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<東京怪談ノベル(シングル)>


戻るまで




 まどろむ。


 目を覚ましたあたしは、首を左右に振った。
 頭の隅っこに夢の残りがこびりついている気がする。
(犬になる夢だなんて、変なの――)
 確かに、それは奇妙な話だった。
 とある日の夕方。
 夢の中でのあたし――というか、犬になったあたし――は道端に大きな骨付き肉を見つけて上機嫌だった。運良く手に入れたそのエモノを誇らしげに口に咥えて、尻尾を振る。犬小屋に帰るまでの足取りも軽かった。
 ところが。
 橋の下の川を見たあたしは、一歩退いた。
 そこには、自分と同じくらいの犬がいたのだ。おまけに、骨付き肉を咥えている。随分大きいのを咥えているな、とあたしは思った。
(いいなぁ……)
 自分もエモノを持っているけれど、あっちのモノも欲しい。
 ついつい、相手を威嚇して肉を手に入れるべく口を開いてしまった。
「わう?!」
 吠えたところで後の祭り。あたしの大切なお肉は川に落ちて行ったのだった。わうう。
 結局、あたしはお腹をグウグウ鳴らしたまま家に帰って、飼い主さんにご飯をねだることになった。
 きゅう、とあたしは溜息をつく。
(飼い犬とは言え、今日も飼い主さんにご飯をもらってしまうなんて)
 犬たるもの、人間に頼らなくても自分のエサくらい、自分で見つけたい。せっかくそれが叶ったというのに、欲ばったために失ってしまった。
(情けない……)
 夜になっても諦めきれず、消防車のサイレンに反応して鳴き声を漏らしながら、あたしは次こそは欲を張るまいと誓ったのだった。
 日常的と言えなくもないけど、視点が犬だなんて――。


 ――喉が渇いたなぁ。
 水分補給をしようと、あたしはゆらりと立ち上がり、床に置いてある水の入った容器に舌を入れてペロペロと飲み始めた。
(舌先って外に出してばかりだから、喉が渇きやすいのかなぁ。この癖も直さなくっちゃ)
 ――って、あれ?
 空になった容器を名残惜しそうに舐めるのをやめて、はたと気付く。
 ――四本足で立ち、長い舌で水を飲む。
 ――お尻を意識すれば、尻尾も動く。
「い、いぬう?!」
 口から出た日本語(人間語と言うべきだろうか)も、舌に邪魔されて上手く発音出来ないではないか!
(ということは)
 あたしは辺りを見渡した。いつもと教室は違うものの、あの専門学校の中なのだろう。
 専門学校というのは、時々あたしがバイトをさせてもらっているところだけど、最近したかなぁ?
「うーん、バイト、バイト、バイト…………あっ」
 突然、記憶の中に白衣を着た男性が思い浮かんだ。
 そうだ!
 あたしは誘拐されたんだった!
 薬品を嗅がされて、意識を取り戻したときは知らない場所にいて――。
(そこで無理矢理犬にされたんだ……)
 そう考えると話が繋がってくる。
 だけど、先が思い出せない。
 何があってここにいるんだろう?
 絡まりあった記憶が解けずにいると、ドアが開いて生徒さんたちが入ってきた。
「こんにちは」
 丁寧にお辞儀が出来ないのが残念だけど、気持ちだけでもと思って軽く頭を下げた。これなら犬でも出来る。
「みなもちゃん、起きたのね」
 そう言って、生徒さんたちは安堵したように笑った。


 説明してもらった事情は、あたしにとってショックなものだった。
 ――ここに連れてこられたのは、あたしの肌と着ぐるみが異常癒着を起こしていたから。
 おまけに投与された薬物であたしは精神まで犬にさせられていたのだから、話も出来ない状態だったらしい。
「そうなんですか……」
 言われてみれば、犬としての記憶もあるような気がする。
 例えば誰かに鳴いて甘えたりとか、自分の尻尾を追いかけたりとか……。これはもう思い出さなくていいんだけど。
 気がかりなのはそこじゃない。
「あたし、元に戻るんですよね?」
「精神の方が心配だったからね。心が人間に戻ればあとは大丈夫よ」
「良かったです……」
 クウウ、と喉を鳴らして喜ぶあたし。
 と、目の前にドッグフード(に見える)の入った皿が置かれた。食べて、ということらしい。
(ど、どうしよう……)
 お腹は空いている。きっと昨日までならためらうことなく口をつけていたのだろう。
 でも人間に戻った今では、躊躇してしまう。恥ずかしいのだ。
(身体は犬なんだから、お箸だってフォークだって持てないし……)
 仕方ないのだと自分に言い聞かせて、食べ始める。
 こんなことなら、身体も戻るまで犬の心でいた方がよかったかも――。


