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『クリプトビオシス』
「や、やめろ。やめてくれ」
真紅の十字架に磔刑にされた男は恐怖の表情に顔をこわばらせてうめいた。
それを前にしてその白衣の女は酷薄にただ微笑む。
「ぅ………」
無駄なのだ、そう悟ったのかもしれない、男は。
眼窩から眼球が零れ落ちそうなほどに眼を見開き、そして………
「ぎゃぁぁぁぁぁ―――――」
絶叫を上げた。
彼の両手足はやはり真紅の釘で十字架に打ちつけられているのだが、しかしその深深と刺さった釘を抜くような勢いで彼は身を動かせようとする。
わからなくもない。
白衣の女の右腕が手首まで男の左胸に埋まっているのだから。
ただし、それに伴う出血は無い。
それはどこか彼女の手が男の服、体組織をすり抜けているかのように見えた。
では彼女は何をしているのか?
その答えはすぐに与えられた。
抜き出された彼女の手に心臓があったのだ。
そして同じく彼女と共に白衣を着た数人の男が何やら物々しい巨大な冷蔵庫の扉を開けて、その中から何やらとても美しく透き通った小さな物を取り出し、それを彼女の元へと持っていった。
それが何なのかまだわからない。
しかしそれを持つ男の顔には生理的嫌悪の表情が浮かんでいた。
彼女はそれに一度左手で触れた。
その時の彼女の表情を説明するなら、それは男とは違い、自分の生まれたばかりの子どもを見るようなそんな表情だった。
そして彼女はそれを持ち、再び磔刑にされた男の左胸にそれを入れて、そうして………
その後の男の体の変化は劇的だった。
人間の身体の半分は水だという事の証明かのように死体の全身がぼこぼことまるで体内の水が沸騰でもしだしたかのように膨らみ出して、それから内部から爆発する、そう想えた瞬間にまるで嵐が去ったかのようにその劇的変化が収まるのだ。
ただその後にそこに残されたのはただの白い塩の塊だった。そう、蝋人形ならぬ塩の塊で作り出した人形のようなのだ。
そしてそれは十字架に打ちつけられた釘の傷から全身に罅が行き渡り、脆くも崩れ去るのだった。
――――――――――――――――――『クリプトビオシス』
東京草間興信所。
草間武彦はその臨時ニュースで画面に表示されたニュースにサングラスの奥の瞳を大きく見開いた。
「馬鹿な。冗談だろう、おい」
椅子から浮かせた腰を力が抜けたように再び椅子におろす。軋む椅子の音が彼が感じるニュースへの衝撃を物語っていた。
くしゃっと前髪を掻きあげて、彼は歯噛みした。
「尚道、アリステア。おまえら、無事なんだろうな。無事じゃなければ承知しないぞ。本当に」
武彦はぎゅっと右手を握り締め、その拳で机を叩いた。
その振動で机から落ちたのは、尚道が持ってきた報告書だった。
それまで放送されていた番組はその重大な事件のせいで、あわただしく人が出入りする緊急特番ニュースの放送室へと切り替わっていた。
けたましく鳴る電話の呼び出し音に重なって、アナウンサーが繰り返し口にするのは………
「テロです。テロが起きました。日本国領海内にて爆破された飛行機はフランスへと向かっていた………」
+++
テログループの声明は飛行機が爆破されると同時にネット上に公開されたという。
その犯行声明を要約すればそれは日本がイラクに自衛隊を派遣し続けた事への報復という事になるらしい。
飛行機が爆破されたのは日本国領海内であったために、かねてより用意されていたテロ事態緊急マニュアルによって海上自衛隊並びに海上保安長とが船を現場へと向かわせる事になる。
新潟地震の折の経験を下に報道関係のヘリ、船は生存者救出の妨げ、ならびにテログループの再度のテロ行為の標的になる恐れがあるために自粛を要請。
報道関係各位には海上自衛隊広報部によりライブで撮られる映像が提供される事になるが、しかしそれもマニュアルにて検閲され、通過できた物だけが流される事になるので、報道関係者からはその後、国民の知る権利を著しく阻害する行為、として責められる事になるが、しかし日本国内で起こったそのテロ行為のショックにより、その時はそれを責める人間はいなかった。
フランスへと向かっていた飛行機は日本国領海内上空で爆破されたわけだが、しかしこれはまだ報道に内密にされている情報だが、どうやらテログループはその飛行機の下腹部に有る緊急ハッチに人が移動するための道を繋げることの出来る特別飛行機がドッキング、及び何者かを連れ去った形跡があるらしかった。
