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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


ヤクザと退魔


■いろいろあったんです■

 アトラス編集部にその日居合わせていた4人が引き受けたのは、よくある類の取材だった。あくまで、アトラス編集部の業務内容の尺度で言えばよくある類のものであるというだけのことだが。その日編集長・碇麗香が目をつけたのは、新宿は歌舞伎町、花道通りに面する雑居ビルだった。
 テナントの入れ替わりが激しい歌舞伎町で、そのビルにはここ2年間、一日たりとも店が入っていたためしがないというのである。業者が敬遠したそのビルだが、歌舞伎町を遊び場にしている若者たちにとっては人気のスポットだった。都会のど真ん中にあるという心霊スポットは、格好の遊び場になってしまっていたのだ。
 アトラス編集部にもそのビルに関する投書が相次いでいたが、半年ほど前からだろうか、ぱったりと投書が止まってしまったのである。
「もし仮に幽霊が急に出なくなったのなら、なにか理由があるはずよ。でも、幽霊騒ぎがなくなれば、テナントが入るのが普通でしょ。場所は歌舞伎町なんだから、需要はあるはずだもの。でも……ちょっと調べてみたら、まだビルは空っぽのまま。どうして噂が急に止んだのか……調べてきてほしいの。もしかしたら、『行った人間は二度と帰ってこなくなった』っていう大事に発展してる可能性もあるわ」
 危険な現場になっているかもしれないが、あなたたちなら行ったって平気よね。
 麗香の言葉の影には、そんな意味合いも含まれていたらしい。
 確かに、麗香のデスクの周りに集まっていた4人の中で、あからさまにうろたえているのはシオン・レ・ハイただひとりだけだった。
 光月羽澄、二階堂裏社、帯刀左京の3人は、「ふうん」といったいつもの表情で、麗香の説明を聞いているだけだった。
「ゆゆゆ、幽霊ですかぁ……。私、どちらかと言うと幽霊とか悪魔はダメなほうでして……」
「じゃあ、なんで引き受けんだよ」
 左京の情け容赦のない突っ込みに、シオンは肩をすぼめて頭をかいた。
「そのう、ぷ、プリンが……」
「は?」
「シオンさん、麗香さんにプリンで釣られたの。麗香さん、記憶力いいから。シオンさんに心霊系の依頼するときは、まず報酬の話からするらしくて」
「で、シオンはいつもその手に引っかかってるってわけですね。俺もそういうやり口、覚えとこう。で、プリンってなんですか?」
「えっ、裏社さん、プリンをご存じない?! 食べたこともないというわけですか! それは人生を無駄にしてます。プリンというのはですね――」
「もう、プリンがそんなに好きなら、私が作って持ってきますよ」
「あ、俺にも食わせてくれな」
「……で、あなたたち。行ってくれるの? レポート、急いでるんだけど……!」
 心霊スポットの取材という仕事の話から、いつしかプリン談義に移っているにわか記者たちに、麗香は眉間を揉みながら呻き声を上げていた。


