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少年禁猟地帯5
●ドラッグストア前 〜4月17日PM11:00
「うー……心配かけて御免なさい」
シュライン・エマは小さな声で言った。
草間武彦に寄りかかり、先程怪我した後頭部を消毒してもらっていた。
「いッ!……痛ったぁ〜」
「しかたないだろう、我慢しろよ」
武彦はゆっくりと消毒液を含ませたガーゼで傷を拭いていった。
留めているシュラインの髪飾りを外し、長い髪を肩によけて傷が見えるようにすれば、武彦は不器用ながらも丁寧に化膿止めの黄色い粉を塗る。
「見える部分じゃなくてよかったな」
「えっ? ……そんな、残るような傷なの?」
恐る恐るといった風にシュラインは訊く。
武彦は悪戯気味にニッと笑ったが、不安げなシュラインの表情を見るや少し可哀想になり、「大丈夫だ」とだけ言った。
シュラインは武彦か零と一緒に居るよう心掛けることにした。この世界の武彦はこの世界の自分に任せる事にする。零を置いて出てる辺りでこの世界の武彦が無事かは謎だ。
それよりもシュラインが気にしているのは白い子供と呼ばれる存在が現れた二年前あたりの、自分達の世界での関連あると見られる吸血鬼事件有無だ。
頭部に残る鈍痛と眩暈に格闘しながら、シュラインは次なる捜査の方向について考えていた。
●店の中で 〜ある夜〜
「これはある意味チェックメイトだと思うのだけれど」
聞くものに鈴の音のような印象を与えるであろう声が言った。遠くに見える武彦とシュラインの姿を見て。
「そーかなぁ、ボクにはまだまだだと思えるんだけど」
愛らしい少年の声が答えた。
暗闇に満ちた店の中で、家を抜け出した子供二人が秘密の場所で話し込んでいる――そんな雰囲気さえある。
辺りは暗く。近くにあるランプと月の明かりだけが店の中を照らしていた。少女は視線を元に戻して応じる。
「言うわね。ところで、あなたのご主人様は元気?」
「あの女が元気じゃないわけないじゃん! ブッ千切りで破壊しまくってるよ……だぁれにも気付かせずに、いつもの通りに」
「でしょうね」
「でもさぁ、あいつ……ロスキールって言ったっけ。あんたのところのご主人様の弟」
「ロスキール様とおっしゃい」
「ボクには関係ないだろ。ボクは人間だしさ。敬称付ける義理も無いんだよ」
「友好的に物事を運ぼうとは思わないのかしら?」
「常にボクたちは破壊的に物事を運んでるから、有効なんてお為ごかしは必要ないのさ。それより、彼の変化に興味ないかい……エヴァ?」
「おおいにあるわね。その件に関して私たちは真っ向から対立する立場にあると思うのだけど、どうして貴方は、そうのこのことやってくるのかしら。首を捻じ切られたいの、人間?」
「切られるのは勘弁だよ。ボクはね、面白い方がいいのさ。何もかもが壊れてしまうのなら、派手に、愉快に、喜劇的に壊したいんだよ」
少年はひとしきり笑い、「それがボクの美学さ」と付け加える。
「狂った子供の戯言よ」
「その代わり、ボクはあんたを非難したりしてないだろう?」
「その通りね」
「どっちが手に入れられるかはこの際如何でもいいのさ。ただの遊びみたいなもんだし。ゲームは思いっきりやりあわないと楽しくないしね。あんたのご主人様の弟……いいや、あんたにとってご主人様は『弟』の方だ。そうだろう?」
その言葉に少女の方は答えなかった。
「とにかく、弟の方はそのうち完全に変化するね。アレは……あの麻薬は特別製さ」
麻薬の話が出ると少女は眉を顰める。
緑色の瞳が少年を見据えた。
「おー、怖い怖い」
「まぁ、いいわ。この街に『異物』も混入してきたことだし、洗浄してしまわないとね」
「それは正しいよ」
少年は笑った。
「ボクの考えじゃ、もっとも危険な麻薬が近日中に出来上がると思うね。どこに隠してあるか知ったら、奴等は吃驚するだろうなぁ」
「それに関しては意見が一致するわ。それに願いも同じだしね、ディサローノ。あの人間どもは隠し場所がどこかなんて、ちーっとも考えてやしないんだから」
「ホント、同志がいてくれて助かるね。ブラックウッドの爺さんが厄介だけど。どーする?」
「どうするも何も、倒すしかないわ」
「同意。あんたのご主人は城に宝物を隠したみたいだから、後はやりやすいんじゃないの? 好きなだけボクは殺せるから楽しみだけど」
「死体の山にいくつの『異物』があるかしら?」
「さあね、ボクとあんた次第……そして、奴等次第さ。遠慮も手加減も必要ないだろうね。それにボクは手加減ってものをする気もないし」
「狂った舞台で踊るのはいくつもの命。そんなことはわかっているはずよ、奴等はね」
そう言って少女は笑った。
●従者の憂鬱 〜4月18日朝〜
モーリス・ラジアルは苛立っていた。
答えは至極簡単。ご主人様(セレスティ・カーニンガム)からの連絡がないためである。セレスティとは本来の世界である現実の方でも、毎日一度は連絡を取っている。そのため、連絡が途絶えれば、何かあったのかと思うのは当然のことであろう。
「待っているなんて性にあいませんからね……」
そう言うと、モーリスは苦笑した。
ソファーに座って紅茶を飲んでいたのだが、その手をカップから離し、直ぐに行動を開始する。
ありとあらゆる情報屋をあたり、その中に奇妙な情報を売っている女を発見した。はじめてみる名であったが、もっと調べてみると前は『上條羽海』と言う名であったことがわかった。
以前、セレスティが異なる世界に行く前にそのような名を口に出したような気がして、モーリスはその女に連絡を取ることにする。
一緒に中にいるであろうシュラインに連絡を取れば、おのずと出会えるであろうと思い、然程それについては不安になることはなかった。
モーリスは約束の場所である埠頭へと車を走らせ、時間まで海を見て過ごした。そして、十分待ったか待たないかぐらいで、かつて『上條羽海』と名乗っていた女はやって来た。
「こんにちは、ハンサムさん」
女は笑った。
「こんにちは、上條羽海さん」
モーリスは意地悪く笑って返した。
「嫌な男ね」
素っ気無く言って、上條羽海という名の女は眉を顰める。過去を否定しても良いだろうに、この女は否定するでもなく正直にモーリスに対して嫌な顔をした。
「目的のためならば、私は別に嫌な男でも何でも構わないんですよ」
文句無しの美人を前に、モーリスは品定めをするかのような視線を送る。赤いスーツに隠されたたわわな果実は、腕組みをする彼女の腕の動きで更に強調されて見える。
「そうでしょうね」
女は言った。
「あなたのことはリンスターの者と言う以外何一つ知らないけど、これだけはわかるわ。形あるものでさえどうでもよく、あなたの主人さえ平気であればどうでも良いと……」
「おや、良くご存知で」
「わかるわよ、私だって同じだもの。あなたは主人が全てで、私は自分が大事なの。大して変わらないでしょ? 主君に忠誠を誓うか、自分の人生に全てを捧げるかの違いでしかないもの。さて……欲しいものをあげるわ。その代わり、私の欲しいものを戴くわよ」
その声を聞くと、モーリスは薄い笑みを浮かべる。そして、中に入った金を見せるでもなく鞄をそちらの方へと投げる。
中身は数千万円。そして、彼女の身の保証と以後の行方や諸事情を追及しない約束もおまけについているのだった。
「出し渋るやつは信用できないけど、さすがに金払いは良いわね。これに関しては信用できそうだわ」
そう言って、上條羽海はUSBメモリーをモーリスに投げた。
使用方法もUSBメモリーの中に入っている。
上條羽海は何も言わず、モーリスがそれを手にしたのを確認すると、鞄を持って去っていった。
丁度その頃、桜月理緒はネットを徘徊していた。正確に言えば、ネットを閲覧していたのだが、あるサイトに入ったとき、変わった情報を手に入れ興味を示した。
「これって何のことかな?」
