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◇◆ 囚われの歌姫 ◆◇
神聖都学園の講堂。その舞台の脇には細い階段が上へと伸びている。急な段を昇り切れば、そこは音響室。埃っぽい、機材を詰め込まれた小さな部屋。
四畳半ほどの狭いそのなかで、神聖都学園の一年生、新見透己は難しい顔で腕組をしていた。
「どうしても、開かないってわけ……」
ゴムの滑り止めのついた上履きで、ペンキの剥げ掛けた扉を蹴る。だが、薄っぺらいベニアの戸は、びくともしない。勿論、お行儀好くノブを掴み、手で押したとしてもこの扉は開かなかった。
「全く、なにがなんだか」
溜め息を吐いて、ぐるりと室内を見渡す。
うっすら埃を被った幾つものレバー。それらしく据えられたマイク。キャスター付きの椅子。そして、教室の余りを持ち込んだような机がひとつ。
机のうえには、角が摺れ、表紙が色褪せたスケッチブックが一冊。
そもそも、透己はこの忘れ物を取りに来るために、この音響室に来たのだ。
そして、閉じ込められた。
「ここで、夜明かしは冗談じゃないわよね」
部屋にある窓は、舞台を見下ろすための小さなもの。だが、そこから覗ける講堂は、すでに灯りを付けなければ隅まではっきりと見えないほどの暗さだ。
「おなかも、空いたし。……むかつくわ」
もう一度、がつりと力任せに扉を蹴り付ける。だが、結果は同じ。むしろカロリーを使ったせいか、心なし足許がくらくらする。
焦ってはいないが、腹立たしい。
「仕方がない、か」
透己は、ぱちん、ぱちん、と手当たり次第、機材のボタンを押していく。点滅していく、赤いランプ。
そして最後に、マイクのスイッチに触れ、思い切り息を吸い込む。
この閉ざされた空間から、助けを呼ぶために。
◇◆ ◇◆◇ ◆◇
――助けて。
スピーカーを通した音声独特の、紗が掛かった声が廊下に響き渡る。
「なに、これ」
擦れ違った女生徒の苦笑交じりの囁きに、初瀬日和の用が終わるのを待っていた羽角悠宇は、思わずひとり頷いてしまう。
「本当にな。あとでかなり恥ずかしいんじゃないのか、透己」
声はふてぶてしく、強気。
まるで、『助けて』ではなく、『助けろ』もしくは『助けやがれ』とでも命令しているみたいだ。
「取り敢えず、助けてやらないでもないけどな」
きゅっと、ゴムの滑り止めが付いた上履きの底が、音を立てる。
窓の外、中庭に立つ時計塔を見遣れば、下校時間間近の、六時五分前。
形通りの下校放送を引き破るように、新見透己のSOSは校内に響き渡った。
悠宇の足は自然、放送室に向かう。取り敢えず発信源として、一番最初にあげられる場所だった。
だが、そこには先客がいた。
「月夢?」
同じ学年の、空気のように風景に滲む、淡い印象の少女が分厚い防音扉の前に所在投げに佇んでいる。
彼女は何故か、校内にそぐわない可愛らしいクマさん柄のドテラを羽織っていた。
月夢優名がその異変に気付いたのは、寮に帰ってから後のこと。
寮の個室には、小さなバスルームが付いている。それだけで、高校の寮としては破格のもの。その恩恵を、優名は存分に味わっていた。
ささやかなバスタブを湯で満たして、アロマオイルを垂らす。乾燥したフルーツの皮や、普通の入浴剤、バス用品専門のお店のうっとりするほど香り好いバスボム。いろいろなものを試してみたが、結局、オイルを一滴二滴、が一番優名に合っているよう。落ちたオイルがじわりとお湯に溶ける。その瞬間のなんとも云えない感覚も、優名のお気に入りだった。
「気持ち、好い」
ゆっくりと、好い香りのお湯を愉しむ。少しずつ、ペットボトルのお水を飲みながらたっぷりと汗を流す。そうして、今日の澱をリセットする。
眸を閉じて、深い息を吐いたところでふと、廊下のざわめきに気付いた。
