|
大切な人のために
人通りのあまり多くない閑静な住宅街を疾走する一台の自転車。
必死に自転車を漕ぎ、道を急ぐのは一条くるみ。長い髪が風に靡いて頬を叩くが、今のくるみは、そんなものに気付く余裕などなかった。
いや、それだけではない。
くるみの肌のあちこちには傷口から赤いものが滲み出ており、服も汚れ、破れている箇所もある。
人が見れば一体なにがあったのかと、警察でも呼ばれそうな出で立ちだったが、それすらも、今のくるみにはどうでもよいことだった。
それよりも、大事なことがある。
体面なんかどうでもよくて。身だしなみなんて気にする余裕はカケラもなくて。
ただ、急ぐ。
向かう先は、くるみの何よりも大好きな人、犬神勇愛の家。
あそこに行けば……。
あそこに行けば、きっと……。
失う不安と、置いてきてしまった罪悪感を心の内に抱きつつ、思う。
今までの自分がいかに、無知であったか。
わかっていたつもりでいたのに、本当は、ちっともわかっていなかったのだ。
勇愛の仕事が、どういうものなのか。
「待ってて、勇愛ちゃん……」
ただひたすらに。
くるみは、勇愛の家へと急いだ。
* * *
ことの始まりは数時間前に遡る。この日もくるみは、いつものように勇愛の家に遊びにきていた。
「え? お仕事?」
これからどこに行こうか、今日はどこで遊ぼうかと考えていたのだが、お仕事ならば仕方がない。
「じゃあ、あたしも一緒にいくよ」
にこりと笑うくるみの言葉に、勇愛は諦め半分ながらも首を横に振った。
「危ないから」
「大丈夫だよ〜! あたしの力も、きっと、役に立つから」
くるみは霊力や妖気などを視る力を持っているのだ。今までもこの力を理由に、何度も勇愛の仕事――妖怪退治についていった。
そして今回も。
くるみは見事に勇愛を押しきり、今回の妖怪退治の現場である、町外れの古びたお屋敷にやってきたのだ。
「うわあ、まっくらだね〜」
心霊スポットとして噂を呼んでいるその屋敷は、町外れの森の中に静かに佇んでいた。
あちこち腐りかけていたり、汚れていたりと。まさしく肝試しにぴったり、といった風情を持つお屋敷の窓という窓はすべて閉じられており、中に入ってしまえば外からの光はほとんど入ってこなかった。
「気をつけてね」
「うん。大丈夫だよ〜」
油断、していなかったと言えば嘘になる。
少なくともその時くるみはまだ、妖気をその視界に見つけてはいなかった。
……見つけた時には、遅かったのだ。
気付いたその瞬間にはどこからか粘着質の糸が伸びてきていて。突然の不意打ちに勇愛は、くるみを庇うだけで精一杯で。
「勇愛ちゃんっ!」
現われたのは蜘蛛の姿をした妖怪だった。足を止めた勇愛の身体を、蜘蛛の糸が隠していく。
「逃げて。早く!!」
呼んだ悲鳴に返ってきたのは無情な言葉。
逃げられるわけがない。勇愛ひとりだったら、きっと、くるみを庇うこともなく。咄嗟に避けるくらい出来ただろうに。
けれどくるみは、自分に戦闘能力がないこともわかっていた。
このままではどうにもならない。
自分自身に戦闘能力がないのならば、せめて――武器を!
