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My Precious.
誘いは常のように夜が更けつつある時刻に唐突に響いた携帯電話のベルがもたらした。毎夜それを待つでもなく待ちながらアドニス・キャロルは夜を過ごす。自ら購入したわけではなく貰ったものである携帯電話のベルが鳴れば外へ出て、鳴ることがなければ独り静かに夜を過ごすというそれだけの違いであったが過ぎる時間のなかにあるものの密度は圧倒的に前者が高い。現にそれを証明するよう身支度を整えるアドニスは手際よく一つ一つを片付け、約束の時間五分前には指定された場所に辿り着くことができる時間的余裕を生み出していた。自分が柄にもなく浮き足立っていることをアドニス自身もよく判っている。しかしそれは傍目には判らない微細な変化だ。きっと近頃大分打ち解けてきた彼の恋人であるモーリス・ラジアルでさえも気付いていないだろう。
モーリスに会うために自ら定めたドレスコードに倣い整えた装いに身を包みキャロルは外へと続くドアを開ける。
時間に余裕があることは明らかだった。
だからといってアドニスがゆったりと行動するのかといったらそうではなかった。
多少消極的な面はあるもののどちらかといえば一途なタイプなのだ。
恋人を焦らすようなことができるほどアドニスは遊び慣れてはいなかった。
昼間とは違いネオンばかりが眩しい夜の街。
そのなかに張り巡らされた道路は夜が更けるごとに混雑していく。
それを知るアドニスは約束の場所でモーリスを拾うと、敢えて中心地から逸れる方向へとゆっくりと車を走らせた。車中に無駄な音楽は響かない。ただ一定のリズムでエンジン音が低く響いているだけだ。その隙間を縫うように言葉が響く。ぽつりぽつりという形容がよく似合う会話は決して滑らかとは云い難かったが、少ない言葉であっても狭い車内に身を置く二人の間に気まずい沈黙が落ちることはなかった。取り留めなく紡がれ重なり合っていく言葉一つ一つ。それが車内に築き上げる層は決して不快なものではない。むしろ心地良いほどだった。
それに包まれステアリングを軽く握り、正面を向いたまま時折紡がれるモーリスの言葉を決しておざなりにしない程度の意識を傍らに注ぎつつアドニスの思考は今向かう目的地への道を吟味する。最短のルートを辿れば計算上は既に目的地に着いている。しかし今の時刻を考えれば、それを辿ることが無謀であることは明らかであった。下手をすれば渋滞に巻き込まれ、苛立ち紛れに鳴らされるクラクションの渦のなかで望みもしないというのに苛立ちを共有させられかねない。それを避けるために選んだ道はアドニスの予想通り混雑とは無縁であり、時折数台の車と擦れ違うくらいである。
そんなアドニスの気遣いを知るモーリスは余計なことは云わない。時間が無駄だというような無粋なことを云うくらいなら初めからこんな時間に約束を取り付けたりはしないのだ。こんな時間だからこそ余計なことに煩わされることなく過ごしたい。それがモーリスの願いだ。
滑らかに進む車はモーリスが告げた目的地へは着実に近づきつつある。
発端はなんであったか。
これから向かう先は常会う場所としている廃教会のような場所ではない。名の知れたレストランだ。モーリスがそれを知ったのは些細なきっかけで、ふと行くことがあるのならアドニスと、とそう思ったような気もしないではない。雑誌で見た写真は落ち着いた照明とシンプルでありながらも立派な調度に満たされた空間だった。広告用の写真だからか無駄を一切排された印象を与えるものであったのかもしれなかったが目にした瞬間、好奇心が刺激されたことは本当だ。そうでなければ今夜、こうしてアドニスを誘うようなことはなかっただろう。
理由は特別言葉にするほどのものではない。それをアドニスも判っているのかいないのか、これから向かう先を選んだ理由を問うことはない。彼が紡ぐ言葉は当たり障りのない日常に関するものばかりだ。モーリスが選ぶ場所ならどこでも良いと思っているのか、それとも元来そうした細かいことに頓着する性質ではないのかは定かではなかったがどこか淡白とも取れるそうしたアドニスの態度にモーリスは少なからず好感を抱いている。相手が誰であれ詮索されるのはあまり好きではない。
次第に賑わいを増していく車窓の風景に目的地が近いことをどちらからともなく覚った。
店は豪華な印象を与える外観をしているものの下品な印象を与えることは決してない均衡を保って都内の喧騒のなかに埋没するようにひっそりと建っていた。どこかチャペルを思わせる煉瓦造り。鋭角な屋根は鉄板葺きだ。尖塔アーチが印象的なポーチには流麗な文字で店名が記されたブラックボードを掲げるイーゼルが置かれ、照明はドアの両サイドに設えられたランプのガラスのシェードから漏れる柔らかな光だけだ。
二人は物怖じする様子もなく慣れた足取りでドアを潜る。するとすかさず現れたウェイターが二人を席へと導いた。淡い橙の明かりに満たされた店内の席数は多くはない。どれもが壁際に面して、アンティーク家具を思わせる丸テーブルの上にはステンドガラスのランプが置かれている。二人が腰を落ち着けるのを待ってメニューを手に再度現れたウェイターにメニューを見ることもなく赤ワインの銘柄を告げると必要以上の言葉を告げることもなくウェイターは下がった。
店内には快いヴォリュームでクラシックが流れている。席と席の距離があるせいか話し声は判然としないまま密やかにその隙間を縫うようにして音楽だけが響いていた。アドニスとモーリスの言葉もその一部になり、店内に大きく響くことは決してない。程なくして運ばれてきた赤ワインを手に、それぞれ示し合わせるでもなくささやかな乾杯をして、一つ二つと重ねていく会話は特別なものではないもののわけもなく二人を幸福な気持ちにさせる。