『NCRS』のことを知った理緒は行方不明者や情報収集をしてみたが、その情報からはどうやってその特定された場所へ入れるのかわからなかった。怪異転送プログラムにより、任意であらゆる事象を転送出来る異能を持った彼女であったが、その情報の深い部分は手に入れることができない。
「うー……他に入るルートでもあるのかなぁ」
理緒は呟いたが、パソコンが答えることはなかった。
時同じくして東京の某所。
安宅莞爾(あたか・かんじ)は消えた生徒を探していた。
東京の中で何人かの子供達が同じキーワードのもとで行方不明になっていると感じたからだった。
「何処に消えたのか……」
莞爾は呟いた。
元企業工作員とは言え、今は学校に通う生徒として生きているのだ、気にしない方がおかしい。だがしかし、特定の情報屋を見つけ出すことができず、莞爾はパソコンの前で溜息を吐いた。
●朝 4月18日AM8:00
ドンドンと叩く音がする。
誰かの叫ぶ声。
差し込む光がまぶしくて、月見里千里はうっすらと目を開けた。ぐらぐらと揺れる視界、体。そしてまた、誰かの叫ぶ声――紅い髪……
あや。
そう言ったのかもしれない。
そう思ったのかもしれない。
千里にはどっちかわからなかった。
ただそんな言葉が――溢れ出た。たった二文字。
ぼやけた視界と思考は、自分のみに何が起こっているかを千里に教えない。何が起きてるか把握できなかった。
やっと鮮明に見えるようになった目には、どことなく泣きそうに見える瞳をした青年の姿が映りこむ。
――泣いてる? 何で……
「おい……おいっ、しっかりしろ!」
何度も揺さぶりながら呼びかける。
その度に紅い髪が揺れた。
「あ……」
「何が起こったんだ!」
いなくなった千里が戻ってきて、次はセレスティが居ない。この状態は一体何なのか、獅子堂綾にはわからなかった。
遠くで声がする。
シュラインと武彦の声だ。
朝帰りを気にしつつ、ケーキを持って入ってきた二人は、セレスティの部屋の様子に首を傾げる。
「どうしたの?」
「こいつ……千里が――帰ってきた」
「えっ! あ、千里ちゃん!」
シュラインは千里を発見すると、吃驚してケーキを机の上に置いて二人の方へと歩いてきた。
「どうしたのよ、千里ちゃん」
「おは……おはよ〜」
何のことだかわからない千里は、皆に朝の挨拶をする。
「こらっ! 今まで何処に行ってたの? みんなが心配するでしょ??」
「ご、ごめん……なさい。でもォ〜、何が起こったか憶えてな……」
「お、憶えてないの? はぁ……」
シュラインは千里の言葉に深く溜息をついた。
自分も昨日は随分と心配させてしまったから、人のことは言えないかと肩を竦める。
「あらあらあら〜、皆さんどうしたのかしら?」
のんびりとした声が聞こえて皆は振り返った。
そこに立っていたのは隠岐智恵美だ。
ホテルに戻った時にセレスティがいない事に気がつき、智恵美はおかしいと感じていた。
「あらあら……セレスティさんいないのね〜。おかしいわぁ」
小首を傾げ、智恵美は部屋に魔力や妖力の残留がないかどうかを魔法で調べた。
「何かわかりました?」
シュラインは言った。
「いいえ……次元の歪みはわかるけど、特定が出来ないわね」
智恵美は首を振る。
「でもねぇ、昨日……明日菜の方から、セレスティさんの様子が変って聞いてたから〜」
「えッ! そうなんですか?」
「そうなのよ〜」
すでに昨日、明日菜から昼間からセレスティの様子がおかしかった事を聞き出した後で、何かあるならセレスティに何かあるのだろうとは思っていた。その考えが正しかったのではないかと、今の智恵美は直感している。
そして、彼の持ち物を調べて何が起こったかを推測しようとしたが、WGN-55はきっちりとケースにしまわれていて、情報を調べていた時に襲われたという予想は成り立たないようだ。
智恵美は溜息をついた。
しかし、普通に考えてみてセレスティを狙うとしたら、今のところではロスキールくらいしか居ない。だが、如何な方法でホテルの場所がわかったかというシンプルな疑問を智恵美は持つに至る。
そして、それを述べた。
「確かにねぇ」
シュラインはセレスティの行方について考えたが、千里の首に妙な傷を発見するとその符号は一致し、ロスキールが関わっている可能性はかなり高いと思える。
とりあえずは、疲れてるらしい千里をそっとしておこうと、シュラインは提案した。
智恵美はそれに同意を示し、彼女と共に部屋を出る。
綾は千里を抱え(無論、そのときには千里は大いに抵抗したのだが)、千里の部屋に無事連れて行った。
●暖かな中で
田中裕介が目を覚ましたのは、4月18日の午後4時ごろだった。
夜になると食事をしに集まるという店に行く予定であったのもあって、祐介はヒルデガルド・ゼメルヴァイスと時間までベッドでじゃれていたのである。
本来なら、お互いに底無しであろうことは確実で、本気なら何日もベッドから離れそうにもない。祐介は名残惜しくその女の暖かさから離れた。
そして、昨日から不思議に思っていたことを祐介は素直に口にした。
「おい、吸血鬼って言うのは……そんなに暖かいものなのか?」
Nolife Kingとも呼ばれることもある吸血鬼が、人の暖かさを持つというのは珍しい。
白磁よりも白く透き通るような肌に雪のような白髪を持つ美女は楽しげに微笑んだ。
「他のものはどうかは知らぬ。私たちの一族では、暖かさという性質を持つことは珍しいのだ」
「それは、お前だからか?」
祐介は言った。
「そうだ」
王の中の王たる長(ヒルデガルド)は答えた。
「稀有な存在……それは一体どういうことを意味するのだろうな」
「そのうちに知ることになるだろうよ。次代長の父となる存在ならば」
「……む?」
優雅な仕草で足を組み直した美貌のヴァンパイアの一言に、祐介は眉を顰める。
「何だと?」
「そうさなぁ、祐介? 可愛い娘であったなら、お前の好きな服を着せてやっても良いぞ?」
意地悪く笑って、ヒルデガルドは細巻煙草(シガリロ)に火を点けた。
重要な答えをもらえなかった祐介は、半ばモヤモヤとした気持ちを抱えつつ、夜の集合場所に向かい、情報交換をすることした。
5階にある『La Cantinetta DELL'ENOTECA PINCHIORRI』に入ると、予約してあった個室に向かう。そこには母親の智恵美と興信所所長の武彦、事務員のシュライン、そして獅子堂綾と三浦鷹彬がいた。黒榊魅月姫はいつもの如く散策に出かけている。宮小路皇騎は神聖都学園で調べ物をしているらしく、その場にはいなかった。
「こんばんは」
祐介は言った。
「こんばんは、祐介さん」
シュラインは祐介を見て笑った。
祐介は思っていたよりも少ない人数をいぶかしみ、首を少し傾けた。
「千里がこっちの世界に来てるって聞いてたけどな。帰ったのか?」
その言葉を聞いて智恵美は首を振った。
「いいえ……ちょっと具合が良くないのよ」
「具合が悪い?」
「えぇ、それで……ヒルデガルドさんにも相談したくってね」
「Guten tag,Chiemi.私に相談とは、一体何か?」
ヒルデガルドはニッコリと微笑んだ。
その隣で、祐介は少し青い顔をしている。悪巧みが見つかってしまった少年のような表情を一瞬したのだが、それを覗き見したヒルデガルドは楽しげに微笑み、何食わぬ顔をして話を続けた。
「出来うることならば。……出来ないこともあるが」
「そうねぇ……何から話したらいいのかしらぁ〜。えっとね、千里ちゃんが居なくなってね、でも、今日になったら帰ってきたのよ。それで……セレスティさんが」
「セレスティが?」
「そうなの。居ないのよ、今度はこっちが」
智恵美は苦笑しながら言った。
手持ちぶたさにしていたロシアンティーのカップを揺らす。
「ほう……」
「セレスティさんの部屋に次元の歪みを発見したらしいのだけど。もしかしたら、ヒルデガルドさんならわかるかもって」
シュラインは言った。
「なるほど。では、それを見ればよいのだな。しかし……」