 異常癒着を直すには、剥離剤という液体を使って少しずつ着ぐるみを肌から剥がしていくのだそうだ。
 くすぐったくても動かないようにしなきゃ、と身体に力を入れて――心なしか尻尾にも緊張感が溢れていた気がする――剥離剤を塗ってもらう。
 バイトのときに何度か使われている正触媒の、水飴のような感触に比べてサラリとしている。
 そして冷たい。
 何度もかけられていると、毛の間から皮膚へと染みこんでくる感じがする。
 全身に剥離剤を塗ったところで、首輪をつけられて散歩をする。
 と言っても、こんなずぶ濡れの状態で外には出られないので、校内を歩くだけなんだけど。
(うーん)
 たくさんの人に見られないで助かった、とは思うものの、心の端では落胆している。身体もソワソワして落ち着きがない。外を走りたいのだ。
(これは犬の気持ちかな……)
 十分も歩いた頃、とうとう我慢出来なくなって校内を走り回った。階段があったり、廊下が狭かったりと不満もあるが、その代わり車にはねられる心配はない。
 二十分程動いて疲れてきたところで、お風呂に入る。
「熱を加えることで剥離剤の効果が高まるのよ」
「成る程……」
 首輪を外してもらい、全身にお湯をかけてもらう。汗が流れていく気がして、気持ちがいい。
 背中、頭、お腹をゆっくりと撫でられる。剥離剤を通して肌を刺激される感じだ。
「ん……」
 数人の手で触られるのは少し恥ずかしい。
 目線もどこに合わせていいかわからないし、かと言って泳がせていると生徒さんの一人と目が合ってしまうし――。
 困惑気味に天井を仰いだ。これなら誰の視線も気にしなくていい。
(ああ、でも――)
 つい生徒さんたちの手元を見てしまう。動きが素早くて迷いのない作業だ。
(あたしがやったとしたら、きっと時間がかかるんだろうな)
 そんなことは当たり前だって、わかっているんだけど、時々羨ましくなる。


 異常癒着はすぐに治るものでもないらしく、当分この学校で生活することになった。
 以前お世話になった「みなもちゃんの部屋」でご飯を食べて、剥離剤をつけて、運動をして、お風呂に入って。
 同じことを繰り返し行うのが大事みたいだった。
(やだなぁ……)
 日が経つにつれて、犬食いをすることが恥ずかしくなっていったあたしは、食事の度に皿を前にして俯いた。
 今までのバイトと逆で、むしろ人の感情の方が強くなって来ているらしい。
 良いことなんだろうけど――ああ。
 でも周りからすれば、食事のときのあたしの様子で今の状態が予測出来るのだ。ご飯を食べているときは絶対に部屋に人がいて、あたしの仕草や表情をノートに書きとめていた。
 これでは「見ないでください」とお願いすることも無理だ。
 大体、今回はバイトでもないのに専門学校の人たちが協力してくれているのだから――文句なんて言えない。
「でもやっぱり、恥ずかしい……」
 そう独り言を呟いたあたしの後ろで、甘い笑い声がした。
「わ、笑わないでくださいっ」
 興奮気味にピクピクと動く耳。ああもう、どうしてこんなに素直な身体なんだろう。
「みなもちゃんって可愛い」
「――!」
 結局、この専門学校に来てからあたしが元に戻るまでには、一週間の時間を要することになるのだけど――このときのあたしはそんなことを知るよしもない。
「もう……」
 ただ顔を赤らめて、尻尾を垂らすだけだった。





終。