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<東京怪談ノベル(シングル)>


花を求めて夢を断ち


 街路樹の並びはまだ大分緑を残していた。秋の色彩として浮かぶのはやはり黄葉ではあるが、つい先日までの真昼の陽気は九月十月のそれとは思えぬほどの暖かさ。首まわりに飾った紅のマフラーが、かわりとばかり道往く人々の視線に鮮やかに咲き綻ぶ。ようやくここ東京にも秋の声が耳を澄まさずともはっきりと届いた頃、シュライン・エマは勤め先である興信所近くを颯爽と、つまりは些かの速歩で巡っていた。
 軽く羽織っただけのカーディガンでは心許ない風の冷たさだが、鞄も持たずに財布ひとつを握りしめた姿からも、すぐに戻るつもりではある。ただ肝心の用事を済ます先を決めかねて、彼女にしては珍しく界隈を行きつ戻りつ、紺瑠璃の眼差しも店々のショーウィンドウをさ迷っていた。立ち止まる店はいずれも飲食店の類で、特に洋菓子、和菓子の店の前では商品をじっくりと吟味しては、溜息。先ほどからその繰り返しである。
 先方から来訪の旨電話があったのが一刻前。ちょうどおやつの時間と称し、他の調査員とともに興信所の菓子を“処分”したのがそのまた一刻前である。もともと賞味期限が判然としない菓子ばかりではあったので、新たに買い足すつもりではいたが、あまりに計ったようなタイミングだった。否、実際、タイミングを計ることが可能な相手なのかもしれない。興信所の客ならそのような能力を有する人物であっても不思議ではない。
 問題は、その客、依頼人の提示した報酬が、控えめに言ってもかなりの額だった、という何とも世知辛いところにある。今月も苦しいのだ。先月も、先々月も同じく苦しかったが、何も懐ばかり季節を先取りしなくとも、とはしみじみ思う。とにかく、そんな事情から何としても逃してはならぬ依頼人には違いなかった。興信所にたむろするだけの調査員たちを帰して、所長はざっと所内の片付けを、そうして事務員であるシュラインは茶菓子の買出しにと出ている次第。
 さて、次なる問題は、客の好みである。即ち和洋どちらの菓子を買い求むるべきかであるが、何せ初見の客とあっては、それを知る由もない。常ならばここで本領発揮となるところだが、推測するにもその材料が少なすぎた。せめて電話の応対をしたのが自分なら相手の声音から色々と察せたものを。そうつらつら考えるも仕方なし、次の往復で決めてしまおうとシュラインは、結局通りの隅まで来てしまっていた足を止め、秋風すさぶ路をまた戻りかけ。
 ゆらり、と青の胡蝶の舞う姿を見た。
 無論、秋を通り越して暦は冬になろうかというこの時節に、そのような真ッ青の蝶を見かけるはずもない。通りがかった呉服屋の店先に、並んで掛けられた反物一反のひいらり、風に煽られ翻っただけのことである。しかし釣られるよう窺えば、着物は花車の滑る銀漢を追うように飛ぶ、青き蝶の柄。ともに吊られる他の着物と同様、子供用のものであろう。改めて店を眺むれば、大きく七五三と記した幟があった。子供たちの成長を祝すその行事は来月の半ばだ。霜月、と呟いて、もうひと月でそんな季節なのだと改めて驚く。年の終わりまで三月を切っていた。そう日を数えると、妙に忙しく感じてしまうのは気のせいか、と思ってから、たしかに今は急くべき時と青の蝶から視線を逸らす。
 そしてふと、別色の蝶を、思い出した。
 シュラインは今度こそ確とした足取りでその店を目指す。そこへすいと赤色が過ぎって、暫時歩を止めた。眼で追えば、街なかで出逢うのは珍しき、あきつ。

 片手に財布と紙袋を提げて、草間興信所に戻ったのはそれからすぐのことである。
 一応の雇用主である草間武彦は、窓を背に置かれたデスクではなく、来客用のソファーにだらしなく凭れていた。それでも事務員の戻りを知るや心持ち姿勢を正してしまうのは、日頃のふたりのやり取りからすれば当然の反応であろう。火を点けずに銜えただけの煙草を見遣って、シュラインは紙袋を手に隣の部屋へ消えようとする。それを武彦が呼び止めた。
「菓子、まだ準備しなくていいぞ」
「あら、どうして」顔を覗かせ、次いで軽く眉を顰めた。「もしかして、やっぱり来ない、なんてことになったんじゃ――」
「いや、電話はあったがそうじゃない。二時間ばかり遅れるって話だ」
 腕時計にちらと視線を遣って、「六時頃に来るんじゃないか」と言い添えた。
「六時……一時間半はあるわね。仮眠程度だけど、寝られるわよ? 武彦さん」
 シュラインの言葉に、首を大きく反らせて武彦が生返事を寄越す。瞼が重たそうだった。
「……俺はそんなに眠そうに見えるか?」
「ええ」
「一度寝たら五時間ぐらいは起きそうにないんだが」
「ちゃんと起こしてあげるわよ」
 万が一それで起きなかったとしても、有能な事務員が客の相手をすれば事足りるようにも思うが。興信所の代表は一応とはいえこの男なのである。所長が居る時には、事務員に徹していることの多いシュラインだった。
 来客があればすぐに出せるようにと皿や茶の準備を整えてから、シュラインは応接室に戻った。武彦は変わらずソファーの背凭れに身を預けて、目を閉じている。眼鏡は外して、口にも煙草はなかった。
「武彦さん、寝たの?」
 囁きほどの声は、しかししっかりと本人に聴こえたらしい。
「いや、眠りそうではある」
 返事を聞いて、シュラインは武彦の隣に腰掛けた。古いスプリングが僅かに軋む。そのような小さな振動にも、武彦の体はソファーに合わせて揺れた。
「……菓子、何買ってきたんだ?」
「和菓子よ。栗最中と、練り切りで蜻蛉と紅葉。それに蝶々」
「蜻蛉と紅葉は旬だとして、蝶?」
 内容はしっかりしているが、武彦の声は既にうつらうつら、その様に口許を緩ませて、シュラインはゆっくりと喋った。
「直前に見た、蝶があまりにも綺麗だったものだから」
 屋号に蝶の名を冠するその和菓子屋には、年中必ず蝶を象った菓子があった。それを思い出して、シュラインは買い求めたのだ。
「……この季節に、珍しいな……蝶、なんて」
 傾いでゆくその肩を、シュラインはそっと受け止めて、そのまま自分の膝の上へと促した。茶に近い黒髪が膝に広がる。久し振りに間近に見た面差しだった。
 武彦は、蝶、とかすかに繰り返して、その後言葉は寝息に取って代わった。素直にシュラインが季節外れの蝶を見掛けたと思ったのだろう、訂正する気はなかった。
「蝶の夢でも、見るのかしらね」
 それとも蝶になる夢でも、との思いが過ぎり、ゆるく首を振る。蝶になりて夢うつつの境地に至る。はかなきものの譬えともなるその夢を、胡蝶の夢、と云った。
 室内に、さっと西陽が射しそむる。
 沈みゆく陽の強きを遮るように――蝶夢を断つように、シュラインは武彦の目許を掌でそっと蔽った。


 <了>