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<東京怪談ノベル(シングル)>


雨の日

 降り出した雨が窓の外を濡らしていく。
 僕は窓辺で頬杖をついてそれを見ている。
 部屋は薄暗く、静まり返って雨の音だけが響いている。周りに建ち並ぶ家と比べれば庭はあるものの僕の家は一回り小さい。けれど独りでいるには広すぎると感じることが多い。独りでいるなら部屋が一つあればいいような気もする。古びた洋館であるというせいもあって、この家は少し淋しい気配がまとわりついている。それだけじゃなくて独りでいることが多いせいかもしれないけれど。
 母はもうない。
 父は仕事が忙しいせいで滅多に家に帰らない。
 自ずと僕だけが独りこの家で過ごすことが多くなる。
 いつからか当然のことになってしまっていたから慣れたつもりでいるけれど、やっぱりどこかで淋しいのは本当だ。特にこんな雨の日はこの家に独りでいる自分が惨めなような気さえしてくるほどだ。窓枠に頬杖をついて、ぼんやりと外を眺める以外に何もする気が起きない。なんとなく気分が滅入って、何もしたくない。
 聞こえてくるのは雨の音だけ。通いの家政婦さんは夕飯の用意をして帰っていった。ほんの少しだけ夕飯を用意した時の匂いが残っている気もするけれど、それだって今は独りだということを強くする以外の効果はなかった。
 なんとなく、淋しい。
 いつもはそんな風に思うことはないけれど、雨が降っているせいなのかそれとも他に何か原因があるのかは判らないけれど淋しいと思う。こんな時、母がいてくれたら少しは何かが違ったのかもしれない。家に独りぼっちでなければこんな風に思うことはなかったのかもしれない。せめて父がきちんと毎日帰宅してくれる人だったら良かった。きっと今日だって帰って来ることはないはずだった。帰ってくることなんて本当に数えるほど。帰ってきたところで家族らしく生活できるのかといったらそうでもない。いつも父は忙しない。今まで一度だって落ち着いて家にいたことなんてない。
 一つ溜息をつくと不意に小さな声が聞こえたような気がした。
 降る雨の音の隙間を縫うようにして響いた小さな小さな声。それはとても弱々しくて、耳を澄ませなければ上手く聞き取れないくらい小さなものだ。
 僕は何かに縋るような気持ちで目蓋を閉じると耳を澄ました。誰かが傍にいてくれたらいいような気がした。
 ―― にゃあ……。
 それは本当に小さな小さな声だった。ささやかな雨音にさえも消されてしまいそうなほどだった。僕は思わず窓を開け放ち、どこから響いてくるのかと再度耳を澄ませる。大きく響くのは雨の音だけだ。けれどその間を縫うようにして確かに響く小さな泣き声があった。か細い声。今にも消えてしまいそうなそれをなんだか突然守りたいような気がして、僕は声を頼りに猫の姿を思った。
 近く、すぐ近くにいるのがなんとなく判る。
 僕は半ば反射的に窓際を離れて、傘を手に外へ飛び出した。
 猫がどこにいて鳴いているのかは検討がついていた。門を出てすぐ目の前、道路の真ん中に猫は何かに寄り添うようにして小さな声を響かせていた。その躰もとても小さい。きっとまだ仔猫だ。雨に濡れて濃さを増した灰色のアスファルトの上には赤が流れている。珍しいことではないけれど、なんだかひどくやるせないような気がして僕は跫音を殺して仔猫の傍に駆け寄った。
 住宅地に張り巡らされた道路は車の通りが多いわけではなかったけれど、ごくたまにこんな風に轢き殺された猫の屍骸に遭遇することがある。それはだいたい人知れず風化して忘れ去られてしまうから、こんな風に仔猫が縋って鳴いている姿を見るようなことはない。けれど今僕の目の前では、きっと母猫だったのだろう猫が轢き殺されて横たわっている。その姿は決してきれいなものではなかった。けれど仔猫にとってはそれが母親であることが判るのか、しきりに鳴き続けていた。
 なんだか自分の姿を見ているような気がした。
 けれど僕はこれまで一度だって母に会いたくて泣いたことはない。いなくなってしまったのだから仕様がないと諦めていたのかもしれない。
 僕が近づいても逃げようとせずに鳴き続ける仔猫を前に、僕は動けなくなった。いつもならそんな風に思うことはないのに、無性に母に会いたい。今ここに迎えに来てくれないかと思ってしまう。
 目の前の仔猫のように鳴けば母は迎えに来てくれるだろうか。
 ふとそんな風に思ってみたりもしたけれど仔猫の母親も死んでいる。すっかり息を止めて、どんなに手を尽くしても助かることはないだろう。
「……もう帰ってこないよ」
 すぐ傍にしゃがみこんで傘を差し出すようにしてそう云っても仔猫は判らないのだろう、しきりに鳴き続けるだけだ。
 まるで帰って来て、帰って来てと鳴いているみたいで僕は途方に暮れる。
 だってどんなに帰って来てと鳴き続けても帰ってこないんだから。
 僕の母もそうなんだから。
 そんな風に思いながら傘を差し出す。
 ふわふわだったのだろう白の毛並みはすっかりそぼ濡れて、小さな躰は震えているみたいだった。 
 今更僕が傘を差し出したところで何も変わらないだろうけど、なんだか放って置けなくて僕は自分が濡れるのも構わずに傘を差し出し続けた。
 夏が終わったせいだからか雨はとても冷たかった。
 目の前は赤かった。
 仔猫の白い毛が少しだけ赤に、染まっていた。
 僕も仔猫も独りぼっちだと思った。
 不意に膝にぽつりと落ちた温かい滴に僕ははたと我に返って、目元を拭う。泣いたところでどうしようもないことは誰よりも自分自身がよく判っていた。泣いてここで誰かを待っていても、迎えに来てくれるような人はいない。
 ――にゃあ。
 細い声がした。
 仔猫が僕を見ていた。
 真っ直ぐに僕を映す丸い澄んだ目がなんだかひどく温かいような、やさしいような気がして僕は笑った。仔猫に手を差し伸べると小さな温かい舌が怯えることなく僕の指先を舐めて、なんだかひどく癒されたような気がしたことが不思議でならなかった。
 仔猫も僕と自分が同じだということに気付いたのかもしれない。
 思って僕は小さすぎる頭をそっと撫ぜてやった。
 仔猫が目を細めて、とてもやさしく鳴いた気がした。