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【草間興信所 咎人への涙】
「兄さん」
草間武彦がサングラスの奥で目を見開いたのは、草間零が泣きながら抱きついてきたからだ。その華奢な体は小さく震えている。
―――まるで、夕暮れ時の街中で、母親とはぐれて泣いていた幼い子どもに声をかければ、その子に抱きつかれたかのように、そんな怯えきって、悲しみのあまりに世界から消えてしまいそうな………。
武彦はそっと零の頭を撫でた。
彼女をこの世界から消してしまわないために。
「どうした? 何があったんだ?」
零は涙に濡れた顔をあげ、そしてとつとつと語る、彼女が知り合いとなったとある母娘の身に起きた悲劇を。
興信所すぐ近くの公園。
そこで零はまだ幼い女の子、風間唯と友達となった。
唯の家は母子家庭で、母親である風間綾子はデザイン事務所のデザイナーとして忙しい日々を過ごしていたのだ。
零の目から見てもその母娘はとても幸せそうだった。
しかし唯は心臓に持病を持っており、そして唯は病院に入院してしまった。
零もできる限り綾子の手伝いをし、仕事の忙しい彼女に代わって唯の看病をしていた。
だが最近、綾子が来なくなったのだ。デザイン事務所に連絡をしても、事務所の方も彼女と連絡が取れないと困っている始末で、探偵である武彦に相談しよう、と想っていたその時に病院の中庭から唯の病室を見上げている綾子に気づいた。
零は中庭へと駆け下りて、綾子に話し掛けた。
しかし気づいてしまった、零は。
綾子が人外のモノ、吸血鬼となっている事を。
「どうして、綾子さん?」
必死に声を押し出す。
綾子は泣き笑いの表情を浮かべた。
「車に轢き逃げされて、死にそうになっているところをマスターに助けられたの。でも私は、私は………どうすれば…………こんな手では、唯を抱けない。唯だって心臓に病気を持っているのに。私しかいないのに…」
「綾子さん」
零は叫んだ。悲壮な声で。
綾子は顔を両手で覆い隠して叫び声をあげて、世界は彼女に怯えるように、もしくは哀れんでいるかのように一陣の強き風を起こして、そしてなびく髪に零の視界が一瞬隠れた間に、綾子の姿は無くなっていた。
「私、聞きました。綾子さんが唯ちゃんを今夜一緒に連れて行く、って行ったの。それ、一緒に死ぬ、って、そういう意味。兄さん、私、私はどうすればいいですか?」
泣きじゃくる零の姿にシュラインは下唇を噛んだ。
それから彼女は武彦の腕の中で泣いている零を後ろから抱きしめる。
「大丈夫。大丈夫よ、零ちゃん。天下の怪奇探偵草間武彦があなたのお兄さんなのだもの。絶対に大丈夫。武彦さんが救ってくれるから。ねぇ、武彦さん」
「ああ。だからもう泣くな、零」
「はい。はい。兄さん。お姉さん」
武彦の腕の中で零は何度も泣きながら頷いた。
そしてその彼女に武彦とシュラインは顔を見合わせて、頷きあい、微笑み合う。
家族の絆。愛しき守るべき者。その大切さは二人ともわかっている。
わかっているからこそ、この事件、解決しなくってはならない。
もう一度二人は、頷きあった。
そこは暗い闇の中。
マスターヴァンパイアは酷薄に笑う。
「やはりこうなったね。忌々しい怪奇探偵、草間武彦。おまえは我らが【黄泉】の敵。来るがいい。必ず殺してやるよ、おまえをね」
―――――――――――――――【草間興信所 咎人への涙】
【T】
「さてと、零ちゃん。それじゃあ、唯ちゃんの所、戻ってあげようか。唯ちゃん、寂しがっているだろうから」
「はい。でも………」
「大丈夫。安心して。最悪な事態になんかさせない。決して。約束」
立てた右手の小指を出した。
零はその指を見て、鼻を啜って、小指を出して、絡めあう。
そしてシュラインは優しく微笑んで、取り出したハンカチで零の涙を拭いてあげた。それから武彦を見て、微笑む。
「武彦さん。零ちゃん、病院まで送ってくるから」