もちろん、それはレーダーによる痕跡、という物だけで確たる証拠があるわけではない。とにかく今、関係者はその飛行機に誰が乗っていたのかを血なまこになって調べている最中であった。そしてもうひとつ。とある組織にもレーダーに映った機影の熱門照合について問い合わせをしている。その答えによっては、ひょっとしたら今後日本にとって著しく好ましくない事態へと陥るかもしれない。
そう、これはただのテロでは無い。
テロに見せかけた、行為で、それはレーダーから予測された通りに大掛かりな誘拐であった。推測通りの組織の。
そしてその全てを知る人物が日本国領海の波に浮かんでいた。
真柴尚道。飛行機搭乗者リストにある日本国籍のハーフの青年だ。彼は船の残骸がたゆたう中で、それに混じって浮かんでいた。
夜の海は星と月以外には光源は無く、ぞっとするほどに暗く、そして海水はとても冷たかった。
そのぬばたの闇かのような海に浮かぶ彼は爆破された飛行機に搭乗していたのだから、瀕死の重症を負っているに間違い無いはずであるのに、しかしどうやら彼は傷を負っているようではないようだった。ただ異常を感じるとすれば、まるで夜行性の獣の瞳が闇の中で輝くように彼の瞳が赤く、赤く、禍禍しいほどに輝いている事か。そして額に有る第三の眼。
それがぎろりと動いて見たのは横浜の方であった。
まるでもっとそちらの方を、そこにある何かを見逃さないようにするかのように瞳は大きく見開かれる。
秋の夜の海は冷たいはずだ。
しかしその彼の周りの海水が沸騰し出す。
その異常はどうやら海上保安長の船に先行して進む海上自衛隊の船のレーダーにも引っかかったようだ。
ライトが照らされる。
そしてそのライトに照らされた海上を見た自衛隊員は悲鳴を上げた。何故ならその海上に直立不動で立つ人間を見たのだから。
しかし彼らが見た、そう想った次の瞬間にはそこに人影は無かった。ただレーダーにだけ、確かにそれは目の錯覚ではなかったのだ、という事を証明するかのように異常にあがった海水の温度を示す表示があった。
+++
「ここはどこですか?」
アリステア・ラグモンド(アリステア・ヨハン・ラグモンド)は自分の目の前にいる女性に静かに尋ねた。
「日本よ。でも、日本であって日本ではない場所だけど。だから誰もあなたを助けには来れないわ。それとも必要無いのかしら、あなたには。あなた独りでも、きっとここを抜け出す事のできる力を持っている。だけどダメよ? あなたがここを脱走しようとすればこの子を殺すわ」
女はまだ幼い女の子をアリステアの前に引っ張り出した。彼女の首には首輪がつけられており、その首輪には鎖が繋がっている。
女の子はぼろぼろと泣きながら声を出そうとするが、しかし恐怖とショックのために彼女は声を失ってしまったようだ。
アリステアは眼をわずかに見開き、それから女の子に優しく微笑んだ。
「大丈夫です。あなたは私が必ず助けてみせますから」
+++
草間武彦は車を猛スピードで運転していた。
ほとんどノーブレーキでハンドル操作とクラッチ操作だけで左折をすると、東京湾倉庫街、A36番倉庫の前で車を止めた。
ハイライトで照らされるのは倉庫の扉にもたれて座っている尚道だ。
「よお、草間さん。早かったじゃん」
へっとニヒルな笑みを浮かべて軽口を叩く尚道に武彦は驚いたように両目を見開き、その後に苦笑した。
「馬鹿野郎が。どうやら無事だったようだな」
「無事じゃねーよ。身体のあちこちがぎしぎしと悲鳴を上げているし、髪も海水のせいでバサバサだ。服もボロボロだしな。せっかく新調したってのによ」
ぶつぶつと仏頂面で愚痴を叩く尚道に武彦はくっくっくっと笑った。さらに尚道はショックを受けたような顔をする。
「うわぁ、ひでぇー。笑うか、普通?」
「ああ、笑うな。だって本当にしんどいならおまえはしんどいとか、キツイとか、愚痴は零さないだろう?」
そう言って武彦は紙袋を尚道に投げた。尚道は頭を掻きながらそれを受け取る。中身は着替え(尚道の普段の服)と弁当、それからスポーツ飲料水に缶コーヒーだった。
「ビールはねーのかよ?」
「無いよ。怪我人に酒は毒だ」
「かー、わかってねーな、草間さん。怪我してるからこそ酒だろうに」
尚道はまずは弁当箱の蓋を開けて、それから手を合わせてから割り箸を割って、弁当を口の中にかきこみ始めた。