真っ白にこころを塗り替えようとしていたのに、くしゃりと、皺が寄ってしまう。思わず顔を顰めて、その騒音を追い出そうとする。
だが、少しずつ大きくなっていく誰かの話し声は追い出そうにも追い出しきれず、優名は仕方なく、名残惜しげにバスルームから抜け出した。
濡れた髪を適当に梳いて、防寒用にドテラを羽織って外に出る。
「……放送が……」
「悪戯じゃないの……?」
「……でも……」
いくつもの囁きの断片。余り親しくない寮生たちの会話に割って入る度胸は、優名にはない。
溜め息を吐き、そのまま部屋に戻ろうとした優名の脳裏に浮かんだのは、数少ない友人の顔。どれも、トラブルを呼びそうな人間ばかり。
「……助けてって……」
そんな優名の耳に飛び込んできたのは、物騒な単語。
「見てくるだけ、見てくれば好い、よね?」
それで、何事もなかったのなら、安心できる。
優名は自分の考えに頷いて、ドテラ姿のまま寮を飛び出した。
放送室の前。クマさん柄ドテラ姿の、女子高生。奇妙なパーツの集合体。
目が合った途端、悠宇は吹き出した。
「……随分、可愛い格好だな、月夢」
悠宇の忍び笑いに、ぱっと、優名は自分の姿を見返す。当然、目に入るのはファンシーなドテラ。あっという間に、真っ赤に頬が染まった。
わたわた脱ごうとするが、焦った腕が絡まって、まるでひとりでぐるぐる回る絵本の虎のよう。悠宇は更なる笑いを堪えながら、一応忠告をしてみせる。
「寒いなら、着ていても好いんじゃないか?」
「いえ……もう充分、あたたまったから……」
もがきながらなんとかドテラを脱ぎ、くるりとまるめて優名は俯いてしまう。
「お前も透己の放送、聴いたんだろ?」
「やっぱり、透己だったんだ……」
嫌な予感の的中に、今度はうっすら青褪めた顔。
悠宇は頷いて、重い放送室の扉を開けた。
「こんちわ」
なかにいたのは、女子生徒がひとり。ガラスで仕切られたブースの向こう側から、ちらりと悠宇と優名を見た。
「あの」
話し掛けようとするのを指一本で制して、マイクに向かい聴き慣れたアナウンスをし始める。落ち着いたトーンの声がマイクに馴染んで、プロっぽく悠宇には聞こえた。
「ごめんなさい。どうしたの?」
彼女は放送を終えると、ブースの外に出てきて悠宇たちの前に立った。丁度、優名と同じくらいの身長。悠宇を見るときは、少し見上げるようなかたちになる。
「さっきの、変なヘルプコールのことで話を聞きに来たんですけど」
「ヘルプコール?」
悠宇の話に、彼女は眉を潜めた。
「ごめんなさい。放送入れるときは、ここ、外スピーカー切っちゃっているの。そんな変な放送が入ったの?」
「はい。放送だから、ここから流しているんじゃないかって」
人見知りな優名が、緊張気味に云い添える。放送部員の彼女は、唸りながら腕を組んだ。
「ご覧の通り、ここにいるのは私だけよ。ご期待に添えなくて悪いんだけどね」
「他に、校内放送を流せる場所は?」
悠宇の問い掛けに、彼女は首を捻った。
「他に、放送ジャックできるところねえ……」
しばらく、うんうん唸るのを、悠宇たちは見守る。
やがて、ぽん、と彼女はひとつ、手を叩いた。
「ああ、あったわ。あそこ」
「どこですか?」
「あそこよ、そう」
すっと、彼女が指差したのは、窓の外。
「講堂の、音響室」
そこにはこんもりと丸い、大きなドーム型の屋根が見えた。
――悠宇、待ちくたびれていないかな。
窓の外がすっかり暗くなっているのに気付いて、初瀬日和は目の前の人物に気付かれないようこっそりと、溜め息を吐いた。
「それで、初瀬サンには、演奏をお願いしたいんです」
やっと用件に辿り着いた結論とともに、件の人物はにっこりと笑う。垂れ目気味だが、整った顔立ち。『王子様』、と云う単語を、日和は思い出す。
