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◇憂いの刻印◇
「ねえ、三下くん。昆虫採集に行ってみない?」
鮮やかな赤い唇を笑みの形へと変え、アトラス編集部編集長、碇麗香はそう言った。
見事なラインを描く足は、今は机の中に隠れて見えないまでも、彼女がそれを組んでいるのが解る。
「こ、昆虫採集……、ですか?」
麗香の台詞に、何時もの如くおどおどびくびくと答えたのは、この世で一番インケツな男、三下忠雄であった。
何時もの様に声を荒げていない麗香ではあったが、三下が卑屈なまでの態度であるのは、もう条件反射、脊髄反射の域に達しているのだろう。
「うちの編集部に、投稿があったのよ」
そう言って、彼女はメールをプリントアウトした用紙を机の上に放った。
大して長くもない内容だ。けれど三下は、その用紙を手に取ることを躊躇った。やはりこれも条件……以下略とする。
「へへへへ編集長? もう、昆虫採集の時期では……」
「何か言った?」
麗香の視線と声が、ツンドラ地方を駆け抜ける風になる。
「ほら、早く見なさいよ」
くいと顎で示され、早くも涙をだだ流し始めている。えぐえぐぐずぐず鼻水を啜る三下を見て、麗香は冷たく『汚い子ね』と吐き捨てた。
涙できちんと見えているのかどうかが気になったが、みるみる顔色が変わったところを見ると、ちゃんと読めていた様だ。
「へへへへへへへへっ、へん、しゅー、ちょーーーっっ!! こんな虫、いらないですぅぅぅ〜〜」
一夏を戦った扇風機の断末魔の様に、三下の首が悲壮に回った。
だがしかし。
「そんなに感激しなくても良いのよ。そうねぇ、お礼はこんなに良い取材に行かせてあげる私を、崇め奉ってくれるだけで良いわ」
全く話が噛み合わない。勿論、麗香はわざとだ。
「いやですぅぅぅぅっ!!!」
「私を崇めるのがイヤなの? それとも奉るのがイヤなの?」
「ちちち違いますっ」
ここははっきり言っておくべきだろう。今後の為にも。三下は、マッハで返答した。
「そ。なら行ってきてね。そこに場所、書いてあるでしょ? ああ、勿論、今回『も』、お手伝いを呼んでから行って頂戴ね。ほら早く。メール読んだなら解るでしょ? その子も困ってるんだから」
既に用紙はぐしゃぐしゃである。三下が握りしめていたからだ。
メールには、こう言った内容が書かれていた。
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Subject:奇妙な虫
Addressor:かなえ<kanakana@jmail.com>
Date:Fri,XX Sep 2005 23:21:46 +0900 (JST)
こんばんは、初めまして。
何時も楽しく読ませて頂いています。
今回、アトラス編集部さんへメールしたのは、ちょっと前からうちの近所に現れる様になった気持ち悪い虫について調べて貰いたいからです。
気の所為かもしれないのですが、その虫が現れてから、たくさんの人がとってもリアルな悪夢を見ている様です。私は見ていないのですが、どうやら首を刎ねられてしまう夢だそうです。
そしてその虫が気持ち悪いのは、背中の部分の模様です。何だか、首のない人が縛られているみたいに見えました。もしかすると、夢の話を聞いたこともあって、そんな風に見えるのかもしれません。
虫は、昔この辺りの地主さんだったところの家の庭にある、柿の木から湧いている様なのです。勿論、そこの家の人は否定していますけど……。
日に日に虫が増えてきている様な気もしますし、何より気味が悪いので、この虫が何故現れたのか、そして駆除する方法があるのかなど、調べてもらえないでしょうか(出来れば駆除も……)。
警察や保健所に来て貰っても全然ダメだったのです。他にどう言ったところへお願いしたら良いのかも解らなかったので、アトラスさんへメールしました。
宜しくお願いします。
笹村 かなえ
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この虫が、どうやら麗香のオカルトアンテナにビビッと来たらしい。
名前の下には、彼女の住所と電話番号が書かれてあった。
どう言ったところへお願いしたら良いのか解らないのなら、草間興信所を教えてやりたくなった三下だが、麗香の眼鏡に適ったのなら、彼に残された道は一つしかない。
彼はびーびー泣きながら、ご協力を仰ぐ方々へと連絡を入れ始めたのである。
既に夏の盛りも終え、ここ、草間興信所では比較的過ごしやすい季節になったことを喜ぶ者が増えていた。
当然の様に、所長である草間武彦はその筆頭だ。
そして。
「なあ、行くのか? ……また」
眉間に寄せた皺に銜え煙草。灰が今にも落ちそうなのに、そんなことを頓着せず、見やった視線の先にいるのは、理知的な青い瞳を持ち、滑らかな黒髪を後ろでひとくくりにした草間興信所の財務大臣、シュライン・エマだ。
肩書きはそれだけではない。
……と言うか、本来は翻訳家であり、時にはゴーストの付く作家にもなる。興信所では、実はアルバイトであるが、正職員よりも頼りになり、尚かつ最古参でもあった。
だが一番大きなそれは、やはり所長である草間の婚約者と言うものかもしれない。
先日の慰安旅行にて漸く固まったのだが、それを知る者は、ごく少数だろう。
互いに吹聴する様な二人ではないのだ。
草間が貴金属店のチラシを見ていたと言うことを、零からこっそりと聞いたシュラインは、草間個人の財政を気にしつつも、暖かくも仄かなこそばゆさを感じていた。
「麗香さんの頼みだもの」
そっと灰皿を差し出しつつ、にっこり笑みを浮かべるシュラインに、草間は眉間の皺を寄せたままそれを受け取った。
「気を付けろよ」
言われるまでもないが、そうやって気遣ってくれるのが嬉しい。
麗香から転送されて来たメールを読み、『アレじゃない、……わよね?』と冷や汗が垂れたことは内緒である。あの『ゴのつく茶色のアブラ虫』、『歩き飛ぶ細菌』でなければ、あれを捕食するビッグなサイズの蜘蛛であっても全然平気で、むしろ可愛いと思ってしまうシュラインだが。
そう考えていると、草間は引き出しをごそごそとやっている。
「何してるの?」
「……えー、と。……あ、あった」
出してきたのは、件の柿の木がある近辺の地図や役所関係の資料であった。
「ほら、持ってけ」
いるだろ? と言外に含ませる。
確かにシュラインも、そう言った周囲を調べ様と思っていたから、こう言った資料は有難い。これを見れば、即座に動けるだろう。流石は草間だ。
「ありがと、武彦さん」
しかし、どうして持っていたのだろうか。この依頼は、ホンの少し前に聞いたものなのに。
視線に含ませ見ると、草間はバツが悪そうに煙草を消した。
「……商売柄、こう言った話は耳に入るんだ」
成程。依頼としては来なかったが、情報は伝わってきたらしい。怪奇の類は厳禁である旨を掲げていても、世間様の草間への評価は『怪奇探偵』である様だ。
少しの哀愁を感じつつ、シュラインは外への扉を潜った。
アトラス編集部へと集ったのは、全部で五人だった。
草間興信所にいるところを麗香にキャッチされた、シュライン・エマ。
アトラス編集部内にてポエムを書いていた。シオン・レ・ハイ。
三下に電話で泣き付かれた、セレスティ・カーニンガム。
そのセレスティから送られたメールに反応した、モーリス・ラジアル。
諸事情によりアトラス編集部に顔を見せた、守崎啓斗。
オマケのサンシタは、感激も露わに涙ぐんでいるのだが、それはまあ、どうでも良い話である。
彼らはパーティションで区切られた一角にて、ひとまず作戦会議と言うところであった。
現在はもう、食事の時間にも近い。麗香の計らいで、三下の給料から天引きと言う条件にてドイツ料理を出すと言う近所のレストランから、簡単に摘めつつも腹持ちの良い物をデリバリーしていた。
勿論ながら、『三下の給料から天引き』について、本人が知っている訳もない。
「柿の木に付く虫……か」
アイスバインやヴルストと言った肉類を避けつつ、チーズや野菜を詰めた一見餃子に見える、マウルタッシェと呼ばれるそれをつまんだ啓斗が呟いた。
植物に虫が湧くのは、珍しいこととは言えない。ただ、その虫が、普通の虫でない可能性があるのなら、それは珍しいことと言えるだろう。
「虫を除去しないと、木が枯れてしまいますからね。何とかしないといけませんねぇ」
そう言うのは、モーリスだ。植物の専門家としての言であろう。ブーレットをつつきつつ、顎に手を当てふむとばかりそう言った。