 歌舞伎町に一行が到着したのは、夕暮れ時だった。気の早い店はもう看板を出しはじめ、今夜の商売の準備をすすめている。
 問題の物件は、あやしげな看板のいかがわしい店がひしめく雑居ビルに両脇を固められていたが、それでも、ひっそりとしていた。このビルだけは、そっくり異界の中にあった。都会のざわめきも煌々とした明かりも、ずっと遠くに――いや、違う次元にあるもののようだ。夕暮れの橙と、ビルが織り成す黒の影に彩られている街中の心霊スポットを、4人はしばらく黙って見つめていた。シオンがごくりと生唾を呑む。
「行きましょ」
 緊張感を張り巡らせて、羽澄が歩き出す。
 しかし、カタカタ震えるシオンを引っ張って、左京が羽澄と裏社に続いたときだろうか――
「オイコラァ、てめェら、何の用だオラァ!!」
 柄の悪い怒号が響き、入り口から飛び込んできた人相の悪い男たちに、たちまち4人が囲まれたのは。
「きゃー!  ヤクザ屋さんですよ! あー! やめて下さい殴らないで! 明日には必ず返しますからあああ……!」
「不法侵入って知ってるか、この野郎! 事務所来やがれ!」
「ちょっと、離して! なにするの!」
 図体の大きい裏社と、眼光鋭い左京はとりあえず置いておき、シオンと羽澄を捕まえて、ヤクザたちは雑居ビルから無理やり引きずり出した。
 弱いものを確保する手口はあまりにも鮮やか。出遅れた裏社と左京も、仲間を半ば人質地に取られてしまっては動きづらい。それに、ヤクザといえども一般人だ。歌舞伎町という繁華街で、堂々と超常能力を使って一般人を蹴散らすのは、得策とはいえない。
「どうします? 殺しちゃまずいですよね。編集長に迷惑かかっちゃうな」
「ついてこうぜ。場所が事務所になったほうが戦りやすいさ。周りは敵だけになるんだし」
「事務所ってそんな危険地帯でしたっけ?」
「事務所と組事務所は違うんだよ。……オイ! あんたら俺たち無視してんじゃねぇよ! 俺たちもついてってやる!」
 事情もよく掴めないまま、4人の記者は黒塗りの車に詰め込まれ、渋谷に連行されていった。


 ここは煙草臭く、狭い。窓辺やソファーから睨みをきかせてくる男たちの人相は極悪。壁にかかっているのは『漢気』の額。
 あまりにもステロタイプ。あまりにも気まずい空間。ここはクロサワ不動産のオフィスであり、……関東門倉会系黒澤組の事務所である。
 一行の前に仁王立ちになって腕を組んでいるのは、格闘家か熊を思わせる体躯の、黒澤組本部長だった。
「取材って言われてもな」
 彼は熊の唸り声のように低い声で、切り出した。
「あの物件は確かにわけありなんだよ。ユーレイだかなんだかか出まくるんだろ。こっちも迷惑してんだ。肝試しに使うバカが多くてな。……ちゃんと『掃除』して、商品にするつもりはあったんだ」

ビルの所有者はクロサワ不動産だった。ここのところ若者の不法侵入が相次いでいたから、組員……社員たちが現場を見張っていたのだ。編集部への投稿がぱたりと止んだ理由は、大したものではなかった――ただ単に、監視が厳しくなって、中に浸入する者がいなくなってししまったからだ。
 しかし、今回の侵入者が月刊アトラスの記者たちであることを知ってから、ヤクザたちの態度は心持ち柔らかくなった。
「アトラス編集部、な。こっちの業界でも聞くようになった。『掃除』出来る奴らが多いんだって?」
 窓辺のデスクから、年嵩の声が上がった。その男が動けば、チンピラじみたなりの男も、巨躯の本部長までもが、居ずまいを正す。彼が、社長であり、組長なのだろう。
「ウチの組にも『掃除』出来る奴がいてなァ。そいつが言うにゃ、あすこの掃除は一人じゃ無理ってェことなんだよ。方角が悪ィとか、集まってる連中のタチが悪ィとか、生霊が多いとか……ま、場所が場所だ。生霊も出るさ」
 霊障の種類の分析が出来、あまつさえそういった曰くつきの物件の『掃除』が出来るヤクザ。……世の中にはいろいろな人間がいるものだ。
「どうだい、あんたたち。金は払う。俺のバカ息子の手伝いしてやってくんねェか。それとは別に、金払うから、あの物件の取材は遠慮してくれ」
 どすん、ばさん、とテーブルに投げ出される札束と札束。
「うちの掃除係は、いま歯医者行っててなア。引き受けてくれるなら、先に現場に行っててくれ。あとからあいつも行かせる。……あア、持ち逃げだけは、しねェでくれよ?」
 組長は、ふわっ、とはっきりしない笑みを浮かべた。
 なにか、背後に暗い色の炎を背負っているような……おっかない微笑だった。