確か、前回の演劇部の公演では、このひとは王子様を演じていた。
カボチャパンツが殊の外似合っていて、横で見ていた悠宇は、笑って好いのか感心して好いのかわからないような、複雑な表情を浮かべていたっけ。
それを思い出し、日和は唇を緩ませる。
「OK、してくれるんですか?」
それを勘違いしたのか、目の前の演劇部部長は明るい声を上げた。
「ごめんなさい、そうじゃなくて」
日和は慌ててかぶりを振る。
ここは、演劇部の部室。放課後、レッスン後の日和を待ち伏せてこの場所に連れて来たのが、この部長だった。なんでも、演劇部の次の公演に出て欲しい、と云うのだが、正直、日和は乗り気ではなかった。すぐに断るつもりだったのに、部長の強引さにずるずる引きずられて結局、こんな時間になってしまったのだ。
「前回、あんなかたちで公演が中断されて、うちも困っているんですよ。初瀬さんが出てくれたら、それだけでもう、公演成功間違いなしだから!」
押し付けるような口調で云って、部長はべったりと笑う。
確かに、前回の演劇部の公演は不運だったと思う。だけど、それと日和の出演は別問題。むしろ、素人の日和が混じっても、きっと邪魔になってしまうだろう、と思う。さて、どうやって断れば好いだろうか、と日和が思案したそのとき。
薄暗い部屋の空気を突き破るように、放送開始のチャイムが鳴り響く。
「……え?」
続けて聞こえてきた知りびとの声に、日和は目を丸くした。
「あれ、誰かが叫んでいると思ったら」
誰もいない、静まり返った講堂のなか。同じくひとの気配のない舞台の上に立った十里楠真雄は、丁度音響室の真下からガラス窓を見上げ、そのなかに閉じ込められた新見透己にひらひらと笑顔で手を振る。
ひとの肌に触れれば、その人間の異常がわかる。空気を感じれば、その場の異変を読み取る。医師である真雄は、この講堂――特に舞台一帯を澱ませる歪みを、すぐに悟った。
――この場所はなにかに欠けて――なにかを求めて、歪んでしまった。
だが、素知らぬ振りで笑ってみせる。ひらり、と。
すると、マイクのスイッチを入れる音がした。
『……なんの御用ですか?』
感情を押し殺した、いつも通り淡々とした声だが、やや恨めしげなのは気の所為か。くすり、と真雄は小さく笑った。
ふと、周囲を見渡す。ああ云う空間には繋がっているであろう代物を目で探す。それは意外と、簡単に見付かった。
すたすたと、歩く。最後に見上げた透己の頑なな顔が、一瞬、くしゃりと不安に揺れた。きっと、そのまま帰ってしまうのではないかと思ったのだろう。
「面倒くさいのは嫌いでも、そこまで、薄情じゃないつもりなんだけどね」
ふふ、っと唇だけで悪戯っぽく微笑む。
舞台の裾のカーテンの陰、裾が靴跡で汚れた壁に、真雄の探し物は掛けられていた。手を伸ばしてふと、靴先を見ると白っぽい切れ端が足許に絡み付いている。拾い上げてみると、四角い紙の端。ぎざぎざの、不恰好な三角形。真っ白な紙面には、なにかの絵が描かれているらしいが、部品だけではなにとは判じ切れない。
それに――鉛筆で不器用に描かれたそれは、お世辞にも上手とは云えなそうだ。
取り敢えず『それ』を片手に持ち、真雄は目標物を手に取って耳に当てる。どうやら、『それ』の回線はまだ生きているらしい。『音響室』と剥がれ掛けたラベルの貼られたボタンを押して、しばし待つ。
『ハイ、もしもし!?』
余り使われていなかったらしい内線電話はそれでも、無事に音響室のなかの透己と繋がったよう。咳き込むように、透己が応えてくる。
「随分、元気だね。安心した」
そう囁いてから、僅かに考えて付け加える。
「大丈夫。物事は解決すれば、どうってことないからね。なにがどうなったのか、説明してくれる?」
透己を、安心させるための、台詞。優しさと、揶揄が入り混じった声。
