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<東京怪談ノベル(シングル)>


夜空に響く旋律

 二学期の始まりと同時に日の落ちる時間が早くなった。神聖都学園の音楽教師を勤める響カスミは、アスファルトの上に長く伸びる自分の影を追いかけるように帰り道を急いでいた。夜が恐いわけではない、恐いわけではないのだけれど。
「あら?」
不意に、どこからか聞こえてきた繊細な曲に小走りになっていたカスミの足が止まった。駅へ向かっていたはずの爪先がくるりと方向転換をし、音の正体を辿りはじめる。まるで五線譜の上に載った音符を踏みしめるように、ゆっくりと。
 聞いたことのない歌声と音色は、学園の近くにある公園から流れてきていた。ここはベンチとブランコくらいしかない寂れた場所で、生徒の間ではなにやらおどろおどろしい噂も囁かれている。美しすぎるものはときに魔性という名で呼ばれるから、カスミはその正体を見極めることが、正直ためらわれた。それでも、音に惹かれ抗えずここまで来てしまった。
「誰か・・・いるの?」
勇気を振り絞って、声を上げた。すると一瞬音が甲高く跳ね上がり、曲が途切れた。ブランコから誰かが立ち上がるのがカスミの目の端に映った。
「ごめんなさい」
なぜ彼女が歌声と同じ声で謝るのか、カスミにはわからなかった。しかし彼女自身は己の曲が耳障りに思われたのだろうと、楽器を抱いて項垂れていた。よく見るとその楽器は、弓のような形をした特殊なハープであった。
 ハープを抱いた少女はアンネリーゼ・ネーフェと名乗った。

「素敵な曲だったわ。誰の作品なの?」
「いえ、誰のでもありません。レト・ミューズが奏でさせるのです」
「この楽器・・・あ、レト・ミューズが?」
「はい」
「・・・ねえ、あなた、コンサートに出てみるつもりはない?」
「え?」
「来週、神聖都学園でチャリティーコンサートが開かれるのよ。あなたも参加してくれたら、嬉しいんだけど」
「チャリティーって、なんのですか?」
「今年は異常気象が多かったじゃない。特に台風、被害を受けた地域は沢山あるわ。家を失った被災者もいるし、彼らのためにコンサートで義捐金を集めようってことになったのよ」
「被災者の、ために」
「ええ。まったくどうしたものかしらね。こんな天気ばかり続くなんて、自然がおかしくなってるんじゃないのかしら」
「そうでしょうか」
「え?」
「悪いのは、自然だけでしょうか」

 アンネリーゼの唇はかすかに震えていた。さっきの曲と同じ、一歩でも足を踏み外せば奈落へ転落しそうな、ぎりぎりのところで踏みとどまっている健気な瞳だった。レト・ミューズを握る手には、力がこもっていた。
「台風が発生するのは人間にも原因があると、私は思います」
海面温度の上昇で、森林伐採による温暖化で、世界の温度計が歪められたせいで暴走する台風は生まれた。これが果たして、自然だけの問題だろうか。
 アンネリーゼがこの公園を選んで曲を奏でていたのは偶然ではない。この公園には緑が極端に少なかった。地面は歩きやすいようにレンガで覆われ、申し訳程度に木が数本囲われる形で植えられている。だからアンネリーゼは毎晩レト・ミューズの歌を聞かせ緑を慰めていたのだ。
「ええ・・・そうかもしれない」
いつの間にか人間の代表となっていたカスミは、アンネリーゼの言葉を否定しなかった。
「人間が自然を荒らさなければ、今のように痛い目を見ることもなかったのかもしれないわ。でも、この痛みはいつか味合わなければならなかったのよ」
人間は愚かな生き物だから、痛むことでしか学び反省することができない。反省しなくては先へ進んでいくことができない。これまで築き上げた人間の文明とは、痛みの代償みたいなものなのだ。
「いつかすべて、自然の痛みを私たちは引き受けるの」
だから今回のチャリティーで集めた義捐金の一部は自然再生のための資金に使われるのだと、カスミはアンネリーゼに教えた。それを聞いたアンネリーゼの表情はまるで雪解けのように温かくなり、白く強張っていた指先も緩んだ。
「それなら・・・それなら、私も力になれるかもしれません」

