|
SHADOW DANCER
人通りも途絶えた夜の街。そこに、ぽつりと一軒だけ、明かりがついている店があった。
素朴な木彫りのプレートには喫茶、睡竜亭と記されている。
営業時間はとうにすぎていた。明日の仕込みも終わり、バイトの皆ももう帰ってしまった。たった一人残っているのは、瞳・サラーヤ・プリプティス、この店のウェイトレスだ。
カウンターに立って、一つ一つ丁寧に、カップを拭いて戸棚に仕舞っていく。
明日、このカップを使うお客様が、喜んでくれますように。
瞳は天使のような柔らかな微笑みを浮かべ、そっとまた一つカップを置いた。
唐突に、ドアの開く音がしたのは、その時だった。来客だ。
……どう、しよう……お店、もう、おしまい……なのに……。でも……こんな時間に、くるなんて……とっても、お腹、減って……困ってる、の、かも……。ええと、明日の……朝の、メニューの……トースト、なら……。
ぐるぐる考えながら手を拭いて、わたわたとホールに出る。そこには若い男が立っていた。反射材の付いた黒い制服を着ている。交通整理員だろうか。温かなランプの明かりの下で、その黒ずくめの格好はひどく不釣り合いだった。
「……けて、くれ……」
男の声は掠れていて聞き取れなかった。きょとんとする瞳に向かい、男は身を乗り出し、ぐいと強引に瞳の両腕を掴んだ。揺さぶられて、瞳の白い胸が弾む。
「きゃ……」
「お、俺を、助けてくれ。あ、あんた、一緒に来てくれ」
瞳は男の腕を振り払わなかった。男の目の奥に、恐怖の色が見える。その恐怖を取り去ろうとするかのように、瞳は穏やかな微笑みを返した。
「何……が、あったん、です……か?」
「そ、それは……」
男はパクパクと口を開け閉めするばかりだ。瞳は優しい仕草で男の手をはずすと、そのままそっと自分の胸に押し当てた。
指先に、包み込むような温かな感触。甘い安心感に男は目を細めた。そして次の瞬間、事態に気が付いて慌てて手を引いた。
「……落ち着き、ました……か……?」
瞳は聖母のように微笑むだけだ。
「一緒に……行けば、いいんです……ね」
男は黙って一度頷いた。
男に連れられて何度か道を曲がると、行く手に眩しい光が見えた。白い人工的な光は投光器によるものだ。そこに浮かび上がるシルエットは小型のトラックとパワーショベル、それにいくつかの人影。
「……道路、工事……ですか……?」
瞳は前を行く男に問いかけた。この付近は日中の交通量が多い。夜間の道路工事は珍しくなかった。男はふり返らず、うわごとのように呟いた。
「ちょっと掘って、埋めて、終わりのはずだったんだ。それが、あんなモン掘り上げちまって……」
「……あんな……もの……?」
現場は投光器のおかげで昼より明るい。
アスファルトが剥がされ、長方形に地面が掘られていた。深さはそれほど深くない。そのまわりを作業服を着た男達が取り囲んでいる。
瞳は首をかしげた。
作業員達は、微動だにせず、頭を垂れ、ただ立ちつくしている。まるで電池の切れたロボットのようだ。
……一体……何が、起きて……?