 とりあえず黒澤組という組織は、極端な武闘派ではないし、話が通じる類の、まだましな部類に入る暴力団だということがわかって、羽澄はは安心した。同時に、自分たちが不法侵入をしていたことを素直に恥じた。
「編集部が許可をいただいてると思ってました。ごめんなさい」
「いいさ、あんたらがこのまま引き下がってくれるか、『掃除』を引き受けてくれるなら、そのことは忘れてやるよ」
「……だよな、別にビルぶっ壊す気だったわけじゃねーし」
 ふてくされた態度でそうこぼす左京を、羽澄は一瞬困った顔で睨んだ。せっかく真摯な態度を取ったのに、ヤクザを怒らせてしまっては元も子もない。ヤクザたちはかちんと来たのか、一斉に目つきが鋭くなって、シオンをいたずらに怯えさせた。
「そこのニイちゃんだけか、ここでケンカしてェの?」
 自分のデスクに戻って格闘技情報雑誌を読んでいた本部長が、妙に嬉しそうに、にやにやと顔を上げた。組事務所が物珍しく、きょろきょろとしていた裏社が、『ケンカ』という単語にぴくりと反応する。
「俺もそのケンカ、混ぜてもらっていいですか」
「おう、そこの図体デカいのもやる気か。ま、今日はやめとこうぜ。話がうまくまとまりそうなんだからよ」
「おー、ハイドも大人しくなったもんだ。にいちゃんたち、よかったな。15年前なら今頃とっくに取っ組み合いが始まってる」
 ハイドというのは、本部長のことだろうか――その本部長は、にやにやしながら雑誌に目を落としただけだ。
「みんな、どうする? 『掃除』に行く? ここでケンカしてく?」
 羽澄が記者仲間に笑いかけた。不毛なケンカをして人殺しになるか。大金を受け取って、違法でもなんでもない仕事に向かうか。
 どちらが得なのかは、子供でもわかる。
「……組長。そのお掃除係さんのお手伝いをさせて下さい。アトラスのほうには、事情を説明しますから」
「ん。スジ通った嬢さんだ。頼んだわ」
 組長の笑みは、どこか嬉しそうでもあった。
 テーブルの上の札束は、これで、4人のものになった。基本的にびんぼー人のシオンは、ヤクザに震え上がりながら金に見とれるという、離れ業をやってのけていた。。