そして食べては口の中の物を流し込むようにペットボトルのスポーツ飲料をラッパ飲みで飲みだす。
「それで尚道、一体何があったんだ? おまえらが乗った飛行機がテロで爆破されたというが…」
からあげを口の中に放りこんで、それを噛み砕いて、飲みこむと、尚道は目を細くして頷いた。
「あいつらはテログループじゃねーよ」
「ではまさか…」
「ああ、ステアを狙ってやって来たヤツラだ。だいたいの居所ももうわかっている」
「そうか。ではそれを全て話せ、尚道。俺にも何か手伝いができるだろう」
そう言う武彦にしかし尚道は、空の弁当の箱を閉じて、ナフキンでそれを包み込むと、それを武彦に突き出して、それから着替え始めた。そして言う。
「いや、いい。俺ひとりで乗り込む。あんたは悪いが帰ってくれるか」
「だがおまえ…」
「大丈夫。俺はちゃんとステアを連れて帰ってくるからよ」
そう言って悪戯っ子のようににぃっと笑う尚道に、武彦ももうそれ以上は何も言わなかった。
尚道の食べ終わった弁当箱とボロボロの服が入った紙袋とを持って肩を竦める。
「この車を持っていけ。移動するにしても足は必要だろう」
「サンキューな、草間さん」
額にトレードマークのバンダナを巻いて、尚道はにぃっと笑った。
+++
病院のようにその部屋は天井も床も、壁も真っ白だった。
その部屋にはアリステアが鎖で縛られている椅子以外は何も無い。
ただおそらくはこの部屋は隠しカメラで監視されているはずだ。アリステアを逃がさないように。
これまで何度もアリステアはその癒しの御手という能力のせいで狙われてきた。今回もそういう事なのだろう。そういう情報は確かに聞いていた。ただここまでやるとは想ってはいなかったが。
飛行機爆破。
そして幼女の人質。
果たして彼らは自分の能力を使い、何をするつもりなのだろうか?
そして彼らに自分の能力がそこまでさせるのだとすれば、では果たして本当に自分は生きていてもいいのだろうか?
アリステアは本気でそう考えるのだ。
自分の存在が間違い無く今回多くの命を奪ったのだから。
「真柴さん。もしも今ここにあなたが居てくれたのなら、果たしてあなたは私に何と言うのでしょうか?」
そう呟いて、アリステアが自虐めいた笑みを浮かべたのは、その尚道が死ぬ原因を作ったのは自分で、
そして果たして本当に彼が口にする尚道の言葉を望むのか、それとも自分が彼に言って欲しいと望む言葉を望んでいるのか疑問に想ったから。
椅子に自分を縛る鉄の鎖の冷たさが、彼にその重き罪の痛みを訴えていた。
事の始まりはアリステアがハロウィンを前にして忙しくなる前にフランスに墓参りに帰ろう、そう想った事から始まった。
だがアリステアの能力は絶大であり、そして神の奇跡の再現として教会上層部に認められている為に彼の自由はかなり制限されており、そして祖国フランスの土を踏む事にすら教会上層部の了承を必要とした。
そして今回の帰郷の旨を上層部に問い合わせたところ、教会組織諜報部の報告によりアリステアの能力を狙っているグループが居るために彼の帰郷は条件付で認められる事になったのだ。
「それでその条件というのが護衛を付けるという事か?」
草間武彦は口にくわえた煙草に火をつけて、目を細めた。
「ええ。それで少し困ってしまって。護衛を付けるといっても、私のせいで危険な目に遭わせてしまうのは私の本位ではありませんし…」
「だが、フランスには帰りたいんだろう?」
紫煙の向こう側で困ったような顔をするアリステアに武彦は肩を竦めた。
「だったら護衛を雇うしかないさ。何、ここの関係者ならそんじょそこらの悪人どもには負けないさ。かえって悪人どもの方が憐れな目に遭うんじゃないのか?」
くっくっくっと笑う武彦にますますアリステアは眉をひそめる。
「そちらも嫌ですね。私のために悪人でも傷つくのは。私は誰も傷つかない事を願います」
カップの中の紅茶を一口、口にするが、しかし喉から胸へと流れ落ちたその温かみはいつもよりも苦かった。
物憂げにアリステアはため息を吐いた。
「そういえば」と、武彦は少し悪戯っぽい表情で笑う。「ノートルダムには行くのか?」
温かそうな湯気を立ち上らせるティーカップを手にしながらアリステアは小首を傾げる。
「ノートルダム大聖堂の事ですか?」
「ああ」
「はい。行こうと想えば、行けますが…」
そうアリステアが答えると、武彦はおどけたようにひょいっと肩を竦めた。
「なら、推薦者がひとり居るよ」
