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〜君思う 豪雨打つ胸の痛みを〜
「これで、最後…」
天城凰華(あまぎ・おうか)は、髪の先から滴る水を苛立たしげに払うと、肩で大きく吐息した。
既に何人もの人間の人生を狂わせ、そのうちの数人を、無理矢理死出の旅路に発たせた、その凶悪な悪霊たちを、今日は一度に祓ったのである。
目の前に、斬られた姿で揺らめいていた最後の一体も、程なくして煙のように霧散した。
彼女が祓うのは、そういった、現実に害をなしたものたちだけである。
ため息に似た吐息をひとつこぼして、凰華は剣を頭上から振り下ろして、緑色に染まった敵の血を払った。
念のため、辺りに気を集中して、これ以上敵がいないことを確認し、それから、近くの崩れたコンクリートに腰を下ろして、空を見上げた。
鼻先に、水の気配。
ぽつり、と雨が当たったのだ。
「雨、か…?」
見れば、空は今にも泣き出しそうな色をしている。
そして、実際に涙がひとつ、ふたつと天から落ちて来た。
凰華は場所を移動した。
廃墟であるので、雨宿りが出来そうな場所を探すのに苦労したが、それでも身一つ、雨から守れそうな場所を選んだ。
ようやくゆっくりと腰を落ち着けると、今度こそ激しく降り出した雨を見つめた。
湿った空気が否応なしに鼻をつく。 黴臭いにおいをまといながら。
ただ言葉もなく雨を見つめる彼女の目の前に、ある光景がだぶって見えた。
容赦のない、叩きつけるような雨。
「そういえば、あの日もこんな雨だったか…」
脳裏にひらめく、哀しい記憶。
いつもは奥底に閉じ込めて、決して鍵を開けないようにしてきた、古い記憶。
もう九百年もの時が経つというのに、まったく色あせずに、この胸にある。
普段冷静沈着を言われる、感情表現の乏しい表情に、一抹の苦渋がにじんだ。
雨は、いたわる気配もなく、彼女の心の奥深くからその記憶をこじ開けて、彼女の目の前に展開した。
まるで、あざ笑うように、鮮やかに。
「はあっ、はあっ…」
荒い息だけが鼓膜を打った。
(もう駄目だ、腕が、上がらない…!)
足はもつれて、何度もよろけた。
人里からはるか離れた深い森の、そのまた奥にある清冽な湖のほとり。
彼女の一族がひっそりと棲むその里は、上がる白煙と真っ赤な炎と、細くうめく声、陰鬱な鉄のにおいに満ちていた。
そしてそれらを流し去るような激しい雨。
誰もこの場所を知らないはずだ−−一族以外には。
彼女たちの種族の持つ強大な力は、人の手に渡ってはならなかった。
その者に、この国を、手に入れさせることが出来るのだ。
だからこそ、一族の長はこの里を選び、人から決して見えない結界を幾重にも施して、静かに隠れ住んできたのだ。そのことを恨む者など、誰一人としていなかった。彼女たちの一族は、戦いを嫌っていた。ただ穏やかに暮らせれば良かった。それが、一族の本能である、「闘争への執念」を無理せず封じることが出来たからだ。本能に翻弄されるのは、一族の者なら、誰であれ嫌だった。
だが、だがーーこの光景は何だ。
目の前に転がる、この死体の山は。
すぐそこで息絶えたその顔は、先日まで湖で釣りを楽しんでいた近所の子供ではないか。
焼かれた建物の入り口にもたれかかるようにして死んでいるその女性は、昨日子供が生まれたばかりだと言っていた。
子供は、建物の中にいたのだろう。
凰華、いや、ルヴィアは目を覆いたくなった。
誰だ。
誰がこんな現実をもたらしたのだ。
右手に残る生々しい感触は、敵を斬った時のもの。
それまで、戦いなど知らなかった彼女が、初めて知る感覚だった。
今になって、それを思い出す。
周りに動く者のいない、今になって。
右肩から左の腹に向かって、焼けるように熱かった。空いている手で触ってみると、べっとりと血がついた。どうやら、止まる気配は、ない。
ルヴィアはどさりと地面に座り込んだ。
もう立っている力がなかった。
そんな彼女の目の前に、ふらりとひとりの男が現れた。
うつろな目で見上げると、その男は何と無傷だった。
そして、その顔はーー
「よう、ルヴィア、まだ生きていたか」
鼻にかかるような声で、馬鹿にしたように笑うその男は、一族の長の三男だった。
放蕩息子と言われ、一族から出たがっていることは有名だった。