■掃除係到着■

 再び、異界前。
 ケンカが出来なかったことには裏社もしばらく不満げに口を尖らせていた。彼にはこの世界の常識が通じないわけで、金はもらっても特に嬉しくはないし、人殺しのレッテルを貼られても特に困らない。自分と同じくらいの体格の男と取っ組み合いを繰り広げたほうが面白かったかもしれない、と考えていた。
 一旦一行と別れて買出しに出かけていたシオンが、戻ってきた。シオンの格好を見て、3人はぎょっとした。無理もない。シオンは完全なるおそうじスタイルだ。エプロンにゴム手袋、マスクに三角巾、モップと雑巾、酸性洗剤と塩素系洗剤、抜かりはない。さきほど組長から前金で受け取った金で揃えてきたのだ。
「さあ皆さん、お掃除しましょう! お金いただいた分は働かないと!」
「……うーん、そっちの『お掃除』は、業者さんがやってくれると思うなぁ……」
「ま、『掃除』って言い方が悪かったわけだ」
「でも、俺でも意味わかりましたよ」
「え、なにか……違うんですか?」
 きょとんとしたシオンの後ろから、のっそりと、そのとき――
 猫背なヤクザがひとり、顔を出したのだった。
「……ちーっす。『掃除係』でーす」
 ヤル気のない挨拶に、眠そうな目に、もっさりとした緩慢な動作。それでも4人がこの男をヤクザだと認識できたのは、黒スーツの下に着ているシャツがひどく悪趣味で、頭はわけのわからない金メッシュで、スーツの襟には代紋バッヂをちゃんとつけていたからだった。
「えー、おっさんが『掃除係』? さっきの組の? ……なんか拍子抜けだな」
「……悪かったな、迫力なくて」
「今日は、どうぞよろしく。光月羽澄です」
「あー。比嘉笙矢。よろしく。あーもーめんどーだ、丑三つ時になる前に済ませちまおーぜ」
 のっそりと先にビルへ入っていく笙矢の持ち物に、一行はまたしても釘付けになった。
 ばっさばっさと揺れている、あれは――
「なんすか、あれ。デカいハタキですか?」
「神主さんが振ってるアレですね。名前わかりませんけど。……ってことは、お祓いですかぁー?! やっぱりユーレイと戦ったりするんですかぁー?! なんでそれが『掃除』なんですかぁーッ!」
「帯刀さん、二階堂さん。シオンさんと一緒に先に行ってて下さい。私、建物に結界を張ってから行きます」
「ああ。これ以上集まってこないようにするわけだな」
「シオンさんには、これ貸します」
 羽澄は涼やかな音色の銀の鈴を、掃除夫姿のシオンの胸ポケットに入れた。
 裏社は、青褪めた顔でビルを見上げるシオンを見つめ、ふう、と小さくため息をついた。幽霊を怖がっているのだから、裏社の禍々しい本性を目にしたら、なにか精神に異常をきたすかもしれない。本気になって暴れるのは避けたほうがよさそうだと、裏社はこっそり落胆するのだった。


■のぼれないひとびとのために■


 耳を澄ませば、ざわめきが聞こえた。
 誰もいないのは確かだし、フロアには椅子一脚置かれてはおらず、まったくのがらんどうだった。
 それでも、目をこらせば見える人影がある。
 それもこれも、ともすれば、窓や壁を貫いて届く、歌舞伎町の喧騒なのかもしれない。輝き始めたネオンが織り成す、偶然の影なのかもしれない。
けれども、閉め切ってあるはずのフロアの中を、かすかな酒の匂いが漂っているのだった。そして、ひとがすれ違うたびに巻き起こる、小さな小さなぬるい風も――時折、掃除人たちの肌を撫ぜていく。
 左京が感じ取れるのは、渦を巻く『負』の感情ばかりだった。強く暗い想いが、影や風や音、匂いまで作り出している。その光景が、左京は、『壮観』だと思った。
「これ全部、喰っちまっていいんですかね?」
 乾いた唇を軽く舐めて、裏社が首を傾げる。なにも知らない子供のような仕草だ。裏社の男前は、真顔だった。
「あのおやッさんが言ってた通り、生霊が多いみてぇだな。喰っちまったら本体になんか良くないこと起きるかもしれねぇよ。でも……」
 左京の五感が感じ取るのは、どす黒く、とても建設的とは言えない感情の奔流だ。
「ま、腹黒そうなヤツは喰っちまっていいんじゃねぇ?」
 べつにこの場で左京が最も偉いわけではないのだが、それが『許可』になってしまった。裏社はその言葉を受けて、さっと手を伸ばし、髪をアップにしてまとめた女の首根っこを掴み上げた。
 ぎゃあちょっとなにすんのよ、はなしな、はなせぇ! ヘンタイ! はなせってんだよこんちくしょう! ころすぞ! ブッころすぞ!
「腹黒いから問題なし、すね」
 裏社がぐいと手に力をこめた。女の首は、それだけでばきりとへし折れた。かすかに視界に映る女の影は、それきり音もなく消え失せた。
 ばっさばっさと得物を振って、自分に絡みつく女や男を振り払いながら、裏社のやり方を見ていた笙矢が渋面を作った。
「あーおい、そんな虫みてーに殺してたらそのうち祟られるぞ」
「祟りって美味いですか?」
「……おーい、にいちゃん、この天然なんとかしてくれ」
「俺は保護者じゃねぇよ」
 しかめっ面で笙矢を突き放した左京は、ん、とそのとき眉をひそめた。
 負の感情が、さっと退いたのだ。砕けた、と言ったほうがいいかもしれない。夜の街に渦巻くしがらみを裂いたのは、涼やかな鈴の音だった。
「ごめん! お待たせ!」
 闇に銀色の髪をなびかせて、羽澄が来た。鈴の音は、彼女とともにある。
「結界は張ったわ。いまのうちに『掃除』しましょう!」
「うい。んじゃ、ヤバいのとヤバくないのと、わかりやすくすっかね」
 ばさん、と得物を置いた笙矢が、面倒くさそうに首を慣らした。