更に、彼の主であるセレスティは、黄桃のクーヘンを目の前にして、数枚の紙をテーブルに置く。
「ゴーストネットOFFでも、少し出ておりましたよ」
ここへ向かう前に調べていたものである。
見ても構わないかと仕草で聞いたシュラインは、シュペッツレを食べてしまってからそれを手に取った。
「……これを見るに、出始めたのはそれ程前ではない様ね」
最初の書き込みが、今から二週間程前だ。
実際に見たことがあると言うMSGは二〜三件だが、その虫にまつわる話はそこそこにある。中には『そんな話、怪談か伝承で聞いたことがある気が……』と言うMSGも存在し、その彼は、何処で見たのか、あるいは読んだのかを、また後日に書き込んで見ると締めてある。タイムスタンプは二日前だ。
「って言うかね、この虫の話、どうやらその筋では、案外有名みたいなの」
「と、言いますと?」
セレスティの促しに、シュラインは頷いて答える。
「実は、武彦さんのところにも、この虫の話は届いていたみたい」
「草間のとこにも?」
「草間さんのところでは、昆虫採集はしないのでしょうか?」
今まで沈黙していたシオンが、漸く口を開いた。
彼は口の周りにソースを付けつつ、リンダールラーデを頬張っていた。
「昆虫採集などと言う、可愛らしいものじゃないかもしれませんよ?」
何処か悪戯っぽく笑うモーリスに、シュンとしつつそうですかと呟いたシオンだが、更にリンダールラーデを食べると機嫌が急上昇していた。
「それにしても、これ、美味しいお肉ですねぇ。お店の人と仲良くなりたいです」
中には野菜もてんこ盛りなのだが、何より彼は、捲いている牛肉がお気に召した様であった。
「あ、このビルの真向かいにある『クルプ・ガンス』と言うところなんですー。安くて量が多くて美味しいから、僕たちも良く行くんですよーー」
何故か三下が誇らしげに答えている。『お前は、今集まっているのは何の為か解っているのか? ん?』と、小一時間ばかり説教カマしたい気分になったのは、シオンとセレスティ以外の者達だろう。
シオンは良い情報を教えてもらったと思っているし、セレスティは三下の言うことすることに目くじら立てる様な性格ではないが、他の者達はそこまで達観している訳ではないのだ。
暫しの沈黙の後、コホンと咳払いをしたシュラインが、先を続けた。
「依頼された訳じゃなかったから、本格的には調べなかったみたいだけど、ほら……これを渡してくれたわ」
シュラインは、鞄の中から草間より渡された資料を出した。
周囲の地図、そして役所関係の資料だ。
「これがあれば、確かに時間は節約出来るけど……」
そう言う啓斗だが、何かに考え当たった様で、まあ良いかと言う風に頷いた。
「めぼしいところには、チェックが入ってますね」
「流石は草間さんと言ったところでしょうか」
主従コンビは、仲良くそれを見て感想を漏らした。
「ここって、ちょっと前まで村だったんだな」
草間の走り書きから、それを見て取った啓斗が言う。
ちょっと前と言っても、セレスティとモーリスを除いて、生まれる前の出来事だ。
更に言うと、合併で街になった訳ではなく、自然に人口が増えてのことらしいし、村が周囲に認められたのもそれ程昔の話ではない。
「取り敢えずは、方針を決めて行きましょ」
シュラインの言葉に、誰も否やがある筈もなかった。
「やはりポイントは、『夢の内容』、『現場周囲の状況』、『柿の木』の三点でしょうか」
セレスティの言葉に、皆が頷く。
「悪夢の内容ってみんな同じなのかしら?」
「と言うと?」
「んーー、首を切られるって言うシチュエーションだけでなく、細かなことまで同じだったら……、例えば、服装とか出てくる人物とかで、時代なんかの判別が付かないかって思って」
何かが起こったのなら、そして悪夢が実際にあったことのリプレイなら、そう言った絞り込みも有効だ。
「虫が出てるのは、地主のとこにある柿の木だったな。その地主とやらが、繁栄の為に誰かの首を刎ねたとか何とか……。その首を刎ねられた人が怨霊になり、今になって、何らかの拍子に外に出たと考えるのが妥当だと思う。……きっと、その時の夢が、悪夢として出てきてるんじゃないか?」
啓斗の仮説に、セレスティが更なる仮説を付け加えた。
「もしかすると、その家に住んでいる人は、途中で引っ越しをしてきた人かもしれませんね。だからこそ、木の手入れや鎮め方などを知らず、それを怠ったのかも知れませんし……」
「啓斗の言う通り、もしも首切り事件が過去にあったのなら、その顛末なんかも気になるわよね。もしかするとその首の行方が解らないのかも……。だったら首を探していると言うこともあり得るわよね。夢で見せて、そのことを訴えてるとかも考えられないかしら? 内容が内容だから、悪夢になった、と」
明後日の方向へと視線をやり、シュラインはうーんと考える。
「悪夢を見るのは、一度だけなのでしょうかねぇ……。まあ、悪夢に関して調べるなら、良い人材がいますし、その方にお任せしましょう」
悪戯っぽく笑ったモーリスの視線の先にいたのは、当然の如く三下である。
彼は不穏な空気に、身を竦ませ、思わず椅子ごと後ずさっていた。
「あ、あの、あの……、何で、皆さん、ぼぼぼ僕を見てるんです?」
「まあまあ、三下くん。そんなに怯えないで下さい。これは君にしか、出来ないことなのですよ?」
セレスティの柔らかな微笑みは、しかし三下の恐怖を拭い去ることは出来なかった様だ。真っ青な顔でイヤだとばかり、ぶるぶると頭を振っている。
「三下さんにしか出来ないのですか。三下さんって、凄い人だったんですねっ!」
瞳をきらきらと輝かせ、シオンがそう言った。きっと三下は『じゃあ、変わってあげますからっ』と思っていたことは、シオン以外には、充分過ぎる程解っていただろう。
「大丈夫ですよ、三下くん。何かあったら、ちゃんと私達で助けてあげますから」
そう言うモーリスは、きっとその場に遭遇しても、命の危機にでも晒されない限り、面白がって見ているだろう。
「そう言えば、夜にしか悪夢は見ないのかしらねぇ」
そう言うシュラインの視線は、三下に固定されたままだ。
「あ、そうか。昼寝で見れないなら、今から行かなきゃダメだよな」
やはり啓斗の視線も、三下に固定されたままである。
「柿の木の下で、キャンプですか?」
ウサちゃんを抱っこし直したシオンもまた、そう言って三下へと期待に満ちた視線を向けている。
「いいいいい、イヤですぅぅーーーーーっ!! 虫に食べられちゃったら、どどどーーーするんですかぁーーーーっ!!!」
涙ながらに言う三下を哀れに思うものなど、この中に存在しなかった。
「ま、流石に今からその家の人に交渉するのは無理だから、それは明日の課題としましょ」
にっこり笑ってそう言うシュラインに、あうあうとオットセイの様に感謝の気持ちを現す三下だが、自分が実験対象となっているのが確定事項なことに、気が付いていなかった。要は先延ばしになっただけなのだから。
「取り敢えず、依頼人と地主に話を聞くことが先決か。……まあ、地主が口を割らなかった場合、周囲に聞き込みすることも必要だし」
「地主さんから聞けても、やっぱり周囲の聞き込みは必要よ」
「本当のことを言っているとは限りませんからね」
「他には、そこの地について、伝承などを調べることも必要ですね。後、私はかなえ嬢からも聞きたいことがありますが」
「柿の木も調べてみたいと思いますっ」
各々が意見を出し合い、次いで分担を手際よく決めて行く。
草間から貰った資料とも突き合わせ、調べる範囲の割り振りも決めた。最初に地主の家に行くのは、かなえに話を聞くと言うセレスティ以外の全員だが、それ以降の捜索範囲はある程度別々だ。その方が効率も良い。
決まった後、ふと思い出した様に、モーリスが呟いた。
「虫を見たら、サンプルとして捕まえてみましょうか。駆除するなら、その虫の正体を知る必要もあるでしょうし」
「……それは無理だと思う」
小首を傾げつつも、きっぱりと啓斗は言う。
「どうしてです?」
怪訝な面持ちでそう問うモーリスに、啓斗は慎重に考えながら答えた。
「何て言うか、虫は蟲毒か地縛霊みたいなもんだと思う。だから、虫自体が写真とかにも写らないだろうし、それに、祟られでもしたら大変だろう?」
それらの恐ろしさを、啓斗は良く知っている。
だからこそそう忠告したのだが、何に置いても太っ腹な総帥さまは、誰もが安堵する様な微笑みを浮かべ、一部に向けて、可成り酷い台詞を宣った。