ヒルデガルドはあたりを見回す。
「お前達ではそれが出来ないのか? そう言う風には見えないのだが。何か問題でも起きたのか?」
このメンバーを高く評価しているヒルデガルドにとって、このお願いは意外だったらしい。
「そうねえ〜、普通なら私で充分なんだけど。何かこう、見えないのよね〜」
智恵美はコンタクトが見つからなかったのとでも言うような調子で言った。
祐介は母親が『自分で充分なんだけど』と言ったあたりで、あなたが居ればそれは充分すぎるのでは?と突っ込みを入れそうになる。だが、何も言わずに黙っていた。
「それにねえ。セレスティさんが居なくなったって言うのが気になるのね。どこかに出かけただけなら問題ないんだけど。うちの娘が言うには、昨日から具合が悪いってセレスティさんは言ってたみたいなの。それなのに、出かけるなんて可笑しいでしょう?」
「なるほど……」
「それで――もしも、セレスティさんに何かあったとしたら……ロスキールさんじゃないかって思えるのよ」
「ほう……その懸念はあの子の性格からすれば、当たらずとも遠からずかもしれんな。まぁ、調べてみよう」
そう言って、ヒルデガルドはあまり見せない笑みを智恵美に向けた。
「それとね、彼が大切なモノを隠す場所って、ヒルダさんにわからないかな〜と思って」
シュラインは協力を願いつつ、この世界の地図を見せる。
「これ見て、場所を絞れないかしら?」
「無理だな」
ヒルデガルドは地図を見ずに言った。
「えッ?」
「ロスキールなら、この世界に隠すことはしないだろう」
「じゃぁ、他の世界に居るってことかしら?」
「そういうことになるな。この世界は奴にとって初めての場所なのだろう? だとすれば、自由の利かないかもしれない場所に、態々危険を冒してまで居続けたいと思う者が一体何人いるのだろうな」
「そ、そうよねえ……では、何処に?」
「さぁな。私たちの住む世界……と言うか、領域は広い。ある宇宙を一つそのまま我々の世界としているようなものだ。実際のところはもっと広範囲だとは思うがな。私がいちいち関知するのも面倒だった故、割合好きにさせておいた。追跡もそれほど難しくはないからな」
「全部把握していないというのも、意外……」
端の方で話を聞いていた祐介は呟いてから唸った。
「例えばだ、虫のやることを神が把握していると思うか? 故あればすることもあるだろうが、そのような小さきことは関知しないはずだ。全宇宙の存在を消そうと言うならいざ知らず、どこかの宇宙を見つけ出して自分の領地にしようというぐらいなら文句は言うまいよ」
「そうなのかしらねぇ……」
シュラインも唸った。
どうも、話のスケールが大き過ぎて、いまいちわかりずらい。
「まぁ、この世界で何が起きているかわからないが、智恵美が言っていた『白い子供』なる存在に私は関知する気も今のところは無い」
「でも、『白い子供』って吸血鬼みたいですけど……っていうか、ほぼ確定してるのですけど」
シュラインは納得できなくて言った。
「それはだな、お嬢さん(フロライン)。私の一族であるなら話は別だ。無論、他の一族のものでも、この世界と何ら関わりの無い吸血鬼がこの世界を牛耳ろうとしているなら、それも話が別になる。つまり、この世界の吸血鬼ならば、私は手出しをしない。他の一族であってもちょっとした餌場にしているぐらいなら気にもせん。だが……」
ヒルデガルドはニッコリと笑った。
「餌場以上のことをしようとしているなら相対するであろうよ」
「なるほどね……」
シュラインは納得がいったような気がして頷いた。
「お前達の世界は、私にとっては遠き故郷であり、現状的には餌場とも言える。本来ならばそれ以上なのだが、それについては秘密だ。だから、教皇庁と警察庁には協力という形で行動してきた――リンスター財閥にもな」
「その総帥が誘拐されたというのでは……」
智恵美が呟く。
「そうだ、智恵美。まさにそうなのだよ、その犯人がロスキールであるとなれば、私も黙ってはいられない。あれがセレスティを好いているのは知っていたし、それについてはロスキールを咎める気もない。我等が性たるゆえに咎めることは出来ぬ。しかし、本当に好いているのならば、家に返してやるべきだと私は思うのだ。都合の良い考えだとは思うのだが……その後に謝って許してもらい、遊びに行くなり、口説くなり好きにすればよいと思う。だが、奴は厄介なものを手に入れている」
「厄介なもの? あの……麻薬」
「あぁ、そうだ。それさえ渡せば、私の方は何も言う気はない。幽閉したところで、永い我々の人生では何の責め苦にもならん。好いている相手が普通の人間ならば、多少の苦痛にはなるだろうが、セレスティは725歳であろう――それでは、同じ永い時を生きることが出来るだけで苦痛にも何にもなりはせぬ。ロスキールが形振り構わずセレスティを手に入れようとしているのは、あの麻薬に関係することなのだろうな」
「ヒルデガルドさん……」
「ロスキールの始末は……どんな形でもつける」
そう言って、ヒルデガルドは寂しい笑みを浮かべた。
●ネットカフェ 4月18日 〜PM7:00〜
隠岐明日菜は、夜の食事会&情報交換会に出席せず、別行動を取った。
何か手掛かりはないかと思い、また街の捜索をしていた。先日と違って、どこか緊迫した感じがしないでもないが、こちらを窺うような視線などを見ることも無く、ほぼ平穏に散策は続いた。明日菜は高峰研究所跡地へと向かう。
あのUSBのスロットが気になったのだった。
そして、何より気になるのは、この世界の自分。もしも、このUSBメモリーの解析が『この街に生まれた自分でないから出来ない』のであれば、それを手伝ってはもらえないかと思っていたのだ。
たかが生まれの話であったとしても、この世界に生まれ出るのと自分達の世界に生まれるのとでは大きく違うはずだ。
とりあえず、明日菜はこの世界のパソコンをネットカフェに行って調べた。この間買ってきた自分の筐体などもそうだが、何処かしら違うところがあるはずだ。
個室席でこっそりとパソコンを開けた。無論、いきなり開けたら怪しまれるため、自分のノートパソコンに繋ぎ、モニターをノートパソコンからの画像で誤魔化したのである。
そして、誰も見ていないうちに開け、見た目にはわからないとなるとBIOSまで調べた。
コンピュータの分野は非常に変化が激しい。そして、新しいマザーボードやチップセットが開発され発売されるたびに新しいBIOS設定項目や用語が登場する。より複雑になっていっているのだが、パソコンが便利になっていっているという証拠でもあるだろう。
もしかしたら、独自の進化をしているのではないかと明日菜は思ったのだった。
「えっとォ〜、MC-AGPCLK……MC-CPUCLK? なんだそりゃ? えーっと、何よ。これ」
明日菜は溜息を吐いた。
「AGPCLKならわかるのになぁ……ん? そう言えば。何で、何でも前にMCが付いてるんだろ?」
ある程度調べてから、明日菜は気がついた。
「やっぱり、この街の私に頼むしかないかも」
明日菜はうーんと背伸びをした。
もしも性別が違ったとしても、この世界の自分の地位や職業はあまり変わっていないだろう。どの世界でも、自分は自分だ。自分と同じくパソコンが得意だろう。
明日菜はネットを検索し、この世界の自分を調べはじめた。
「えーっと、ここをこうして……ちょいちょいっとな〜♪」
自分と同じレベルならわかるであろう痕跡を残し、相手の動きを待つ。この世界の自分がわかるであろう暗号で作った捨てハンとフリーメールをネットに残し、行きつけの喫茶店で待ち合わせるとの伝言を残してその店に向かった。
合流できたのなら、自分の素性を素直に話し、メモリーを解析して欲しいと依頼するつもりだ。明日菜は店の中で、こっそりと武器の確認をし、ノートパソコンを開けて電源を入れて相手を待った。
●会合の裏側で 4月18日〜PM7:00〜
夜になれば、闇なる者の時間だ。