「待ってて、勇愛ちゃん。すぐ戻ってくるから!」
* * *
たいして遠くない道のりのはずなのに、とても長く感じた道のりを越え、くるみは勇愛の家の蔵まで辿り着いた。
何度も、何度も。
勇愛が糸に捕われた瞬間が頭から離れなくて。
何度も、思った。
「勇愛ちゃん……」
きっと無事に助け出してみせる、と。
想い、呟き。
蔵を開けるためにくるみが触れたその瞬間。蔵の扉を塞ぐようにして張ってあった護符が小さな光を放って消えたが、その時すでに蔵の中に意識が映っていたくるみは、その事実にすら気付かなかった。
様々な武器が置かれている蔵は、誰でもが入ってよい場所ではない。そのための封印の護符だったのだが、くるみはそれを無効化してしまったのだ。
自分が起こした所業にまったく気付かないまま、くるみは蔵の中へと入っていく。
急ぎ蔵の中を物色したところで、奥のほうに一振りの剣が仕舞いこまれていることに気がついた。
他は使い方のよくわからないものばかりだったが、剣ならばとりあえず、当たれば相手にダメージを与えることができることくらいはわかる。
「んっ……」
鞘から抜いて確認しようと柄を引いたが、剣は固く鞘に収まっていて、なかなか引っ張り出せない。
渾身の力を込めて、何度も、何度でも諦める事なく柄を引く。
「お願い……っ!!」
大切な、大好きな。ただひとりの人を助けるために。
この剣が、必要なのだ。
瞬間。
さっきまでの強情さが嘘のように、剣は、スラリと軽く鞘から抜けた。
「……抜けた……」
錆びてはいない。
きちんと切れそうだ。
「待ってて、勇愛ちゃん……」
剣を抱えてくるみは、元来た道を戻った。
* * *
「勇愛ちゃんっ!!」
屋敷に入るや否や、くるみは声を張り上げ勇愛の名を呼んだ。
声は、返らない。
けれど入ってすぐのホールの隅で、動く気配がある。
……勇愛を捕えた蜘蛛の妖怪の気配だ。
「わああああっ!!」
戦い方なんて、知らない。
ただ、勢いに任せて駆けて行く。
向かってくる蜘蛛の糸を避けきることなどできそうもなく、くるみは必死に剣を振りまわした。
と。
糸が、切れた。
剣の刃に当たらなかったものも含めて、剣に触れたすべての糸が、ぼろぼろと砂のように崩れていく。
予想外の事態にくるみも目を丸くしたが、これはくるみにとっては嬉しい誤算だ。
襲いかかるいくつもの糸を、剣を振りまわして屠る。
次第に、刀身とそこに埋めこまれた赤い石が輝きを増し、同時に切れ味も上がっていく。
糸のすべてを振り払い、くるみは蜘蛛の目の前にまで辿り着いた。
一歩でも止まったら、動けなくなりそうだった。
だからくるみは止まることなく、駆けて来た勢いのまま、蜘蛛の方へと突進する。
剣は、いともあっさりと、蜘蛛を一刀両断に切り裂いた。
「勇愛……大丈夫!?」
蜘蛛が姿を消した後には、倒れる勇愛の姿があった。
慌てて駆けよって勇愛の様子を確認する。
「……よかった……」
怪我らしい怪我はない。ただ気を失っているだけのようだ。
ふと。
勇愛の無事を確認した途端、くるみの中にちょっとしたイタズラ心が沸いた。ほっとした反動かもしれない。
「眠れるお姫様には、王子さまのキスだお約束だよね〜」
言って勇愛の寝顔に自身の唇を寄せようとしたちょうどその時。
「ん……くるみ……?」
まさに直前、あと一センチというところで勇愛が静かにまぶたを上げた。
王子様のキス作戦の失敗に少々悔しがりつつも、目を覚ましてくれたのは嬉しいことなので、笑顔で告げる。
「大丈夫だった……?」
「蜘蛛は?」
「ん。倒しちゃった」
「くるみが?」
「うん」
くるみの答えに改めて周囲の様子を確認した勇愛は、次の瞬間、ぱっとくるみに詰め寄った。
「大丈夫? どこも怪我はない?」
心配そうな勇愛に、くるみは笑顔で、どこも怪我のないことを告げる。
「本当に、大丈夫? 痛いところはない?」
「っもう。大丈夫だってば〜」
明るい声音で告げると同時、思いっきり抱きついて甘えるくるみに、勇愛はやっぱり困った顔をしていたけれど。けれど今日は、抱きつくことを許してくれたのだろう。何も口にすることなく、大人しく抱きしめられていてくれた。
|
|
|