「大丈夫ですよ。そうなった時、祟られるのは持って帰ったモーリスだけですから。きっとモーリスなら、自分のことは何とかしますよ」
「……セレスティさま」
あんまりにもあんまりな台詞を口にする己の主に、何処か脱力した風なモーリスががっくりと肩を落としている。
「後、虫の駆除についてだが……」
「啓斗、良い案があるの?」
「そう言うんじゃないけど……」
問いかけるシュラインに、啓斗は少し口ごもったが、それでも言わなければと思ったのか、次ぎの口調はしっかりとしたものだった。
「もしかすると、虫を駆除した後、その家に何らかの不幸が降りかかるかもしれない。その辺の注意も必要だと、俺は思う」
「確かに。呪物めいたものなら、その可能性もありますね」
何事も、最悪の事態を考える必要はある。
納得とばかりに頷いた皆は、明日に続く調査の為、十分な英気を養うべく、その場から解散した。
立派な門構えの日本家屋である。目の前にあるのは、都会のど真ん中では、流石にこうは行かないであろうと言うことくらい、中に入らなくても良く解る程の非常識な規模の屋敷だった。だが、そんな屋敷の回りにも、この街に入ってからそこかしこに見られる虫が飛び回っている。
「お話することは、大してないのですけれどねぇ」
さっきも言ったでしょ? とばかりなその顔は、庭に虫が出ている柿の木を所有している家の人間だった。ここの『奥様』と言った中年の女性である。和服などを着せてみると、大層似合いそうだ。
彼女はあからさまな不快感を見せている訳ではなく、どちらかと言えば笑みにも見える表情だが、それがヤケに薄ら寒い印象を受ける。
「お時間を取らせてしまい、申し訳ありません」
だが日々こう言った調査で鍛え上げられている調査員達が、恐れ入る筈もない。
にっこりと営業スマイルを張り付かせたシュラインが、家人を宥める様にそう言った。
実は都心から可成り離れたところにあるこの街へ来る前に、シュラインがまずアポを取るべく電話をかけたのだ。そこで難色を示されたのだが、日頃草間興信所で培った話術でもって、何とか逢うだけまでには持って行き、人当たりの良いシュラインとモーリスが、交渉に当たっているのであった。
三下が何をしているかと言うと、まさか取材を言いつかっている人間を置いてけぼりにする訳にも行かないし、さりとてあまり好印象とは言い難い家人に不信感を抱かせるのも如何なものかと言うことで、建前として『周囲に可笑しな所がないか見る様に』と、この家の回りを見回る役を言いつけてある。
勿論、『取材を放棄したら、本当に夜中一人でキャンプしてもらいますからね』と、モーリスが微笑んで言い含めていた。
ちなみに本音としては、三下にぐるぐると家の周囲を歩かせ、柿の木の様子が解れば話は進むのにと言ったところだ。
「あまり時間がないの。手短にね」
鼻白みそうな台詞である。けれどここで怒っては、話が前には進まないことくらい、重々承知の上だった。
「では、単刀直入に……。こちらに植わっている柿の木について、お聞き致します。最近、奇妙な虫が湧いているとのことですけれど、それは何時からでしょう?」
シュラインの耳は、目の前にいる彼女の心拍数と共に、虫の羽音を拾っている。
「さあ。家からそんな虫が出たなんて、覚えがありませんわ」
「……は?」
しれっと、考える時間も置かずそう答える女性に、思わずシュラインはそう聞き返してしまう。隣ではモーリスが、片眉を上げてシュラインを見ていた。
先程から聞こえていた彼女の心音には、僅かな乱れもない。
だからこそ逆に、シュラインは彼女が何かを知っていることを確信した。あまりに腹が据わりすぎている。
『自分の所じゃないって言っても、何か反応があるのが普通だわ』
気を取り直し、シュラインは質問を変えた。
「では、最近何か工事などしたことはありませんか? 大規模ではなくても、そう、庭のお手入れをしたとかでも……」
「ありません」
くいとつり上がった口元は、きっと微笑んでいるつもりなのかもしれない。
「こちらには、ずっとお住まいなのですか?」
今度はモーリスが聞いてみるが──。
「ええ」
一言で終わってしまった。
とっておきの笑みを浮かべたにも関わらず、惑わなかったのはある意味凄いことかもしれない。
「ではこちらには、何時からお住まいですか?」
「さあ、昔から……としか」
シュラインとモーリスの二人が、交互に聞いてみるが、依然彼女の態度は変わらなかった。つまり彼女自身への聞き込みから得られたものは、何もなかったのだ。
「シュラインさん、ここは出直して、セレスティさまに魅了してもらう方が……」
こっそりとモーリスが耳打ちをした、その時である。
羽音が、比べものにならない位に大きくなったかと思うや否や。
『っんぅぎゅょがぁぁぁっーーーーっ!!』
パンツを引き裂く以前の、人語とは思えない絶叫が響き渡った。
「「三下くん……」」
示し合わせた訳ではないが、二人の声が小さく重なる。
「貴方達、……何を」
目の前の女性の顔が、微かに青ざめたのを、シュラインとモーリスの二人は見た。
「お帰り下さい」
先程とは打って変わり、低い声で脅す様に言う。
そんなものに怯む様な二人ではないものの、ここは流石に引くべきであることを悟っていた。二人が背を向けるのを待たず、ぴしゃりと木の門が閉められ、更にその向こうでは填め木の音まで聞こえている。
「三下くんて、本当に期待を裏切らないと言うか……」
「稀に見る凶事呼び水体質ですね」
モーリスの言い様は、身も蓋もなかった。だがそれはシュラインも思っていたことなので、レベル的には大差ないのかもしれない。
とまれ、そこで突っ立っている訳にもいかないだろう。
二人は声の元へと走り出した。
茶色と言うか、グレーと言うか。
そんな色をした不定形の固まりが、伸びたり縮んだりして一定周囲を埋め尽くしていた。いや、それが一つの固まりではなく、小さな虫の集合体であることは、見ればすぐに解る。
彼らが目にした虫の背には、確かに人の姿に見えるものが刻まれている。
その虫は、悪意よりも何処か悲壮感が感じられる為、その印は、まるで憂いの刻印の様に思えたのだ。
「ちょっと、これ不味いわ……」
何の準備もしていないのにと、シュラインは続けたかったのだがそれも言えない。
三下に集り始めた虫は、一体彼が何をしたのか、今にも喰い殺さんばかりの勢いである。
シュラインとモーリスが駆けつけてすぐ、そこには啓斗とシオンも到着した。
四人は唖然とする間もなく、即座に虫を何とかすべく動き始める。
これ以上数が増えては溜まらないと、啓斗が小太刀で切り払い、モーリスが檻を作っては急激に縮小して虫を潰した。シオンはウサちゃんに激励の蹴りを受けつつも、三下に齧り付いている虫たちを持っていた網で叩き落とし、シュラインが手持ちの資料で同じく虫たちを引っぱたいている。
だが虫は、切り捨てると同時に二つに増え、圧縮した檻の後から何事もなかったかの様に現れ、叩き落としても即座に羽音を響かせた。
「こんな昆虫採集はイヤですぅーーっ!!」
半ば涙目になったシオンが、そう叫ぶ。
そんな、時。
空気の色さえ塗り替える様な、澄んだ音が響いた。
リーー、ン、と。
「──っ!?」
その瞬間。
ぴたりと虫たちの動きが止まる。
「これは、……どう言うことだ」
「ベルの音の効果でしょうか?」
モーリスの言葉に我に返ったシュラインが、そのベルの音を真似た。
その音と共に、止まっていた虫たちが、再度動き始める。
だがそれは、彼らに向かって来るのではなく、その音に戸惑っている様に見えた。
「今よっ!」
言うが早いか、シュラインは駆けだした。その際、音の主を目の端で確認する。
啓斗とシオンが三下の両脇を掴み上げ走り出したのを見届けてから、虫を警戒していたモーリスもまた、その場から身を翻した。
「シュラ姐とモーリスさんの二人がいてもダメだったのか?」
そう言う啓斗は、『……手強い』とばかり、うむと唸った。対するシュラインは、僅かばかりの苦笑の後に、先程啓斗から聞いたことを反復する。
「噂好きの奥様方が、全く反応無しって言うのが、何だか腑に落ちない気もするわよねぇ」
現在彼らは、気絶したままの三下を抱えて近場の公園へと逃げ込んでいる。
地主の家には、あの様子から到底入れては貰えないし、かと言って今回のメールの主であるかなえの家に連絡を取ると、現在学校へと行っていると言われ、本人不在のままに押しかけるには、あまりに多すぎる人数であるからだ。
その公園で一息吐き、失神している三下はベンチに寝かせたまま、互いの状況を手短に話し合った。