そう武彦が口にすると興信所のブザーが鳴って、パタパタとその来訪者を迎えに行くスリッパの音がし、そしてアリステアと武彦がそちらを見ると、真柴尚道が書類の束を手にして入ってきて、その彼に武彦は悪戯っぽく顎をしゃくった。
「噂をすれば何とやらだ。尚道、おまえら友達だったろ。そこで相談なんだが―――」
+++
飛行機のチケット代、ボディーガード料は全て教会上層部より草間興信所に支払われる事になっており、チケット代はとりあえず草間興信所が立て替えてくれた。
だから尚道が支払うとすればそれは旅行での雑費だけだった。それだって経費で支払う気満々なのだが。
「しかし真柴さんがノートルダムに興味をお持ちだとは知りませんでした」
たおやかに微笑むアリステアに尚道は右の人差し指で頬を掻いた。
「いや、な。ちょっと前に草間興信所の方で特集を見てさ、それでステンドグラスとかがすげー綺麗で、いっぺん生で見たいな、って想ったんだ」
「ええ。磔刑像がある場所のステンドグラスはとても美しいですよ。それに大聖堂内のステンドグラスから入る光りの美しさもまた言葉には出来ないものがあるんです。薔薇窓はご存知ですか?」
「ああ。それを見て、行きたいと想ったのさ」
映像ではなく実際にその瞳で見るそれはいかほどに美しいのだろうか? 尚道はそれに想像力のすべてをつぎ込んで想像してみたが、しかしすぐに止めた。これから実際に本物のそれを見に行くのだから。
飛行機には最後の搭乗客が入ってくる。
それはアッシュブロンドのかわいらしい幼い女の子だった。
スチュワーデスにお礼を言って女の子はアリステアと尚道の席の通路を挟んで隣の席に走ってきて、そこで転びそうになって、通路側の席に座っていたアリステアに支えられる。
「大丈夫ですか?」
ほやっと穏やかに微笑んだアリステアに女の子はにこりと微笑む。
「ありがとうございます、神父様」
「いえ。どういたしまして」
「お嬢ちゃんはひとりで旅行なのかい?」
尚道もアリステア越しにシートベルトを締める女の子に話しかける。
「うん。フランスへ里帰り。日本へはパパの仕事でやってきて、フランスにはママがいるの」
「別れて暮らしているのか?」
「うん。ママもフランスで仕事があるからね。あたしは日本に興味があったから来たの」
「そうですか。日本は楽しいですか?」
「うん。でもやっぱりフランスの方が好きかも」
飛行機は離陸し、スチュワーデスからシ−トベルトをはずしても良いというアナウンスがかかり、尚道もアリステアもシートベルトを外す。
女の子の方は上手くシートベルトを外せないでいるようで、アリステアが腰をシートから浮かせるが、しかしスチュワーデスが彼女のシートベルトを外す方が早かった。ただし………
「スチュワーデスさん? ………きゃぁー」
女の子の悲鳴があがる。
スチュワーデスの手が毒蛇のように女の子の首に巻き付いており、羽交い締めにしてしまっている。
機内は騒然とし、誰もがその突然のスチュワーデスの凶行に呆然となっていた。
ただ普段からこういう事態に慣れている尚道とアリステアのみが冷静に身構えた。二人とも身体を緊張させて、どのような状態になっても対処できるようにする。
だが二人の違いはこの次のスチュワーデスへの対応で明らかになる。
「おい、いい加減にしとけよ、おばさん。ハイジャックなんてダサいぜ?」
「今ならまだ間に合います。ハイジャックなどおやめなさい。悩みがあるのなら私が相談にのります」
尚道のおばさん発言に片眉の端を跳ね上げたスチュワーデスであったが、アリステアの言葉ににんまりと微笑む。
「さすがはアリステア・ラグモンド。お優しい神父様。ではあたしたちと一緒に来ていただけるかしら? この子と一緒に」
そしてその瞬間に飛行機が大きく揺れる。
スチュワーデスに扮していたハイジャック犯がその揺れについて説明する。映画などでよく出てくる対ハイジャック犯兵器とも言える飛行機下腹部に有るハッチに通路を繋げて、特殊隊員を進入させる飛行機がこの飛行機の下腹部のハッチに通路をドッキングさせたのだと。
「さあ、アリステア神父。ご決断を。あなたがあたしと一緒に素直に来てくだされば良し。ここであなたと、そして真柴尚道があたしたちに敵対行為をするというのならまたそれもいいでしょう。ですが、その時はこの飛行機の乗客、ならびにクルーは全員死ぬ事になりますがね」
尚道は鼻を鳴らす。
ハイジャック犯? はん。しょせんはたかが人間だろう?