「諸々の禍事・罪・穢れ有らむをば、祓へ給ひ・清め給へと申すことを聞食せと――畏み畏み申す!」

 パン! パン!

 ヤクザがすらすらと祝詞を上げて、柏手を打てば――
 左京は悲鳴が上がるのを聞いたし、波紋のようなものが霊を薙ぎ倒していくのを、裏社が見た。
 大したことのない負の感情は、それで一掃された。あとに残されたのは――『穢れ』とは呼べない霊と、端折った祝詞如きではびくともしない、筋金入りの悪の魂だ。
「ほい! よろしくー!」
「あ、おっさん、逃げんじゃねぇ!」
 得物を拾い上げ、それまでの緩慢な動作からは想像もつかないすばやさで、笙矢はその場を走り去っていく。逃げ足だけは速いのだろう。左京はその背に罵声を浴びせたが、すぐにそれどころではなくなった。祝詞で気分を害された怨霊が、左京の背に踊りかかっていた。
「ったく!」
 振り向きざまに、左京は手をかざす。
 彼の銀眼は、ぎらり、と光った。
 左京の腕に組みついた霊は、逆に断末魔の声を上げた。現実の声ではないはずだというのに、その悲鳴はびりびりとビルの壁や床を震わせる。怨霊は抱えていた感情と魂のカスごと、左京に喰われて、消えていった。
 彼の中に呑み込まれた魂は、ぐるぐると呻き続けていた。
 ああ、金。金。金。あの女に300万。金。金、返せ、金。
「……今も昔も変わんねぇな。そんなに、金っていいもんかねぇ……」
 和装の懐に手を入れ、ぼんやりと左京が見つめるのは、かたちのない椅子に座って、札束を数えているホステスの影だった。彼女は金が好きなだけで、ひとに危害を加えるような存在ではない。ずっとずっと、からくり人形のように同じ行動を繰り返している。
 その彼女の動きも、唐突に止まった。羽澄の鈴の音だ。
 ちりん、ちりんという音に――ホステスはうっとりと微笑んで、いい音、と呟いた。それから、かたちのないテーブルにのろのろと突っ伏していく。
 ああ。いい音。
 彼女には、鈴の音が、コインが床に落ちる音に聞こえているのだろうか。もとより半透明だったホステスの姿は、次第に薄れていき――しまいには、消えてしまった。

