|
【ホテル・ラビリンス】血まみれの休日
乱暴にドアを開け、雨風とともに転がり込んできたのは、ひとりの女だった。
濡れて、肌に張りついた長い髪。そこに飾られたリボンの赤が、はっとするほどの鮮やかさで見るものの目にしみる。
よろよろと、女の足取りがおぼつかなかった。
そして、床にしたたる鮮血。女は傷を負っていた。服には血がにじみ、特にひどいのは左腕で、二の腕あたりから先が、ほとんどちぎれんばかりの状態で、ぶらぶらと垂れ下がっているばかりだ。
いったい、いかなる災厄、奇禍に、彼女が見舞われたのか、それは余人にはわからない。
ただ、そんな有様の人間にさえ、フロントに立つボーイは微笑を投げかけ、そして言うのだった。
「ようこそ。ホテル・ラビリンスへ――」
† † †
「もうお加減はよろしいのですか」
ボーイは、カフェでくつろぐ客に、コーヒーを差出しながら、訊ねる。
「一晩眠ればもうすっかり」
女――アンジェラ・テラーは言った。
「こう見えて、わたくし、頑丈にできておりますの」
血と埃にまみれていたはずの服は、なぜだか、きれいになっていた。あるいは、同じ服を何着も持っていたのかもしれない。しかも、服どころか彼女の左腕も、あっさりと回復して、何ごともない風なのだ。
「よくお寝みいただけたようですね」
「おかげさまで、ぐっすりと。あ、でも」
コーヒーを啜りながら、アンジェラがボーイを見返す。
「ネズミがいたんじゃないかしら」
「ネズミ?」
ロミオ・チェンの形のよい眉が、ぴん、と跳ね上がった。ほんの一瞬――、このホテルにネズミなどいるはずがない、とんでもない侮辱だと云わんばかりの、青白い炎を噴くような表情が、微笑の仮面をかぶったような美貌のボーイのおもてをよぎったように思われた。
「それとも夢でも見たのかしら。なんだか、ガサゴソうるさかったような気がするんですけれど」
そのときだ。
けたたましい悲鳴が、ホテルの空気を震わせる。
さっと、足早にボーイが駆け出すのを、思わずアンジェラも追いかけた。
悲鳴が聞こえた廊下のつきあたりで、ある客室の扉が開けっ放しになっていた。ロミオとアンジェラはその部屋に飛び込む。
「…………」
中は、血まみれだった。
ひとりの、客とおぼしい男が、無残な、ほとんど肉塊と成り果てて、ベッドの上で絶命している。
「どうやら」
ボーイが口を開いた。
「ネズミではなかったようですね。もっと凶暴な、人をずたずたに引き裂くことのできる何かです」
その表情はどこか嬉しそうだった。……ホテル・ラビリンスにネズミはいない。たとえそのかわりに、もっと危険なものが潜んでいたとわかったのだとしても、ネズミがいないという事実のほうが、ボーイにとっては誇らしく、大事なことであるようだった。
その頃。
ロビーには新たな客たちが到着している。
フロントには誰もおらず、ただ、花をつけたキョウチクトウの枝が無造作に飾られているだけだった。
誰かがベルを鳴らしたので、ほどなくボーイがあらわれるだろう。
そして、ホテル・ラビリンスの優雅なひとときへと、客たちを案内する。……たとえそこに、得体の知れぬ危険な何かが潜み棲んでいたのだとしても。
■第二の犠牲者?