地主側は、モーリスがセレスティからかかって来た電話に出ている為、シュラインから地主からにべもなくあしらわれてしまったこと、けれど何かを知っていることを。
ご近所奥様アタック側は、シオンが失神したままの三下の顔に落書きしている為に、啓斗から奥様方は、全く持って興味を示していないことを。
「……イヤな感じね」
だが、そんな彼らに朗報がやって来た。
「セレスティさまは、今からこちらへ向かうとのことです」
セレスティとの通話を終了したモーリスは、携帯をスーツへと直しつつそう言う。
「セレスティさまからかなえ嬢経由で、彼女と仲の良い幼なじみの家に連絡を入れてくれるそうです」
聞くと、その幼なじみもまた、かなえと一緒に今回のことを自力で調べていた様だ。
五分後、再度セレスティと話し終えたモーリスは、にっこり笑って幼なじみ宅への訪問がOKになったことを伝える。
「良かった……。取り敢えずは、三下くんをこのままにもしておけないし」
安堵の溜息を吐くシュラインに、一堂が全くだとばかりに頷いた。
「あ、三下さんが、何だか魘されていますよ」
場所を移動する為に、三下をモーリスの檻に詰め込んでしまおうとした時、ずっと三下の顔に落書きしていたシオンが、そう知らせる。
「悪夢を見てるのかしら?」
笑いをこらえながら言うシュラインだが、別に彼女が非道だからではない。
眉毛は備長炭、閉じられた瞼の上にはオスカルさまもまっつぁおなきんきらお目目、鼻の穴が二回りばかり大きくなった三下は、ついでに口紅まで塗られていた為、魘されているにも関わらず、爆笑を誘うご面相である。
「そうでしょうね」
モーリスは明後日の方向を向きつつ、相槌を打っている。
「……、このままここで寝かせておいた方が良いのか?」
啓斗はその素晴らしく笑いを誘うご面相の三下を見つつも、全く顔色を変えずに覗き込んでいる。
「でも、風邪を引いてしまうかもしれませんよ」
自分の落描きに満足を覚えているシオンは、三下の顔を更に飾ることが出来ないだろうかと考えながら、そう言った。
「とにかくシオンさん。その落描きは、消して頂戴ね。幼なじみさんがびっくりするでしょう?」
そう言うシュラインに向け、シオンは油性マジックを掲げつつ『てへっ』と笑う。
ウサちゃんがシオンの頭でジャンプしたと同時、心因性の頭痛の為、額を抑えたシュラインだが、次の瞬間、その頭痛さえも引っ込んだ。
「こうすればいい」
三下のくしゃくしゃになっているハンカチに、携帯用薬剤調合キットから何時の間にやら取り出した油を染み込ませ、啓斗は徐に落描きだらけの顔へと押しつける。
いや、啓斗としては、ごしごしとこすり取っているつもりなのだが。
「死ぬからっ! 三下くん、死んじゃうから!」
「……三下『でも』死ぬのか」
ぽつりと呟いた啓斗の顔は、本気の色を見せていた。
幼なじみの家は、地主家へ訪れた後に回る筆頭として挙げていた、その街の神社であった。名を『天子神社』と言う。
「……これは、運が良いのか悪いのか」
モーリスが何とも言えない顔で呟いた。
「手間が省けて良かったと言うことにしましょ」
「先にこっちに来れば良かったな」
近所を当たっていた啓斗が、そうしみじみと言った。
かなえの幼なじみは、藤原紗妃子と言う名だった。かなえと同じ大学に通っているのだが、本日彼女は二限までで、既に帰宅していたのだ。
今は離れにある、彼女の部屋にお邪魔している。
苦笑しつつ、紗妃子が四人の顔を見つめつつ口を開いた。
「そうでもないよ。だって、私も殆ど解らないんだもん。柿の木が怪しいと思って調べ始めたけど、私が読めた中にあったのが、その柿の木が江戸時代の末期あたりに、お坊さんに植えられたことくらいだし。それはおじいちゃんも言ってたから。他の子達なんかも、知ってると言えば、見てる悪夢のことくらいかも」
まあ確かにそうだろう。解っていれば、彼女がかなえと共に調べ始める訳もない。家人に聞いても、サワリだけを聞かされるだけなのだ。
「こちらの神社には、昔からの資料は何もないのですか?」
モーリスの問いかけに、肩を竦める。
「読めないの。何だか暗号めいた古文なんだもん。それにその場所に入るには、兄が持っている鍵がいるし」
「成程。兄貴は、非協力的と言う訳だな」
「古文なら何とかなると思ったんだけど……。鍵が手に入らないんじゃ、読むに読めないものね。……まさか、泥棒の真似事をする訳にはいかないし」
まあそれでも、本当に必要なら仕方ないと思っていることは、口には出さずにいた。
「何か方法はないのでしょうか……」
『ねえウサちゃん』と、シオンは腕の中のウサちゃんを見やるが、『そんなこと知らないわよっ』とばかり、未だ気絶&魘され中である三下の腹の上でぴくりと耳を動かしただけだった。
「武彦さんからの資料にも、神社とお寺は赤二重丸になってたのよね」
絶対に何かあると、シュラインは思っていた。
「あのさ、思ったんだけど」
啓斗の台詞に、どうしたとばかりの視線が集まる。
「その神社とかにある資料も、本当のことが書いてあるのか?」
「どう言うこと?」
「シオンさんと二人で聞き込みしてて感じたことなんだけど、何て言うか、凄い結束あったんだ。地主の家に近くなればなる程」
「そう言えば、……そうかもしれません」
シオンも記憶を思い起こしたのか、啓斗の言葉に同意した。
「ああ、それは、街の中心と外側じゃ、住んでいる人の層が違うからよ。街の外側に住んでいる人達は、新しく来た人達なの。あんまり居着いてくれないんだけどね。入れ替わり激しいの。土着? って言うのかしら。そう言う人達程、街の中心に住んでて、だから音羽さん……地主さんの近くの人は、みんな親同士が親しいのよ」
それを聞き、啓斗は結束力について成程と思ったものの、何処か納得は出来ないでいる様だ。
「昔からいる者達が、口を揃えて知らないって言う訳だな」
結束力のある人達。
そしてある一定年齢の者達、もしくは条件を持つ者達が、虫には特別な反応を示さないこと。
そしてそれは神社である藤原の家でも同じ。
成程とばかり、シュラインとモーリスは視線を合わせた。
「改竄……と言うことですね」
「ここで一般に向けて公開されている文献が、信用ならないとなると、可成り痛いわよね。やっぱり、何とかお兄様に隠しているみたいな文献を、見せてもらうしかないのかしら」
上の年代は黙りで、下の年代は良く解っていない。更に文献は改竄された疑いがある。なかなかに手詰まりであろう。
「そう言えば、セレスティさまは、虫の正体は『常元虫』と言うものであるのかもしれないと仰っていましたが」
「『常元虫』?」
「そんな虫さんは、初めて聞きました」
調べる必要がある。そう考えたシュラインは、紗妃子に声をかけた。
「紗妃子さん、パソコンお借りしても良いかしら?」
勿論と、紗妃子が頷くと、シュラインは礼を言ってパソコンを起動し、ネットにつなげた。検索サイトで『常元虫』を検索すると、果たして、引っかかった情報は百五十を越えた。
その中の一件を選択し、サイトを開く。
「……あった。これね」
『常元虫』
蒲生家の侍であった男が、戦の為に主家とはぐれて野党となり、百名以上の子分を抱えて悪行の限りを尽くすも、とある僧侶の薦めにて改心し、『常元』と名を改めて日々を送っていた。けれど過去の悪行が祟り、全国に渡って行われた検挙にて、彼は捕らえられてしまう。その時、彼の家にあった柿の木へと縛り付けられることとなる。
常元は世を呪い、悪口雑言を吐き、遂に斬首にさせられた。
それ以降、毎年その木から、人を縛り上げた様な模様のある虫が発生したと言う。その虫は蝶になって何処かへ飛び去って行った。
そしてその異相を持つ虫のことを『常元虫』と呼ぶのだと。
「符合する箇所が、幾つもあるな。……まあ、本当の常元虫かどうかは解らないけど」
確かに似ているが、その話の常元であるかどうかは定かではない。
「毎年発生はしていないです。私もかなえも初めて見たんだし」
毎年見ているなら、今になってアトラスへメールを出すこともないだろう。
暫しの沈黙を破ったのは、モーリスだった。
「そう言えば、悪夢のお話を聞いていませんでしたね」
丁度その悪夢を見ているだろう三下の顔をちらと見ると、それに反応したのだろうか、漸く三下が、うーーんと唸りを上げて目覚めた。
「うっぎゃっぎ………っっ!!」
ぱちりと目が開いたと同時、三下は叫びだしてしまったのだが、即座に啓斗が反応し、先程の油が乗ったハンカチを口に詰め込んだ。鼻から呼吸することすら忘れた三下の顔色が変わるも、人間は本能で生きることを選択するらしい。