「ふふふ……ごしゅじんさまとの〜……やくそく」
楽しげに千里は笑った。
瞳はいつもの黒い瞳が赤く染まっていた。闇に染まったものの瞳だった。そして、それを見る者も、彼女を止める者もそこにはいなかった。
千里は起き上がると、夢遊病者のようにフラフラとクロゼットの方へと歩いていく。前を見る瞳は虚ろなのに、どこかに意識でも残っているかのような仕草で服を着ていく。部屋を抜け出し、辺りを見回すと誰も以内かを確認するかのように視線をめぐらして確認していった。非常口の鍵を外しておく。
そして、ホテルの人間に気付かれないように外に出ると、都内の適当なネットカフェに入っていった。
飲む気もないが、千里は珈琲を頼んだ。
運ばれてくると、その赤い瞳はふいに黒く染まり、にわかに正気を取り戻した目で店員に微笑みかけてから視線を目の前の画面(モニター)に戻した。
そして瞳はまた赤く染まる。
これで誰も疑うことはないであろうとでも言うかのように。
「おやくそく〜……ごしゅじんさま」
千里はまた笑うと、セレスティとロスキールに関する誤情報を適当にばら撒きはじめた。無論、このままでは嘘だとばれてしまう。千里は居なくなった仲間達の誤情報もばら撒く。そして、『NCRS』の情報も流した。
ネットカフェに長居をすれば、そこから足がつく。短時間で別の場所に行き、内容の異なる情報を送ることにした。手始めに秋葉原に行き、次に神田、御茶ノ水、新宿と移動していく。
千里は見つかるのを避けるため、同じ店は利用しないようにしていた。
綾たちがホテルに帰ってくるであろう時間前に作業を切り上げ、千里はホテルへと帰る。千里は非常階段を上がり、部屋のある階まで上がるとドアを開けて中に入った。
誰も居ないのを確認してから部屋に戻り、階段を上がったことでかいてしまった汗を何とかしなければと千里はシャワーを浴びることにする。
そして、丁度シャワーを浴び始めたころに皆は帰ってきた。
「ただいま〜」
シュラインは言った。
千里が居ないことに気が付いたらしく、バタバタと歩く音や声が聞こえている。
綾は千里の部屋を開けると千里を呼んだ。
「おい、どこにいる!?」
少し焦ったような声が震えている。
水音が耳に届いたか、綾はバスルームの方へと駆けてきた。
「千里ッ!」
何を勘違いしたのか、綾はバスルームのドアを思いっきり開けた。
その瞬間、千里の叫ぶ声が辺りに響いた。
「きゃああああああッ! ばかぁーーーーーーー!!!!」
「あ、え……」
「変態! ばかッ! 死んじゃえー!」
都合良くロスキールの掛けた術が消え、元の千里が彼女の意識上に戻れば、目の前に居る男に気が付くわけで――このような展開になるのは必定であろう。
事件の現場はバスルームと相場が決まっている――と、綾は思っていたのだった。しかし、今回はそれが仇となったようだ。
「ばかーばかーばかー!」
石鹸やらシャンプーやらを投げ飛ばし、ドアを閉めようと千里は綾を腕でぐいぐいと押す。綾の方は何が起こったのかわからないらしく、唖然としたままだ。
悲しいかな、青年の視線は自ずと千里のナイスバディーに向かう。
「あ、綾くんたらっ……」
その現場を見てしまったシュラインは「きゃぁ♪」と声を上げて隣の部屋に引っ込んでしまった。好奇心旺盛な三浦はしっかりとその現場を眺め、「綾くんたらぁ〜、お盛んー♪」などという始末。そして、三浦はシュラインに怒られ、耳を引っ張られて隣の部屋に引っ込んだ。
「す、すまん……」
やっと事態を把握した綾は逃げるように隣の部屋に行き、三浦のしつこい追求に憤慨する。理由はどうであれ、女の子のシャワーシーンを覗いたのだからと、綾はシュラインに怒られた。
随分と納得できない様子であったようだが、綾はシュラインの言うことにしたがい、あとで千里に謝りに行くと約束した。
べランダで夜風に吹かれ、綾は夜景を眺めていた。
眺めていたというよりは、部屋に居ずらくなって下界を眺めるしかなかったのである。気になる部屋の中の様子、こと千里の様子が綾は気になってきた。振り返ると千里は居ない。
小さく溜息をつくと、綾は視線を戻し、また何と無しに外を眺めた。
「よう、綾」
陽気な三浦の声が聞こえると、綾は嫌そうな視線を向ける。
「何だ……」
「あ〜何よ、ソレ。悩める青年にお姉さまが優しく指導してあげようと思ってやってきたのに〜」
カマ臭い喋り方で三浦が言った。
ドアの端っこに隠れ、チュシャ猫のようにニーッと笑う。
「ふざけんな。いつからお前はカマになったんだ」
綾は言う。
「まぁ〜〜〜〜、カマですってぇ! おホモ嫌いのアタシに『オ・カ・マ』だなんてッ。掘られるケツは持っていなくってヨ」
三浦は尻を振り振り言った。
「じゃぁ、掘るほうが好きなのか?」
「どっちも嫌いに決まってるだろ。乳のデカイ美女が俺の好みだ。それはともかく……あの千里とかゆー女とどこまでイったのかね?」
「……」
「その調子だと、行くとこまでいったな……お前ら。はぁ〜あ、綾くんは身持ちが固いから、一緒に彼女無し街道をまっしぐらランナウェイできると思ってたのによ〜」
「勝手に決めるな。あいつは――彼女じゃない」
「おッ! 何だと〜? セフレですかー、やりますな」
「ふざけるな!」
「何だよ何だよ〜、そこまでいっといて純愛とか言うなよ〜」
ずばり図星を突かれ、綾は黙った。
「おいおい……救いようがないな。マジかよ」
「さっきから冗談なぞ言ってない」
「あぁ、神様。この純情少年をお救いください。あの気の強そうなおなごに惚れるなぞ、正気の沙汰ではありません〜」
「そういう言い方するな」
綾の真剣な声に三浦は肩を竦めた。
「ちゅーかさ。あいつ、何かあるぜ。こう〜、何か胸ン中に何かあるつーの? 隠し持って離さない影つーのかな、そういう顔してるぜ。……いいのかよ」
「何が?」
「お前だけってゆーことじゃないぞ……そういうことだよ」
三浦の言葉に綾は俯く。
逡巡した後、小さな声で言った。
「……いい」
「救われねーな」
「構わない」
「本気なんだな」
「……らしい」
「はぁ〜あ、馬鹿だねぇ。あいつのどこが良いんだよ。お前の周りってモデルの女しかいねーじゃん。充分に可愛いとは思うけどな」
「そういうんじゃない……そういうんじゃ」
「知ってるよ。お前ってそういう奴だし――あいつの笑った顔が見たいとか言うなよな」
三浦は言って綾の方を見た。
綾は黙っている。
「マジ? ホント……救われねぇわ」
三浦はそういうと、ほとんど見えない東京の星空を見上げる。
ただ、空は黙ったままに、ゆっくりと朝へと向かっていた。
●ホテル 4月19日 〜AM9:00〜
昨日、ヒルデガルドと会合を果たした一同は、朝からの珍客に呆然としていた。
シュラインはカップから紅茶が溢れているのにも関わらず、それに気が付かないでいる。やっと自分のところまで紅茶が流れてきて零れていることに気が付いた。
「あわわっ! きゃーッ☆」
「随分と慌てているようだが……」
客人は言った。
ヒルデガルドだった。
「あ、お、おは……おはようございます〜。だって、ヒルデガルドさん――朝よ」
シュラインはタオルで拭きながら応える。
「あぁ、そうだな。今は朝だ。それがどうかしたか?」
「だって、吸血鬼……」
「まことに私は吸血鬼だが」
「ロスキールさんは……確か、夜しか行動していなかったような〜」
「そういったことか。私はあれとは違うゆえ、朝も夜も関係ないな。それはともかく、昨夜の話に出た次元の歪みを見せてもらおうと思って来たのだが……」
「あっ、すみません。わざわざ来ていただいて。お茶、いかがかしら?」
「いただこうか」
「じゃぁ、ちょっと待っててね」
シュラインは零したテーブルの上を片付けると、新しいお茶を用意した。何か無いかと探せば、クッキーの缶があったので、綺麗に見えるように並べて出した。
「そうそう、聞いてみたいことがあったのだけど」
「何だ?」
「私が襲われた店での事件なんだけど……」