「あ……れ。ここって……」
ドアをくぐって、一秒ほど。時永貴由は目をしばたいて、たたずんでいた。
だがすぐに、事情を察したと見えて、ため息まじりに、フロントデスクに近付く。
「まあ、いいか。急ぎの用でもなかったし」
異界のはざまに存在するホテル・ラビリンス。
ここを訪れるものたちは、皆が皆、自分の意志でやってくるものばかりではないということだ。むしろ、ふいに、なにかの拍子でドアをくぐった先が、このうす暗いロビーであった、というものが多い。
「あら。今日はキョウチクトウなの」
後ろからの声に貴由が振り向くと、カバンを提げたシュライン・エマが立っていた。
「シュラインさん?」
「こんにちは。……原稿があるので部屋を取ろうと思ってきたんだけど」
シュラインは(彼女が作家であることを、覚えているものがどれだけいるだろうか)、フロントに飾られた、紅い花の咲く枝をつついた。
「ちょっと注意したほうがよさそうね」
「まーた、厄介事ですかい」
ぬう、と、シュラインの背後から影法師のようにあらわれた黒いスーツの男は、藍原和馬だ。
「随分とマニアックな花を飾っちゃって、まあ」
「どういう種類の厄介事かわかる?」
「わかりますよ、そりゃ」
くんくんと、和馬は鼻を効かせた。
「これだけ血の匂いがすりゃあ、ね」
「お客様のようですね。失礼します」
ベルの音を聞いて、ロミオはすい、と、その場を去った。部屋の中の惨殺死体には、もはや何の興味もないようであった。ひとり残されたアンジェラは、どうしたものか思案顔だったが――
「あら、アンジェラさんじゃない?」
ボーイが消えた廊下の角から、入れ違いのようにあらわれたのは、黒澤早百合と、彼女に手を引かれたセレスティ・カーニンガムだった。
「ほら、倉庫街のコンビニでバイトしてたでしょう、あなた」
「ああ、あのときの」
アンジェラと早百合は顔見知りであるようだった。
「どうしたの?」
「ええ、人が殺されて――」
「これはひどい」
部屋の中をのぞきこんで、セレスティが言った。
「ベッドの上で亡くなっているということは、お寝みのところを襲われたのでしょうか。ここのベッドは寝心地がいいですから」
「いやだ。雑な仕事ね」
早百合はつかつかと、足を踏み入れる。血の跡を踏まないようにしながらも、死体を観察した。
「プロの仕事じゃないわね」
「というか、人間でもないと思いますけど」
「ロミオさんは何と?」
セレスティが訊ねた。
「ネズミではないだろうと」
アンジェラは肩をすくめた。
「まあ、いいわ。そんなことよりも、セレスティさんとカフェでお茶しようとしていたところだったのよ。あなたもどう?」
そのときだった。
新たな悲鳴が、ホテルに響き渡ったのは。
「今のは……?」
ロビーに足を踏み入れるやいなや、悲鳴の歓迎を受け、物部真言ははっと目を瞠った。
彼は、夜勤のバイトを終えて、ようやく帰途についたところだった。
道すがら、なんとなく、コンビニの自動ドアを開けたはずが、見知らぬクラシックホテルのロビーに立っている。そして、絹を裂くような悲鳴である。いつのまにか、眠り込んでしまって、夢でも見ているのかと思ったが、そうではないようだった。
「いらっしゃいませ」
いつのまにか、傍にはボーイがいて、優雅に一礼する。
「ここはどこなんだ、それに今のは……?」
「ようこそ、ホテル・ラビリンスへ。こちらはホテルでございます。どなたさまでも、お泊まりいただけますよ。そして今のは、さよう、悲鳴でございますね」
「そんなことは聞けばわかる。あの声はただ事じゃないぞ。様子が気になる。どこから聞こえた? あんた、ここの人なら案内してくれ」
「かしこまりました。おそらく、無限画廊かと」
ボーイが示す方向へ、とにもかくにも、と走り出す真言。
そこには――
ひとりの少女が立ちすくんでいた。
「どうした」
「あ、あの……っ」
少女――京師桜子は、真言を見るとすがるように身を預けてきた。
「お、おい……」
ふいに密着されて、真言はうろたえた声を出した。
「人が……倒れて――、桜子、こわい!」
目を背けながら、彼女が指したところには。
「……」
ひとりの壮年の男が倒れていた。
スーツを着た、髪の長い男だ。頭から血を流している。
「おい、あんた……」
真言が声をかけても返事がない。