『……解決、できれば、ですけどね』
優しさの返礼は、若干憎たらしい代物だった。
時刻は六時半、丁度。
「そのスケッチブックが、忘れ物ってわけじゃないよね?」
すっかり暗くなってしまった講堂の片隅、真雄が受話器に向かって囁く。電話越しのもどかしい会話だった。
閉ざされてしまった、音響室。鍵が開かない限り、完全防音である音響室の内側と外側を結ぶのは、舞台裾にある業務連絡用の内線電話しかない。
「お腹空いているし、寒いでしょうに……透己さん、大丈夫かな」
心配そうに顔を曇らせて、日和が呟く。
「大丈夫だろ。出てきたら、腹がはちきれるほど奢ってやろう。な?」
悠宇が安心させるように、にっと笑う。
「やっぱり、開かないみたい」
音響室のドアを外側から確認してきた優名が、肩を落とす。拙い全力疾走で急な階段を上がり下がりしたせいか、息が上がっていた。
『あたしが絵を描くのって、おかしいですか?』
回線に乗って響く、ひんやりとした透己の声。
「別に。ああ、ちょっと斬新な絵だったけどね」
軽く、真雄が口先で笑う。その手には、スケッチブックの切れ端。舞台のうえで真雄が拾ったのは、透己のスケッチブックが破れたもの、だったらしい。
『余計なお世話様です。別に誰かに見せる予定なんてありませんから。とにかく、あたしは、音響室にスケッチブックを忘れて、取りに来たんです。それで、なかに入ったら出られなくなった。理由もなにも、わかりません。鍵だってここ、内側から引っ掛けるタイプの鍵だけなのに』
「落ち着け、透己」
真雄から受話器を受け取って、今度は悠宇が話をする番。真雄は両手を挙げ、降参のポーズで引き下がる。
「そもそも、どうしてこんなところに忘れ物したわけだ? 確かお前、音絡みの場所はあまり好きじゃなかったと思うんだけど」
ぐっと、透己が言葉に詰まる気配。
やがて、しぶしぶ、と云った具合で、話し始める。
『先週の金曜日、演劇部の公演がありましたよね?』
「ああ、あったな。途中で停電に邪魔された、あれだろ?」
確かに先週の金曜日、演劇部はこの講堂で公演を行った。
この神聖都学園の部活動は全国レベルに達するものも多い。そのなかでも、演劇部も全国大会の常連で、公演はかなり愉しめるものだった。
ただし――それが、最後まで演じられたもので、あれば。
「ラストのラストで結末が切れて、あれは惜しかった」
カボチャパンツの王子様は、お姫様にキスする寸前でブラックアウト。突然の停電で、学生達はそのまま避難訓練に突入してしまったのだ。
舞台から降りた場所で見るカボチャパンツはかなり間抜けで、どこかうら寂しいような気分になった気がする。
『そう。凄く勿体なかったです。だから、あたし』
「だから、その音響室からスケッチしたのね? 舞台のうえを見下ろして、あの日の舞台を、想像して」
横に並んだ日和が、囁く。受話器の、バトンリレー。細くて長い、節のある指が受話器を握る。
「丁度、音響室なら舞台のうえが一望できるものね」
『……正解です。初瀬先輩』
なんとなく不満そうに、透己が応える。その声のトーンに日和は苦笑する。
そしてふっと真顔に返り、顎に細い指を当てて、考えをまとめるように呟いた。
「途中で壊れてしまった舞台を描いた、破れてしまったスケッチブック……」
「破綻したものがふたつ、引き合っているのかも知れないわ」
真雄と、悠宇。優名と、日和。
舞台のうえに、各々ぺたり、と座り込む。
冷たい床の冷気が、触れた肌から這い上がる。ふる、と日和が小さく、身を震わせた。
「あの……これ、着る?」
遠慮がちに、優名が抱えていたドテラを差し出す。ファンシーな柄の、ふっくらと綿を詰め込んだドテラ。日和はほんのり笑う。
「ううん。それは、優名さんが着て? 寒いでしょう?」
