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言霊使いの少年 −音のない思い出−
「あれ、どうしたの? 迷子? それとも、お客さん?」
声をかけられて、一瞬目が覚めた。
耳に入ってきた言葉を今さらのように噛みしめ、分解して組み立て直して理解した頃に、崎咲里美はやっとひとつの事実に思い当たる。
まあ、つまり。
「迷子かお客かと聞かれたら……たぶん、迷子……?」
まさにその通り、迷い込んだのだ。このどこか見慣れたビルが建ち並ぶ、それなのに妙な静けさを漂わすこの空間に。
なにも考えず、ぼーっと歩いていたせいだろうか。取材からの帰り道に選んだのは歩き慣れた道で、今さら迷うこともないはずだった。里美のせいではなかったとはいえめずらしくいろいろ手こずって、それで疲れていたのかもしれない。
「あれま、御愁傷様。……ねえ、おねーさん。ヒマ?」
どこからともなく現れたその少年は、リィ・リンと名乗った。
そう無邪気に問いかけてきた小柄な少年の瞳は、くるくるとよく動いている。その瞳に浮かぶ色はどこまでも天真爛漫そのもののようで、でもどこか冷めているような気がした。
「一応、ヒマ……かな?」
今は帰宅途中、なのだ。特別、用事はない。
疲れているようだから早く帰って眠りたい、という気持ちも強かった。だがそれを忘れさせたのは、リィが続けた言葉。
「ヒマなら面白い話、聞かせて。僕の心を動かす強い願いがあるなら、それ叶えてみせるからさ。一晩だけ、だけどね。どう?」
今度こそ、完全に目が覚めた。
一晩だけ、叶えられる願い。
「貴方は願い事が叶えられるの? 一夜だけでも、願い事が叶えられるの?」
「お題は僕の心を動かすなにか。だから、面白い話、ない?」
リィが口にしたその言葉を引き金として、己の中でテンションが急激に上がっていくのが里美にはわかる。
考えてみれば眉唾物の話なのに、疑う気は起きなかった。なぜだか、嘘には聞こえない。願いが叶えられるならばと、里美はいつしか真剣に考えていた。
「うーん……面白い話、かぁ……」
今、仕事で取材をしている事柄についての話では、このリィという少年の興味は引けそうもない。誇りをもって取り組んでいる仕事ではあるが、リィに世俗の、しかも会社社会の話はあまり似合うとも思えなかった。だが、だからといってもっと個人的な話となると、今度は話すネタがない。アトラス編集部の三下さん関係のネタならありそうだが、それはやはりこの少年にとって面白い話になるのだろうか。
よりによって新聞記者として培ってきた感覚が、こんなところで里美の邪魔をする。この少年、リィ・リンの興味を引くのはこんな記事ではない。
それだけは、わかる。だからといってどんなものならいいのか、それが里美にわかるはずもなかった。
「一夜限りの願いならあるけど、その願いに見合うお話はないなぁ……」
盛り上がった気分が、しぼんでいく。
願いはあるのに。
引き換えにできる面白い話が、ない。
ある意味、自業自得なのだ。だが一度期待してしまっただけに、落胆は隠せない。目に見えてしょんぼりとした里美の顔を、リィは不思議そうに見つめている。
そして、くすりと笑った。
「どんな願い?」
続いて聞こえてきたのは、そんな一言だ。
弾かれたように、顔を上げる。もう一度真正面から見たリィの表情は、やはり笑顔のままだ。
「え……。叶えてくれるの?」
面白い話はない。そう言ったばかりなのに?
そんな里美の戸惑いと、そして隠しきれない期待が伝わったのだろう。リィは小首を傾げて、もう一度笑った。
「さあ、どうだろ? とりあえず、言ってみなよ」
叶えてくれるとは言っていない。
それでも、その言葉は里美の心を動かした。願いが、口をついであふれ出る。
ずっと、ずっと長いこと、心の奥底にしまい込んでいた、願い。
「──両親に会いたい。会うだけでかまわない、言葉を交わせなくてもいい。ただ、会いたい……」
「どうして?」
リィの声は、静かだった。
「今よりもう少しだけ、がんばれる気がするの」
「ふーん……? ねえ、聞いてもいいかな。ご両親、どうしたの?」
「え?」
上辺だけの好奇心ではない。里美が口にする言葉を手がかりとして、なにかを探ろうとしている。
「会いたいってことは、もうすぐ会えるところにはいないんだよね。言いたくないなら聞かないけど」
深いところまで、なにかを。
だから、里美は話すことにする。
両親が里美の前から消えてしまった、あの日のことを。
「ううん。あのね……殺されたの。私が十歳の時」
リィが小さく、瞬きをした。
里美の両親は、新聞記者だった。彼らは真実を追求し、それをひとつの記事としてまとめあげることに誇りを持っていた。幼い頃から何度も聞かされたそれは、おそらく両親の信念だったのだろう。
その代償は両親自身の命だったけれど、里美は尊敬していた彼らの遺志をついで記者となった。真実を明らかにするために。いつか、両親を死の真実を確かめたかったから。
真実がないものなんて、ない。真実を見つけるまで、絶対にあきらめない。
でも、たまに心がさみしくなるのだ。だから、自分の生き方の指標となった両親に会いたい。
