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□終わらない月下□
磨き込まれたカウンターの上に、間接照明の橙色が落ちている。
月のように静かな光は暖かな色彩をもって使い込まれたシェーカーやグラス、色とりどりの瓶を柔らかく照らし、新たな輝きを生んでいった。
その隙間を縫うように、音楽が降りる。ジャズのスタンダードナンバーはワンフロアの店内に徐々に徐々に染み渡り、やがて客の鼓膜を優しく揺さぶりにかける。
テーブルについた客は己の身体にジャズとアルコールが深くまで染み渡ったのに気付くと、大きな溜め息をついてグラスを置き、シャツの襟元を緩める。そして息を吸い込み、酒気とどこか古びた香りの入り混じった空気で胸を満たすと、客はようやく今日一日が無事に終わったことを知り、疲労感を音楽で癒しながら再び酒杯を傾けるのだ。
暖色の灯りで満たされたそんなバーの中を、漆黒の髪が泳いでいた。白いシャツに、黒いエプロン。制服に身を包んだその女性は後ろ姿を艶やかな髪で覆い隠し、落ち着いた色の紅を刷いた唇に笑みを浮かべながら、テーブルとカウンターを音もなく往復していた。
彼女の名は大徳寺 華子という。
「いらっしゃいませ」
空気が動いたのを感じ、華子は扉へと声をかけた。入って来たのは二人、やや年のいった男女は、どこか物珍しそうな視線を店内へと送っている。ひっそりと繋がれた手は赤かった。
テーブル席へとついた二人は、メニューを興味深げにのぞいていた。やがて男の注文はとある銘柄のウイスキーに落ち着いたが、女の方はくしゃみをしつつ首を傾げるばかりだった。男の方も自分が興味のある酒以外はよく知らないのか、同じくメニューを覗き込んでは眉を寄せている。
華子はそんな二人の側へとゆっくりと歩み寄っていく。
「お決まりでしょうか?」
「いや、申し訳ないがもう少し待ってやってくれ。連れが迷っていてね」
「……ああ、もう。駄目だわ、私本当にこういうの分からないの。ねえお姉さん、ここのおすすめって何かない? 私それでいいわ」
「そうですね。――――今日は冷え込んでいることですし、暖かいホットワインはいかがですか? 甘口の赤にシナモンなどで風味付けすると、いつもとはまた違った味わいが楽しめるのではないかと。身体も温まりますし、風邪にもよろしいですよ」
「そうねえ、ちょっと寒気もするし……それ、いただこうかしら。あとちょっとつまめるものを」
「かしこまりました、少々お待ち下さいませ」
カウンターへオーダーを伝えると、再び扉の開く音。
今度はくたびれたスーツの中年男だった。男は案内を待たずふらふらと隅のテーブルへと陣取ると、睨むような目つきのままジッポーを取り出し、煙草に火をつける。
注文を取りに来た華子には目もくれずに「いつもの」と告げると、煙草を口にくわえたまま紫煙を吐き出したが、華子は静かな笑顔で頷くと厨房へとオーダーを伝えに戻った。奥から出てきたキッチン担当はオーダーを耳にし、小さく頷く。
数分後、ルッコラと生ハムをたっぷり乗せたペペロンチーノの皿を差し出しながら、キッチン担当の男は遠くのテーブルをうかがいながら華子に囁いた。
「あの人も好きだね。これ、もう何日目? どうせ来るんなら、もっと別なもの頼めばいいのになあ」
「もう二週間になるかねぇ。……ま、おしゃべりは後でゆっくりとしようじゃないか。この子も暖かなうちに食べてもらいたがっているだろうし。それにせっかく毎日のように来てくれているんだから、より早くいいもん出さなけりゃあうちの店の名折れだろ」
華子は悪戯っぽく微笑みながら普段着の口調で返すと、光沢を抑えた銀の盆に皿とワインを乗せて去っていった。すっと伸びた背を見送り、男は苦笑しながら軽く肩をすくめると厨房へと下がっていく。
その間にも華子はテーブルへと皿を差し出し、次に訪れた客へと目を配っていた。長い黒髪が静かに踊り、その度にワンフロアの店内は微かな動と響き渡る静の狭間をゆっくりとたゆたう。