「ああ、頼むよ。俺の方もお前が戻ってくるまでに少し調べてみる」
「ええ」
シュラインは頷き、零と手を繋いで、事務所を後にした。
+++
病院の空気は薬の匂いに満ちていて、その完璧なまでの空間を埋め尽くす白にシュラインは少し辟易とするモノを覚える。
きっとそれはかつて十代半ばの時に彼女が経験した失声症の記憶のためだろう。あの頃もよく彼女は病院へと通っていた。軽いトラウマ、なのかもしれない。
シュラインは軽く肩を竦めた。
「姉さん? どうしましたか?」
「あ、ううん。何でも無いのよ、零ちゃん」
「はい」
小首を傾げる零にシュラインは笑みを深くし、それからまたあらためて病院を見回す。
忙しそうに動く看護士、お見舞い客を病室の外まで出て見送る患者、走り回る子どもらを叱る恰幅のいい婦長、井戸端会議に花を咲かせる女性の患者たち。どこかここが病院だという事を忘れさせるような光景がそこにあった。
そして誰もが生きている。生きようとしている。そう、ここは生きるための場所なのだ。
「ここです、姉さん」
零は微笑みながらそう言い、コンコン、と部屋のドアをノックした。
「はーい」すぐにあったその返事はとても幼く、そして元気で愛らしかった。
思わず顔を見合わせたシュラインと零は微笑み合う。
それから零は病室のドアを開けた。
「わぁー、零ちゃん。また来てくれたのぉー」
「はい♪ 今度はお姉さんを連れてきました」
「こんにちは、唯ちゃん。シュライン・エマよ」
「風間唯です」
ぺこりと頭を下げる。
それから彼女は満面の笑みを浮かべて、扉の方を見る。
ずきん、とシュラインの左胸が痛んだ。
「ねえ、零ちゃん。ママいなかった?」
零の細い身体が哀しげに震えた。
「ママは………」
無理やり声を押し出そうとする零の手を優しく握り締めて、シュラインは口を開いた。
「ごめんね。唯ちゃん。ママ、少しお仕事が忙しくって来れないの。本当はママだって唯ちゃんの所に来たいのだけど、どうしても来れなくって。だからママが唯ちゃんにごめんね、って。でもその代わりに零ちゃんも私も唯ちゃんの傍に居るから。ね、唯ちゃん」
シュラインは優しく囁きかける。
それからきっと唯が自分でやったのであろう三つ編みを見て、微笑んだ。
そっとその髪に手で触れる。
「自分でやったの?」
「うん。あのね、唯ね、がまんできるよ! ママ、来ないのすごくすごく寂しいけど、でも我慢できるよ。だってママ、唯のためにがんばってくれているんだものね。だから唯、がんばるんだ。病気も早く治して、それで唯、いっぱいいっぱいママのお手伝いをするの」
「うん。そうね、唯ちゃん」
シュラインは優しく唯の頭を撫でてあげた。
頭を撫でられて唯はとても嬉しそうに微笑んでいたが、でもふいにもじもじとし出す。
「ん?」
小首を傾げたシュラインに唯は顔を上げて、それからブラシを差し出した。
「でもママに会いたい。ママがいつ来ても良い様に髪の毛ちゃんと縛って、お姉ちゃん」
ふわり、とシュラインは微笑んだ。
「いいわよ。じゃあ、左は私。右の三つ編みは零ちゃんにしてもらいましょうか?」
「うん」
「はい」
零はシュラインの後ろからベッドを回って、唯の右手側に回った。
二人で唯の髪を縛るゴムを取って、それで代わりばんこにブラシで唯の長い髪を梳く。
二人のお姉ちゃんに髪を梳かれて、唯はとても嬉しそうにしていた。
病室のドアの向こうから聴こえてくる病院内の生活音も、わずかに開けられた窓の隙間から吹き込んでくる風もとても心地良く、そしてどこか日々の安穏を感じさせる物だったのだろうけど、でもそれがどうしようもなくシュラインには遠いモノのように感じられた。
唯のとても嬉しそうなその顔が、心に痛かった。
【U】
病院を出て直ぐに携帯電話が着信を報せた。
シュラインは通話ボタンを押して、出る。
「もしもし」
『………何を怒っているんだ?』
携帯電話の向こうから武彦の溜息混じりの声が聞こえた。
