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<東京怪談ノベル(シングル)>


第三話  移り事去る三つの刻

 修道院の黒い鉄の窓枠が、部屋の南に面した湖の色を切り取っている。
 日毎高くなる空の色を映した湖水の表面は、小波もなく穏やかだった。
 湖水を囲む木々の色はあと一月もすればすっかり黄金色に色付くのだが、まだそれらは夏の名残の緑を葉に留めていた。
 老シスターはベッドから起き上がり、テーブルや椅子につかまりながら苦労して窓辺まで歩み寄った。
 窓の外、修道院のすぐ横手に開かれた畑で、少年とシスターがじゃが芋を収穫している。
 二人ともラフなTシャツとパンツ姿で、普段は修道院で毎日祈りを捧げている風には見えない。
 まだ死について思いをめぐらす事などないはずの少年――伏見夜刀は、図らずも自らの両親に手をかけ『死』から目を逸らせなくなってしまった。
 夜刀が修道院で生活するようになってから、早くも一年が過ぎようとしている。
 少年期の一年は瞬く間に夜刀の背丈を伸ばし、今ではまわりのシスターたちと変わらない身長になっている。
 全てのものが同じ場所・時間に留まっていられない流転の理は、人にとって幸なのか不幸なのか。夜刀にとっては、どちらだったのか――。
 夜刀の姿を見ながら、老シスターは数日前に応接室で交わした会話を思い出していた。
 黒い詰襟の長衣を着た男は長髪を純白のリボンで束ね、修道院に似つかわしく神父の佇まいを見せているが、実のところ彼はある魔術ソサエティに属した人間で、伏見家もそれに連なっている。
『……そろそろ魔術修養に進ませても問題ないのでは?』
 一時的な失語状態が見られた夜刀だったが、この一年で会話ができるまでになっている。
『私はまだその時期ではないと思います。
 夜刀様ご自身が望まれない限り、こちらから魔術を示し教えるのは控えたいのです』
 修道院には壁・天井を問わず、理解を示すものが見れば驚くほど魔術図式の象徴に満ちている。
『夜刀様を導くものは神以外におりません。
然るべき時が来たならば、私は持ちうる全ての知識を伝えるつもりです』
 老シスターの言葉に男はしばらく思考に沈み黙した。
 彼は<黄金の暁>が一刻も早く<世界の調和>――ハルモニア・ムンディを奏でられるようソサエティが派遣した<調律者>の一人だった。
 時期尚早と判断した男は立ち上がり、老シスターに告げた。
『あなた方はソサエティに生かされている、という事をお忘れなく』
 まだ解決していない伏見家の事件による警察の関与を防ぎ、一見平和に見える修道院の生活もソサエティの後ろ盾があっての事だった。
『……私どもは、神のみによって生かされています』
 老シスターは真っ直ぐ男を見据え、細く骨ばった指を組んで答えた。
 奏でられる旋律が人の心を動かすためには、奏者である夜刀自身が自分を見つめ、向き合わなければなければならない。
 