現場まで数メートルというところで、前を行く男がぴたりと歩みを止めた。
「……や、やっぱり、あんた、来ちゃ駄目だ」
がたがたと震えながら、壊れたおもちゃのようにぎくしゃくとふり返った。
「はやく、こっから、逃げ……」
男の言葉は、そこで、遮られた。
四角く掘られた穴から、ぼこりと黒いものが湧き上がった。それは音もなく地を走り、男の足に絡み付いた。影が落ちるように男の顔が黒く染まっていく。男は苦しげに喉をかきむしった。だが、その腕はすぐに力を失い、だらりと垂れた。
「だ……大丈夫、ですか……?」
瞳は男に駆けよった。
その顎めがけて、一度垂れた男の腕が勢い良く振り上げられた。
……え……?……
瞳はひらりと半身を逸らした。男の腕は空振りし、後に残った瞳の銀の髪を乱す。腕は今度は横薙ぎに瞳の胸を狙った。
こんな稚拙な攻撃を避け続けることは、瞳にとっては造作もない。だがそれでは埒が明かない。何が起きたか見極めるには、とりあえず男を止めなくては。
……出来る、だけ……傷つけないように……
体に当たる寸前、瞳は両手で男の腕を取った。軽くひねって、打撃の勢いをそのまま相手に送り返す。まるで魔法のように男の体が宙を舞った。瞳の修めた「古式退魔流合気柔術」の技の一つだ。
鈍い音を立てて男の体は地に落ちた。これで、しばらくは動けないはずだ。
傍らに膝をつくと、瞳は男の体を確かめる。気を失っているようだが、肌は黒に染まったままだ。しかし何より確かめるべきは……
……よかった……怪我、させて、ない……
瞳はほっと息を吐いた。それから、申し訳なさそうに眉根を寄せ、小さな声でささやいた。
「……ごめん、なさい……。今……助けて、あげ、ます……ね」
「……くっくっくっ……。随分と甘いことだな」
瞳の優しさをあざ笑うかのように、低い声が背後から響いた。
「……誰、ですか……?」
瞳はゆっくりと立ち上がり、ふり返った。
作業員達が、一様に瞳に顔を向けて立っている。その顔は、先ほどの男と同じように影の色に染まっている。
……さっき、は……地面の、穴……から、影が、伸びて……来て……
そして、瞳は気が付いた。
男達の影はどれも、一点に集まっている。いや、むしろその逆だ。地に掘られた穴から放射状に8本の影が伸び、その先が男の体に繋がっていた。
……あの、穴の中、の……何か、に……操られ、て……?
一歩、瞳は歩み寄った。
それに呼応するように、穴の奥から、影がぶくりと膨れあがる。それは4つ足の獣の姿をとった。影が裂けて、赤い口になった。
「お前、なかなかやるじゃないか」
「あなたは……何者……ですか……?」
瞳は影に問いかけた。影は答えず、大きく口を裂いて、にぃと笑った。
「尾を斬られてしまってね、代わりを集めているんだよ」
獣に繋がった男の影がゆらりと揺れる。あれが尾と言うことだろう。
「魂一つで尾が一本。お前で最後、9本目だ」
「あの人、は……?」
瞳は視線で助けを求めに来た男を指した。彼の体にも、やはり影が繋がっている。
「アレは8本目さ。助けてくれと五月蠅いから、使いに出したんだ。期待はしていなかったが、なかなか良い贄を探してきたじゃないか」
獣は愉快そうに喉を鳴らす。その様子を瞳はじっと見つめていた。
「皆、あなた……の、ため、に……犠牲に、するんです……か?」
獣はやはり答えなかった。
「さぁ、お前でおしまいだ。やっと、9本揃う」
一斉に、7人の男達が瞳に掴みかかった。
一人目は正面からかかってきた。腕を掴み、くるりと宙に舞わせる。そのまま、その体を別な男に当てる。これで二人。背後に迫っていた三人目に向き直り、その勢いを背に当てて地に転がす。
ひらりひらりと、瞳の動きはまるで舞のようだった。夜の闇に、白い四肢が浮かび上がる。細く伸びやかな腕が宙を凪ぐ度、はたりと男が倒れていく。銀の髪が妖艶に見るものを惑わす。しかもその表情は、常に倒れゆくものを憂い、切なげに歪められている。