空間を覆うのは呼吸と音楽と紫煙、そしてほのかな酒の香り。
「いらっしゃいませ」
華子の静かで、けれど通る声が再び扉へと向けられた。
マスターはシェーカーを手にしながら、そんな彼女の様子を微笑みと共に見つめている。
「お疲れ様でした、大徳寺さん」
『closed』の札がかけられた扉の内側で、老いた声が響く。
華子は皺の目立つ手に拭いたグラスを渡しながら、隣へと笑顔を返した。
「お疲れ様、今日もなかなか盛況だったねぇ」
「ええ、あなたが入ってきてからお客の評判も上々のようですよ」
「嫌だね、何言ってんのさ。お世辞言ってもなんにも出てきやしないよ?」
「本当ですよ。ほら、十時ごろにみえたお客さんがいたでしょう、二人連れの。帰り際に聞こえたんですよ、『あのホットワイン、気に入ったわ。また来ましょうよ』ってね。あれをすすめたのは、貴方でしょう?」
「私はあの人のくしゃみを聞いて、暖かい飲み物がいいんじゃないかって思っただけさ。……それより、悪いが今日も頼めるかい」
「ええ、喜んでお付き合いさせてもらいますよ」
言うやいなや老バーテンは道具を取り出し、カウンターの上に置いた。ミキシング・グラスやバー・スプーン、目的の品を棚から取り出していくのを見つめながら、華子は呟く。
「早くシェーカーを振りたいねぇ。安いシェーカーセット買って家でも練習してるんだけど、やっぱりステンレス製のちゃんとしたのが欲しいね。そして早く好みの酒ぐらい自分で作れるようになりたいもんだ」
「それには一に勉強、二に勉強……といったところですかね。やはりステアぐらいは完璧にこなせるようでないと、まだまだシェーカーは振れませんよ」
「分かっているさ。しっかし、ステアって混ぜるだけなのに意外と奥が深いもんだね」
「混ぜるだけ、だからこそですよ。混ぜすぎて氷が融けても、またその逆でもいけない。――――さて、今日は何を?」
「そうだねぇ……割と甘めで口当たりのいいカクテルってどんなのがある?」
「ふむ」
老バーテンは少し考えるそぶりを見せた後、バーボンとコアントローの瓶を手にした。
「すみませんが大徳寺さん、オレンジジュースとグレナデン・シロップを取ってもらえませんか」
「グレナデン……ああ、ザクロのシロップか。はいよ」
四本の瓶を揃えると、老バーテンは満足そうに頷いてミキシング・グラスに氷を入れる。
「今日はバーボンをベースにしたこれを作りましょう。貴方のリクエスト通り、甘い香り漂う飲み口の良い一品です」
材料を投入し、優雅な手つきでかき混ぜる老バーテンの手元をじっと見つめる華子。沈黙する二人の間に流れるのは、耳慣れたジャズの一曲だった。
歌手の声でゆったりと綴られていく甘い歌詞に添うように、カクテルは作られていく。
「さあ、これで完成です」
音もなく華子の前に差し出されたのは、オレンジジュースの色も鮮やかなカクテルだった。
ジュースとバーボンの香りを楽しみ、口をつけ、喉へと流し込む。飲み口の良さに二口、三口とグラスは傾けられ、濃厚なオレンジ色は瞬く間にグラスから消え去っていった。
「さすがと言うか、何と言うか。――――うまいよ、これ。リクエスト通りだ。なんて名だい?」
そこで老バーテンはゆっくりと微笑み、流れる曲に合わせるように歌詞を口ずさむと、
「名は『Old Devil Moon』。これなら材料も割と気軽に揃いますし、ステアして作れるので、普段家で飲む分にもよろしいのではないかと」
華子は老バーテンの口ずさんだこの曲の名を、改めて思い出した。
今も流れ続けているのはOld Devil Moon。甘く囁くように綴られる、スターダストナンバー。
「……粋なことやってくれるねぇ、マスター。私がこの曲好きだってこと、よく知ってたもんだ」
「従業員の好みぐらいは把握できていませんとマスターはやっていられませんよ、大徳寺さん」