ふたりは男を知らなかったが、彼はシオン・レ・ハイである。シオンは意識がないようだった。ただ、その手が伸ばされ、指先が、ホテルの廊下の絨毯の上に、なにか文字を書いているのが見てとれた。
「なにか、書いて……?」
はっ、と、桜子が息を呑んだ。
「ダイイングメッセージでは……?」
ダイイングメッセージ――、殺された被害者が残す、殺人者の告発の文言。
だが、そこには……
ただ一言「ぷりん」と書かれていたのである。
■探偵たちのお茶会
「……プリン? プリン、っていうのがダイイングメッセージなの?」
「なにかの……暗号?」
顔を見合わせる、早百合と貴由。
「ええ、でも、たしかに『ぷりん』って」
ボーイにお茶を注いでもらって落ち着いた様子の桜子を中心に、ホテルに居合わせた一同はカフェダイニングに集合していた。
「真意は、本人に聞いてみたらどうだ?」
真言が、シオンを連れてやって来た。
額の傷は、彼が施した癒しの言霊の力で、跡形さえない。
「って、別に死んでねーし! そんなことだろうと思ったが……」
和馬が苦笑しつつ、紅茶のカップに口をつけた。
「で、何が『ぷりん』だったの、シオンさん」
「いやあ、プリンが食べたいな〜と思いながら歩いていたので、つい書いちゃったみたいで」
「え」
このシオンの応えには、さすがのシュラインも固まるよりなかった。
「それだけ?」
「でもさっきの真言さんの呪文、すごいですねー。怪我があっというまに治っちゃいました。『ゆらゆら、ふるふる』とかいうの……なんかまた、プリンを思い出して――」
「呪文ではなく言霊。『波瑠布由良由良(はるふゆらゆら)――』と言ったのだ。ったく、人騒がせな」
気の抜けたような、ため息があちこちで漏れる。
と、そこへあらわれたボーイのロミオが、シオンの前にすっと皿を差し出した。そこには――プリンが乗っていた。
「どうぞ」
「い、いいんですか!?」
色めき立つシオン。
「……まあ、それはともかく、シオンさんが襲われたのは事実ですよ」
静かに、セレスティが指摘した。
「何があったのか、シオンさんと桜子さんに話していただきましょう」
「何と言われても……画廊を、絵を見ながら歩いていたら、突然、なにかが飛びかかってきて……あとは覚えてません。すいません」
「桜子さんはシオンさんを襲ったものは見ていないのですか」
「なにか……黒くて小さなものが、さっと逃げていくのを見たような……」
「やっぱりネズミ?」
ふふ、と早百合が唇に笑みを登らせるのへ、ロミオが言う。
「お客様。お言葉ですが当ホテルには――」
「わかってるわ。冗談よ、ロミオ。……それでその、もうひとつの事件のほうだけど」
「そうよ。そっちは人が殺されてるわ。アンジェラさん、あなたとロミオさんが悲鳴を聞いて駆け付けたそうだけど、それは誰の悲鳴だったの?」
シュラインがアンジェラに問いかけた。
「殺された当人だと思いますわ。男性の悲鳴でしたし、現場に他に人はいなかったんですもの」
「ちょっと待って。それで、あなたたちが駆け付けたら、部屋で人が死んでいた。悲鳴を聞いて、ふたりが来るまでに殺されて、犯人は逃げたってことになるじゃない」
「あら、それヘンよ」
早百合が口を挟んだ。
「現場は廊下のつきあたりの部屋でしょ。ふたりが廊下に入って、先にロミオが出ていくのを、あのとき、私とセレスティさんが見たわ。ねえ?」
「そうですね。……部屋の窓はどうだったか、黒澤さん、ご覧になりました?」
とセレスティ。
「閉まってたような気がするわねぇ。……ってことは、一種の密室殺人ね」
「マジかよ」
和馬が、辟易したような声を出した。
「とにかく、部屋をもっと調べてみたほうがいいぜ」
「賛成だ。……今日、ここに泊まっているのは?」
「こちらのみなさんだけですね」
真言の問いかけに、ロミオが答えた。
「では、殺された男の関係者などは」
「お一人でお泊まりのようでした」
「ふむ……」
ボーイは別として、この場には9人。
そして、姿なき、謎の殺人者――。
「外からの侵入者でないことは確かみたいね?」
シュラインがボーイに水を向ける。
「当ホテルにはお客様以外の何人も許可なく立ち入ることはできません」
「でも、今日のお客は私たちだけなんじゃ……?」
貴由が首を捻った。