紗妃子が唖然と三下を見ている中、彼は五秒後には鼻呼吸を行い一命を取り留めた。
静かになったところで、口の中のハンカチを取り出させると、皆は開口一番に聞いたのだ。
「どんな悪夢?」
「どんな悪夢だ?」
「どんな悪夢を見てました?」
「感想は如何です?」
約一名、少し焦点がずれているかもしれないが、興味の点は同じであろう。
「み、皆さん、ひひひ酷いですよぉぉぉーーっ!」
早速滂沱の涙にまみれている三下だが、それは黙殺された。四人の強い視線を受け、三下はゆっくり口を開きかけ……たところで、セレスティが到着したと、モーリスの携帯が告げたのである。
大勢の人間の息づかいが聞こえる。
それは勿論錯覚なのかも知れないが、彼ら二人に迫っている人間が、大勢であると言うことは確かな事実であった。
身体中に電流が走っているかの様に思える程ぴりぴりした緊張感が、一体どれ程続いているのか解らない。そんなに長い時間でないのかもしれないが、彼らには、永遠を駆けている様な気持ちがしたのだ。
真の闇。
周囲はそれに覆われているのだが、時折、禍々しいまでの紅い光がゆらと揺れると、咄嗟に何か身を隠すものがないかを手探りで探してしまう。足下から聞こえるのは、草を踏む音。獣道を行く音。
怖かった。
ただ手に伝わる温もりだけが、互いの支えであった。
言葉すら掛け合うことも躊躇われる中、けれど。
「いたぞーーっ!! こっちだっ!」
夜闇に見える朱が、一気に増えた。
草を踏み、枝にこすれるザザと言う音は、彼ら二人の周囲から聞こえてくる。
まるで墓場に迷い込んだ時に見る人魂の様に、ゆらりゆらりと揺れながら迫り──。
「……もう、逃がさねぇ」
闇の中、松明の光にあぶられ浮かぶのは、幾つもの鬼の顔。
言葉と共に、握っていた手が力をなくす。見ると、彼女が崩れ落ちていた。次ぎに彼を襲ったのは、鈍い衝撃だった。
暗転──。
徐々に清明になっていく視界は、けれど、彼の現状が好転したことは示してくれなかった。
手が。
動かない。
彼女は。
何処だろう。
手が動かないのは、後ろ手に縛られているからだと、そして何時か見たあの大きな木に縛り付けられているからだと解る。
だが、一緒に逃げていたあの温もりの主の行方は……。
「探し物はこれか?」
目の前に、ぬ、と差し出されたのは、苦悶の表情を浮かべた女だった。
だが、恨み辛みの言葉は、一言も発することはない。
当たり前だ。既に首から下はないのだから。
彼の喉からは、引きつれた音が断続的に漏れる。
恐怖か、それとも怒りであるのか。彼にも解らなかった。
既に闇は消え、周囲にあるのは眩しいまでの日の煌めきだ。けれどそこに見えるのは、あの闇の中に見た顔、顔、顔。
「悪く思うてくれるな。俺たちが生きる為だ」
一人の男が言い様、腕を大きく振りかぶる。
ぎらりと。
日の光に反射した刃は、彼の首に吸い込まれて行った──。
「……み、皆さん?」
決して上手な語りとは言えないが、取り敢えず見たままを語り終えた三下は、そこにいた者達が沈黙してしまったことに不安を覚えた様だ。
元からいたシュライン、モーリス、シオン、啓斗、紗妃子と三下に、新たにかなえを伴ったセレスティが加わって、全部で八人である。
「虫は、その男か女が怨霊か何かに変化した姿と見て、まず間違いがないだろうな」
啓斗がそう言う。
繁栄の為に人柱にするのと、今の夢の話ならどちらがマシだろう。いや、考えても意味はない。どちらのことだって、最低な話なのだから。
「首を刎ねられた理由が解らないけど、そう考えるのが妥当よね」
シュラインが同意し、モーリス、セレスティ、シオンもまた頷いた。
「酷いです……。何故そんなことをしたのでしょう」
ウサちゃんをぎゅっと抱きしめ、シオンは今にも涙を零しそうになっている。
そんな中、紗妃子とかなえが、何か目配せをしていた。
「どうか致しましたか?」
穏やかに問うセレスティに、頷いたかなえが口を開いた。
「私が聞いた夢とは、ちょっと違うな……って。あ、紗妃ちゃんは見たのよね?」
こっくり頷く紗妃子と三下を見比べ、呟いた言葉は、きっと三下を知る者の総意であろう。
「まあ、三下くんですからね」
「モーリスさん、酷いですよぉーー」
モーリスの声には、何処か面白がっている節がある。
三下はあんなに怖い思いしたのにと、さめざめ泣いているが、誰も気にはしていなかった。
「どう言うことかしら?」
怪訝に思うシュラインは、ちらと三下を見やってから、再度かなえと紗妃子の二人に視線を移す。
「多分ですけど、私達が見たのは、女性の視点なのかもしれないです。首を切られたところで終わってるし、その前にかけられた言葉も、『裏切り者』ってヤツだし」
思い出したのか、二人は少し震えた。
「悪夢は二つあったってことか?」
「そうなのかも。私が話を聞いたのって、女性ばっかりだし」
偏りがあっては調べたとは言えないのかもしれないが、男よりも女の方が、調べているのが女性なら聞きやすいだろう。
「悪夢と言うのは、何度も見るのですか?」
モーリスが問いかけると、二人は示し合わせた様に、同時に頷く。
「それは全く同じなものかしら?」
同じく首肯だ。
「二人に聞きたいのだけれど、服装とかはどうだったの?」
「着物、着てました。時代劇で見るみたいな、農民の人が着る様な」
答える紗妃子に、三下がうんうんと頷く。
「成程。……では、やはり」
セレスティは、何かを強く確信した様である。
「そう言えば、先に三下くんの話を聞いたから、情報交換は後回しだったわね」
電話では簡単に伝えただけだから、詳しい話を互いにしてはいなかった。
交換した話は、現場側で言うなら、地主やご近所のおばさまからは、にべもなくあしらわれてしまったこと、セレスティ側からは大人が非協力的な態度であると言うことと、常元虫のことだけだ。
詳しくは合流後にと言うことだった。
「常元虫については、こっちも確認したわ。悪夢のことからも考えると、発生経緯は似通っているわね」
「他に解ったことと言えば、虫の苦手な音が解ったことくらいでしょうか」
モーリスは、三下が虫に襲われた時に聞こえた、あの音のことを口に出す。
「音……?」
「どうかしましたか?」
紗妃子とかなえの二人が顔を見合わせているのを見て、モーリスが怪訝な顔で聞いた。
「もしかして、鈴の音ですか?」
「鈴……って言うか、ベルと言うか」
啓斗が悩んでいると、かなえが鞄からごそごそと取り出し、それを見せると同時に僅かに振った。
すると──。
「そう、それよ! どうしてそれを?」
音を聞いたシュラインが叫ぶ。
「これ、昔から持たされてるお守りなんです。紗妃ちゃんも持ってるよね?」
かなえがそう聞くと、紗妃子も頷いて鈴を取り出した。
「成程。人が襲われても軽傷で済んでいるのは、鈴があったからなのですね」
セレスティは納得するが、怪我をしたと言う話を聞いていなかった者達は、そうなのとばかりに彼を見た。
視線を受けたセレスティは、多少の怪我人は出ているも、皆軽傷であったと言うことをかなえから聞いたのだと告げる。
推測の域を出ないが、他に理由があるとするなら、虫たちを刺激していないからなのかもしれない。
「街の人が表だって動こうとしないのは、これがあったら最悪の事態は免れると知っていたからなのね」
シュラインもそう呟いた。
「……でも、あれ、誰だったんだろう……」
とすると、やはりあの人物には不審が残る。このことを知っていて使ったのだと解ったのだから。
姿を認めたのは一瞬だった。逆光で顔までは解らなかったのだ。
「状況が状況だから、確かめられなかったのはちょっと悔しいわね。金髪で背の高い人みたいだったけど……。まあ、苦手な音が解っただけでも、良しとしましょ。ところで、セレスティさんの方は、他に何か解ったことがあるのかしら?」
シュラインが水を向けると、セレスティは穏やかに微笑んで頷いた。
「ええ、少しばかり。まず、紗妃子さんに確認したいのですけれど、こちらの神社で祀っているのは、伊弉諾尊と伊弉冉尊で宜しいでしょうか?」
「……? ええ。そう聞いてます」
「では、お寺の方は子安観音で宜しいでしょうか?」
紗妃子とかなえ、両方が頷いた。
「観音様を見たことは?」
「ありますけど……。近くには寄れないから」
「何か気付いたことはありませんか?」
今度は互いに困惑顔だ。
「解りませんけど……、うちの資料と一緒に、多分お寺の資料もあったと思います。あ、でも兄が鍵を管理しているところにあるわ」
「啓斗」