「怒るわよ。だって、だってあの人」
そこでシュラインは下唇を噛んだ。ずずっと鼻を啜って。涙を堪える。
『大丈夫か、シュライン?』
「大丈夫じゃないわよ。私だって、零ちゃんだって。私、絶対に許せない。綾子さん」
『綾子さん? それは母親だろう?』
「ええ、そうよ。母親よ。母親だからこそ、生きなくちゃ。連れて行くって、それはあの娘のがんばりや我慢を無視している事よ。許せない。許さない」
『シュライン。わかった。わかったから、泣くなよ』
「泣いていないわよ!」
『ああ、俺が行くまで泣くな。俺がすぐにおまえの所へ行って、涙を拭いてやるから』
その武彦の優しい言葉にシュラインは余計に涙ぐむ。
「泣かないわよ」
『ああ。ああ。わかっている。わかっているよ、シュライン。おまえの気持ちは』
携帯電話を切って、シュラインは病院の前のタクシー乗り場のベンチに座って、鼻をかんだ。
それから唯の病室の方を振り返る。
「零ちゃんにも悪い事をさせてしまった。辛いわよね、零ちゃん」
ベッドの上から手を振って自分を見送ってくれた唯、そしてその隣の零の顔を思い出す。
それからシュラインはベンチから立ち上がった。
ついでタイミング良くタクシーが来る。
開いたドアからシュラインは中に入り、唯に聞いた住所をドライバーに告げて、タクシーは発進した。
座席シートに身を預け、ぐっと下唇を噛み締める。
「武彦さんはあー言ってくれたけど…」
女の子には女の子の意地があるんだもの。ごめんなさい、武彦さん。
唯のためにも、零のためにも、自分は立ち止まってなどいられないのだ。彼女たちのためにも前に歩き続け、そして風間綾子の事に立ち向かわなければならない。
彼女が居る可能性がある場所は自宅だ。
そこへ行って、
「ひっぱ叩いてやるんだから」
シュラインはルームミラーに映る自分の眼を睨みすえながら呟いた。
【V】
小さなアパートの一室の扉を前にしてシュラインは考え込んでいた。
彼女の手はその扉のノブを握っている。
唾を嚥下して、
「えーい、ままよ」
シュラインはアパートのドアを開けた。
転瞬、薄暗い部屋から香ってきたのは咽かえるような錆びついた匂いだ。
その匂いが彼女の身体を硬直させたのは、本能が知っていたからだろう、その匂いの源を。
それは………
「血?」喉の奥で発したかのような声で言う。
だが、それだけではない。血以外にも何かの臭いが混じっている。粟立つ肌はきっとそれを素肌で感じているのだ。
そして向こうに何かが、居る。
すすり泣きの声。
「綾子さん」
シュラインは一瞬考え込んで、しかし次の瞬間にはあっさりと部屋の中に入った。
部屋の中は闇に包まれていた。
雨戸が閉められているのだろう、とシュラインは察する。玄関の扉を開けたままにしたのは生存本能がそうさせた。
扉から差し込む光りに部屋の奥に居た何者かが後ずさる。
ぐしゃり、濃密な闇が満ち溢れた部屋でシュラインの足が何かを踏んだ。
湿ったその感触に怖気を感じながらも身体が無意識に動いて、シュラインは足下を見下ろした。
「―――ひぃ」
そこにあったのはネズミの死骸だった。
いや、それだけではない。
ネズミ、猫、犬、鳥、兎、そういうモノの死骸が溢れていた。
こみ上げてきた嘔吐感を我慢できずにシュラインはそこに蹲って、胃の内容物全てを吐瀉する。
すすり泣く声は動物の死骸が発する腐臭も、血の臭いに混じった胃液の臭いにも止まることなく、響き続ける。
シュラインは虚ろな瞳でそこを見た。
そこには口の周りを血で汚した女が居た。風間綾子だ。間違い無い。病室にあった写真と同じだ。
シュラインは、
シュラインは、
声をあげた。
「わぁ――――」
そして動物の死骸を撥ね退けて、泣いている綾子に飛び掛って、彼女を押し倒した。
泣きながら。
「あんた、あんた、あんた、あんた。辛いのは、わかるけど。辛いのはわかるけど。だけどどうしてこんな事に。なんでこうなったのよ?」
車に轢き殺されたから?
