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後に残されるは姿無き影。
――その冬、最初に降る雪は女神の使いであるから捕えた者は罰を受けるだろう。
海浬のいるこの世界。つまりは天界で、人々の間で静かに信じられてきた古い伝承。しかし常春であるこの天界ではそんな伝承などは係わり合いの無い話である。否、『話であった』。――彼女が、姿を消してしまうまでは。
彼の主であった『慈愛の女神』、シャーナはもうこの世界にはいない。
『追放』された――と海浬は耳にした。それはあまりにも唐突で、考えにも及ばない事実にすぐさま受け入れることも出来なかった。
だが、いくら探してもシャーナはいない。
かつて彼女の愛でていた庭園へとこうして足を運んでも、無駄な行動であると言うことは海浬にも判っていた。
「……………」
真っ白な花が広がる庭園の中、立ち尽くしている海浬は自分の右手を強く握り締める。
慈愛の女神である彼女が、たった一人に愛情を注ぐと言うことはこの世界の均衡を崩すも同じこと。決して選んではならない路だと。そしてそれは愚かな行動だと。
そう、言っていたのは誰だったか。
海浬は自分を落ち着かせるために、深く息を吸い込みゆっくりとそれを吐いた。
今も美しく咲き誇る白き花は、主の不在を感じ取っているのか心なしか悲しんでいるようにも見えた。
シャーナが天界を去った今、彼女の代わりとなる女神が必要だった。『空席』を埋める事を強く切望されていた。早々に誕生させるべきだと。その願いの裏に、シャーナの『失態』を悦びほくそえみながら甘い蜜を吸おうと思っている配下の者たちがどれほど存在していたのだろう。海浬もある程度把握はしていたものの、真相まではつかめてはいない。
例え人々から一身に尊敬を集める神々なれど、汚い感情は持ち合わせる。権勢欲というのは、どの世界においても無縁ではないと言うことだ。
――危惧していた。いずれは、こうなってしまうのではないかと。
甘い蜜を欲する者が多数に存在すると感じた以上は、とてもではないが新たな『慈愛の女神』などは当分求められそうもない。シャーナが座していた『席』は、そんな簡単に明け渡せるものでは無かったからだ。それこそ、彼女以上の器量の持ち主でなくては認められもしない。
「………シャーナ様」
海浬は誰もいない庭園の中でひとり、言葉を漏らした。
それに答えるものなど、何処にもいない。
彼を包み込むものは、花の香りだけ。
――この世界は今、あまりにも脆かった。永きの間に築かれていた礎が、一欠けら崩れ落ちたのだ。不安定になってしまっても無理は無い。
シャーナが、存在しないから。
世界の根幹を司る女神の一人が消えたと言うだけで、今まで美しかったものがじわじと色を変える。鮮やかなものから、悲しい灰色へと。どこまでも青く澄み渡っていた空は、濁った色へと。
平和に包まれている空間を歓び、楽しそうに宙を舞っていた白い鳥や美しい羽を持つ蝶たちの姿は、今はどこにも見受けられない。
変るはずの無い空からは、ひとひらの白きもの。ふわふわとしたそれは紛れもない雪。この天界での『初めての雪』だ。
海浬は言葉無くその雪へと手のひらを差し出した。足元の花へと落ちぬよう、受け止めるために。
まるで導かれたかのように、雪は海浬の手のひらの上に降りた。そしてそれは、僅かな時間で姿を変容させ彼の指の隙間を縫うようにぽたりと落ちていく。
「――――」
雫となった雪を受け止めたのは、白い花だった。花びらで跳ねた雫は鈴の音に似た音色で飛び散り、地面へと姿を消した。
止め処なく舞い降りる雪は、まるで庭園の主の不在を嘆くかのような姿だった。
――……貴方の、言うとおりです……海浬――。
ふいに、脳裏を掠めたのはシャーナの声。
遠くない過去にこの場で目にした彼女の姿と、同じ言葉。
彼女はこの言葉を音にするまでに、どれだけの感情を押し殺したのだろう。己の胸の内で。
静かな言葉の後、ゆっくりと瞳を閉じるシャーナの姿を、海浬は忘れることが出来ない。
危険だと感づいていた。自分へと向いている彼女の想いは、あまりにも危険すぎると解っていた。だから、あの時――。
「これが……罰であると言うのか?」
空から零れ落ちるは、冷たき雪。それが伝承どおりの女神の使いであるというのなら。
捕らえた者は『誰』であって、罰を下した者は『誰』であったのか。
雪を受け止めた自分にこそ、罪が降りかかってもおかしくはないだろうに。
もっと、手を尽くせばよかったと言うのか。彼女の想いを真っ向から否定し、それによって彼女が傷つこうともその後のことを考えるならば……。
こう言う結果を、招いてしまう前に。
海浬はそこで、軽く自分の頭(かぶり)を振った。
どんな感情を持ち合わせたものであっても、今更だと。
――私はこの世界全てを――愛しています。それは未来永劫…不変となる想いでしょう。
「シャーナ様……」
海浬の脳裏を、またシャーナが横切ってゆく。
視線の先に、儚い姿を垣間見た気がした。
彼女の身には、余りにも重過ぎた足枷。全ての存在をただ見守り、愛し続けること。
不変だと言っていた。だが、それは違っていた。個人に対して特別な感情を持ち合わせてしまった以上は、仕方の無いことなのかもしれない。
目を閉じればまだ脳裏に鮮明に残っている、彼女の影。いつも、いつまでも彼女の存在をこの場で感じ取れるものだと信じて疑わずにいた。それが当たり前とさえ思っていた。そうであってほしいと。
だが、その当たり前の存在が、今は居ない。
ゆっくりと瞼を開けると、残像のようなシャーナの影はどこにも見当たらなかった。
一陣の風が吹く。海浬の姿を包み込むかのように。
一呼吸おいた後、彼は再び歩み始めた。
いずれ、彼女が追放されたという真実は正式に世界へと知らされる時が来るだろう。そうなれば、今以上の混乱が襲ってくるのは明確だ。
止めなくては――ならない。後悔ばかりしていても、この先は何も変わらない。
だから、撤回させなくては。
かつん、と響く海浬の足音。
自分の意思を定めてしまえば、後はもう行動を起こすのみだ。
強さに見え隠れするのは、僅かな悲しみ。それを表に出すのは後回しで――海浬はただ、しっかりと前を見据えて自分の選んだ路を進むしかなかった。
受け止めてくれる存在は、もう居ないのだから。
-了-
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蒼王・海浬さま&シャーナ・ファヌイロスさま
ライターの朱園です。
再びのご発注、有難うございます(^^
前回書かせていただいたお話のその後と言う事でしたが、如何でしたでしょうか。
少しでも気に入っていただけましたら、幸いに思います。
今回は本当に有難うございました。
朱園ハルヒ。
※誤字脱字が有りました場合、申し訳有りません。
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