「こんなもんかね」
 シスターが腰を伸ばして、自分の後ろで土から現われたじゃが芋を拾う夜刀を振り返る。
 慣れた動作で鍬を振るう年配のシスターは、ふくよかな外見も相まって農家のおかみさんのようだった。
 自給自足を心掛けるこの修道院では、野菜は自分たちで畑を作って得ている。
 今まで農作業など経験した事がなかった夜刀だが、春の種まきから始まり、夏の手入れを経て収穫する秋の実りは、夜刀に自然の懐の広さと食べ物に対する感謝を教えてくれた。
 伏見家にいた時には想像も付かなかった作業だったが、今の夜刀はそれを楽しめるようにまでなっていた。
 心地良い疲労は、更に食事を美味しく感じさせてくれる。
 土を払うと、さらりとしたじゃが芋の薄茶色の粒が夜刀の手に残る。
 ――グラタンが食べたいな。ベーコンと重ね焼きにしたのも美味しそうだ。
 口元に微笑みをのせた夜刀に、シスターは声をかけた。
「あんまりカゴ一杯に入れても、重くて運べないよ?」
 夜刀は一瞬で表情を強張らせ、微笑みを消してしまった。
「……はい」
 夜刀は言葉を取り戻したものの、どこか他人との間に線を引くようになってしまっていた。
 言葉遣いが乱暴な訳ではない。むしろ、丁寧な方だ。
 だが一つ一つ言葉を選び、常に相手の表情を伺う癖が付いてしまっている。
 相手を思いやる事が、自分の気持ちを殺す事ではないのだけれど。
 共に暮らしながらも、ある部分以上は心を開かない夜刀にシスターは寂しさを覚えたが、それをそっと胸にしまい込んだ。
 その寂しさは、修道院に暮らすシスターたちの誰もが感じていた事かもしれない。
「持てる分だけカゴに入れて、何度か往復すれば良いんだからね」
 こくりと頷く夜刀の隣までシスターは歩み、もう一つのカゴにじゃが芋を拾い始める。
 <黄金の暁>と呼ばれた瞳は黄金色だというのに、それが明るく輝く様をここにいる者は誰も見た事が無かった。
 夜刀はじゃが芋を拾う作業に没頭しながらも、修道院に来た晩、夢の中で触れ合ったもう一人の自分に思いを馳せていた。
 あれから夢で彼に会う事は無かったけれど、彼が言った言葉を夜毎繰り返し噛み締める。
 ――僕に……出来る事は何だろう。
 修道院に来てからは一度も魔術に触れる事無く過ごしてきた。
 魔術、いや魔力とそれに影響されてしまう自分が怖いのもあったが、同じ哀しみを繰り返さない為に出来る事を探したいと夜刀は思い始めていた。
 修道院の蔵書室には魔術に関する書物もたくさん揃っていた。
 それを借りて読んでみた事もあったが、描かれた魔術図式から立ち上る魔力を感じられても、何を示した図式なのか夜刀にはわからなかった。
 神への信仰の場である修道院にそのような物がある事自体奇異ではあったが、それはここが魔術ソサエティの庇護下にある為だった。
 裏口から調理場にじゃが芋を置いた夜刀に、料理当番のシスターが声をかけた。
「夜刀君、今時間ある?」
 修道院で暮らす夜刀には特に割り振られた仕事というものがなく、自分から進んで作業するシスターたちを手伝っていた。
「さっきはお休みだったから、まだ午後のお茶を運んでないの。良かったら持って行ってくれない?」
 今は部屋で伏せる事が多くなってしまったが、老シスターならば力になってくれるかもしれない。
 ――シスターに聞いてみようか?
「……わかりました」


 ノックしてドアを開けると、老シスターはベッドから身体を起こして本を読んでいた。
「あの……お茶を、お持ちしました」
「まあご苦労様」
 サイドテーブルにカップを置くと、老シスターは穏やかに微笑んだ。
 枯れた枝のような腕が震えながらカップに伸びるのを見て、夜刀はふと思った。
 ――怖く……ないのかな。
 いつか人は命の動きを止め、死んでしまう。その時が近付いていると感じながら暮らすのは怖くないのさろうか。
「夜刀様は少し変わりましたね」
 カップから立ち上るカモミールの香りにほっと息をつき、老シスターは夜刀に話しかける。
「……そうですか?」
「ええ。夜刀様から聴こえる音が、変わったように思いますよ」
「……音?」
 老シスターの耳はこの頃とみに遠くなり、物の輪郭もぼんやりと霞んできているはずだった。
 意味がつかめず不思議そうに戸惑う夜刀に、シスターは瞳を閉じて耳に手の平を当てて見せた。
「耳を済ませてみて下さい。
世界に旋律は満ちていますよ、夜刀様」
 それを聴き、楽譜を読み取る事ができるのは、瞳を開いた<奏者>だけだという。
 夜刀も瞳を閉じて耳を澄ませてみる。
 静寂に重なる鳥の声、木々のざわめき、風に波打つ湖水の飛沫……。
 この部屋にいる夜刀と、シスターの脈打つ鼓動。
 そして、天体が宙を回る、音。
 自然と人と、それを囲む宇宙の奏でる旋律。
 ――僕は……そうだ。ずっと気が付いてたんだ、この音に。
 この音が旋律となって……世界に満ちている事も。
『君の世界はもう開かれてしまったんだよ、夜刀』
 ――あの時……もう一人の僕が言っていたように、もう僕の世界は……目の前に開かれていたんだ。
 耳を塞ぎ、瞳を逸らしていたのは僕だった。
 時間がかかったけれど……ようやく、それがわかった気がする。
 夜刀は一つ一つ言葉を選びながら、老シスターに自分の意思を告げた。
 もう一度、今度は与えられるのではなく自分の意思で魔術を学びたい。
「……シスター……僕に、魔術を……教えて下さい」
 老シスターは強く黄金色の光をたたえた夜刀の瞳に、安堵の微笑を浮かべた。

(終)