シュラインが頷きつつそう言うと、啓斗が解ったとばかりに肯き返す。
はっきりさせた方が良いだろう。誰もがそう思った。
「紗妃子さん、その資料がある場所、教えてくれ」
「でも鍵が……」
「大丈夫。任せろ」
啓斗が資料を『お借り』しに行っている間。シュラインにはすることがあった。
「紗妃子さん。お願いがあるのだけれど」
「はい、何でしょう?」
シュラインを見ているのは、紗妃子だけではなかった。そこに揃っている者達は、何だろうと言う顔で彼女を見ている。
「何か録音するものを、お借りできないかしら。後、ちょっとだけで良いの。一人になれる部屋と」
解りましたと答えた紗妃子は、MDデッキと、空のMDを探し出して、シュラインに渡す。部屋は離れに後三つあった為、内一つをどうぞとのことだ。
借り受けたそれらを持ち、シュラインは部屋を出て行こうとするが。
「誰も覗かないでよ?」
そう一言残した。
防音設備に関しては、流石に一般家庭に求めるのは酷だろう。取り敢えず、引っ込んでからの姿を見られずにいれば良い。
「やっぱり、恥ずかしいものね」
シュラインは、ベルとも鈴とも言えるあの音を録音しようとしたのだ。
逼迫した状況での模写はともかくとして、普通に録音している姿を見られるのは、少々恥ずかしいものがある。
デッキに空のMDをセットし、録音可の状態にすると、シュラインは大きく息を吸い込んだ。
啓斗が持って返ってきた文献には、確かに寺に安置されていると言う子安観音の絵が描かれていた。
「この絵は……」
明るいところでしっかり見ると、額に何か描かれているのがはっきり見える。
「これは、十字架ですね」
「やはり」
「セレスティさん、これどう言うこと?」
眉根を寄せたシュラインは、まるでセレスティに確認するかの様に問いかけた。
「マリア観音。シュラインさんなら、ご存じでしょう?」
シュラインは、何かに思い当たったと言う様に目を見開く。
「まさか、常元虫の蒲生って、あの蒲生なの?」
「ちょっと待った。二人で納得するなって」
啓斗がストップをかけるも、勿論彼だって、マリア観音くらいは解っているし、モーリスだって然りだ。ちなみにへっぽこ記者とは言え、腐ってもオカルト編集部に身を置く者だ。三下もマリア観音の言葉は耳にしていた。
解っていなかったシオンは、一体なんだろうと小首を傾げていたが。
「この村が周囲に認識されたのは、今から百数年前。千八百年代後半のことです」
セレスティから語られる内容に、シュラインは溜息を吐いた。
「武彦さんが、赤二重丸付けてた訳よね。……外側から当たれば良かったわね」
その頃あったこととは一体なんだろう。
そう考えていたのは、この二人以外だろう。
「かなえさんに電話で聞いた結果からですよ。私が外側から調べたのは」
「だから、二人で納得するなって」
溜息混じりに言う啓斗に、既に蚊帳の外状態のかなえと紗妃子がこっくり頷く。
「このお二方の様子から、未だ表には出ていないものでしょうね。……ここは恐らく、昔は隠れキリシタンと呼ばれた者達の住まう村だったのですよ」
「蒲生って言うのは、蒲生氏郷。信長の人質から、娘婿にまで上り詰めたキリシタン大名ね。会津少将、会津宰相と呼ばれる人物のこと。地主さんが音羽姓を名乗っているのも、まあ、解る気もするわ」
氏郷から遡れば解ることだが、蒲生家が築いた城には音羽城がある。
「ではここの地主の方達は、蒲生氏の血筋と言うことなのですか?」
「直系は絶えたと言われるから、血筋と言っても傍流でしょうけど。もしくは家臣であったかもしれないわね」
直接に血のつながりなど、もう既にないに等しい程の時が流れている。縁の者と言った方が良いだろう。
「でも、蒲生は会津から動かなかったんだろう? ここは外れてるって言っても、東京だ。それにこの村は隠していることがあるみたいだけど、今更キリスト教徒だって隠す必要なんかないだろう?」
会話している四人を尻目に、シオンは知らない知識がうんとこさ出ている為、ネタ元になるかもしれないと、脳味噌の皺に刻み込んだ。
だが、すぐに忘れてしまうだろうことは、シオンならぬシオンのウサちゃんには解っていたが。
「弾圧から逃げ延びてと言うことも、あり得ない話ではありませんよ。それに……」
一旦切ったセレスティの言葉に、皆が続きを期待する視線を浮かべる。
「隠れキリシタンと言うのは、弾圧の為に姿を変え、仏教や神道、またはアニミズムと混じり合い、本来のキリスト教の教えとは離れてしまった場合もあると言う話です。そして啓斗くんの仰る様に、今は宗教の自由が保障されていますから、キリスト教徒であることを隠す必要はありませんけれど」
「セレスティさんは、子安観音がマリア観音だったと言うことから、ここの神社の伊弉諾尊とと伊弉冉尊は、つまりのところイエスとマリアを示していると言いたいのよね? そしてその信仰も、月日が経つに連れ、形骸化してしまったと」
シュラインに向け、そうですとばかりに頷いた。
「でも、寺でそう言うのは聞いたことがあるけど……」
「あるのよ。神社も。それを書いた小説もね。日本には三つあると言われているわ」
その三つとは、長崎の枯松神社、伊豆大島のおたあね大明神、長崎の桑姫神社であった。枯松神社は、シュラインの言う通り、小説の舞台にもなっている。
更に途中で教会へと転じたものの、元は神社であったものも存在する。『天子神社』と多くは呼ばれていたのだ。
そう。この神社の名と同じである。
「こちらのお二方の様子や街の方々の対応から察するに、この街は、昔はどうあれ、今ではキリスト教の街と言う訳ではないだけでなく、キリシタンであったと言うことすら残っていないのではありませんか?」
その言を受け、かなえが何かを考えながら答える。
「うち、多分仏教徒だと思います。この街のお寺にお墓はありますけど、普通にお経を上げてるし……。あ、でも、ちゃんと確認した訳じゃないですよ。ただ、大学の友達で、キリスト教徒だって言う子達と比べても、違うなって思う程度で……」
「特にこれと言った話はないと、言う訳だな?」
念を押す様言う啓斗に、はいとかなえは頷いた。
この年代の者達は、余程熱心な者でない限り、あまり宗教に関して詳しくはないだろうし、拘りもない。
「じゃ、じゃあ何を隠してるのでしょう……?」
全ては今となっては、隠す必要のないものばかり。では、昼間啓斗と一緒に回って感じた、あの感覚は何なのだろうか。考えられることは、夢の内容くらいだ。
「やっぱり、地主さんに聞くしかないわよね」
既に置いてけぼりな三下を除く面々は、決意も新たに頷いた。
「また貴方達ですか? ……あら、今度は……」
地主──、音羽家の女性が言えたのは、そこまでだった。
背後からすいと進み出たセレスティが、凄艶なまでの笑みを浮かべたのだ。
何処か遠くを見るかの様な瞳は、漠然とした空虚さを得ることになる。
「こんにちは。お初にお目にかかります。セレスティ・カーニンガムと申します。貴方のお名前は?」
力無く、ぼんやりとした声で彼女は答える。
「さ、ゆり……。音羽、小百合と、申します……」
魅了は完全に効果を発揮している。
彼らは肯き、次ぎに小百合に向けて、中に入れて貰う様に話しかけた。
もう既に、それが事実であるのかただ単なる口伝の域に過ぎないのか、そんなことは解らなかった。ただその話が、音羽家を中心として、この街で一生を過ごす者達に代々伝えられて来たのである。
今は昔。
そこには遠い場所より逃げてきた一族が住んでいた。
彼らの首には粗末な、けれど大切な大切な十字架がかかっていた。
以前には、大層な名を持ち、それなりに裕福な毎日を過ごしていたのだが、ここへと移り住む様になってからは、そうは行かなくなっている。木々に囲まれていたそこを開拓し、漸く皆の食い扶持をまかなえる様になるには、暫しの時間を要した。
親が子を産み、その子が育ちまた親になり……、そんな風に緩やかな時間が過ぎていく。外に起こっている嵐など、全く異界の出来事の様だった。
ぬるま湯の世界の中で、それでももしもの為、彼らが心の拠り所としている場所は、外界と変わらぬ姿で存在している。
けれど。
そんな場所へと迷い込んで来た男がいた。
外から来た者は、受け入れられぬ。
外から来た者は、信用ならぬ。
その為、外へと返すことは出来ない。いやいっそ──。
殺してしまえ。
そう言った者も多かったのだ。けれど、最初に男を見つけた女が嘆願し、この村より一歩も出ないと言う条件で命乞いを受け入れられた。世話は、その女がすることになる。