 牙を生やした黒鬼と化した男とは、裏社が対峙していた。ひとの魂が鬼になってしまうこともあるということを、アトラス編集部に出入りしている裏社は聞いたことがある。
 しかし、鬼の気の毒な身の上話(自業自得な身の上話、かもしれないが)を聞いてやるつもりは、裏社になかった。
 見たところ、このビルに巣食うゴミの中では、この黒鬼がいちばん骨のありそうな相手だ。裏社は、ケンカが好きだ。さきは、黒澤組でケンカをし損ねた。
 目の前の鬼で、鬱憤を晴らすしかなさそうなのだ。
 鬼に負けじと、ぐるるるる、裏社はヒトのものではない唸り声を上げる。
 裏社の大柄な姿は、一瞬で、黒狼のものに変わっていた。その目の輝きも、牙のかたちも数も、そもそもの身体の大きさも、この世界の狼とは一線を画していた。鬼の首にがぶりと咬みついた裏社は、
『なんだ。思ったより強くなさそうだな』
 一旦牙を離して――また咬みついた。
 そのときにはすでに、裏社のあぎとの大きさが、何倍にもふくれ上がっていた。闇が竜の頭だけを形作っていたようなものだった。黒い鬼はひと呑みにされていた。
 神話の中の太陽と月のようだった。
 くそったれ。くそったれ、あの野郎。おれの女だ。おれの女だ。おれを殺さなきゃ、あいつをものにできねえ野郎。あの野郎。おれを殺しやがった。くそったれ。
 無念と嫉妬と憎悪と怨恨、
 それを裏社は、ひと呑みにした。


「お客さん、ありがとうね。こんなおばさんなのに、指名してもらえるなんて」
「いえいえいえ、おばさんだなんて、とんでもない。まだ20代でしょ?」
「あはははは……。お客さん、嬉しい。おヒゲ、素敵ね」
「いやあ、これは、たまたま剃り忘れたときに、似合うって言われたもので……それ以来なんですよ。そう言ってもらえると生やしがいがあるというものです」
「あはははは……。面白い。もう、やぁだ。ほんとに面白い」
「あ、涙でお化粧が崩れます。これ、どうぞ。……雑巾なんですけど」
「ありがとう。ありがとう、お客さん――」
 戦いや鈴の音とは離れた、フロアの片隅で、シオンはずっと年増のホステスに捕まっていた。けれど、悪い気はしなかった。完全なるおそうじスタイルのシオンの格好を、ホステスは「掃除もできる男のひとって素敵」と褒めちぎったのだ。その褒め言葉につられて、シオンは楽しく四方山話に花を咲かせていた。そのうち、ホステスは笑いながら涙を流すようになって――
 真新しい雑巾をハンカチ代わりにしたあと、消えてしまったのだ。
「あ、ああ……幽霊さん、でしたか……やっぱり……」
 シオンが恐れる幽霊の姿を、彼女はしていなかった。
 ぱさりと落ちた雑巾は、少しだけ濡れていた。
 すべての幽霊が彼女のようであればいい、とシオンは思った。

 大体の汚れが落ちた。4人が、そう思った。
 ああ、そのとき。
 天井が、ぎしり、と軋んだのである。


■まがつ鯉、あらわる■


 めめめめ、と天井が軋む。軋みはそのまま、黒い雫のかたちを取った。
 雫は、見る見るうちに大きくなって――ぼたり、と床に垂れ落ちた。
「うわ、なんですか! タールですかっ?! 汚い!」
「このビル全体に、鈴で結界を張ったから――外から新しく穢れが入ってくることはないけど、中の穢れも外には出られないの」
「え、でも、さっき、比嘉さんが追い払ったでしょう?」
「ああ。とりあえず、雑魚を追い払ったのさ。とりあえず、な」
 そう、あれは、時間稼ぎ。
 大きく、厄介なものを先に片付けるための柏手と祝詞。
 埃だらけの部屋で、いくら風を起こしても、窓を閉め切っていれば埃が消えることはない、舞い上がり、風に吹かれて、風の終わるところに寄り集まるだけだ。
 塵も積もれば、山となる――。

 ねばねばとしたタールが、ぐう、と首をもたげた。
 シャンパンとウイスキーの芳香をまとう、『かれら』が歩けば、ちゃりんちゃりんと銭の音。
 口を開けば、酒に焼けた声が飛ぶ。
 ありがとうございましたあ、ありがとうございましたあ、またきてねえ、ぜったいきてねえ、ありがとうございましたあ――。

「天津神! 国津神! 八百萬の神達共に聞食せと畏み畏み申す!」

 パン! パン!

