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<東京怪談ノベル(シングル)>


幽明の回廊

 そこは、混沌の渦巻く世界だった。

 東京。
 狭い土地に詰め込まれた人々と、昼と夜ではまるでその表情を変えてしまうビル街。
 一方では享楽的な不夜城が次々と建てられ、他方ではひとがその存在すら知らぬような場所に闇と打ち捨てられた思いが蟠る。
 それは、いつ形を取ってもおかしくない位に濃く、淀んでいる。
 ――何かのきっかけがあればそれは、すぐに牙を剥くだろう。

*****

「幽明の回廊が開いておるの」
 とあるうだつの上がらない探偵の住まう地――要するに草間興信所の屋上で、ある一点を見詰めながら、空狐焔樹はそんな言葉を呟いていた。
 何かの『匂い』を感じて屋上へ上がったものの、その目は特に何の感慨も浮かんではいない。
 その目に映るのは、屋上からビルとビルの隙間を縫って見える少し離れた交差点。
 そこから昇る煙からは、事故という言葉だけでなく、何らかの姿をも読み取れそうだった。焔樹の目から見える限りでは、交差点を曲がりきれなかった車が衝突事故を起こしたようだったが。
「常世と現世を繋ぐ回廊が、これほどまでにはっきり見えているのも珍しい」
 焔樹は尚も呟いている。
 通常、幽明の回廊と言われるものは、風水的に宜しくない場所や、磁場が狂ってしまった所に開く。良く事故を起こす事で有名な土地には大抵その回廊が開いている。
 と言っても常にではない。元々が不安定な場に現れるもの、ちょっとした揺らぎですぐ掻き消えてしまう類のものが多いのだ。
 そして、焔樹が今見ているそこも、ついさっき起こったばかりの事故によって『回廊』が開いてしまった。この分では人死にが出ているであろうな、とそんな事を思いながら、焔樹が珍しくもなさそうにふいと目を別の場所へ向ける。
「……ほう」
 ちょっとカンの良い者ならすぐに分かってしまう程の回廊が開いてしまった事で、そこに呼び寄せられるようにいくつもの負の気が集まっている。
 暫くは事故が絶えないだろう、そう思いながら、それは私の与り知らぬ事、と焔樹が冷静に判断していた。

 ――不思議な事だが。
 焔樹のように見えてしまう者たちの中には、明らかに自分の管轄外の事にまで手を出す者がいる。
 自分の出来る事を冷静に判断すれば、無駄な努力にしかならないだろうに、と焔樹はいつも思っていた。
 そしてそれを口に出した事さえある。
 答えは決まっていた。
 ひとは、いつも、焔樹が冷たいからだ、と言う。
 思いやる気持ちがあれば、そんな事は言えない筈だと。

 しかし――。
 焔樹には、それがまず分からない。
 無駄無く行動する事のどこが行けないのか、何故そうした感情を廃した言葉が非難されるのか、理解出来ない。
 所詮は人と自分とが違う存在だからか。
 非難されたとしても、理解出来ないものに心が動かされる筈も無く。
 焔樹はただ、そうやって考えるしか出来なかった。そして、その事を悲しいとも寂しいとも思わなかった。
 ……そして、その多くは自分の出番ではないとだけ、理解していた。

「……」

 だが――。
 時々、焔樹の胸の奥に、疼くものがある。
 身体のどこにも変調は無い。心だって正常だろう。それらは全ていつも通り。
 不安も不満も、自分には存在しない。
 それでも、時々。何か忘れている事があるかのように、胸の奥が不思議に疼きを見せる。
 分からない。
 自分には、それが何であるのか理解出来ない。
 もし、分かる者がいるとすれば、それは焔樹に理解出来ない『人間』の中にいるような気がする。
「まぁよいわ」
 くるりと踵を返してすたすたと階段へ戻りながら、焔樹は小さく呟いていた。
 今まで完璧に理解していると思っていた自分に生まれた謎。それを解き明かすために、暫く下界にいるのも一興――そう考えたからだ。
 差し当たっては、そう。
「あの男に聞いてみるか」
 彼もまた、間違いなく狭間に生きる者故。焔樹の問いに適切な答えを持ち合わせているやもしれない。
 そう考えつつ、固い階段をかつかつと高い足音を立てながら降りていき、かつん、と安っぽい扉の前で足を止めた。
 この扉を開ければ、何かが変わるのかもしれない。
 中にいる男の気配に、我知らず口元が弧を描く。
「邪魔するぞ――草間武彦」
「ああ。開いてるから勝手に入って来い」
 扉の向こうから、やる気の無さそうな声が届き、焔樹はその言葉通りにノブへと手を伸ばした。
 僅かに浮かび上がる、好奇心と期待感――それが、自分の中に生まれている事に気付かないまま。


-了-