清らかさと艶やかさ、相反する二つの美が女の舞の中で一つになっていた。
あっという間に7人の男を地に伏せ、その中心で、蠱惑的な聖女は髪を掻き上げた。
「……こんな、こと……しても……私は、捕まり、ません……よ……」
すこし粗くなった息を整え、瞳は胸元をゆるめた。拘束を解かれ、豊かな胸のふくらみが弾む。白い肌にはほのかに緋が差していたが、声は冷たく感じられるほど静かだった。
「ははっ。やるじゃあないか、女」
獣が笑う。
「諦め、て……下さい……。皆、を……傷付け、ない、で」
「そうだねえ」
獣が呟いた。次の瞬間、尾の影がするすると縮んで、獣の元に戻った。バタバタと男達が倒れる。肌の色が、元に戻っている。
瞳は喜びに顔をほころばせた。
「良かっ……た。わかって、くれ…………!!」
しかし、瞳の優しさは儚くも裏切られた。
獣の尾が一斉に瞳に向かって地を走る。
細い白い足首に、黒い影が絡み付く。
「あ……っ……!」
「他はどうでも良い。お前から、手に入れることにしよう」
ぞわぞわと、禍々しい『何か』が足元を這い上がってくる。刺すように冷たく、灼けるように熱く、嬲るようにじわじわと。
瞳は嫌悪感に身をよじる。上半身は動くが、足元は縫いつけられたようにぴくりとも動かない。あるのはただ、つま先から舐め上げられているような、感覚だけだ。
影はゆっくりと膝を越え、滑らかな太腿をなぞっていく。ガーターベルトの隙間から、白い肌が夜の色に染まっていくのが見えた。瞳は思わず目をそらす。
代わりに、地に倒れた男達の姿が見えた。意識はないが、取り立てて外傷もない。なにより、彼らの肌は人間らしい暖かな色のままだ。
「私、が……」
瞳は声を絞り出した。
「あなたの、ものっ……に、なれ……ば……っ」
影は既に腰を染め上げ、小さな臍に達しようとしていた。せめてもの抗い、と、瞳は両腕を天に伸ばす。その姿はまるで見えない鎖で吊されているようだ。
「このっ……人、達、は……助けて……っ……くれる……の……?」
瞳は顔を上げ、青い左の目で獣を見た。上気した頬に細い髪が張り付いている。その姿は扇情的だが、瞳の目は清らかな慈愛に満ちていた。
獣の口が大きく横に裂ける。それは、心底可笑しそうに、にぃと笑った。
「とんだお人好しだねぇ。逃がすわけないだろう? お前を手に入れた後で、再び取り込むのさ」
瞳の目から、つぅっと雫がこぼれ落ちる。
「……じゃあ、あげられ、ない…………ごめん、なさいっ……」
自らに科した戒めをふりほどき、瞳は眼帯に手をかける。
そして、まばゆい光が、あたりを包んだ。
男達が目を覚ましたのは、すべてが終わった後だった。
「あんた、無事……だったんだな、あいつは行っちまったのか? いやぁ、よかったよかった」
男は、ぼんやりと座り込んでいた瞳に手を差し伸べた。そして彼女の顔を見て大声を出した。
「あ……! あんた、泣いてんのか」
男はごそごそとポケットを探り出した。ハンカチでも探しているらしい。
「そ、そりゃそうだよな。あんな化け物にひどい目に遭わされて、いや、そんなことより、巻きこんじまって、悪かったってぇか……」
ああ、やっぱり入ってねぇ……。男は絶望的な表情で顔を上げた。
瞳は静かに首を横に振った。男は何も理解していなかった。だが、少なくとも、ここに護れたモノがあることは、彼女の救いになっていた。
「……怪我、は……ありません、か……?」
男が頷くのを見て、瞳は安堵の吐息を漏らした。そして、はにかむ様な微笑みを浮かべた。
「よろし……かったら、お店、へ……どうぞ……。温かい……飲み物、でも、いかが、です……か?」
それはやはり、天使のような、柔らかな笑顔だった。
|
|
|