だが、剣の技量はこの里でもかなり高く、森に棲む動物たちをむやみに斬っては、長から張り飛ばされていた。
「他に鍛錬する場所がねえんだよ!」
その男はそう怒鳴り散らして、よく家を飛び出して行ったものだ。
だが、結界が彼の行く手を阻み、数日すると荒れに荒れながらも戻って来たのだった。
ルヴィアはそんな彼が嫌いだった。
簡単に命を奪うところも、戦いを好むところも、何もかも。
そして、彼女は気付いてしまった。
誰が、この里に魔族を呼び寄せたのか。
「お前が…お前がこんなことを…」
「ああ、そうさ。俺が招いたのさ」
にやりと笑って男は言った。
「俺はこの里を出たかった。俺の力があれば、こんなちっぽけな土地にすがりつく必要はねえ。毎日毎日、結界の一部にほころびを作るために、力を乗せた剣を叩き込んだんだ。それだけさ。魔族はそのほころびが出来るや否や、この里になだれ込んだ。血に飢えてなあ」
「貴、様…貴様ぁあああーーーー!!」
痛みは感じなかった。
ルヴィアは右手の剣にすべての力をこめて、なぎ払った。
男は軽くそれをかわし、自分の剣で受け止めた。
「はっはっは!一族最強と呼ばれるお前も、こんな程度か!」
「な、に…?」
「何だ、知らないのか?」
鋭い音と共に、剣をはじき返して、男はぺろりと唇をなめた。
「お前は、一番神竜の血を濃く受け継いでるんだぜ?オヤジがよく言ってた。だがなあ!」
男は高く振りかざした剣を一気にルヴィアに振り下ろした。
間一髪でルヴィアは身をかわす。
だが、ざっ、と頬を刃先がかすって、血の珠が飛び散った。
「くっ…」
「だがなあ、お前さえ死んじまえば、この俺が最強だ!何せ、もうお前以外、残っちゃいねえんだからよ!」
男は力強く彼女の前に踊り込み、彼女の無防備な胸元に剣を叩き込んだ。
それを何とかこらえて、ルヴィアは相手の切っ先を流した。
「ほらほら、手元がお留守だぜ!」
まるで揶揄するかのように、男の剣先が彼女の体に傷を増やしていく。
胸の傷は痛みでうずき、血がとめどなく流れていく。
「ほら、死ぬぞ、死んじまうぞ!」
ザクッと右の腹に切っ先が沈む。
がくりと彼女は膝をつきかけた。
それを狙って、またしても肩から血が吹き出す。
「すべて死んだ、全員だ、皆殺しだ、ははははは!」
狂っている、と彼女は思った。
そうだ、この男は狂っている。
そうでなくては、どうしてこんな光景を見て、笑うことが出来るのだ。
涙しか、涙しか出ないはずなのに。
その瞳が、先ほどの少年を捉えた。
どうして、とその目は訴えている。
どうして魔族が、と。
この男だ。この男がすべてを−―すべてを、こんなふうにしてしまったのだ。
ルヴィアの全身の血がざわめいた。
怒りがすべてを支配する。
彼女の右手に、激しい怒りが灯った。
雨音が耳障りに、鼓膜を打つ。
「うわぁあああああ!」
ルヴィアの体が宙に舞った。
風を切る轟音と共に、その剣を男の頭頂めがけて振り下ろした。
その速さは風のようで、男は目を見開いたまま、呆然とつぶやいた。
「まだ…まだお前に…そんな力が…」
「一族の、仇ーーーー!!!」
ルヴィアの神速の剣は、男の体を真っ二つに切り裂いた。
眼前が緋色に染まる。
男が力なく倒れる様を見下ろして、彼女は頬をぬぐった。
「う…」
ふらりと体が傾いだ。
もう立つ力は残っていなかった。
体中が激痛で痛み、目の前がかすむ。
ああ、私は死ぬんだ、と思った。
ここで、みんなと共に。
それもいい、と彼女は唇だけで笑った。笑ったつもりだった。
ひとりだけ残されるくらいなら、と。
そして彼女は、豪雨の中、深く暗い闇の中に、落ちていった。
「だが僕は生き残ってしまった…」
自分の手のひらを見つめ、凰華はつぶやいた。
あの時あんなに願ったのに。
一族の中で最強であるということ−−それは、神竜の血を一番濃く受け継いだということ。
それが、とりもなおさず、彼女が安らかに一族と共に滅び去ることを許さなかったのだ。
「僕はいつか、あの穏やかさを取り戻せるのだろうか…」
凰華は願う。
いつか、その日が来ることを。
彼女の戦いの日々が、終わることを。
雨は、そんな彼女の目の前で、激しさを増しながら、降り続いていた。
〜END〜
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