「こんなことなら刹那を連れてくればよかったけど……言っても始まらない、か。手分けしてホテルの中を調べてみる? 『ネズミ』が――ああ、ロミオさん、これはたとえだよ――、見つかるかもしれないし」
「念のため、誰も独りにはならないほうがいいだろう」
貴由の提案に頷きながらも、真言がそう釘を刺した。
桜子が、不安げな顔をして、傍にいた貴由の手を握った。
場に沈黙が落ちる。
シオンだけが、一心にプリンに没頭しているのだった。
■迷宮に潜むもの
まるで空気が結晶するように、あらわれたのは、蝶――だった。
「まあ、きれい」
桜子が瞳を輝かせる。
それは蒼みがかった銀から緑へのグラデーションに透き通った、うすい羽をはばたかせ、貴由の手を離れて飛び立っていった。
「いったい何ですの?」
「式神だよ。偵察、って感じかな。……私たちも歩こう。京師さんは、ここは初めて?」
「ええ。……私のことは、どうぞ桜子とお呼びになって」
「では桜子さん。……災難だったね。まあ、私も二回目なんだけど……。前に来たときはゆっくり見られなかったところもあるから、今日はいろいろ見物していかなきゃ」
そう言って、ふたりが足を踏み入れたのは、先ほど、桜子が倒れているシオンを発見した、絵の飾られた回廊である。
「桜子さんが見たものは、どこに逃げて行ったの?」
「ええと……あのとき、まず、シオンさんの悲鳴が聞こえたんです」
「うん。桜子さんはロビーにいた?」
「ええ。学校の帰りだったんですけど、気がつくとここにいて。お夕飯の仕度があるので帰りたいと言ったのですけど、ボーイの方が、『その必然があれば、もとの時間に帰れます』と」
「ああ、ここはそうみたいね。で、悲鳴を聞いてかけつけたら、シオンさんが」
「このあたりに、倒れられるのが見えました。なにか気味の悪いものが、シオンさんの顔のあたりに」
貴由は膝を折って、回廊の絨毯の上をあらためる。特に何の痕跡もなかった。
「人ひとりを短時間で惨殺できるようなものだったのに……、シオンさんのときは、桜子さんがあらわれただけで逃げていったのはなぜだろう」
「ああ、それは、私が攻撃――」
「え?」
「あ、いえ」
桜子は口ごもった。
「――攻撃されているシオンさんを見て、大きな悲鳴を上げてしまったからではないでしょうか」
「ふうん、そうかもね。……特に手がかりはなさそうか……」
「あの、そんなに大きなものではなかったですから、どこか狭いところに潜んだりしているのでは」
「なるほど。蝶が見つけてくれるのを待ったほうがいいかも。他のみんなはどうしてるかな」
死体は、どこかへ片付けられたようだったが、部屋はそのままになっていた。
真言は、赤黒い血のしみが残るベッドの前で、そっと頭を垂れる。
「せめて、魂が鎮まることを」
和馬は、きょろきょろと部屋の中に見回している。
「密室と言えば密室だがなあ」
「まさかとは思うが、なにかよくないものがこの場所に憑いている、ということは」
「ここならそれも『お客様』だと言うだろうな。……見ろよ」
和馬が、天井付近の通気口を指す。
「血の跡……、あそこから……?」
「ちょうどネズミくらいの大きさだが……」
考え込む和馬に、真言は言った。
「俺が未熟なのかもしれんが……実はあまり邪悪な気配をはっきりとは感じない」
「へえ」
「霊的な存在だとしたらかなり巧妙に姿を隠しているか……、あるいは、なにかの猛獣だというなら納得するんだが」
「じゃあそうなんだろ」
「しかし――」
「おい」
和馬が、にやり、と唇の端を吊り上げて、壁の一角を示した。
「これは……」
「これが犯人だ」
「通気口から出入りしたんじゃなかったのか?」
「通気口からだろう。こいつぁ……やっぱ、あのおねーさんを締め上げ――いやいや、事情を伺わないといけないようだぜ」
「あの――アンジェラとかいう?」
「アンジェラが泊まってることが偶然だなんて思えないからな」
そして、ふたりは、壁についたそれをじっと睨み付けるようにして観察する。
それは――
血でついた、誰かの手形であった。
「いいですけど……なにもありませんことよ?」
いささか迷惑そうに、アンジェラが自室の扉を開けて、セレスティとシュラインを招き入れた。
「すぐ済むわ。私、隣の部屋になっちゃったのよ。女性ひとり、ココに泊まって仕事をしなくちゃいけないんですもの」
とシュライン。