だが、生まれた場所を恋うのは止められず。嘆く男の姿が知られた。
疑心が鬼を呼び、そしてその鬼は独り立ちする。
一人歩き、何時しか『男が逃げ、この村のことを、キリシタンが住まうと言うことを、幕府に告げに行くのだ』と言う噂が立った。
このままでは殺されてしまう。
既に情の通い合った二人はそう考え、夜闇に紛れて逃げ出した。
それを知った村人達は『やはり』と合点し、真闇に覆われる山の中、二人を追い、縄にかける。
長の家には、彼らがこの地に来た時より植わっていた、大きな大きな柿の木があった。大人が三人掛かって、漸く幹を抱けるくらいに大きかった。
二人はその柿の木へと括り付けられた。互いが互いを知られぬ様、表と裏に。
まずは、自分達を裏切ったとされた女が目覚め、罵詈雑言を受けつつ首を刎ねられた。
次ぎに、目覚めた男は、女が死んだことを知らされ、互いの身の上を嘆くと同時に、村人達へと怨嗟を込めて叫びながら首を刎ねられた。
死体は見せしめの為、三日三晩その場に晒され、後に柿の木の下へと埋められた。
そして翌年。
柿の木から奇妙な虫が現れた。最初は、二匹。次いで四匹、十六匹……と、徐々に増え続け、虫は村の畑を食い荒らす。
切っても潰してもその虫は死なず、人々は途方に暮れていたのだが、収穫不能となったそれを見届けるかの様に、虫は蝶へと還り、村から飛び去って行ったのだ。
漸く見ること適う様になった柿の木の下へ、彼らは立っていた。
日本庭園の見本の様な庭であったが、ただそこに聳え立つ一本の柿の木が、全ての印象を変えている。
うっそりとした枝振りは、言い方を変えれば重厚な……となるのかもしれない。
「何か、強いな」
啓斗が言うのは、そこに立ちこめる陰気な空気のことだ。力をなくしつつあったとしても、元となる木の周囲では、少しばかり状況が違うのかもしれない。
虫が多い。
外とは比べものにならない程だ。
シュラインが、録音していたMDを再生すると、瞬間虫たちの動きが止まり、徐々にそこから動き出すも、何処からともなく発生する所為で、少なくなった様な気がしなかった。
「既に伝説の域を出ないとしても、やっぱり人を殺し、それをずっと隠し続けていたのなら、明るみには出したくないんでしょうね」
納得のいかない顔をしつつも、そんな身勝手な心根は、人ならば誰しも持っているのかもしれない。
執念を感じてしまうのだが、それ程までして守る必要があったのかどうか、外の世界にいる彼らには解らなかった。
目の間にある柿の木は、確かに大木であり、人を二人くらい、軽く括り付けることは可能だろう。
「何だか可哀想ですね……」
殺されてしまったと言う男女を思ったのか、シオンがしんみり呟いた。
シオンが考えた様な、虫の出てくる穴は存在しなかったのだが、それはきっと、目に見える形ではないと言うことなのだろう。
「この柿の木は、少しばかり変質しているのかも知れませんね」
モーリスはその根元に、何か感じたのだろう。
彼の見立てでは、木は百年と言わず、その倍以上はそこに存在してることが解った。恐らく、三〜四百年と言ったところで、もしかすると最古の柿の木なのかもしれない。
その彼の言葉に、啓斗は緊張を漲らせている。
「──っぐ!」
「啓斗?!」
口元を抑え、蹲る啓斗に、シュラインが背中をさする。
「何か感じたのですか?」
そう言うセレスティの口調にも、何か思うところがある様だ。
「ここ、……何かある」
「ままま、まさかっ、死体ですかっ!」
青くなったシオンは、そこから慌てて飛び退いた。
「流石にそのままは残っていないでしょう」
モーリスにそう言われ、恐る恐る戻って来るも、やはり腰が引けている。
「確かめてみるのが一番でしょうね」
セレスティの視線は、三下に向いていた。
「出番ですよ」
モーリスの視線も、三下に注がれていた。
「頑張って下さいっ」
シオンの視線も、三下に釘付けだ。
「シュ、シュラインさん……」
縋ろうとシュラインを見るも、彼女は真剣な面持ちで、御神酒をちょっぴり分けてやるだけにした。ついでにあの音を録音したデッキも手渡される。
「しっかりね。きちんと送ってあげないと、成仏出来ないわ」
更に漸く復活した啓斗まで、迫力の籠もった笑みを向けている。
「虫たちもそうだが、やっぱり全てを炎で浄化するのが一番だ」
「素手で掘れと言うんですかぁっーー?!」
「あ、これをどうぞ」
シオンは三下から買って貰った虫取り編みを渡す。
「土が零れちゃいますよっ!」
いや、それ以前に掘れないからと、二人を除く四人は思った。結局、庭のお手入れに使っていたとみられる大きなガーデンショベルを手渡される。
「うっうっうっーーー、お父さん、お母さん、先立つ不幸をお許し下さいぃぃーーーー」
「安心しろ。充分今でも不幸だから」
三下に、真面目腐って啓斗が教えてあげた。
彼を知らない者なら、これが冗談だろうと思うところだが、啓斗は大マジで言っている。
そろりと根元に近付くと、周囲を飛び回っていた虫の動きが代わり始めた。
ヴォン、と。まるで柿の木を守るが如く、集まってくる。
シュラインがMDに、自分の声も加え始めた。複数あれば、各所に設置も出来たのだが、生憎紗妃子の家と、かなえの家に一台ずつしかなかった為、もう一つは家の近くに設置してある。御神酒は自分が、肩に抱えて持っていた。声がダメなら、これで柿の木を清めることも考えて。
啓斗が取り出したのは、小太刀ではなく雌雄一対の刀だ。両刃は潰されているが、代わりに啓斗の意を受けて、炎を纏うことが出来るのだ。小太刀が効かないことは、先の遭遇で解った。少しばかり消耗するが、こちらで戦うが吉だろう。一つの刀を割り、啓斗は両手でそれを構えた。
セレスティは水にて周囲に被害が広がらぬ様、結界に似たものを作っており、更にモーリスの檻でこの屋敷を囲んでしまっていた。虫が逃れてしまっても、こちらで行う戦闘行為に依る被害は、これで防げる。屋敷内なら、人にはセレスティの魅了の力が効いているし、壊れてしまえば、モーリスが直せば良いだろう。何とでも言い逃れが出来る。
シオンはどうしようか迷っている。啓斗の言った炎での浄化が、この哀しい虫たちや、それの元になっている者達を助けることが出来るのなら、左の手袋と指輪を取ってしまうか……。そう思い、ウサちゃんを見ると、『何迷ってんのよ、あんたはっ』と言っている様に見える。シオンはぐっと、拳を握りしめた。
へっぴり腰の三下は、ガーデンシャベルを振り上げる。
「神様仏様、編集長さまぁぁぁぁっっっ!!!」
如何にも三下らしい叫び声は、そのまま戦闘開始の合図となった。
いきなり増えた虫の所為で、真っ先に三下が気絶した。
その為五人は、三下をひっつかみ、一旦柿の木から離れることとなる。
ヴォンと聞こえる羽音は、シュラインの声とデッキから発せられる音に、一進一退を繰り返す。けれども少しずつ、虫は勢いを増している様にも見えた。
「長期戦は、あまり楽しいことにはならない様ね」
険しい表情を浮かべたとて、彼女の凛とした美しさは損なわれることがない。
シュラインは、再度大きく息を吸う。
腹に力を込めながら、けれど眠る二人の心に届けと、その願いを織り込んで、浄化へと導く音を全霊を込めて響かせた。
啓斗の意識を受けた刃は、徐々にその温度を上げていく。切り裂く虫は、今度こそ小さな結晶となって浄化された。負に引き込まれるかと思った周囲の気は、握る刃──雌雄一対の剣と呼ばれるそれと彼が共鳴し合うことで、打ち消される。
「行けるっ」
叫ぶ啓斗。その身は軽く、まるで猿(ましら)の如く、上空の虫までもを相手にした。
「檻がダメなら、こちらは如何です?」
何処か悪戯な、そして優雅な肉食獣めいた微笑みを浮かべて言うモーリスは、彼の本来の力を解放した。
彼の呼び名は主から受けた『モーリス・ラジアル』であると共に、『ハルモニアマイスター』でもある。
『あるべきものは、あるべき場所へ、あるべき姿へ』と導くその力は、彼の周囲を取り巻く虫たちにへ黄金の流れとなって注がれた。
金色がそこから失せる頃、モーリスの周囲の虫は、全て消えてなくなった。
シオンの性は、『青い炎のイフリート』。
けれどそれを露わにすることは、彼の好まぬことでもあった。
それでも。
「このままでは、あまりに哀しすぎます」
虫と化してまで人に仇成そうとしたけれど、今はその目的すら果たせず、ただの徒と成り果てている。勿論人を傷つけることなど許せる筈もなく、けれどその言葉は伝わらない。ならば、シオンが出来ることは、穏やかに眠って貰うだけだ。
