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<東京怪談ノベル(シングル)>


睡竜亭日誌 〜瞳の受難〜

 さっきから聞こえるものといえば、氷の落ちる音ばかり。睡竜亭の氷は、機械が勝手に製氷しては冷凍庫の中に溜め込んでいく方式である。この店のウエイトレスである瞳・サラーヤ・プリプティスはスカートから伸びる長い足をぶらぶらと遊ばせながら、洗い終わったグラスを磨いていた。調理場にある丈の高い椅子は、改装前の店のカウンタで使われていたものらしいのだが、腰掛けたまま洗い物をするのに丁度いい高さだった。
 壁の時計はもうすぐ十時半になろうとしていた。睡竜亭では深夜も店を開いているので特に時間を気にする必要はないのだが、それでも一つグラスを磨き終えるたび瞳は時計へと目をやった。
 幾つめかのグラスが澄んだとき、店の扉が開く音がした。
「いらっしゃい・・・・・・ませ・・・」
椅子から降りた瞳は、やや人見知りの性格を隠すように片方の手でエプロンをいじりながら、調理場を出て客に頭を下げる。
「なにしてんだ。早くメニュー持ってこい」
客は乱暴な言葉を躊躇なく瞳へぶつける。とはいえ、その声は高く幼いのでさほど威圧感はない。深夜と呼ぶにはまだ早い、そこへ現われたのは塾帰りらしい私服姿にリュックを背負った少年であった。
 小学生、高学年くらいだろう。顔立ちは整っているのだが頬が丸くまだ発達していない。秀麗な二重の上に不機嫌を重ねて、カウンタで背中を丸めていた。
「・・・・・・どう、ぞ・・・・・・」
「サンドイッチ」
メニューを渡そうとした瞬間、突き放すように注文が帰ってきた。選んだというよりも、なんでもいいと言わんばかりの口調であった。よっぽど空腹なのだろうか、そう思った瞳はサンドイッチより早くできるメニューをすすめようとしたが
「いいから早く持ってこいよ」
少年は相変わらず無愛想に、そして苛立つように不揃いの爪を噛んでいた。

 睡竜亭では朝と夜でサンドイッチに挟む具材を変えている。朝は新鮮な生野菜が中心で、胃に持たれないようバターも軽い味のものを選んで控えめに塗っている。一方夜は腹持ちが良いようにと玉子を挟んだものと、ツナ入りポテトサラダを挟んだものとが一日交代で出る。今日は、ポテトサラダの日だった。
 サンドイッチを切り分けるための包丁は、一般的な万能包丁よりやや刃渡りが長くシルエットも直線に近い。昔、瞳はこの包丁が恐くてたまらなかった。先端が鋭いので指を突いたらひどく痛そうに感じられ、感じるだけで痛かったからだ。今でも、使うときは少しだけ緊張する。
 パンの表面に刃を入れようとしたとき、ふっとどこからか強い視線を受け瞳は振り返った。するとカウンタにいたはずの少年が調理場の入口に立っており、目と目が音を立てるようにぶつかった。
「どうか・・・しま、した、か・・・・・・?」
追加注文でもあるのかと瞳は首を数センチ傾げて見せた。しかし少年は気づかれるや否や踵を返し、カウンタへ戻ってしまった。
「・・・・・・?・・・」
なにが悪かったのだろう。瞳は自分の左手を眺め、調理場を見回し、天井を見上げ、最後に今切ろうとしていたサンドイッチへ目をやった。
 ここで気づいた。
「あ・・・・・・」
少年は瞳ではなく、瞳の握っていた包丁を見つめていたのだ。直線に近いシルエットで、先端に触れるだけで血の流れそうな、痛みを感じる銀色の包丁を。

「おまたせ、しま・・・・・・した・・・」
何事もなかったように瞳はサンドイッチを少年の前へ運んだ。改装された今の睡竜亭のカウンタは低くつくられている。椅子に座っている少年の頭はちょうど、瞳の胸の辺り。瞳は手を伸ばすと、その柔らかそうな黒髪をそっと撫でた。
「ひゃ」
頭に触れられた少年は肩をすくめた。いきなりなにをするのかと振り返りかけたのだが、続けざま瞳に後ろから抱きすくめられ、身動きができなくなる。そのいい匂いと柔らかさ、温かさに息を呑む。
「・・・・・・」
瞳はゆっくりと、少年に語りかけた。
「・・・痛い・・・・・・のね・・・」
「!」
言葉が耳に飛び込んだ直後、少年にとっては世界が凍ったような気がした。頭の奥が痺れ、耳では甲高い耳鳴りが響く。全身の震えが止まらない。二重の瞳からは涙が湧き、溢れようとしたので少年はとっさにそれを拭おうとしたのだが、
「泣いても、いい、の・・・。誰も・・・見てない、から・・・・・・」
囁きに行き場をなくした手が、腿の上にこぼれ落ちる。その小さな手に、瞳はそっと自分の手を重ねた。握り拳の、関節のところが擦りむけていた。壁を殴った跡のようだった。
「俺は・・・俺は、そんなつもりじゃ・・・・・・」
震える声が、告白を始めた。瞳は目を閉じて、虚勢を保とうとする少年のために聞かないふりをした。
 学校に、習いごとに日々を圧迫されていた少年は、苛立ちを発散させるため塾でいじめをしていた。標的にしていたのは別の小学校から来ている体の小さな、自分よりも弱そうな少女だった。
直接暴力を振るうような、過激な行為はなかった。後ろの席から紙つぶてをぶつけたり、廊下ですれ違うときにわざとらしく壁を蹴ってみたり、少年自身は大したことをしているつもりはなかった。
ところが今日、少女が自殺を図ったという話を塾で聞いた。彼女は学校でもいじめられていたらしく、とうとう家庭科室の包丁で手首を切ったのだそうだ。
「・・・・・・学校の奴らが原因なんだ。俺は、悪くない」
しかし口とは裏腹に少年の心は動揺し、塾の勉強はまったく頭に入らなかった。そして帰り道にも、真っ直ぐ帰宅することがためらわれ、うろうろさまよっているところを睡竜亭へ巡りあったのだった。
 少年の嗚咽は長く続いた。泣けば泣くだけ許される気になるのは、瞳の体が温かいからだろうか。許すとも許さずともいわず、ただ抱いてくれるからだろうか。
「俺、約束する・・・・・・俺、次にあいつに会ったら、もっと優しくする・・・」
優しくする、と少年は繰り返していた。誓いを聞いたという証拠に、瞳は少年の手を握りしめた。

 再び、店の中は氷の音だけに包まれた。少年から離れ調理場へ戻った瞳は、今度は皿を磨きながら時間が経つのを計っていた。
「・・・・・・」
七枚目の皿を磨き終えたとき、瞳は立ち上がって店の様子を確かめに行った。カウンタに座っていたはずの、少年の姿はなかった。
 ただ、空になった皿の横には二つに折りたたまれたレシートと、代金ぴったりの小銭が残されていた。倒れないよう、几帳面に積み上げられた硬貨が、少年の本来の真面目さを取り戻していた。