でも生きるのを望んだのは―――
「そうだね。そこの落第生だ」
闇を結晶化させて、それを打ち鳴らしたような冷ややかな声が響いた。
「そこに居るのは誰?」
「ヴラド・バートリー伯爵。そこの落第生のマスターヴァンパイアという事になるね」
「あんたが綾子さんを」
「そう、ヴァンパイアにした。助けてあげたのだよ、シュライン・エマ」
シュラインは両目を見開いた。
「どうして私の名前を?」
「あの男に連なる人間ならばその名前は覚えてはいるさ」
「あの男?」
絶句するシュラインにヴラドは笑う。
「草間武彦。あれは我らが【黄泉】には邪魔だ」
「冗談じゃ、ない。じゃあ、彼女をヴァンパイアにしたのはぁ―――ッ」
風間綾子が草間零の知り合いで、それによって草間武彦を葬れるかもしれない、そう考えたから………。
ヴラドはぱちぱちと手を叩いた。
「なかなか優秀ではないか、シュライン・エマ。そうだよ。でも私が彼女を助けたのはそれだけではない。娘を残していけずに泣いて苦しみながら死んでいくしかなかった彼女の血を吸い、それから私の血を吸わせてヴァンパイアとして生かせてやったのだ、それは慈悲だ」
「慈悲? 胸くその悪い冗談は言わないでよ。それは悪意と言うのよ。あなたは彼女を助けたくってやったのではない。この苦しむ様を見たくってやったのでしょう? この、この惨たらしくって哀しい母親の姿を見て、あなたは何を思うのよぉ?」
綾子を抱きしめながら叫ぶシュラインにヴラドはにこりと微笑んだ。
「無論、我が優しさに感動するばかり」
「この、ナルシストが」
シュラインは近くにあったテレビのリモコンを投げつけるが、しかしヴラドはそれを猫化の動物のような俊敏性で軽くかわす。
そしてそいつは紅く輝く瞳を暗鬱に細めて、綾子に話し掛ける。
「おまえは娘を置いていく事はできない。だけど吸血鬼の性に従って血を啜り、生きる事もできない。だからおまえは今夜娘を殺す事にしたんだろう? だが、殺せないぞ、この女を生かしたままでは。分かっているのか? そうすればおまえの娘は孤独に生きる事になるぞ。心臓病なのだろう、娘は? 心臓病の娘を、この女はさらに苦しめるのだぞ、おまえはそれでいいのか?」
「私は………私はぁー」
綾子はシュラインを押し倒した。
信じられないほどの力の強さで肩を掴まれて、彼女の指の爪がシュラインの衣服を貫いて、肌を傷つける。
溢れ出す血に、綾子の目が大きく見開かれた。
涙が零れ出す。
「いい匂いだよなー。血の匂いだ。性に従え、綾子」
目が大きく見開かれ、涙が溢れ出し、それがシュラインの顔を打つ。
「私はァ―――ッ」
シュワァー、犬歯と呼ぶには鋭すぎる牙を剥き出しにしてそして綾子はシュラインの首に牙を突き立てた。
ぷつり、と、牙の先がシュラインの首の皮を突き破り、そしてシュラインは自分の中に異物が入ってきたその嫌悪感に全身の毛を逆立たせた。
しかしシュラインは自分の首筋を流れるその液体の正体に気づく。
血と混じり合って彼女の首筋を流れるそれは涙だ。シュラインには手に取る様にそれがわかった。
それから彼女は自分の首筋に牙を突き立てて血を嚥下する綾子の頭を優しく撫でる。唯に、したように。
「私はまだ母親にはなれてはいないけど、でも誰かを愛おしく思う気持ちはわかるから。あなたの気持ちはわかるから。ねえ、だから負けないで。ヴァンパイアの性なんかに。一緒に考えましょう。綾子さん、あんたは間違いなくまだ人間だわ」
そう言うシュラインに綾子はぴくりと身体を震わせて、そしてそのまま牙をシュラインの素肌から離して、シュラインに泣きついた。
声を出して泣く彼女にヴラドは溜息を吐き、大仰に肩を竦める。
「興ざめだね―。つまりおまえは娘を独りにするのだね? いや、とても良い案を思いついたよ。うん、良い案だ」
そう笑いながらヴラドは闇に消えて、そして親に道端に置いていかれた子どものように綾子はヴラドの方を見て、声にならない声をあげて、それから彼女もそれを追いかけた。
「綾子さん」
虚空に伸ばした手はしかし闇を掴むばかり。
シュラインは悔しげに手を握り締めた。
「馬鹿。馬鹿。馬鹿」