「あの。こーいっては何ですけど、草間興信所の事務員のシュラインさんといえば東京でも最強の――って、な、なんでもありませんわー。遠慮なくお調べ下さい!」
振り返ったシュラインの眼光があまりに鋭かったので、掌を返すアンジェラ。
「シュラインさんもお仕事のご都合がおありのようですから。お邪魔しますね」
セレスティがにっこりと笑って、アンジェラに囁く。
「興信所のお仕事が収入面ではアレですから、翻訳や作家のお仕事はきちんとなさらないとね?」
「はあ……」
「ところでアンジェラさん。昨夜、あやしい物音をお聞きになったのですよね?」
セレスティの質問に頷くアンジェラ。
「この部屋に何か居た、ってことよね」
「あるいは……まだどこかに隠れんぼなさっているのかもしれませんよ」
「ちょっと、物騒なこと仰らないでくださいませ!」
「音以外には何も気づかなかったの?」
ベッドの下をのぞきこんだり、カーテンの裏をめくってみたりしながら、シュラインが訊ねる。
「具合が悪くて寝てたものですから……」
「お加減が?」
「ええ、わたくし、昨日はちょっと失敗をして怪我をしてしまいまして。それでやすんでいたのですの」
セレスティとシュラインが顔を見合わせたのは、幾度となく不可思議な事件にかかわってきたふたりの、直感のようなものだったのだろうか。
「アンジェラさん、あなた、昨日はどこからこのホテルに来たの。念のため聞くけど……そのなにかは、あなたに着いて来たってことは……?」
「シュラインさん、それは違います。『お客』でないものを、ロミオさんはホテルには入れません。外から来た何かなら、必ず、ホテルにその所在を把握されているはずです」
「ああ、そうか。でも……とにかく、アンジェラさん、昨夜の行動を、ホテルに来る前と来た後のそれぞれ、詳しく教えてちょうだい」
「ですから昨日は……久々に仕事が入って……裏系の、ボディガードの仕事だったんですけど、ちょっとよそ見したすきに、敵が送り込んだ召還獣に依頼人が殺されちゃいましたのね。あらどうしましょうと思ってるうちに、わたくしも負傷して……命からがら逃げてきたうちに、気がついたらここにいて……」
「…………」
「部屋に案内してもらったあとは、すぐに眠りましたわ。……ああ、その前に、左腕がほとんど取れかかっていて、使い物になりそうもなかったので、ちぎって捨てました」
「ちょっと待って」
はげしい頭痛をこらえるような表情でシュラインが口を開く。
「腕を――ちぎって捨てた?」
「ええ、そのゴミ箱に」
「ないようですね」
セレスティが、それをのぞきこんでから言った。
「それ以前に、アンジェラさんは両腕とも健在とお見受けしますが」
「ああ、これは……一晩ぐっすり眠ったので再生したのですわ」
■キョウチクトウの花言葉
危険。気をつけて。
■危険の正体
「ああ、アンジェラさん。探してたのよ。こっちこっち。さっき、お茶しそびれちゃったでしょ?」
早百合が、アンジェラをカフェのテーブルに招く。
「今ね、シオンさんが『わんこプリン』に挑戦してるの」
「なんですの、それ?」
シオンの前には、うずたかく積まれたデザート皿。銀のスプーンで、ふるえるプリンをすくって、つるりと食べるそばから、傍に控えたロミオが次のプリンの皿を出している。
「今ので176皿目。169皿でホテル・ラビリンスの記録更新ですって」
「そんな記録が!? っていうか176皿目!」
「プリンは別腹です! 177皿!」
「……」
「まあ、ぼうっと立ってないで坐ったら? ところでアンジェラさん、あなた、コンビニのバイトもうやってないんでしょ。よかったらウチで働かない?」
アンジェラに椅子をすすめながら早百合が言う。
「ウチって、肝心なところで向いてないコが多いんだけど、あなたなら大丈夫だと思うのよねー、いろいろ剣呑そうだし」
「あら、ちょっと、なにげに失礼ですわね。わたくし、こう見えても――」
「早百合さん! シオンさん!」
鋭い叫び声が、カフェダイニングののどかな空気を裂いた。
シュラインだった。
「離れて! それは――アンジェラさんじゃないわ……!」
言いも果てず――
シュラインの後ろから、セレスティを連れて、当のアンジェラが顔を出したのを、シオンと早百合が見るよりも先に、アンジェラ(早百合たちのテーブルにいたアンジェラだ)の姿が不定形にくずれ、がば――っ、と牙の並んだ巨大なあぎとを開いたのである!