「ほう、お前は襲われたのか?」
大丈夫かと心配げな目でヒルデガルドはシュラインを見た。
「もう大丈夫なんだけど、気がかりなことが一つあるの。Simoonっていう店でたくさんの人に……そうね、店の人間全員にと言えばいいのかしら。お客にも襲われちゃったんだけど。その時に『黒いシミが六つ』って……何故すぐ判断が出来るのか不思議じゃない?」
こうしてみるとあまり怖い人物には見えなくて、シュラインは昔馴染みと話をするように言った。
朝の光がとても暖かい。事件の連続だと言うのに、朝は等しく明るく人々の心を暖かくするもののようだ。
「単に不同調の人間の判断かもなんだだけど。むーん、例えば……データ界と想定して、更新されてないものが黒とされる〜……とか」
そこまで言って、シュラインは机に頭をごん☆っとぶつけた。
「何をやっている?」
ヒルデガルドはクスッっと笑って言った。
「むー、笑わないでちょうだいな。これでも真剣に悩んでるのよ〜。まったく、ちーっともわからないのだもの」
「では、その更新とは何のことだ?」
「あ、あれよ……あれ、USBメモリーの中身」
「そうか、それが鍵かもしれないと思っているのだな」
「そうなのよ。いつ出入するかもわからないし、可能な限りはパッチ当てておいた方が良いのかもね〜。そうだわ、高峰研究所跡地へ行かなくっちゃ」
「そうか、では私のもする必要があるかもしれないな。多分、独自の方法でこちらの行動経緯を特定しているのだろう」
「でしょうねぇ……多分、状況的にはセレスティさんのUSBメモリーは置いていかれてるでしょうし。両方更新してこようかなあ」
「それが良いだろうな」
そうしている間に智恵美や祐介たちがやってくる。明日菜は何か用があるらしく、街へと出かけていった後のようだった。
「あらあらあら〜、おはようございます、ヒルデガルドさん」
「おはよう……ヒルデガルド」
「おはよう、智恵美、祐介」
「早速といっては何だが、次元の歪みを見せてもらおうか」
「あぁ、あれね。はいはい、こっちよ」
知恵にはヒルデガルドに隣の部屋を指差して言った。そして、自分もそちらの方へと向かう。
皆は隣の部屋に移動したが、その島は主人を失ったセレスティの部屋には何の変化も無く、ただ朝日が差し込んでいるだけのようにも見えた。
その部屋に入るや、ヒルデガルドは眉を顰めた。
「やはりな……」
「どうかしました?」
「ロスキールの仕業だな」
一言言うなり、ヒルデガルドは部屋を出て行き、他の部屋のドアを次々と開けていった。
「ど、どうしたの?」
吃驚したシュラインは後から追いかけながら言う。
「あ、その部屋……千里ちゃんが寝てるしっ」
「ほう……」
ヒルデガルドは立ち止まり、シュラインの方を振り返った。
「この部屋にいるのは、千里と言う名の下僕なのだな」
「え?」
「そういうことだ」
「ちょ、ちょっと待って……」
シュラインの制止の声も聞かずにヒルデガルドはドアを開けた。
千里は着替えを終え、ベッドの隣に立っていた。今、まさに出かけようとしているところといった様子に見える。
「おはよ……」
ドアが開いた刹那、千里の表情は凍りついた。
はっと息を呑んだのも束の間、恐怖と見れる表情で後退し始めたのだ。それを見てシュラインは首を傾げる。
「千里ちゃん、どうしたの?」
「あ……」
「動くな」
ヒルデガルドは言った。
「お前、私がわからないわけではないな?」
いくら弟(ロスキール)の下僕になりかかったと言っても、長のヒルデガルドに反抗しようなどと言うことは出来ない。それゆえ、千里は恐怖に駆られて立ち尽くしていたのだった。
「あ、あのう」
ヒルデガルドの言葉を聞いたシュラインが目を瞬かせる。
「何があったのかしら……」
「シュライン、下がっていろ。怪我をするぞ」
逃げられないと悟った千里は、シュラインを狙って行動を開始した。空中の分子を変質固定し、自ら望むものを瞬時に作り出す事ができる能力を使うなら、今がチャンスだ。
虚ろな視線をシュラインに向けた一瞬の間に千里はヒルデガルドの横を駆け抜け、シュラインの首に腕を巻きつけて下がった。
「ううっ!」
首が絞まりシュラインはもがく。
千里は手の中にデリンジャーを作り出し、シュラインのわき腹に突きつける。
「貴様!」
「ごしゅじんさま……やくそく」
ぼんやりと千里は言った。
「ご、ご主人様? やっぱり、千里ちゃんは」
「あぁ、この娘は血を吸われたな」
ヒルデガルドは冷たい声で言う。
「ち、千里ちゃん……やめて――きゃぁ!」
千里は威嚇にとシュラインの足元を撃つ。
シュラインの悲鳴が響いた。
「小賢しい!」
ヒルデガルドは床を蹴った瞬間、あっと言う間に千里の真横に立つ。弾を充填する隙を狙って千里の腕を捻り上げ、一瞬の内にシュラインの首から腕を離させると千里の腕を掴んだまま、ヒルデガルドは千里の体を壁に叩きつけた。そして、首を掴んで捻り上げる。
「ぐッ……」
「千里っ!」
後からやって来た祐介が叫んだ。
「やめろ、ヒルデガルド。千里は殺すな」
「ふむ……しかたない」
祐介の登場に気が反れたヒルデガルドは、ふと溜息を吐き、千里を床に降ろした。しかし、そのままにはさせず、術を使って動けないようにする。
「こ、怖かった……」
シュラインはその場にへたり込んだ。
やって来た武彦がシュラインを抱き上げ、ダイニングスペースにあるソファーに座らせる。
暴れる千里を押さえつけている間に、誰かがこの部屋のベルを鳴らした。ドアの覗き窓を見るとモーリス・ラジアルが立っている。
智恵美はドアを開け、モーリスを招き入れた。
「おはようございます」
「まあまあまあ〜、モーリスさんじゃないの。さあ、こっちへどうぞ」
「お邪魔します」
半ばむっつりとした表情でモーリスは言った。
どうも、主人と連絡を取れなかったことが、かなり気になってしかたがないようである。そして、ヒルデガルドを見つけると、表面的にはことのほか穏やかに、にーっこりと微笑んだ。
「おはようございます」
「おはよう、モーリス。久しぶりだ……おや、随分と機嫌が悪そうだな」
「当然でしょう。大事な主人と連絡が取れないんですらね」
「そうか……では、今までのことを話せば、更にお前は機嫌が悪くなるだろうよ」
「な、何がです?」
ヒルデガルドの言葉に、モーリスは愁眉を寄せた。考えられることはただ一つ。ふいにモーリスの眼差しがきつくなる。
「もしや……」
「あぁ、その予感の通りだ。お前の主人が消えた」
「消えた? このメンバーで見つからないと?」
ヒルデガルドの言葉が信じられないものだったのか、モーリスは不機嫌極まりない声で言った。
「貴女がここにいるということは、捕まえたのは――彼ですね」
「そのようだ。これを見るといい」
ヒルデガルドは部屋の隅を指差した。その先には捻じ曲がった空間の歪みがある。常人には見えないが、モーリスのような能力者にはそれが見えるであろうと思っていた。無論、モーリスにはそれが見える。
「これは……」
「多分、魔法系の歪みだな。それ単体ではないと思うが」
「無理やり繋げることは出来ないんですかね?」
「さあな。こじ開けたところで、向こう側が見えるわけもないだろうな。そこまで痕跡を残しているとは思えん」
「おや、貴女にもわからないことがあるんですね」
モーリスは少々楽しげに眉を上げる。
それに応じることもなく、ヒルデガルドは淡々と言った。
「わからなければ、困るのはお前だろう」
「えぇ、困ります。是非とも探していただかねばなりません。それで、ヒルデガルド嬢……彼の城で、姉君である貴女に対して内緒にしていると思われるものはありますかね? もしくは、我々に通達していない情報とか、所有していて使われていない城があるのかなども」
モーリスは主人に仇を成す者がなんであれ、冷徹に対処する。感情を映さぬ瞳でヒルデガルドを見据えた。