尚道はバンダナに手をかける。
だがそれを見て笑うスチュワーデス。
「そうですね。真柴尚道。あなたの能力を使えば、たとえば武器を使用した犯人ならばそれを無力化できましょう。でもそれがあなたと同じ能力者ならば?」
スチュワーデスは自由な方の右手の親指の爪で他の指の腹を切り、やはり人差し指の爪で親指の腹を切る。5本の指の腹の傷から滴り落ちる血。
尚道の背にぞくりと悪寒が走った。
彼女の傷から迸った血は血刃となってまるで生きているかのように他の5人の乗客の首を、綺麗に飛ばした。
吹きあがった血は機内の天井を真っ赤に染めて、それが人々の茫洋だった恐怖を一気に加速させ、形有る恐怖とする。
絶叫がむせ返るような血の匂いと共に機内を満たした。
「Shut up!」
飛行機に乱入してきた迷彩服の男たちが叫ぶ。その手にしているのは機関銃だ。その銃口は尚道ひとりに照準された。
「アリステア・ラグモンド神父。お約束しましょう。あたしたちはあなたが大人しく来てくだされば、これ以上の犠牲者は出さないと」
おそらくはそれでもこの二人が本気で能力を全開放すれば、アリステアの力は守られるだろう。そう、尚道とアリステアは死なない。
しかし他の乗客は………
そして血の能力者に囚われている少女は間違い無く二人が能力を発動した瞬間に殺される。
故に選択肢は無く、アリステアはハイジャック犯に連れ去られ、そして尚道の乗った飛行機は、アリステアの乗る飛行機が十分に距離を取った後に爆破されたのだった。
+++
「いかがですか、姉様。神様のご様子は?」
血の能力の彼女は艶やかな黒の前髪を揺らして小首を傾げた。
「ダメね。神の御手のアリステア・ラグモンドならば充分に神様の器となる、そう想ったのだけど、反応が無い」
「ですが反応、など出るものなのかしら?」
「出るわよ。磁石のプラスとマイナスが引き合うように」
「ではアリステア神父を使っても、結果は今までと同じという事ですか?」
「いえ、理論上は彼の超浄化能力を使えば、彼の中に神様を移植することは可能なはず。これまで移植者の身体が崩壊したのは、肉体を得た神様の方こそが拒絶反応を示して、身を守るために肉体を爆破させていたのだから。だからアリステア神父に移植すれば、必ずや神様は彼の身体を自分の物と出来るはず。彼は神様が拒絶反応を示したその瞬間に神様を癒してくれるはずだから」
「ですが、彼がわざと死ぬ可能性は?」
「死んでも神様までも道連れにする事は不可能でしょう? それにあたしはアリステアに触れたのよ。その時に彼という人間の方向性は理解したわ。彼は間違い無く神様を救う。だって神様は生きて、そして苦しんでいらっしゃるんだから」
「はい」
黒髪の彼女は頷いた。
「それに彼に言う事を聞かせるための人質は居るしね」
「はい。そしてそれはこの侵入者にも有効」
「そうね」
彼女らの視線が注がれたモニターには尚道が映る。
その瞬間、しかしアッシュブロンドの下の顔に驚愕の表情が浮かんだ。
「いかがいたしました、姉様?」
「神様が…反応した。真柴尚道に」
+++
二つの瞳は現実を見る為の物。
額の第三の瞳はその二つの瞳では見る事の出来ない物を見る為の物。
第三の瞳の視力を使えば、見えない物は無い。
尚道は故に日本国内でありながら日本では無いそこにアリステアが居る事がわかった。
横浜在日米軍ベース。
尚道はそこへと車を走らせて、そして銃を構える米軍兵士の静止の声も聞かずにアクセルを踏み込んだ。
もちろん米軍兵は問答無用でトリガーを引こうとし、しかし彼らはそのトリガーが引けぬことに目を見開いた。
「悪いな。てめえらが何人いようが怖くはねーが、仮にも米軍に喧嘩を売るんだ。手加減はできねーだろう?」
凶悪な笑みを浮かべて彼は車を門に突っ込ませ、そしてそのままバンパーがぼろぼろの車を走らせる。
在日米軍のベースは治外法権区だ。故にそれを逆手にとってどれだけでも暴れられる。
「それに日本国内でめちゃくちゃやったんだ、日本の警察や自衛隊なんかにも助けを求められはできねーよな。なあ、おい」
