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ギンコウ・ナッツ・ラプソディー
「……ダセェ」
開口一番がそれだった。
ウラという女の子ならば、ばったり会って即座のこんな物言いは、決して珍しいことでは無いかな……と思ったものだから、尾神は自身の目的のために歩を止めることはしなかった。
今日は、文化村デパートで開催中の浮世絵展に行くつもりであるし、ひとしきり見終わったあとは、吹き抜けのホールにある『怒孫』で、静かにコーヒーを飲みながら余韻に――
「おまえ、いつも同じ服を着てるわね。何よその、どぶ鼠のような灰色の、色気も味気も無い服は!」
この子には余韻、なんて言葉は自分の辞書に書いてあるのかな?
どぶ鼠、というのは酷いなあと思ったが、昔見たテレビでは誰よりも優しいと誰かが言っていたので、そういうものだろうと思うことにした。
この学校制服をデザインした人が聞いたらきっと卒倒するのだろうが……それに、そう言うウラだって、白と黒と赤ばかりじゃないか。尾神は心中で呟いた。
もちろん、実際に口にはしない。その代わりに、
「では、これで――」
「あたしが服を見立ててあげるわ!」
まるでその独白を察知されたかのように、腕を掴まれていた。しまった、と素で思ったが、後の祭りだ。
「え、え、一体どこに――」
「ハラジュク」
「はらじくッ?」
その一瞬、鼻を突くきつい匂いに、尾神は深い秋の訪れを感じた。
後ずさった時に、銀杏の実を踏みつけていた。
本当にここは『原宿』なのだろうか?
もっと……なんというか、人は多いものの、どこかもっさりとしていて、穏やかな気持ちすら思い起こさせたものだったのだけど――彼は正月の『原宿』、いや、明治神宮しか知らなかった。
「……怖いんですけど……」
「ハァ? おまえって、本当に弱虫ね」
「怖いって感じるのと、弱虫だというのは関係ないって僕のおじい様は――」
「ほら、行くわよ」
口を挟まれる間すら惜しいらしい。取り付く島も無い、とはこのことなのだろう。ウラという女の子は、いつだってそうなのだ。
見回せば、自分たちとそんなに離れていない年頃の人たちが多いのに気付く。自分と同じ、制服姿の人も多い。修学旅行なのだろうか、見たこともない制服もあれば、近隣の中学、高校と思しき学生たちも多くごった返している。
誰かに見られたらどうしよう、なんてことを思ったが、歩いているだけなら問題は無いだろうか? きょろきょろする尾神だった。
時々妙に思うのは、通りで呼び込みをする屈強な黒人や、マッシュルームカットやスパイラルパーマの髪型をした人たちが裏通りに抜けて行くところだろうか。
自分の手を引くウラの背中を見る。彼女のまとうドレスは、その背までものすごい編み込み細工がされていた。ゴスロリ、という概念は散々聞かされたから一定の理解こそあるものの、どうやって一人で着るんだろう、なんてことを尾神は考える。
それにしても、ウラの奇抜な――少なくとも尾神にはそう見えている――服装は、周囲の同様に着飾った人々に全く負けていない。
それどころか、本人から放出されている、気迫というか、目に見えない雰囲気のようなもので、圧倒的に上回っているように思えた。
女の子って、すごいな……
本当に、女の子って、すごすぎる……
尾神はそう思わずにはいられなかった。
連れ込まれた見知らぬショップで、彼は更衣スペースの中、途方に暮れていた。
制服はもう着ていない。腕に、なにやら豪奢な服一式を抱えて、映し鏡に自らの半裸身を捉えながら、思わず尾神はため息をついた。
「着るまでこれは没収ー!」
いじめ一歩手前なんじゃないか……カーテンの裾から現れた腕が、自分の着ていたブレザーやネクタイを奪うのを、尾神は止められなかった。店の人に迷惑をかけてはいけない。
ここが、ウラの行きつけの店であるのならば、彼女の顔を潰すようなことをしてはいけないと思う。たとえウラに対してでも、その気遣いは決して失ってはいけないことのように思った。
しかし……渡されたものを穿き、袖を通したところで、少し後悔した。
「開けるわよ!」
「ま、待って――」