もう一度自分の原点に戻って、そしてもっとがんばりたいから。里美がそう思うようになったのは、いつだっただろう。
だからこそ、リィの話に飛びついたのだ。今はもうアルバムの中からしか笑いかけてくれない両親に、会えるかもしれない、と。
それなのに。
「でも……その願いを叶えてもらうために必要な面白い話は、持ち合わせがないんだよね……残念」
つい、ため息がもれる。ないものは仕方がないとわかってはいても、なかなかあきらめられないものらしい。
それでも他になにかなかったかと記憶を探ろうとした里美の耳に、小さな笑い声が聞こえてきた。
顔を上げれば。
リィが、くすくすと笑っている。
「あのね、おねーさん。面白い話、はモノのたとえ。べつに、誰もが笑っちゃうような話じゃなくてもいいんだよ」
「え?」
思いがけないことを言われて、里美は目を見開いた。
面白い話。……確かに、『笑い話』とは言われていない。
「僕が願いを叶える代償として求めるのはただひとつだけ、僕の心を動かすなにか。それが僕にとっての、面白い話なワケ」
「それって……つまり」
一度消えかけた期待と希望に、光が灯る。
驚きと嬉しさで混乱する里美を落ち着かせるかのように、リィがふいに声色を低くした。
その言葉は。耳にというより、心に響いてくる。
「キミの願いは僕の心に届いたよ。目、閉じて」
言われるままに、目を閉じた。
「そのまま、寝ちゃわないでね?」
暗闇の向こうから聞こえてくる声に、里美はうなずく。……なにも変わらない。
しばらく、そのまま時が過ぎていく。変化のない柔らかな闇に里美の意識がさらわれそうになったとき、ぽんと肩に手が置かれた。
リィの手、だろうか?
だがそれにしては力強く、大きい。
「もういいよ。目、開けてごらん」
リィの声が、やけに遠くから聞こえた。なら……今、里美の肩に手を置いているのは、誰?
そっと、目を開く。そこには──
「……おかあ、さん」
優しく微笑む、母の姿。九年ぶりに会う彼女は、当たり前だが全く変わっていない。記憶のいちばん大切なところにしまったおいたままの出で立ちだった。
だとすると、肩に置かれた手の主は──
「おとうさん……?」
やはり、父。懐かしさが、胸にあふれてくる。
本物のはずはない。たとえ触れることができても、実体を持っていても、これは幻。里美の心から生まれた、一夜だけの夢だ。自分が望んだことだから、里美にはそれもよくわかっている。
だけど、この手の温かさは本物となにも違わない。自分を抱きしめている母の柔らかさも、錯覚ではなかった。何度も、この感触に包まれた覚えがある。記憶より小さく見えるのは、きっと里美が大きくなったからだ。
「私、真実に近づいてる、かな?」
必死で絞り出した声は、少しだけ震えていた。
悲しいからではない。嬉しくて、懐かしくて、その気持ちが里美の涙腺をゆるませた。両親の事件を追うことを、両親は喜ばないかもしれない。心のどこかにあったそんな不安が、溶けるように消えて薄れていく。
里美の願いとしてほんの一瞬だけ蘇った両親は、喋ってくれることはこそなかったけれど。
里美を愛しげに見つめて、力強くうなずいた。
気がついたら、空が白みはじめていた。
両親の姿は、もうない。かわりに、そこにはリィ・リンの姿がある。
いまだ弱い朝の光をぼんやりと浴びた彼の笑顔が嬉しそうに見えるのは、きっと里美自身が幸せだからだ。
「また、ね」
またしてもどこからともなく現れたリィは手をひらひらと振って、現れたときと同じように痕跡も残さず、いずこかへと消え去る。
そして、ふと周りを見てみれば。
そこは、見慣れた街中だった。
「よくわかんないけど……朝だし、帰ろっか」
朝になりかけの時間、街はまだ眠っている。たまに遠くから音が聞こえてくるものの、大通りには車の影すらない。
それでも、太陽はすでにビルの谷間から顔を出していた。一日はすでに始まっている。
朝日に目を細めながら、里美は軽く伸びをした。一睡もしていないというのに妙に元気な自分に気づいたのは、その時だ。
自然と笑みがこぼれる。どこか明るい気分のまま、里美は予定より六時間ほど遅れて家路についた。
新しい今日を、生きるために。
Fin.
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【2836/崎咲・里美/女性/19歳/敏腕新聞記者】
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■ ライター通信 ■
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崎咲 里美さま
はじめまして、こんにちは。今回はゲームノベルの発注をありがとうございました。
楽しんでいただけましたら、幸いです。
里美さんの前向きさと誰もが持っているちょっとした弱さがひとつになって、いつか素晴らしい未来を築けますように。
またいつかご縁があったとき、お会いできれば嬉しく思います。
かつみ尉緒
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