額の瞳が動く。
アリステアの居場所はわかる。
「ステア、待ってろよ」
しかしその彼の車のヘッドライトが照らしたのは赤い軍服をまとう女だ。
黒髪の下で艶やかな美貌が酷薄に笑う。
そして血刃が車を襲う。
「ちぃ」
尚道は舌打ちして、運転席のドアを右手でふっ飛ばして外へと転がり出た。
車は運転手を無くしてもそのまま彼女へと突っ込む。
彼女は笑う。五本の指から滴る血が剣を作り出す。血の剣はすっぱりと車を切り裂いた。二つに分かれた車の残骸は彼女の後方でそれぞれ炎上する。
その二つの炎、上空のヘリ、集まってきた車のヘッドライトによって照らされる尚道と女。
尚道は転がり出た瞬間に前転の勢いを利用して立ちあがっている。そして構えた。
二つの眼は彼女を睨み据え、そして額の眼は周りのヘリや車を見、転瞬、それらは爆発、炎上する。
「容赦が無いわね、真柴尚道」
「容赦? する必要もねーだろう。最初に飛行機乗客、クルーを殺したのはおまえらだ。だがよ、だからといって俺はあいつらを殺してはいねーぜ。生きているはずだ」
「ふん。容赦が無いわりに優しいのね」
「だがあんたにはしねー」
「あら、あたしは女なのに?」
「男女平等さ」
「そう」
笑う女。放たれる血刃。
しかし尚道は右手の小指の指輪を左手で弄りながら笑うだけだ。
「そうだ。容赦なんかしてる余裕は無い。だから」
尚道は、右手の小指の指輪を外す。
「能力70パーセント開放」
瞳の赤がその煌きを増した。
襲いかかる血刃をすべて握り締めた拳で叩き落しながら、彼女に肉薄する。
彼女の方も両手に血の剣を持ち、それをむかえうつ。
両手に握られる剣は縦横無尽に振られるが、しかしそれを尚道は全て紙一重でかわし、右斜め上から袈裟斬りに振り下ろされた剣を右手の甲で受け流し、泳ぎかけた彼女の身体に動きを合わせ、流れ込むように身体を半回転させながら彼女の懐に飛びこみ、そしてそれと同時に彼女の服の胸元を掴み、投げ飛ばした。柔術の技だ。
しかし投げ捨てられた彼女の方も勢いに逆らわずに、むしろそれを利用して立ちあがり、だがその時には尚道はさらに彼女に肉薄し、立ちあがった彼女の一瞬の隙を突いて、彼女の腹部に掌底を叩きこんだ。
その衝撃によって彼女は後方へと飛ぶ。口から血塊を吐瀉しながら。
尚道はアスファルトの上に転がった血の剣を足で踏み潰し、そして道に転がった女を睨み据える。
血管が浮かび、その赤い瞳は彼の理性が渦巻く破壊の衝動。誘惑と戦っていることを感じさせた。
「ステアを使って何をするつもりだ?」
指輪を小指にはめながらそう問う尚道に、彼女はけたけたと笑う。
「あなたも入っている。真柴尚道。あなたも計画に。協力してもらう」
「計画? 冗談」
鼻で笑う尚道に彼女はにんまりと笑う。
「アリステア神父。それにまだあの女の子もいるのよ? 人質としてね」
駆けつけてきた兵士たちは尚道に対戦車砲の銃口を照準し、そして尚道は両手を上げた。
+++
横浜在日米軍ベース。
地下ラボ。
そこに尚道は真紅の十字架に磔刑されていた。
そしてアリステアもその前に立たされている。
二人の男の間で黒髪の彼女は嫣然と微笑んでいる。
彼女が首輪で繋いでいるのはアッシュブロンドの幼い女の子。
「どうするつもりだ、人を磔にしやがって。俺にはこんな趣味はいたってねーぞ」
軽口を叩く尚道にアリステアはくすりと微笑む。そんな彼に尚道は目を半目にした。
黒髪の彼女は肩を竦め、そして控えている男たちに顎をしゃくった。
巨大な冷蔵庫の扉が開かれ、そしてそこからクリスタルのような心臓が運び出される。
「生きている?」
アリステアが声を上ずらせた。
「ええ。生きています。この心臓を最初はアリステア神父に移植するつもりでした。この心臓はこれまでただの人間、能力者、そして人間外の生き物等に移植してきましたが、その全てに対して心臓が拒絶反応を示してしまったのです。しかしアリステア神父ならば、その能力を使って、心臓を救える。そうでしょう?」
彼女はアリステアを見、そしてアリステアはそれを否定しなかった。