「先程も皆に話したのだが、我々は宇宙一つぐらいの世界を持っていると……まぁ、そのように仮定して欲しい。その中で城がいくつあると思う? そして、我々が持っている属国とも言える世界もあるのだ。作られた世界も持っているしな。多分、ロスキールは作られた世界にいるか、そこを中継して違う世界に移動しているはずだ」
「何故?」
「魔法がその世界を通過する時、自然発祥した世界を突き抜けた後の歪みは大きく、大きいものなら数キロ、もしくは地球の半分ほどのものにもなりえる。機械を作ればそれを縮小できようが、奴には時間がない。失敗を避けておこうと考えるはずだ。最も痕跡を残さず時空に穴を開けるとすれば、人工世界をいくつか潰して穴を開ける方法を取るだろう。元々、人工世界など管理するものは少ない」
「では……見つからないと?」
「いいや」
ヒルデガルドは否定した。
「いる。そのような小さきことを好き好んで調べていたりする暇な奴が、どの世界にもいるものだ。名前はジョシュア・ブラックウッド。お前達の世界で言えば、教師という職についている」
「教師?」
その言葉を聞くとモーリスは眉を顰める。
微笑みながら言ったヒルデガルドの顔を見つめていた。
●ライブハウス戦線 4月19日 〜AM9:00〜
「怪我したの?」
中条祥子は電話口で言った。
「だから言ったのに」
口元は笑っていた。
「何でもないわよ。今度は気をつけてね」
そう言うと、相手を慰めつつ電話を切った。
手に持った特別なフライヤーを見て目を細め、祥子は玄関に向かって歩いていく。そのときにはすでに、親友の真紀子のことなど忘れていた。
祥子にとって大切なのは、このフライヤーの方なのだ。
白い子からのメッセージ。
私を呼ぶ声。
輝かしい未来が自分の前に広がっていく。
やっと――念願が叶う。
フライヤーの出演者欄には『死神マリー』とあのピアスをくれた少女、黒榊魅月姫の名が書いてある。それを見ると祥子は微笑んだ。
「待っていて……」
そして、少女はステージへと向かった。
魅月姫は街を歩いていた。
これまでと違い、魔力感知を行いながらだ。気ままに歩くのに飽きたわけでもない。そう言った散策の仕方なら、昔から――そう、幾億の夜も昼も重ねてきた。
魅月姫は興味のある反応を示すものが少ないのに苛立つことも無く歩いていく。しばらくすると草間興信所の近くを通りかかった。
やはり同じものがあると気にはなるもので、様子を覗って行こうと歩き始める。
興信所には草間零がいて、いつもと違う様子であった。どうやら、武彦はいないようだ。ただ古い建物の中にあるというだけで、興信所は寒々しい雰囲気は無かったはずなのに、ここはとても閑散としていて寂しい感じがした。
その後、魅月姫は近くのネットカフェに向かう。ここからだとゴーストネット・オフという名のネットカフェが近い。魅月姫は情報収集のために向かい、そこでネット検索をした。
目新しい情報がないかと物色したが、これと言って情報は無く、魅月姫は祥子が言っていた『死神マリー』を思い出して調べた。検索してみれば簡単にその情報は見つかった。
しかし、その中にいくつかのライブ情報があるだけで、これといったものは無かった。
同じ時刻。祥子が偽の情報に踊らされて『ステージ』に向かっていたのだが、魅月姫がそれに気付くことは無かった。刻一刻と迫る闇は遠い空の下のこと。
祥子の手に握られたフライヤーだけに、『魅月姫』の名があった。
●神聖都学園
神聖都学園内で調査を続けていた宮小路皇騎は、セレスティの失踪をシュラインからのメール連絡により知った。心配事は尽きないが、無事を祈りつつ、今やらなければならないことに専念する。
しかし、この世界の自分に出逢うことが無いのは何故なのだろう。この学校にいれば、間違いなく遭遇すると思っていたのだが、一向にその気配は無い。沖田からも、その辺りの違和感など見て取れないし、皇騎はいったいどうしたのであろうかといぶかしむのであった。
それはともかく、沖田から聞いたもう一人の被害者、雛川に彼を通して会うことにした。
学校で逢えばいつ何時誰かに危害を加えられるかわからない。ここは学校の外、例えば遠く離れた喫茶店などで会う必要がある。生徒がたむろするような場所は危険だ。
皇騎は適当な喫茶店に向かい、結界を張った。自分と彼ら、そしてこの店の店員にしかこの店が見えないようにして、他の客が入ってこないようにする。
今日のこの店の売上が下がるのは申し訳ないが、誰かが危害を加えられたりするよりはマシだ。
――しかし、この世界は異なる世界なわけですから……自分達の存在がこの結界でばれたりしませんかね……
そう思ったのだが、それしか方法が無いゆえ、皇騎はそのまま待つことにした。
そして、彼らはやって来た。
「せんせーっ!」
沖田は元気に言った。
信頼できる人間がいることが嬉しくて仕方ないらしい。元々積極的な性格だったのだが、やっとその良い面が表に出てきたようだ。
皇騎は嬉しくなり、ニッコリと笑った。
「やぁ、沖田君。道中何も無かったかい?」
「うん、大丈夫だったよ。……おい、雛川ぁ〜。隠れてないでこっちこいよ」
「だって……」
店の入り口近くで隠れるように立っていた少女が言った。
栗色の長い髪と大きな目が印象的な美少女だ。ブレザーっぽい服を着て立っている。
「大丈夫だよ、入ってこいよ〜」
沖田は呼んだ。雛川はゆっくりと歩いてくる。そして、おずおずと言った風に言った。
「宮小路先生……大丈夫…なの?」
「えぇ、大丈夫ですよ。心配しないでください。それより、転校してきたばかりの久野さんあたりはどうなのですかね?」
ドイツからの転校生である久野が気になり、雛川に彼女の事で気になる事や気付いた違和感等がないか尋ねてみた。
「久野が転校してきてから、お前ってば影薄ィ〜って思っててさ。気になったから先生に言ったんだけど」
沖田はそう付け加える。
雛川は眉を顰め俯く。
案の定、彼女からの答えは重いものだった。
「薄いとかって……だって、久野さん――いじめるから」
「え?」
久野が『白い子供』に関わるのは間違いないとは思っていた。しかし、狙われていたとは皇騎は思いもしなかったのだ。
その話を聞き、皇騎は雛川に危険が付き纏っている事実を知った。ここままにしておけば、もっとひどいことになるかもしれない。皇騎としては是非とも情報が欲しい。ここは手分けして危険の少ない範囲で集めることにしようと思った。
彼ら教え子には危険が及ばない様に最善の注意をする必要もあるだろう。
もしもの場合は注意を自分に向けさせれば良いと思い、皇騎は二つの符をくるりと巻いて小さなお守り袋の中に入れた。
「何それ?」
沖田は不思議そうに言う。
皇騎はニッコリと笑って答えた。
「これはお守りですよ。気休めにしかならないかもしれませんが、いつでも私があなたたちを想っていると――憶えていてください」
「せんせぇ〜」
「ありがと……」
それを受け取る二人の目には涙が浮かんでいた。
そして、二人を慰めてから調査に乗り出した。
他に攻撃を受けている人間がいないかどうかを調べ、他の学校の話も入ってくれば、それも大事な情報としてとっておいた。
この調査を進める中で、どうしても皇騎が気になって仕方が無いことがあった。『白い子供』が『黒い子供』と称する者を執拗にまで追い詰める理由だ。もしくは自分の考え過ぎかとも想った。そう思って一笑にふしてしまうのも違うような気がする。
白い子供に不都合――例えば、脅威となる可能性があるとか。もしくは、この背買いに関わりのある人間が黒い子供であるのかもしれないと皇騎は思った。
きっと、こちらの世界の自分も同じ思考のはずと思い、皇騎は神聖都のネットワークに仕込んでいる専用緊急システムを調べれば、そのシステムはやはり存在していた。
そして、皇騎はシステムを起動をした。
●仄明るい中で 〜4月XX日 未明〜
セレスティ・カーニンガムはまどろんでいた。