大急ぎで、ボタンやらジッパーやらベルトやらを締めた。複雑なつくりをしていて、何がなんだか分からなかったが、とにかく着れてはいるらしい。
「もう待てないわ!」
ものすごい勢いでカーテンが引かれた。
「…………あら」
「…………」
「……案外似合うじゃない」
「……どうも……」
クヒッ、と笑うウラに対して、どんな顔をすればいいのか分からない尾神。
改めて、鏡に映った自分の身なりを見つめる。
一応はスーツの類ではある。ネクタイもベストもブレザーもある。けれども、その装飾やポイント毎の柄が、彼の理解の斜め上を行くようなセンスばかりで占められていた。
見る人が見れば、今の彼のことを、少しばかりガーリーでキッチュな、けれどもしっかりとボーイッシュにまとめたゴシックファッションの好きな少年と解釈するのだろう。ウラの見立てに死角は無かった。完璧ですらあった。
不幸なのは、尾神自身の精神に、その素養が全くないということだ。恥ずかしいというのを通り越して、もうよく分からない次元だった。
「じゃ、じゃあ、もう脱いでも――」
脛まで伸びたこの靴紐を、いちいち解くのか――長い着替えの時間を連想して、気を重くしたその束の間だった。
「準備はいいかしら? 行くわよ」
「え、えッ?」
まるでそうすることが当たり前のように、ウラは尾神の腕を引いて、店を出て行く。
「待って、これ、脱いでない――」
「脱がなくてもよろしい」
「お金――」
「とっくにカードで払ったわ」
「う、嘘!」
青ざめる尾神に、ウラは人好きのする微笑を浮かべて、
「あたしの隣を歩きたいのなら、この服装じゃなきゃ」
いや、隣を歩きたいなんて……
「何か言った?」
「い、いえ」
自分に発言権は無いんだなあ、と思った。
カードで払った、って、もし僕のところに請求書が来たら、家族にどうやって説明すればいいのだろう……そんな尾神の不安などどこ吹く風、ウラは上機嫌で歩き続ける。
自分の姿を改めて見回して見る。すご過ぎた。通りの周囲を再度見回す。自分の学校の生徒はいないようだ……けれども、心安らぐものではない。誰かに見られでもしたら、学校で変なあだ名を付けられてしまうのではないか。戦々恐々の尾神だった。
「……ん?」
ふと、通りの隙間に、草木追い茂る狭い道を見つけた。
『ブラームスの小道』
そう書いてある小さな看板が、入り口を象(かたど)る周辺の赤レンガに打ちつけられている。
この場所の喧騒とはまるで遠い、心地よさそうな静寂を、その細い細い道の向こうに尾神は感じた。どこか神秘的にすら思った。自然と気持ちが逸れて行く――
「ほら、行くわよ」
「……うん」
そろそろと歩き出した。見ていた方向とはまるで逆、通りに面したクレープ店へ。
それからの行脚は、尾神には少々つらいモノとなった。
女の子は糖分で出来ているに違いない。そんなことを思うに充分な食べ歩きだった。食の細い尾神にとって、そんな道行きの中で出来ることなど、ウラの人間観察しかない。
浮世絵とはえらく違っちゃったな……やけに照明の暗い、ゴスロリ少女たちが多く卓を囲むカフェの中、半分呆けた視線でウラを見つめる尾神だった。
「なによ、じろじろと」
別に……と言おうと思ったが、もう何を言ってもろくなことにならないと思って、軽く相槌を打とうとした――
「あ、もうこんな時間」
のだが、すっくと立ち上がるウラに、動きかけていた唇を止めた。
「あたし、これから約束があるのよ。じゃあね」
一体なんだったんだろう?
通りの先に見える夕映えを見つめながら、尾神はのっそりとしたため息をついた。
しばらく、その場を動かずに、陽が沈むその様を見つめていた。
「……制服……」
すっかり忘れていたが、ウラの姿はもう見えない。今頃は彼女のショルダー・バッグの中で、主人に忘れられたことを多いに嘆いているのであろう。
気になっていた、『ブラームスの小道』の入り口に目をやる。銀杏の実が生っていた。
にわかに大風が吹いて、その実がいくつか、ぽとりぽとりと地にこぼれる。
「秋は台風の来る季節、だったなあ――」
尾神は静かな小道を歩き出した。
歩きにくいロングブーツで、銀杏を器用に避けながら。
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