尚道が舌打ちをする。
「その心臓が何だって言うんだ? それが」
「神様よ。これは神様なの。これが神様になって、そして全世界の人を救うのよ」
彼女は狂信者の笑みを浮かべた。
尚道はぞっとした表情を浮かべる。
彼女はアリステアを見た。
「神父であるあなたならばわかりますよね? あたしたちの気持ちが。さあ、もういいでしょう。移植させていただきます、真柴尚道。あなたに」
尚道は目を見開き、それから大声で笑う。
「俺に? はん、冗談だろう」
「簡単な事よ。神様がそれを望んだから」
「心臓が言っただと?」
「ええ」
女はこくりと頷いた。
それから尚道は何かを思案するような表情をし、そしてまた笑った。
「面白い。なら移植してみろよ、俺に」
「真柴さん」
「言うなよ」
尚道はアリステアに笑う。
アリステアはわずかに目を見開き、それからぐっと歯噛みした。
「やりませんよ。私は。能力など使わない。真柴さんを殺すような能力は」
アリステアの右手が紅蓮の炎に包まれる。
そしてその炎は黒髪の女の一瞬の隙を突いてトレーの上の心臓へと向けられていた。
「チェックメイトです。この紅蓮の炎ならばこの憐れな心臓を浄化できます」
しかしチェックメイトされたのは、
「アリステア神父。すみませんがあなたは協力せざるを得ませんよ。真柴尚道の心臓は既に摘出済みです」
その冷たい声は、アリステアの隣り、被害者であるはずの幼い女の子が発した物だった。見ればその小さな右手には尚道の心臓が握られている。
「あなたは…そういう事ですか。そして尚道さん………」
尚道ならばこの磔刑からも逃れられたはずだ。
たとえ被害者であると想っていた彼女に襲われたとしても、彼ならば十分に反応できた。なのに………
―――つまりそれは、
「あなたが望んだという事ですか、尚道さん」
そういう事だ。
そしてアリステアはいつのまにか幼い女の子から20代前半の女性へと変化しているアッシュブロンドの彼女に頷いた。
彼女はにんまりと微笑むと、まだ湯気を立ち上らせる尚道の心臓を隣りの机の上のトレーに乗せて、神様(クリスタルの心臓)を尚道に移植する。
どくん、と彼の身体が大きく動き、
「アリステア神父。心臓の拒絶反応が。早く」
アッシュブロンドの女が悲鳴を上げるように言い、だが、
次の瞬間に尚道の左胸がべこりとへこんだ。
部屋の空気が固まる。
尚道の口の片端から血が伝う。
「まさか、まさか、まさか、心臓が…そんな。どうして神様。神様。神様。神様ぁー」
彼女は悲鳴を上げる。
アリステアは机のトレーの上の尚道の心臓を掴むと、それを彼の左胸のへこんだそこに能力を最大限に開放させた手で包んだ心臓を押し当てて、それは浄化の能力によって生み出された奇跡によって、心臓が入る。
手を離す。
へこみは消えている。
そしてどくん、と心臓が脈打った。
真っ青だった尚道の顔に色がつく。
「真柴さん」
「よぉ。ステアなら何とかしてくれると想ったぜ」
にぃっと笑う尚道にアリステアは両目を見開き、それから………
「次にやったら絶交です」
尚道から顔をそらす。
「ああ、わかったよ」
尚道は笑い、そして真紅の十字架を破壊する。
彼女らは尚道を睨む。
「どうして? どうして、神様が?」
ヒステリックに叫ぶアッシュブロンドの彼女に尚道は冷静だった。
「あの心臓がそう願ったからだ。あれは宇宙から来た物だった。クリプトビオシス。自らを結晶化させて、冬眠につく能力。あの心臓は生きる為に来たんじゃない。死ぬためにここに来た。だから俺を頼ったんだ。俺ならあの心臓を破壊できるから。ただ、最後の最後まであの心臓はあんたらの事を気にかけていたよ。あんたらは…」
「言うなー。言うな、言うな、言うなー。それ以上は言うなー」
アッシュブロンドの女は悲鳴を上げるように泣き声をあげた。その彼女の左手を尚道は取り、自分の左胸に当てた。
「おまえの右手は全てを切り裂き、そして同時に全て繋ぎとめる。左手はサイコメトリー。だからわかるだろう? 俺の中に有るあの心臓の想いの残滓が」