「!!」
プリンの皿をなぎたおしながら、威嚇するように開かれたその口の中へ、早百合が《包丁》を突き立てた。すなわち、瞬時にして召喚された彼女の霊剣である。
「ギョエエエェェェッッッ!!」
奇怪な声をあげて、それが、ずるりと逃げ出した。
「あわわ、何なんです!?」
思わず椅子から転がり落ちたシオン。
「ちょっとロミオ。なんだか汚らしいものがいるわよ。掃除してちょうだいな」
「はい、只今――」
言うが早いか、さっと、どこからともなくモップを取り出すロミオ。
「何の騒ぎ!?」
どたどたと、貴由と桜子、和馬と真言が騒動の気配に駆け付けてきた。
「あれが犯人みたいです」
「なんだあれ……?」
「本物のアンジェラさんが遺棄された腕が、自分の意志で動きだしたようですね。腕だけで動いていたようですが……いつのまにか、他の器官もアンジェラさんのものコピーして発生しはじめているようですね」
そのセレスティの解説で、皆がすべてを理解したかどうかはわからないが、少なくとも、その奇怪な存在が敵であり、事件の犯人であることは皆に知れ渡ったようだった。
素早く飛び出したのは和馬と貴由である。
どこか楽器めいた音を立てて、貴由の手から細い金属の鎖が放たれた。尖端に錘のついた鎖が巻き付いたのは――、見たところ、アンジェラの腕そのもののようだ。腕を中心に、あとの部分がぐずぐずと形を変える不定形の組織なのである。
和馬が、果敢にもその肉塊に取りついて、爪を立てた。彼の手はすでに獣の爪を備えている。そのまま一気に引き裂く。耳障りな悲鳴が響き渡った。
ずるり……、と、腕の部分がちぎれ、そのとき、細さがかわったのだろうか、それは貴由の鎖の戒めを解いて、宙を舞い――
「しまっ……」
「キャアア」
鋭い爪を尖らせて、桜子へと襲いかかる!
「いやー!」
だがその刹那。
「あ?」
ロミオの手の中にあったはずのモップが、一瞬にして桜子の手の中にわたり、電撃のようなスピードの勢いでもって、アンジェラの腕は叩き落とされているのだった。
「…………」
煙をあげて、溶けていく腕と、肉塊。
一同は、とどめの一撃を刺した女子高生を呆然と見つめた。
「あ――。まあ、すごい偶然。……桜子、こわかったですぅ」
「あの……えーと、桜子さん、キミ、なにか武術の経験あるでしょ。今の動きはどう見ても――」
「しっ」
桜子の指が貴由の言葉をふさぐ。そして、そっと囁くのだった。
「貴由さん。このホテルに泊まるには、『秘密』が必要なんでしょう?」
*
「腕がちぎれたが再生して……ちぎれたほうの腕も勝手に動きはじめて、あまつさえ成長していただと」
真言が頭を抱えた。
「あんたいったい何者なんだ」
「さあ、それが、わたくしにも今ひとつわからないんですの」
「…………」
「まあ、ともあれ、これで事件は一件落着ですね。みなさんでお茶でも致しましょう」
セレスティが、さして動じた風もなく、アンジェラと真言を誘った。
「アンジェラさんは、東区三番倉庫街にお住まいだそうですね。私はあのエリアについてかねがね興味を持っていたのです。いろいろお話をうかがえれば」
「そうですわねぇ。あそこはいろいろとヘンなコトならてんこ盛りですわ。最近は、夜な夜な黒服・黒眼鏡のあやしい男が――」
その傍では、ロミオが、どさくさで壊れてしまった皿の破片を掃き集めている。
それを眺めながら早百合が、
「あなたも『わんこプリン』に挑戦する?」
と、和馬に問うた。
「勘弁。いくらなんでも177皿って、シオン……」
「でもプリンっておいしいわよね。材料混ぜて蒸すだけでできるし。……はっ。ひらめいたわ。次のレパートリィはプリンよ!」
「ちょい待ち!はげしくストップ!!」
「あら、私、ここであのカリスマパティシェの田辺聖人のお茶会に出席したこともあるのよ。いわば彼に師事したと言っても過言ではないわ」