 どこからか跳んで来た其は、柏手!

「『そいつら、手伝え』!」

 黒い不定形の魂たちが、ぐおう、と掃除係に踊りかかったとき、床から朱色の『鯉』が跳ねたのだ。鯉はどしんと黒い魂に体当たりをした。
 魂がびょう、と球形になって吹き飛んだ。
 シオンが悲鳴を上げた。彼にとっては、それはタールの塊だった。恐るべき、汚れの塊だ。彼は酸性洗剤と塩素系洗剤を、ボトルごと投げつけた。
 球形だった黒の塊は、一気に失速して床に落下した。シオンの目の前だった。
「おい、裏社!」
「はい?」
「喰っちまおうぜ!」
 がこがこと下駄の音も高らかに、左京が走る。裏社は、再び狼になった。
 黒い魂に、ふたりが喰らいついたとき――
 おれも混ぜろと言わんばかりに、異形の鯉が饗宴に加わった。


■お掃除完了!■

「あの鯉、比嘉さんの式神かなにかですか?」
「いやあ……まあ……なんなんだろうなあ……」
「もっかい出せよ」
「うん、美味そうだった」
「やめてくれよ、おれの相棒だぞ」
 若干衣服を埃で汚した5人は、すっかり賑やかになった歌舞伎町に出ていた。ビルは、窓の位置が悪いらしい。羽澄は念を入れて結界を重ねがけしてみたが、結局それもその場しのぎだ。窓を埋めるか、建て直しをしたほうがいいだろう。
 笙矢はそれを心得ていて、組長にそう説明していたが、組長にその気はないらしい。とりあえず掃除が終わったこの物件を、いかがわしい業者に売りつけるか、貸し出すだろう。あとのことは知らない、というわけだ。
「まー、また問題が起きても、おれが出張りゃいいんだけどさ。……めんどーなんだよな。また手伝ってもらえるかい?」
「気が向きゃ手伝ってもいいけどさ……今度いきなりトンズラこいたら、あんた、喰うぜ」
「あー。ははは。やめとけ。バチ当たるぞ。これでもな、一応、神職なんだわ」
 笙矢はぼんやりした笑みを返して、歩き出した。行く方向は、きっと4人とは違うだろう。
「じゃーな! おつかれ!」
 猫背で振り返った彼は、やけに人なつこい笑みだった。


「……神社の連中も、妙なやつに位をやるようになったんだな」
「神職って美味いんですか?」
「うーん。裏社さんはちょっとおなか壊すかも。……あれ? シオンさんは?」
 掃除夫姿のシオン・レ・ハイが、いつの間にか消えていた。しばらく辺りを探し回った3人だったが、結局、見つけることは出来なかった。
 それもそのはず、シオンはキャッチに捕まって、キャバクラに連行されていたのだ。掃除の前金があったおかげで、彼は、半殺しにされずにすむことになる。心配ご無用。


 歌舞伎町に、乾杯。
 夜の世界に、ご用心。




〈了〉

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   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【1282/光月・羽澄/女/18/高校生・歌手・調達屋胡弓堂バイト店員】
【2349/帯刀・左京/男/398/付喪神】
【3356/シオン・レ・ハイ/男/42/びんぼーにん+高校生?+α】
【5130/二階堂・裏社/男/428/観光竜】

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               ライター通信
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 モロクっちです。お待たせしました。特別企画『ヤクザと退魔』をお送りします。「いろいろあった」くだりを書きこみすぎて前半だけが長くなるという事態に陥り、だいぶ削りました。ほんとに、依頼内容はそれほど大変ではない『掃除』です。でも笙矢はいつも孤独に仕事をさせられているので、嬉しかったはずですよ(笑)。
 わたしも嬉しかったです。このたびはご参加、まことにありがとうございました!
 掛け合いとバトル、楽しんでいただければ幸いです。