彼女は両目を見開き、だけど尚道を突き飛ばし、両耳を両手で押さえ、身体を丸め、うずくまり、そうして次の瞬間にはあの心臓のように結晶化していた。
「クリプトビオシス」
尚道は呟く。
黒髪の女は悲鳴を上げるように血刃を放った。
それをしかしアリステアは浄化の炎で打ち落とす。
「もうやめましょう。あなた方の神様はもうこの世には居ない。開放されたのです。ですからあなたももう、次へと進みなさい。殺してしまった人のためにも」
そう説教する彼にしかし彼女は酷薄に笑う。
両手に剣を持ち、そしてアリステアに襲いかかる。
だがその彼女の前に飛びこむ影。尚道だ。
彼は握り締めた拳を彼女の薄い腹に叩きこみ、そして沈んだ上半身、彼女の顎を掌底で叩き上げた。
部屋に居た男たちはそれまでの事に呆然としていたが、しかし能力を持つ士官がやられた事で、我を失い、懐から取り出した拳銃…だが、それは尚道の能力、額の眼に見据えられた瞬間に壊れ、そうしてそこで彼らはそこに乱入してきた他の米軍兵によって拘束された。
ひとりの士官が尚道とアリステアに敬礼をする。
「ご協力ありがとうございます」
【ラスト】
草間興信所。
コーヒーを飲みながら草間武彦は今回の件の報告を受けていた。
「つまり在日米軍はトカゲの尻尾きりをした、というわけか」
「ええ。あの心臓が壊れた時点で、それに価値を見ていた彼らは、一部の者が勝手に起こした反乱としたのです。在日米軍の飛行機があの旅客機を落としたのは日本政府も知っているようですが、しかしそれもどうやらもみ消されたようですね。高度な政治判断。在日米軍への貸し、という事でしょう」
言って、アリステアは紅茶を口にし、武彦は大きくため息を吐く。彼が視線を向けたテレビでは、現大臣が起こした不祥事が報道されており、一時はテロであるとされていたにも関わらずに、実は飛行機の整備不良であった飛行機の墜落事故の事はどのテレビ局でも報道されなくなってしまった。ネットで公開された犯行声明はたまたま子どもの悪戯が偶然にも事故に重なった、ただそれだけなのだと。
もう一度武彦は大きくため息を吐き、
アリステアは紅茶を飲み干して、そのお代わりをお願いし、
そしてずっとソファーの上で寝転がっていた尚道は空へと視線を向ける。口元に微笑を浮かべながら、何かを見送るように。
【END】
++ライターより++
こんにちは、真柴・尚道様。
こんにちは、アリステア・ラグモンド様。
ご依頼ありがとうございます。
このたび担当させていただいたライターの草摩一護です。
いかがでしたでしょうか、今回の物語は?^^
プレイングにアリステアさんの能力を狙う組織とあったので、ならばと想い、このようなお話にさせていただきました。
やはり敵が大きい方が危険度も増しますし、それにこうする方がよりアリステアさんの能力の絶大さ、真柴さんの性格とかが上手く表現できるかな、と。^^
その能力故に思い悩むアリステアさん、そして米軍ベースに突っ込む真柴さんの描写はとても楽しく書けました。^^ ←自分の能力に思い悩むけど、でもそこに登場する真柴さん。その彼を救える力、その描写のためのそれらですから、やはり楽しいです。
それから真柴さんを助けた後の二人のやり取りも好きですね。^^ 親友、という感じがしますし。^^
クリプトビオシスというのは本当に有る現象で、実際に地球上に存在する生命の中にもこの形状で宇宙から飛来してきたのだ、という説の物があるそうです。
この心臓に関しては、本当に自分の破壊を願っており、その感情が今回の事件を呼び寄せた、という事になります。何者も破壊することの出来ないそれを、しかし真柴さんならば破壊できるのだから。
だから今回の事件にアリステアさんはもちろんの事、真柴さんが関わった事も必然だったのです。^^
それでは今回はこの辺で失礼させていただきますね。
ご依頼、ありがとうございました。
失礼します。
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