力無くその場に座り込んで、シュラインは片手で顔を覆った。
【W】
「シュライン」
シュラインが風間家の玄関の扉にもたれて座っていると、武彦がやってきた。
サングラスを取って、泣いている彼女に優しく微笑む。
シュラインも涙に濡れた顔に小さな笑みを浮かべた。
「武彦さん、どうしてここに?」
「病院の前におまえがいなかったから、ここじゃないかと思った」
「そう。でも、来るの遅すぎ」
「そうだったみたいだな。何があった?」
武彦はシュラインの前にしゃがみこんで、彼女の顔を見つめる。
シュラインも頬を伝う涙を拳で拭うと、もう次の瞬間には普段のクールビュティーな彼女を取り戻し、毅然とした、しなやかな声であった事を説明し出した。
武彦には酷な事かもしれないが、ヴラドが、彼が所属する【黄泉】が武彦を狙っている事は明らかなのだ。それを告げねばならない。
「冗談ではないな」
重い声でそう言う男の横顔をシュラインは悲しげな目で見つめ、それから武彦に抱きついた。傷ついた思春期の少年のような武彦の横顔は心に痛かった。
「大丈夫。武彦さん、あなたは私が守るわ。あなたの盾にだってなれるし、心はいつもあなたと共に在るから。だから私の事を忘れないでね」
そして心を重ねあう二人は唇を重ねた。
やる事はわかっていた。
風間綾子は確かにヴァンパイアとなってしまったが、しかし心までヴァンパイアにはなってはいなかった。
まだ彼女を助けられるのだ。シュラインはそれを信じて疑わない。
「ほら、シュライン。調べておいた。風間綾子が事故にあったと思われる場所から採取したヘッドライトの破片などから、その車の持ち主を」
「武彦さん」
「俺だってこの事件、許せないんだ」
「ええ。じゃあ、お金の回収に行きましょうか。一生懸命生きていた母娘の幸せを壊した罪は重いわ」
微笑みあう二人は立ち上がり、そして轢き逃げ犯の元へと向かった。
蛇の道は蛇。
シュラインと武彦のこれまでの経験は伊達ではない。
二人を前にした轢き逃げ犯は、地獄を見ることになる。
法の抜け道は悪どい政治家や企業のためだけにあるのではなく、表立って悪を訴える事の出来ぬ弱者のためにもあるのだ。
政治家と言えどもこの二人を前にして逃げおおせる事は不可能だった。
そうして夜。
シュライン・エマは風間唯の病室の前に立っていた。
【X】
「どうしてあなたは私の邪魔をするの?」
闇の帳が落ち、天井の所々にある明度の低い電灯だけが光源の薄暗い廊下にシュラインの姿を見て、風間綾子は泣き出す寸前の声で言った。
その姿に、声にシュラインはぎりっと歯軋りする。
「どうして? そんなのは当たり前よ。ふざけないでよ。ねえ、あんた、忘れたの、唯ちゃんの笑顔?」
綾子はびくりと震える。
「あの娘、幼いけどちゃんとあんたの事を見ている。あの娘はあの娘なりにがんばって、我慢して、必死にあんたと生きていた。夢もある。ねえ、本当にわかっている? あんたがやろうとしている事はあんたから全てを奪った轢き逃げ犯と同じ事なのよ」
両耳を手で押さえて、綾子は幼い子がするようにイヤイヤをした。
シュラインの口の片端から血が伝う。下唇を噛み切ったのだ。
「辛くない訳は無いと思う。ヴァンパイアとなって。でも今は輸血用のパックとかあるでしょう? ネットとかで触れ合う方法だってあるし、ほら、見て。あんたを轢き逃げした奴を見つけ出して、加入保険からお金だって払わせる手続きをしてきたのよ」
シュラインは轢き逃げ犯から金を奪い取ったのだ。
「大丈夫。社会は捨てたものではない。助けてくれる手はいくらだってあるわ。だから綾子さん」シュラインは泣きじゃくる綾子の手を握り、微笑む。優しい慈母のように。「深く愛情を注がれた子どもは強いわ。大切に育てた命を、芽のまま摘んでしまわないで。お願いだから」
そして綾子はその場に崩れこむように座り込んで、シュラインの足にしがみついて、大声で泣きじゃくった。
「ありがとう、綾子さん」
だが、廊下に響く綾子のすすり泣きを嘲弄するような響きが唯の病室から聞こえてきたのだ。
「マスター」
綾子が悲鳴を上げる。その絆でそこに彼が居る事がわかるのだ。
「ヴラド」
シュラインと綾子は唯の病室に入った。