「今、うちの生徒たちの演奏が終わったわ。あなたの出番は二十分後よ」
「はい」
「楽器のほう、本当に運ばなくて大丈夫?重くない?」
「大丈夫です。レト・ミューズは私のために作られたものですから」
「オーダーメイドってこと?そういえば宝石なんてついて、高そうね」
「いいえ・・・。ハルフェ・リート、一心同体という意味です。私の歌はこの音色と共にあり、この音色は私が歌わなければ鳴りません」
「哲学的なことを言うわね。あなた、出身はドイツかしら?」
「え?」
「知り合いのドイツ人がね、同じようなことを言うのよ。自分は大切なものを背負ってるっていう、そんな雰囲気が似てるわ」
「背負ってるなんて、そんな・・・」
「恥かしがることないわよ。あなたはあなたの信じる道を行く、なにが悪いの」
「・・・・・・」
「さ、そろそろ舞台に上がる時間ね。演奏する曲の名前は?」
「・・・『夜空に響く旋律』、です」

 コンサートが始まった直後から、ホールの中は熱気に包まれていた。先陣を切ったのが海外でも活躍する有名なバンドの歌であり、続いて学園の卒業生というトランペッターのソロ。途中に和太鼓の演奏も挟まれ、もちろん正統派で学園の生徒たちがオーケストラも奏でた。
 舞台の袖に並べられた楽器は、皆一流品ばかりである。アンネリーゼは何百年も前に名もなき名工によって作られたバイオリンに触れて、当時の音を耳の奥に蘇らせる。木製の楽器には、その木肌の隙間に音が詰まっているのだ。
「いつかあなたのような音を奏でられる、楽器を作るための木が蘇るわ」
誰に表明するでもなく、アンネリーゼは誓った。そして、こんなにも弱い自分を認めてくれたカスミに感謝した。
「いつだってなにかに約束していなければ、挫けてしまいそうになるのに」
自然を蘇らせようとする決意はいつだって胸の中にあるのだけれど、人間たちの犯した惨状を目の当たりにするたび、途方もない大きなものに立ち向かっている恐ろしさに立ちすくんでしまう。
 それなのに、皮肉なことだ。
「人間に見放されても、いつも私は人間に救われる」
カスミの言葉によって、心が再び前を向くようになったことは事実だった。
「今日の曲はきっと、あなたのために鳴るでしょう」
次の演奏を待ちわびてざわついている客席を一瞥し、アンネリーゼはゆっくりと舞台の中央へ進み出た。高浪が押し寄せるように、拍手の音がホール内を浸食していく。
 用意された一脚の椅子に腰掛け、アンネリーゼはまず調律するようにレト・ミューズを撫でる。二十二本の弦が、美しく共鳴しながら鳴り響いた。その音が自然に消えるのを待ってから、アンネリーゼはあらためて弦に指をのせた。
 チャリティーコンサートの最後を飾ったアンネリーゼの演奏は、それまで騒ぎはしゃいでいた観客たちに言葉を失わせた。マイクもなにもつけていないレト・ミューズの音色とアンネリーゼの歌声とは糸のように細く、咳一つ立てることは許されなかった。
 皆体を硬直させて、アンネリーゼの歌に聞き入っていた。

「どうでした?今日の曲」
「すごくよかったわよ。なんていうか・・・ああいう曲があるんだなって」
「ああいう曲って、どういう曲ですか?」
「桃源郷、っていうのかしら。あるはずのない世界がそこに見えた気がするわ」
「ホールの中の皆さんにも、見えたでしょうか」
「どうかしらね。仮に見えたとしてもその見えたものがなんなのか、私でさえうまく言葉にならないんだから」
「夢か幻、それで片付けてしまう人もいるんでしょうね」
「ええ。だけど、心地よい夢だわ」
「・・・カスミさん」
「なに?」
「私がその夢を本気で願っているとしたら、笑いますか?」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「あんなに素敵なのに、笑うわけないじゃない」