そこまで云ってから、ちらり、と音響室を見上げる。下がっているのか、透己の姿はここからは見えない。
「透己さん、寒いでしょうにね」
暗く、呟いた日和の肩に、優名はえい、とドテラを掛けた。
「優名さん!?」
面食らった日和の傍らに滑り込んで、優名も同じドテラのなかに収まる。二人並んで、ドテラを肩に被るかたち。横型二人羽織状態、だ。
「これなら、ふたり分だよね?」
照れたように、頬を少し赤らめて優名がもごもご呟く。
「……ありがとう」
ほんの少し笑みを滲ませて、でも、日和の視線が向かうは音響室の方向。
「先週、演劇部の公演があったんです。だけど、ラストの方で停電があって中断。そのまま生徒は講堂から出されてしまったんです。つまりは、途中で演じられなくなってしまった演劇。それが一点目」
「そしてもうひとつ。十里楠さんが手に持っているスケッチブックの切れ端。それは、透己さんが描いた絵の破片ですよね? しかも、透己さんはその、途中で切れてしまった劇の一場面を描いたものだと云う」
悠宇の説明に、日和が付け加える。
真雄は、手にしたいびつな三角形の紙を、ひらひらと翳した。
「ふたつの、不完全なものが引かれ合って、狭間で透己はあの場所に閉じ込められてしまった、ってこと?」
優名が小首を傾げる。
「じゃあ、どっちかが、もしくは、片方が完成しなければ、透己はあそこから出られないの?」
内側に閉じた世界。閉じたなかを、くるくると滞留する空気。時間。終わりを失った場所。
ちくり、と優名の頭の隅が痛んだ。
――何故?
ふるふると首を振って、優名はその奇妙な頭痛を追い出す。
「でも、演劇部の公演をもう一度やり直すなんてできないよね? それに、スケッチの方は、片方はここにあって、もう片方は透己のところに残っちゃってる」
どちらも、きちんと満たすことなんて、できない。
「困ったね。どちらも、終われない」
にっこりと、ちっとも困っていない様子で真雄が微笑んだ。
「継ぎ足しちゃ……駄目かな?」
ぽつん、と優名が呟く。
「継ぎ足して、透己の絵をきちんとしたかたちに、修復する。そうしたら、せめて透己の絵だけは半端なものじゃなくなるよね?」
「こっちの破片に紙を継ぎ足して、絵を、描くのか?」
悠宇は訊ねながら、日和の横顔をこっそり窺う。
天才的なチェロ奏者。料理も旨い。裁縫も得意。
指先を操ることに欠けては人後に落ちることのない日和がただひとつ、苦手としているものが、ある。
「絵……」
悠宇の予想通り、日和は、微妙に困ったような顔をしている。
悠宇の自慢の日和の、たったひとつのコンプレックス。
それは、絵を描くことなのだ。
「それも、有効かも知れないね。少なくとも、引き合うパーツの均衡が崩れればきっと、封じ込める力を緩むだろうから」
「じゃあ、あたし、紙を貰ってくる」
一世一代の覚悟、と云わんばかりの勢いで、優名が立ち上がる。そのまま、ぱたぱたと講堂を飛び出していった。
「あ……優名さん……」
知らず呼び止めようとした声を飲み込んで、日和が覚悟を決めたのか、深く深く溜め息を吐く。
「まあ……なんとかなるさ」
力なく落とされた肩を、悠宇は慰めるように二度、三度、叩いてみせた。
広げた紙の端に、透己のスケッチブックの端を合わせて。
紙を継ぎ足し、描き上げられた絵は、ある程度まともに見えた。
端っこに、日和の描いた小さな花。歪な丸の集合体に見えるのはご愛嬌だ。日和は努めて、その場所を見ないようにしている。悠宇には、そんな様子が可愛くて仕方がない。
なにはともあれ、引き合うパーツの片方は満たされ、均衡は崩れたはず。だが、考えてみれば終幕まで導かれなかった舞台は途切れたまま。
それがなんとなく物寂しく感じる。達成感に欠けているなあ、と釈然としないまま、悠宇はこきこきと首を回した。