そしてヴラドは二人を見据えて、笑い、ベッドに眠っている少女に向けて牙を、
「ギャァ――――」
しかし耳を塞ぎたくなるような悲鳴を上げたのはヴラドの方であった。
「ぎ、ぎ、ギザマァァァァァ――――」
シュラインは綾子を廊下へと突き飛ばし、そして部屋の電気を入れる。
その瞬間にヴラドはまたしても声にならぬ声をあげた。
「この部屋の電灯、紫外線ライトに変えさせてもらったわ」
「そういう事です。あなたの負けです」
そして紫外線ライトの苦痛にヴラドによって壁に叩きつけられた零も銀の短剣を構えながら何とか立ち上がる。
「あんた、唯ちゃんまでヴァンパイアにしようとしたのね。やっぱり」
シュラインの怒りの声に応えるように、がしゃり、という銃口を照準する音が響く。
「ヴラド。おまえが所属する黄泉の事を吐いてもらってから消えてもらう」
割れた窓の向こうから拳銃を構える武彦。
「確かに大昔じゃ、貴方がたヴァンパイアは無敵だったかもしれないけど、今は科学、という牙を人間も持つのよ」
女教師が出来の悪い生徒に甘やかに個人レッスンするかのような口調でシュラインも言う。
「終わりよ、ヴラド」
ヴラドはしかし諦めない。
「ほざけよ、虫けらどもがぁー。我はヴラド・バートリー。貴様ら人間が我を傷つけるなど許せるものかァ―――」
ヴラドの叫びは可聴域限界の音波へと変わって、それが紫外線ライトを破壊した。
そしてヴラドはシュラインめがけて襲い掛かる。
シュラインもポケットから霧吹きを取り出そうとするが、しかしその手を凄まじい力で払われた。
廊下の薄暗いライトに照り出されるヴラドの紫外線ライトで焼かれたケロイドが急激なスピードで回復していく。
まさしくこいつは、夜の化け物なのだ。
牙を剥いて迫ってくるヴラドの顔。
「姉さん」
「シュライン」
武彦と零が悲鳴を上げるような声を出した。
しかし二人が幻視したような光景は………
「シュラインさん」
綾子によって阻止された。
綾子がヴラドに襲い掛かったのだ。ブラドの顔を片手で鷲掴みし、そして部屋の壁に叩きつける。
しかしそれと同時に湿った音が、した。
「綾子さん」
シュラインは口を両手で覆う。
綾子の背中から手が生えていた。貫かれたのだ、その身体を、ヴラドによって。
「どうして………」
シュラインは泣き、
最後に綾子は満足気にシュラインに微笑んで、
灰となって消えた。
それを見たシュラインの両目は大きく見開かれ、そして叫ぶ。
「あんたぁー」
落ちた霧吹きを手に取り、それの蓋を開けて、ヴラドの顔に投げつけた。
「ぎゃぁー」
その中身は聖水だ。
ヴラドの顔は焼かれ、
そして彼は逃げ出し、
それをシュラインは追う。
深夜の病院を走り回る。
そしてそのわずか数秒に夜は、やはり聖水によって焼かれたヴラドの顔を回復させていた。
シュラインは大蒜エキス入りの霧吹きを構える。
にやりと笑うヴラド。
その姿が掻き消えて、
転瞬現れたそいつの手には剣があり、それが霧吹きを破壊している。
そしてヴラドは醜悪に笑うと、シュラインの薄い腹に拳を叩き込んだ。
めきぃ、嫌な音がした。
彼女は後方に吹っ飛び、廊下の壁に叩きつけられて、止まる。シュラインを中心に壁に走った蜘蛛の巣状の罅がそのダメージを物語っていた。
呼吸がままならない。無理やり咳き込めば大量の血塊が零れ出た。
視界が霞む。
でもここで気を失う訳にはいかない。
だったらどうすれば………
その時にシュラインは綾子の声を聞いた気がした。
そしてそれを視界に映す。
「そういえば………」
前に翻訳した吸血鬼物の小説にあった―――
一か八か―――
立ち上がる。そして歩き出す。
ヴラドもいたぶるつもりかゆっくりと歩いて来る。
「そのあんたの性格の悪さが、敗因よ」
シュラインはにやりと笑い、そして病院の廊下に設備されている放水ロープを手にとり、それの噴射口をヴラドに向けた。
その美しいが醜い笑みしか浮かべない顔に、引き攣った表情が浮かんだ。
「お悪戯がすぎた子どもにはちゃんと躾をしないとね。私があなたのママになりかわって、躾をしてあげるわ。坊や」
そしてノズルを捻った。
ホースから水が迸り、そしてその水にヴラドは溺れる。