ここに連れてこられてどのぐらいの時間が経ったのだろう。ロスキールが血を吸いに来る度に悲鳴を上げた喉はからからに渇いていた。
「み、水……」
かすれた声でセレスティは言った。
誰もいないこの部屋には、その声を聞くものさえ居ない。
ギリシャ風の柱が十二本ほど並んだ円柱の建物の中にセレスティはいた。どちらかと言えば、建物と言うべきものではないようにさえ思える。というのも、この建物には一つとして壁が無いのだ。その代わりに、この円形建築物(ドーム)の周りにはいくつもの花が植えてあった。ほとんどは薔薇だが、そのほかには水仙やライラック、金木犀なども植えてある。
そして、セレスティはドームの真中にある大きな水晶の棺桶に寝かされていた。クッションでも置いてくれれば、背中も痛くないし、少しは快適になるだろう。
しかし、ロスキールはそのどれも置いてくれはしなかった。
「ここは……何処なのでしょう?」
呟く声は小さく空気を振るわせるだけで、セレスティに相当負担がかかっていることがわかる。枷をつけられているわけでも無いのに、体力を奪われている体は動くことも出来なかった。
それに、城内部の配置が分からないままでは、迷子になってどこにも辿り着けなさそうに思える。体力回復しつつ、城内を少しずつ把握しようと思っていた。無論、脱出を計るためだ。
移動手段に使えそうな人や乗り物も無いかと視線をめぐらせるが、遠くの方に城影が見えるだけだった。城の外に出るのに異次元移動用のバイクがあるかと思っていたが、ここからではそれもわからない。半ば絶望的な思いで暗闇に見えた城を見つめていれば、遠くから足音が聞こえてきた。
「はぁ……」
また、あの快楽と共に、絶望と苦痛とがやってくる。逃げ出したいのに逃げ出せない、逃げ出したいのに『逃げ出したくなくなる』――最悪の檻。
ぞわりと背に甘い感覚が走った。
血を吸うだけでは許してくれるはずも無い青年は、甘い毒を流し込んで惑わせてくれる。引き裂かれる苦痛も快感になる。殺されそうな声を上げて抵抗をしても、逃げ切ることも出来ないで引き戻されるのだ。
何度、許してくれと懇願しただろう。苦痛と快楽の涙を、何度となく流しただろう。愛だの優しさだのと言った甘い言葉は何処にも無く、責め苦だけがそこにあった。
どちらかといえば、ロスキールの方が何も言わなかった。何か言うのを拒んでいるのか、それとも悩んでいるのか、セレスティにはわからない。
ただ……
今日も、闇に浸されるのだ。
夜がもうすぐ終わって、新しい一日が始まる。絶望的だった。
重い溜息を吐いて視線を廻らせば、やって来た青年はすぐ近くにいた。
「やぁ、セレスティ。こんばんは……」
「ロスキール……」
「元気かい? ……と訊きたいところだけど、原因になってる僕としては、そんなこと言えないね」
持ってきた白薔薇の花束をセレスティの顔の近くに置いた。
「なら……私を解放して……」
「嫌だよ」
近くの金木犀の枝を手折りながら、にべもなくロスキールは言った。
よく見れば、今までの服を着替えて黒一色の礼服に替えていた。その様は雪の彫像を闇で包んでいるように思える。
対してセレスティの方は真っ白い服を着せられていた。純白に金の刺繍の貴族服を選んだのはロスキールだったのだが、とても満足しているようで、横たわるセレスティを愛しそうに見つめている。
「では、もう一つ。君にプレゼントだ。ちょっと、僕的には気に入らないけど……まぁ、こんなものだよね?」
「……な、何?」
ロスキールは指を鳴らした。その途端。大きな棺桶の四隅から鎖付きの枷が現れる。体を動かしたが、セレスティは逃げることが出来ずにロスキールに押さえつけられてしまった。
「嫌です……放して」
「ダメだよ」
ロスキールは手早くセレスティを枷で繋ぎ、セレスティの首元を飾っていたタイを外す。
「やっ……やめて……」
「どうしてだい? あんなに嬉しそうに啼いてたのにね?」
「だ、だって……ロスキール。貴方だって、体の方は本調子ではないのでしょう?」
向こうの世界で投与されていた麻薬の事を思い出し、何とか逃げようとセレスティは話を他の方向へと持っていこうとその話を持ち出した。
「実験体代わりに弄られていたのでしょう?」
「実験体代わりじゃなくって、僕は実験体だったんだ。人間どもにとっては、格好のモルモットさ。この身の内の全てを……」
そこまで言って、ロスキールは溜息を吐いた。
「想像できるかい、君?」
「え?」
「中も外も好きなだけ弄られる苦痛だよ。僕は不死者だから、彼らにとっては人間ではない。だから、どんなことにも耐えられると思って、あの医者たちは好き勝手したのさ」
「そ、それは……」
「だからね。復讐しようと思ったんだよ、最初は」
「では……今は?」
「さぁね。君が居てくれたから、他のことはどうでも良かったよ。あいつは……モーリスといったっけ? あいつは嫌いだ。僕が君に逆らえないのを良いことに、あいつも好き勝手してくれたから。だから、あいつよりも遠いところに君を――連れて行く」
ロスキールは笑った。
屈託ない子供のような微笑が、底知れぬものを感じさせて恐怖を呼び起こす。
麻薬を抜く事ができたのかを未確認であったセレスティは、そのことを訊こうと前から思っていた。変化のようなものが表面的に現れていないため、どうやって抜いたのだろうと思っていたのだが、彼の表情でセレスティは気がついた。
――麻薬は消えてはいない……
セレスティはそれに気が付くと、自分の運命を変えようと己が能力をそこに集中しようとした。しかし、自分の前に展開されているのは黒い闇だった。何かがあるのは見えているのだが、何が起きているのかはわからない。
運命を捻じ曲げようと必死に集中するが、やっと曲がっていった運命も、どこに繋がったのかわからなかった。
「君が好き」
ロスキールは言った。
どこを見ているのかわからない瞳だった。
「だったら……何故」
セレスティも言った。
「君は隠したままだから、僕にはわからないんだよ。命じてくれれば死んだのに。僕を捕まえてくれたときは嬉しかったのに。あの扉が閉ざされてから、君の気持ちは見えなくなった。守られてあの屋敷に居た時は幸せだったよ。ずっと、君が帰ってくるのを待っているのが……楽しかった。僕はあの時、昔のことを思い出したよ。父上が姉上と一緒に出かけて、帰ってくるのをずっと待っていたあの百年――その時を思い出した。見ることの出来ない太陽を待ち焦がれるあの夜にも似ていたな」
まったく意味の繋がらない話をしているようにも、重要な話をしているようにも聞こえてセレスティはロスキールを見つめる。
ロスキールはさもなんでもないことのように「この世界の太陽はね……本物なんだよ」とセレスティに言った。
セレスティの顔を覗き込んで、ロスキールが微笑む。
何を言おうとしているのか、セレスティは諮(はか)ろうとしていた。
「ずっと、待っていれば私は帰ったのですよ?」
「うん、待っていたかった――ずっと。もう……僕はいつまで正気を保てるかわからないよ。だから……」
「え?」
「だから、僕の太陽(きみ)が消えてしまう前に、何よりも強いものをあげよう」
ロスキールは笑った。
本当は泣いていたのかもしれない。
セレスティは彼の瞳に光るものを見た。
「あの時に、僕は死んでいたほうがよかったんだよ――セレスティ」
「ま、待って!」
何かを感じたセレスティは必死で動こうとした。しかし、体力の奪われた体でその身を自由にすることは極めて難しい。
その刹那、棺桶はセレスティを入れたまま周囲の壁がせり上がる。
「な、何?」
「吸血鬼って……どうやったらなれるか興味あるだろう? 僕の場合って言うのかな、今回は特別さ。念入りに仕込んであげるよ。安心してよ、下僕(スレイブ)になんかしないよ。最低限、闇の花嫁ぐらいの力はあげるから」
ロスキールは自分の手に傷を付け、セレスティの口元に持っていったが、口を閉じて抗おうとする。
「しかたないなぁ……」
ロスキールは更に深く切って棺桶にその手を持っていった。