「ものすごい過言だっつーの!!」
その頃、わんこプリン177皿の異形を成し遂げたシオンは。
「素敵!」
桜子の拍手に、得意げな笑み。
「へえ、シオンさんってピアノ巧かったんだ」
遊戯室で、桜子と貴由を前に、演奏を一曲、披露したところであった。
「ここでピアノを見るまで、私も自分が弾けるってことを忘れていました。それに、頭に怪我をしたせいか、芸術的な創作意欲がわきだしたみたいで」
と、取り出したのはカンバスで。
「みなさんの絵を描いてみました!」
「……」
「まあ、素晴らしいです」
屈託なくにこにこしている桜子と、何と言えばいいか微妙に迷っている貴由。
それは意外と達者な筆ではあったが、抽象画のようなシュールレアリズムの絵画のような……
――と、そこへ、ひょいとアンジェラが顔を出す。
「あ、アンジェラさん。アンジェラさんの絵も……」
そしてその後ろから、アンジェラがもうひとり。
「…………」
さらにひとり。
「…………」
ちぎれた腕が再生して自活しはじめるほどのデタラメな生物なのだ。
あるいは分裂増殖したとしても不思議ではなかったかもしれない。
「わーーーっ、いました! こ、こっちです〜!!」
「クソ……、なんでこんな厄介なことに……!」
「もうー、今日はゆっくりできると思ったのに……」
「キャー、桜子こわいですー」
「えーと、アンジェラさん? あなたが本物ですよね?」
「違いますわ、セレスティさん! わたくしこっちです!」
「ええい、最終手段だ、早百合さん、プリンをつくってくれ!」
「…………どういう意味かしら、それ?」
ぐしゃり。
ドアの外からは絶えることのない騒ぎの声。
シュライン・エマはライティングデスクに向かったまま、反故にした紙を力いっぱい握りつぶした。
「…………」
原稿はまだ、さっぱり進んでいなかった。
(了)
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【0086/シュライン・エマ/女/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1533/藍原・和馬/男/920歳/フリーター(何でも屋)】
【1883/セレスティ・カーニンガム/男/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【2098/黒澤・早百合/女/29歳/暗殺組織の首領】
【2694/時永・貴由/女/18歳/高校生】
【3356/シオン・レ・ハイ/男/42歳/びんぼーにん+高校生?+α】
【4441/物部・真言/男/24歳/フリーアルバイター】
【4859/京師・桜子/女/18歳/高校生】
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ ライター通信 ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
お待たせしました。『【ホテル・ラビリンス】血まみれの休日』をお届けします。
ちょっと忙しい休日になってしまいましたね。
ゆっくり過ごされたかった方には申し訳ありません。
というか、常連のみなさまは、いいかげんこのホテルのあれこれに慣れて
いただいているのか、いい感じに危機感のないプレイングで笑えました。
>シュライン・エマさま
いつもありがとうございます。このあとお仕事ははかどったのでしょうか(笑)。
「時のないホテル」は締切稼業には夢のような場所ですが、
このちょっといじわるなホテルが、そうは問屋が卸してくれないのかも……?
今回のお話はお楽しみいただけましたでしょうか。
それでは、また、機会があれば、お目にかかれれば嬉しく思います。
ご宿泊、ありがとうございました。
|
|
|