そう、小説にあったのだ。吸血鬼は洗面器一杯の水で溺れるほどに水に弱いと。
そしてヴラドは廊下に出来上がった水溜りの中で溺れ死んだ。
シュラインはそれを見届けて、荒い呼吸をしながら泣きながら夜の廊下を歩いていく。
そして唯の本当の病室に辿り着く。
寝ている唯の頬は涙で濡れていて、シュラインはそれを手で拭おうとするが、しかし、血に汚れた自分の手を見て、苦笑するばかり。
だけど唯は優しい手の温もりを感じて、そしてその手を眠りながら掴んだのだ。
「ママぁ」
泣きそうな声で寝言。
いや、そのまま泣き出す。
シュラインは小さく息を吸うと、
ゆっくりと紡ぐ。
言葉を。
唯の手を握りながら。
「唯、愛しているわよ。ママ、唯を愛しているからね。愛している。いつもあなたを見ているからね、唯。ママはいつもあなたと一緒よ。だからもう寂しくないよ。苦しくないからね、唯。唯。ママはいつでも一緒に居るよ」
綾子の声でそう語りかけ、そして唯の寝顔は微笑みに変わった。
だがその眠り、邪魔する音。
ぐしょり。
ぐしょり。
ぐしょり。
濡れた音が近づいてくる。
ヴラドはまだ生きていた。その身はもうほとんど骨となりながらも、それでもシュラインへの恨みの感情だけで奴はここに来た。
そしてシュラインは青の瞳でそれを見据え、唯の首にかけておいたペンダントの先のロザリオをその手で掲げて、ヴラドへと向けた。
それは偶然であったのだろうか?
病室の窓から見えたのは満月。
満月を背にするシュラインのロザリオの力によって、ヴラドは夜の闇に灰となって消えた。
【ラスト】
武彦が駆けつけた時にはすべてが終っていた。
唯のベッドに腰掛けているシュラインが血の気の無い顔で、それでもとても美しく微笑んでみせる。
「ご苦労様、シュライン」
「ええ」
そして武彦はベッドに腰をかけて、その男の広い肩にシュラインはもたれかかる。
その彼女を武彦は優しく抱いた。
「後は俺に任せて、おまえは少し寝ろ」
「ええ、そうさせてもらうわ、武彦…さ、ん」
そしてシュラインは意識をなくすように眠りに入り、武彦はそんな彼女に微笑んで、がんばったな、と呟き、額にキスをした。
― Fin ―
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0086 / シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【NPC / 草間武彦】
【NPC / 草間零】
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■ ライター通信 ■
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こんにちは、シュライン・エマさま。
いつもありがとうございます。
このたび担当させていただいたライターの草摩一護です。
今回はご依頼、ありがとうございました。
テーマは乙女パワー爆発、だったりします。^^
いかがでしたか? 少し武彦さんの前で泣いたり、怒ったり、そういう感情を見せすぎたでしょうか? そこら辺のところがPLさまのイメージとずれていないかな、と心配だったりするのですが、でも草摩ノベルでは婚約者、という事で心を開ききっている、という感じで書かせてもらったのですが。
何度も言ってたりするのですが、シュラインさんのイメージは母性です。
シュラインさんの知性、勇気、そういうのを書き、努力で事件を解決するのを書くのもすごく楽しくやり甲斐があるのですが、その深き母性ゆえに事件が解決に向かって動く、そういう道筋を、他者とのやり取りで示すシュラインさんを書くのがすごく好きです。^^
あとは草間兄妹との絆も。^^ 武彦さんとの関係は命をかけています。もう本当に二人の仲を書くのが嬉しくって、楽しいです。^^
それでは今回はこの辺で失礼させていただきますね。
ご依頼、本当にありがとうございました。
失礼します。
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