに振り向き、自分を睨みつけている玄の視線を見捉えた。
「キミが帰った後、五人ほど体調を悪くしてね。皆キミと同じような症状だったから、食中毒なんかの疑いも浮上したりしてね。まあ結局それはなかったわけだけど」
穏やかな笑顔はそのままで、由代は静かにそう告げた。
玄は、不愉快を露わにしたその表情は崩さずに、椅子を引き寄せて腰を据える。
「……五人?」
訊ね返す玄に、由代もまた床の上に腰をおろし、うなずく。
「結局は、暑気あたりだろうと結論付けられたんだけれど……実際のところ、キミ、急に気分を悪くしたよね」
なにかあったのかい。そう続ける由代の眼差しは、穏やかでありながら、しかしどこか深い闇を思わせる。
玄は由代のその闇を見据えながら、小さな舌打ちをひとつつく。
「――――知らねえ。……そうだな、あのヤロウが持ってきたあの外国土産。あれを見た途端、気分が悪くなったんだ」
「ヘェ、あの石像を見た途端、かい」
「ああ。なんだか薄気味悪ぃじゃねえか、ああいうモンは。俺ぁああいうモンは好かねえんだ」
「……ふぅん」
玄の言葉に、由代は少しばかり唸り声をあげて、ふと思案顔を浮かべた。
その表情を見遣り、今度は玄が口を開く。
「てめえ、俺が気分悪くなった原因を知ってやがるのか?」
問うと、由代は伏せていた視線を持ち上げてゆるりと頬を緩めた。
「僕が? ――まさか」
返し、薄く笑う。
その微笑みに、玄は大きな溜め息を洩らしてみせた。
「そうか。それじゃあ、てめえにはもう用はねえ。用事が済んだらとっとと帰りやがれ」
「……早津田くん」
「あぁ?」
「キミに用事があったのは僕のほうだよ」
「――――アァ?」
玄は眉間にしわを寄せて由代を睨みつけるが、由代はそれをどこ吹く風かとばかりさらりとかわす。
「ともかく、キミが元気そうで良かった。明日からはまた登校出来るんだろう?」
「さあな。また気分悪くなるかもしれねえし。っていうか、てめえのツラ見てると気分悪くなりそうだ」
「それはそうと、早津田くん。お茶もらってもいいかな。さすがに喉かわいちゃって」
「――――てめえ、人の話を聞けよ!」
その後、由代はのらりくらりと微笑みながら玄の部屋に居座って、終いには夕飯にまで顔を出していった。
玄の父親は帰りが遅くなるという事だったが、母親は”息子の友人”の訪問に気をよくしたらしい。珍しく寿司の出前など取ったりした。
そうして、由代が玄の家を後にしたのは、すっかり日が暮れた後の事だった。
――――自室の窓に腰をおろし、玄は夜の帳に目を向ける。
あの石像が原因で気分を悪くしたのは確かな事だ。あの石像には、何か知れないものが巣食っている。
そして何より引っ掛かるのは、それをわざわざ確認するかのようにやってきた、城ヶ崎由代という男。
「……あいつは、なんか知ってやがるのかもしれねえ」
呟き、乱雑に頭を掻きむしる。
頭を掠めたのは、玄の父親が保管している回覧やら情報網やらの存在だった。
それはおそらく、遠からず自分のものとなるかもしれないネットワークだ。
それらを浮かべて舌打ちを吐くと、玄は窓枠からおりて、ずかずかと廊下へと歩みを寄せる。
「はっきりとさせねえ事には、どうも落ち着かねえからな。――――ああ、クソッ」
自分に言い聞かせるようにそう毒づいて、玄は盛大な溜め息をひとつ吐いた。
―― 了 ――
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