「それにしたってニクい演出してくれるよ、まったく……」
呆れたように竦める肩とは裏腹に、華子は喜びに目を細める。耳と口、二つから味わう甘い甘い感覚に、頬まで緩んでしまったようだった。
「もう一杯頼めるかい、マスター」
「ええ、もちろん」
再度ミキシング・グラスに注がれていくバーボンを見つめながら、華子はしばしオレンジ色の月の魔力に酔いしれる。
朝もやの中、華子は家路を急いでいた。気だるげな腕にぶら下げた白いビニール袋の中には、二十四時間営業のスーパーで購入した瓶やつまみ類が、がさがさと音をたてている。
くあ、と欠伸をひとつしながら華子は道を歩く。朝を迎えた場末の繁華街は、酒と体臭と嘔吐の匂いにまみれていた。帰りそこねた酔っ払いがそこら中に転がっていたかと思うと、生ゴミをあさる猫や犬たちは生き生きと活動している。都会のど真ん中で繰り広げられる原始的な光景。ギャップのあるそれは、いっそ笑いさえ誘うものだった。
完全に朝日が昇りきらない紫色の空の下、華子は小さな建物の前で家の鍵を取り出した。小さな、といっても横には長い。居酒屋やスナックが軒を連ねるそこを華子は何とはなしに見上げたが、既にネオンも枯れ、時折疲れたような顔で女が出てくるだけだった。
居酒屋の横にある狭い階段を上って二階へと辿り着くと、袋を揺らしながら奥へと進む。古びた木の扉に鍵を挿せば、華子にとって見慣れすぎるほど見慣れた光景が広がる。
六畳一間の角部屋は、日当たりが無駄にいいこと意外に特徴のない場所だった。簡素を通り越して貧相な部屋の中央にあるちゃぶ台の上へとビニール袋を置くと、華子はカーテンを開け、台所から古びたミキシング・グラスを取り出してくると、畳の上へどっかりと座り込んだ。
ちゃぶ台の上に材料を広げながら、今の世の中は便利になったもんだ、と華子はひとりごちる。使い切りサイズの小瓶のバーボン、コアントロー、ザクロのシロップとオレンジジュース。ひと昔前までは朝方にこんなものが手に入ることなど、なかったというのに。
時代の流れを感じながら封を切り、グラスへとあけていく。バー・スプーンは持っていないので長めのスプーンで代用し、十数回ステアして愛用のグラスへと注ぎ込んだ。
紫色から黄金に変わった空から朝の光が射し込んでくる中、華子はグラスを光にかざして眺める。朝の強烈な輝きとオレンジジュースの色彩は混じり合うようで決して混じり合わず、ただそれだけのものとして華子の視界を埋め尽くしていた。
「…………………………」
グラスを口に運び、含む。喉を滑っていくのはつい数時間前と同じようで、けれど少しだけ違うOld Devil Moonの味だった。
何が違うのだろう。材料か、道具か、経験か。そのどれもが合っているようで違うような、そんな不可思議な感覚に囚われながらも、華子は柔らかく微笑んでグラスを眺める。初めて自分の手で作った好きな曲と同じ名のカクテルは、拙いながらも穏やかな味がした。
夜に冷やされた空気が、徐々に温かみを増してくる。しかし生き物たちが動き出すまでにはまだ早く、街はただ静寂の中に沈んでいた。夜の間は耳栓をしなければ階下の騒音で眠れたものではないこの部屋も、今だけは安らぎに満ちている。
華子は窓辺に寄りかかり、ビルの隙間からのぞく空を仰いだ。
夜が来て、そして再び朝が来る。毎日がその繰り返しで、けれど一日一日が全て違うものであるという不思議を噛み締めながら、二口目を口に運ぶ。
そして三口目は、日に照らされ色鮮やかに広がる蒼い空を眺めながら飲み込んだ。視線の先には蒼と白。空の端に消えていこうとしているのは、夜の象徴である月の姿だった。
昇っては沈み、沈んでは昇る。
半ば永遠に続いていくだろうこの変わらないサイクルに己の姿をだぶらせながら、華子はただ静かにグラスを傾け続けるのだった。
END.
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