皮の黒手袋、そして青い石の指輪は、彼の封印。今それを剥ぎ取った。
青白い炎を纏う鮫が、彼の左手から姿を現し、虫と言う鎧を溶かしていった。
杖を突きつつ、その場に佇むセレスティは、不意に、まるでタクトを奮う指揮者の如く、指先で水を操った。
聖なる水は、虫を包むと、優しい眠りへと導いていく。
「安らかにお眠りなさい」
まるで天上にあるが如くな美酒の煌めきは、主の意のまま、赤子をあやす揺りかごへと姿を変える。
それに揺られた虫たちは、全ての怨嗟を解き放ち、その形を崩して行った。
一度は増加したものの、徐々に減りつつある虫。
群がる虫を、右手(めて)の刃で焼き尽くすと、啓斗は大木をクッション代わりにして身を捻った。
降り立ったのは、シオンの真横だ。背後を取るのはセレスティ。
「シュラ姐っ! 御神酒貸してくれ!」
シュラインが微かに頷くと、後ろも見ずに、肩にかけた御神酒を投げた。
見事に掴んだ啓斗は、セレスティとシオンの二人に向かう。
「一気に虫を消す。一緒に手伝って欲しい」
啓斗の持つ両手の刃は、炎の精霊を宿している。シオンもまた、己自体が炎の精霊。相性はあるかもしれないが、相乗が起こる方に賭けた。
対するセレスティは、水を支配下に置く者だ。
どれも聖性を持っている。
「セレスティさんの使う水と、シュラ姐が貰った御神酒。それを俺の剣が持つ力と、シオンさんの炎で浄化の力を高める」
淡々とした台詞だが、啓斗の意志が伝わる様だ。
「虫を消せば、本体も鎮めることが出来るでしょうね」
解ったと頷くセレスティ。シオンを見ると、戸惑いを隠せない様だ。
「で、出来るんでしょうか……」
「シオンさん、出来るからっ!」
シュラインの厳しい声が飛ぶ。
「早くっ!」
次いでモーリスの声も飛ぶ。
会話をすることで、一時的にも戦線離脱状態になっている為、攻防はシュラインの声と、録音した音、そしてモーリスの力のみとなっている。
「解りました。……頑張りますっ」
啓斗の持つ剣に添える様、シオンが手を置く。セレスティが二人の横に立つと、静かに言った。
「行きますよ」
声と同時、御神酒が壷から溢れ出て、セレスティの水と混じり合う。
「こっちも行くぞっ」
「はいっ」
二つの刃が赤く輝き、シオンの鮫が刃を滑る様に泳ぎ出す。
まるで爆発した様な炎が、二人の手元から出現した。
勢いを持つ水と炎は、互いに混じり合う様を見せず、ただ絡み合い、うねりを見せて直進する。
水と炎、互いに相反する性を持つそれらが鬩ぎ合い睦み合う様は、まるで永劫に結ばれぬ星の下に生まれた恋人同士にも思えた。
炎の熱、そして水が大気から行う吸引は、その場に凄まじい轟音を生み出している。
超聴覚を有するシュラインは、そのあまりに影響力の強い音を聞き、意識が引き離される様な錯覚を受けた。
声は既に出ない。
セレスティと啓斗、そしてシオンは、彼ら三人の放つ勢いを制御する為、彼女を気遣うこともままならぬ。既に意識を手放している三下を、己の保護下に入れたモーリスは、シュラインの下へと駆けつけると、その負担が軽くなる様、彼女の周囲から音を遮断すべく空間を区切った。
大木へと到達すると、それは激しく螺旋を描く。
朽ちてしまっている筈の二人が、柿の木の根元より、徐々にその姿を現し始めた。
「見えたっ!」
啓斗が叫ぶと、セレスティ、シオンの二人が頷いた。
激しく木の周囲を巡っていた三つの色は、それを目がけて進路を変える。
包み込んだ三人の力の所為か、黒くぼんやりとした人影が、その中に浮かび上がった。
呪う様に、けれど嘆く様にも絵姿を変える二つの影を、その場にいた皆が認める。
シュラインが静かに立ち上がると、モーリスが彼女の意を悟り、空間を解放した。響き渡るのは、鎮魂を願う優しい声音。
ゆらと揺れる二つの影は、徐々に暖かな光を帯び始めた。
シオンはその様子を見ると、安堵の溜息を吐く。
セレスティが全てを包む笑みを浮かべた。
「もう、終わりにしましょう」
その時、全ての色が弾けて消えた──。
「ふう……ん。キリシタンね」
麗香がそう言って、レポートに目を通す。
「あの虫が、所謂常元虫であったのかどうかは、定かではありません」
「伝説が、捻曲げられて伝わった可能性もある訳だし」
「あるのは状況証拠のみだな」
セレスティ、シュライン、啓斗の感想だ。
「虫のことで反応が分かれたのは、外に出て行く可能性のあるものには、知らされていなかったかららしいですね」
あの地に根付く者のみに語られることだったから、かなえや紗妃子達が知らなかったのだ。この地に生まれたとは言え、外で家庭を持つことがあるかもしれない。
「このことを知られるのは、どうにも不味い、そう思ったのね」
答えつつ、麗香は三下の書いたレポートを読み終えた。
「胸に刻むは恨みの念、背なに刻むは憂いの刻印……って訳ね」
ほうと、一息。
「三下くん、書き直し。前から言ってるでしょ。もっとホラーにっ! もっとセンセーショナルにっ! あんたの文章には、面白味がないのよ」
『だったら編集長が書けば』と言いたいだろうが、根性無しの三下に、言えよう筈もなかった。
シュレッダーへと落ち込んでいく白い原稿用紙を見つつ爆涙垂らしている三下を目の端に捕らえ、面々を代表したシュラインが、気になっていたことを尋ねた。
「ねえ、麗香さん。私達以外に、誰か応援頼んだ?」
それを聞いた麗香の顔から、答えは聞かずとも解った。
「まさか。そんなことしてないわよ。何故?」
「大したことではないんですよ」
「ならばもう、宜しいのです」
口を開こうとした麗香にモーリスが答え、更にセレスティの微笑みに、麗香はヘンなのと思っているのだろうが、聞くことを止めた様だ。
「じゃあ、あれは……」
啓斗がぼそりと呟くと、シオンが言葉を続けた。
「一体誰だったんでしょうねぇ」
Ende
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登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0086 シュライン・エマ(しゅらいん・えま) 女性 26歳 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
3356 シオン・レ・ハイ(しおん・れ・はい) 男性 42歳 びんぼーにん(食住)+α
1883 セレスティ・カーニンガム(せれすてぃ・かーにんがむ) 男性 725歳 財閥総帥・占い師・水霊使い
2318 モーリス・ラジアル(もーりす・らじある) 男性 527歳 ガードナー・医師・調和者
0554 守崎・啓斗(もりさき・けいと) 男性 17歳 高校生(忍)
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ライター通信
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こんばんわ、斎木涼です(^-^)。
月刊アトラス編集部『憂いの刻印』の依頼にご参加頂き、ありがとう御座います。
もっと早くにお届け出来なくて済みません。何時ものことながら、何だか話が膨らんでいる様な……。まあ、宗教に関しては、さらっと流しておりますが。
今回のヒントは『柿の木・人を縛り上げたような模様のある虫』だったのです。虫の正体に当たりを付け、その後過去を調査と言う流れが近道だったのです。
特徴ある虫なので、すぐに見破られるかも……と思ったのですが、マイナーだったのですね。反省。
ほとんどの方々が、あの『ゴ』を思い起こされた様で。いや、私もそう思うかもしれないですけど……(汗)。
そして、謎の人が出ていますが。
まあ、正体はすぐに明らかになる筈です。もう、お察しのことかも知れませんが。
> シュライン・エマさま
何時もお世話になっております(^-^)。
ラストのバトル(……と呼ぶのもあれですが(汗))シーンにて、シュラインさまには彼らを送る歌を歌って頂いております。
街での調査がメインとなっておりましたので、ご苦労させてしまいましたが、虫対策に関しては、シュラインさまの『声』に可成り助けて頂きました。ありがとうございます。彼らも、シュラインさまの鎮魂歌に、安心した気持ちで送られたことと思います。
シュラインさまに、このお話をお気に召して頂ければ幸いです。
ではでは、またご縁が御座いましたら、宜しくお願い致します(^-^)。
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