ゆっくりと血が流れて落ちる。
「やめなさい!」
セレスティは必死で叫ぶ。
「無駄だよ」
言った瞬間に、棺桶に溶液が溢れていく。それとロスキールの血が混ざり合い、棺桶を赤く染めていった。
「これが培養してくれるからね」
満足げにロスキールは呟いた。
どんどん溶液が増え、ロスキールの血も止まらずに流れていく。そのうちにセレスティの口元まで水嵩が増えていった。首を伸ばして抵抗したがそれも叶わず、セレスティは力尽きて赤い溶液に沈む。
思わず溶液を飲み込んでしまって、セレスティは苦しげに咳き込んだ。入り込んだ溶液と肺の中の空気が入り混じり、うめいたが声にならなかった。人魚のセレスティでもこの一瞬が不意打ちでやってくれば苦しいものだ。
慣れたと思った次の瞬間に、全く異質の苦しみにセレスティは追い立てられていた。
飲み込んだ溶液が炎のように熱い。気管やその全てを焼き尽すかのような痛みにセレスティは身を捩った。
「!!!!!!!!!!!」
四肢をふんばって痛みに耐えるが、その気力も萎えるような苦しみがセレスティを襲う。喉の奥がカラカラに乾き、この渇きと飢えを満たしたいという思いがセレスティを苛んだ。
血だ。
血……魔王の血。
赤き、麻薬。
声にならぬ悲鳴を上げて暴れるセレスティを収めた棺にロスキールは愛しげに微笑みかける。その棺の隣に立って苦しむセレスティを見ていた。
「苦しい?」
小さな声でロスキールは言う。
「魔王の血は苦しいよね? 僕もそうだったから……あぁ、君は染まりきるのかな?」
――ここから……出して……
何度もセレスティは暴れた。何か言っているようなのだが、水の揺れる音しかロスキールには届かない。ぼんやりと明けていく夜の先を見つめ、ロスキールはふと笑った。
そして立ち上がると、赤く染まった棺桶の中で暴れるセレスティを上から覗き込んだ。随分と血を流してしまっていて、ロスキールの視線は虚ろだった。
「セレスティ……本当に……好きだったよ。僕は……」
バシャッと水が跳ねた。
倒れこんだロスキールの手が、セレスティの方に伸ばされたまま落ちる。支える力は弱く。棺桶に縋ってロスキールは棺桶を覗いているしかなかった。
赤い水の中に見える愛しい人。
どんどん昇っていく本物の太陽。
今度は焼き尽くされるのだろうか。
白々と明けていく空は輝きを増していく。
「……そら」
ロスキールは言った。
「セレスティ……空だよ。本当に……蒼いね。日がもっと昇ったら、もっと蒼くなる。君と同じ色だ」
ロスキールに迫る危機に気が付き、セレスティは水の中で暴れた。
――ロスキール! ダメです、太陽がっ!
「セレスティ……ありがとう。大好きだよ」
セレスティは目を瞬いた。
棺桶に寄りかかったまま、ロスキールはじっと動かない。
どんどん小さくなっていく命の火に、セレスティはどうしてよいかわからず呆然としていた。夜明けまでは、あと半時間程。
セレスティに残されたのは、たったそれだけだった。
■END■
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号/ PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0086/シュライン・エマ / 26 / 女 / 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト
0165/月見里・千里/女/16歳/女子高校生
0461/宮小路・皇騎 / 男 / 20 / 大学生(財閥御曹司・陰陽師
1098/田中・裕介/ 男 /18歳 /高校生兼何でも屋
1883/セレスティ・カーニンガム/男/725歳/ 財閥総帥・占い師・水霊使い
2318/モーリス・ラジアル/男/527歳/ガードナー・医師・調和者
2390/隠岐・智恵美/女/46歳 /教会のシスター
2922/隠岐・明日菜/女/26歳/何でも屋
3893/安宅・莞爾/男性/18歳/フォーマーカンパニーマン
4682/黒榊・魅月姫/女/999歳/吸血鬼(真祖)深淵の魔女
5580/桜月・理緒/ 女性/17歳/怪異使い
(PC整理番号順 11名)
*登場NPC*
草間武彦、草間零、三浦鷹彬、獅子堂綾、菊地澄臣、塔乃院影盛、塔乃院晃羅
ヒルデガルド・ゼメルヴァイス、ロスキール・ゼメルヴァイス
ディサローノ、沖田尚史、中条祥子、真紀子、久野まさみ、雛川、ジョシュア・ブラックウッド
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ ライター通信 ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
こんばんは、朧月幻尉です。
今回は難易度が【中から超難】ということで、予告どおりに判定をさせていただきました。
質問などは大いに受け付けております。
よろしかったらどしどし送ってください。
別に答えを教えるわけではありませんが、疑問などはあると思うのですよね〜。
もちろん、つっこみとかつっこみとかつっこみとか、エェ……(泣)
情報の方も、次からはもう少しまとめてみたいと思います。
ご意見、ご要望、苦情の方はファンメールのフォームからお願いいたします。
ありがとうございました。
>シュライン・エマ様
今回もご登場有難う御座いました(礼)
ヒルダ姉さんと仲良くお話してるシーンを書いていて楽しかったでーす♪
>月見里千里様
今回も波乱万丈です(え;)
次はどんな処置がされるのでしょう?
>セレスティ・カーニンガム様
色々と考慮して判定しました。
しかし、情緒的な部分は最も盛り上がるように、出来うる限り気配りさせていただきましたのでお楽しみください。
なお、最後の章が『〜4月XX日 未明』となっておりますのは、他の皆様のいる異界の時間と、セレスティ様のいらっしゃる時間のズレのためでございます。
時間を短縮して駆けつけることが出来れば、助かるかと思います。
ちなみに吸血鬼化をはじめてると思ってくださって結構でございます(笑)
楽しみですねぇ〜うふふ♪
>田中裕介様
えーっと、爆弾発言させていただきました(笑)
真相はどうなのでしょう?
と、言うわけで!(脱兎)<おいおい;
>隠岐智恵美様
今回もご参加有難うございました。
ヒルデガルドさんとののんびりした会話が楽しかったのです〜。
>隠岐明日菜様
この世界のご自分に会いに行かれるようですが、今回の時間軸を考えるとそこまで書くことが出来ませんでした。
>黒榊・魅月姫様
フライヤーはPCさん以外は見ておりませんので、このような扱いになりました。
シナリオの段階でお客様の情報を出すわけにはいかないのと、起こしてもいない行動を描写することはできないという制限があるのです。ご容赦ください(すみません;;)。
>宮小路皇騎様
思わず、皇騎先生ー!と叫びたくなりました(え;)
良い先生です……学生時代にこんなやさしい先生が欲しかったです。
>モーリス・ラジアル様
こんにちは、こちらでははじめまして(礼)
ご主人様を助けにいらっしゃったようで、今後ヒルデガルド姉さんから情報が聞けると思います。
現段階では、見つかっていないようですが、ブラックウッドの爺さんに聞いてみるのが得策かと思われますので訊いてみてください。
時間軸のズレがございますので、頑張れば助かると思われます。
>桜月・理緒
異界の入り方をシナリオのところに書いておいたのですが、プレイングに書いてありませんでしたので入れないということになりました(汗)
大変申し訳ございません。
>安宅・莞爾
桜月さまと同じ理由で異界に入ることが出来ませんでした。
申し訳ございません。
またのお越しをお待ち申し上げております(礼)
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