「たまにはキス以上もなしで?」
不意に揶揄うように問うアドニスにモーリスはグラスを片手に笑って答える。
「お望みなら」
さらりと返したそれだけの言葉であったけれど、モーリスはふとアドニスとの関係を恋人ときちんと名付けられるようになってから彼がよく笑うようになったことに気付いた。それは揶揄うようなどこか幼い笑みであったり、他愛もないことで浮かべられたりする微笑であったりするけれど、以前の彼の表情にはなかったものである。それをそのままに言葉にするとアドニスはふと昔を振り返るような目をして云った。
「実際のところ昔、あの場所で出逢うことがなければこんな風になっていなかったのかな?」
言葉の端に僅かな淋しさを覚えつつも、ふとどちらからともなくもう何世紀も昔のこと、初めて出逢ったその日へと思いを馳せる。
アドニスがまだ吸血鬼狩人時代だった頃のことだ。指折り数えることもできない、貴族の社交界などといったものがまだ存在していた数字にすれば気が遠くなりそうな気さえするほど昔のこと。華やかな時代だった。今とはまた違った意味でひどく享楽的で華やかな時代が存在した。そのなかに生きた記憶をアドニスもモーリスも持ち合わせている。
あの日も今宵のような仄明るい店のなかに在った気がする。
しかしアドニスとモーリスはまだ互いの顔さえ知らなかった。
穏やかな談笑。エスプリに富んだ会話。さまざまな男女に囲まれる輪の中心にモーリスはいた。そのなかにアドニスが飛び込んできたのは、突然の出来事だった。何かを必死に追いかけているような気配を孕んだアドニスの姿は談笑する男女の輪のなかには不釣合いで、不意の出来事に避けきれずアドニスが触れたモーリスの腕が揺れて手にしていたワイングラスが傾いた。波打つ赤い液体。思わず小さな声を漏らすと、追う足を止めて慌てた様子でアドニスが失礼という一言と共に頭を下げた。正直、その時モーリスが何かを思ったのかといったらそうではない。思ったのだとしても粗野な者。その程度であっただろう。
しかし頭を上げて、真っ直ぐな視線を向けてくるアドニスの姿は何故か鮮やかな姿としてモーリスの記憶に焼きついた。銀色の目が真っ直ぐに自分を見ている。ただそれだけのことであったというにも拘わらずひどくモーリスの意識を惹き付けた。あまりに真っ直ぐに見つめる目に何かを問うたような気もするし、そうでもない気もする。今となっては判然としない。何を見ていたのかはアドニスだけが知っている。彼はモーリスの珍しい緑の目に見入っていた。細く滑らかな金色の髪によく映える緑の双眸。それに自分が映っているということが妙に気恥ずかしく、そして同時にとても美しいもののような気がして目を離すことができなくなった。
「どうかなさいましたか?」
どれほどの時間モーリスの目に見入っていたかは知れない。柔らかな声にそう問われて、はたと我に返ったアドニスは不意に爪先から這い上がってきた羞恥心に突き動かされるようにして咄嗟にその場から逃げ出した。モーリスは多少の不思議を抱きつつ、呼び止めることもできぬまま見送ることしかできなかった。
もう随分前のことで、今にはなんら影響しないように思えるほどの些細な出来事だった。
だがその刹那を思い出せばアドニスはその時にあった互いの距離、溝のようなものを改めて自覚しなければならなくなる。今こうして向き合い、当然のように言葉を交わすことができるけれど果たしてあの時のままの時代であったならそれは可能であっただろうか。あの日、あの時の自分は農家の三兄弟の次男という明らかにあの場に相応しくない立場にあったのだ。
「……俺は本当に君の特別でいいのだろうか?」
過去が呼び寄せる不安を細い声に変えて響かせ肩を竦めるアドニスにモーリスは静かに微笑んだ。
「では、試してみますか?」
揶揄われているのだろうか。そう思わせるような柔らかな声。モーリスの言葉はいつも柔らかすぎてとりとめなく響き、アドニスは不安を抱かずにはいられなくなる。恋人という言葉の脆さを突きつけられるような心地がする。余裕などないのが常だった。
「どうやって?」
問いを重ねるアドニスにモーリスは微笑むだけだった。
けれど今はそれを信じられるような気がするのが不思議だ。目の前で笑っていてくれる。それだけでいいような気がしてくる。
あの頃と今は違う。それを確約してくれる笑顔が今、手を伸ばせばすぐに触れられる距離にあるというそれだけで十分ではないだろうか。
テーブルの片隅に置かれたガラス製の灰皿を指先で引き寄せ、慣れた仕草で煙草に火を点けるアドニスの仕草をさりげなく視界に捉えてモーリスは口を開く。
「キャロル……」
応えは視線で、それを捉えてモーリスは笑った。アドニスもまたそれに答えるように笑う。我知らずアドニスが僅か表情を曇らせたことはそれを前にするモーリスにしか判らないことだった。そしてモーリスが泣き顔を見ることが苦手なことを知るのもまた彼自身だけだ。まだ告げていない。泣き顔が苦手なのだと告げれば、アドニスは泣き顔を見せぬよう努めるのではないかという気がするせいだ。
仄かな明かりは周囲から二人を隔てる。
表情の些細な変化は二人にしか判らない。
音楽だけが静かに店内を満たしている。
声は二人の間にしか響かない。
テーブルの上に投げ出されたアドニスの手にさりげなく指先を伸ばして、モーリスは囁くような声で一言を紡ぐ。
アドニスはそれを受け止めひどく穏やかに、嬉しそうに笑った。
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