そんななか、真雄が受話器に手を伸ばす。
コール音に耳を傾けて、ゆっくりと話し出す。
「鍵は、開かないまま?」
はっと、悠宇は真雄の横顔を見詰める。
「でも、扉だけが出口じゃないと思うよ。大丈夫。封じ込める力は、緩んでいるはず。だから、それ以上はキミが、なんとかできるはずだよ。……それとも、できない?」
そんな台詞が、悠宇の耳に届く。途端、物凄い音が頭上から響いてきた。
「透己!?」
優名が、信じられない、と云う響きの悲鳴を上げる。
とっさに、悠宇は日和の姿を探す。日和も、悠宇を見返してくる。
「乱暴だね」
真雄が受話器を戻しながら、呟く。少しも驚いていないように見えた。
四人が見ているなかで、音響室の窓を突き破り、キャスター付きの椅子が降って来る。舞台の中央を越えて、落下する。ぐしゃり、と無残に背凭れが歪んだ。
――あれは、意外と重いだろうに。
「期待には、応えて差し上げます。派手すぎましたか?」
はっきりとした声で、ガラスのなくなった窓から、透己が叫ぶ。
「いいや、上等だよ。フィナーレは、派手であれば派手であるだけ好いと思わない?」
ひらりと、真雄が余裕の仕草で手を振る。
むっとした顔で、透己がそれを睨み付けた。
「助けられるのを待っていたなんて、思わないで下さい。自分で、こんな場所からくらい、いくらでも降りられます!」
そのまま言葉通り、透己はぎゅっと目を瞑って窓を蹴り、宙に身を躍らせた。
高さはおよそ、三〜四メートル。
悠宇が動く前に、想定内の余裕を見せて真雄が腕を伸ばす。
「お帰り、お姫さま」
風を伴って、落ちてきた透己を真雄の腕が受け止める。
「セーフ、だね」
艶美な笑みを、真雄は浮かべる。
ふわっと一度髪が舞い上がり、さらり、と透己の顔を隠す。
場所は、舞台の中央部。
『王子様じみた端正な顔立ちの青年が、少女をお姫さまだっこ』
それこそ、それが劇の一場面のようだった。
ぱちぱちと、優名が思わず、と云った風情で拍手する。
その音で、悠宇は気付いた。
――舞台のおしまいは、観客の拍手で。どんな人間でも知っていること、だ。
「図りましたね」
同じことを、透己も思いついたらしい。憮然とした透己が、真雄の腕から逃れて自分の足で立つ。
爪先が磨かれた床に、触れ合う音。
それが、幕が落ちる音に聞こえた。
「なんのことかな」
曲者の顔で、真雄が笑う。
ひらり、と拙い絵を描いた紙が風に飛ばされていくのを、悠宇は視界の端で捕えていた。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【 2803 / 月夢・優名 / 女性 / 17歳 / 神聖都学園高等部2年生 】
【 3524 / 初瀬・日和 / 女性 / 16歳 / 高校生 】
【 3525 / 羽角・悠宇 / 男性 / 16歳 / 高校生 】
【 3628 / 十里楠・真雄 / 男性 / 17歳 / 闇医者(表では姉の庇護の元プータロー) 】
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□ ライター通信 ■
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こんにちは。この度はご発注、ありがとうございました。ライターのカツラギカヤです。
今回は、こんな感じの物語になりましたが……如何でしょうか? 今回は、小ネタはかなり大目かな、と自分では思っています。少しでも、愉しんで貰えたら幸いです。
繰り返しになりますが、ご発注、ありがとうございました。次回も是非、宜しくお願いします。
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