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<東京怪談ノベル(シングル)>


男の子の事情







 何か夢を見ていた。
 いい夢、というより楽しい夢だったような気がする。
 妙にはしゃいで、爽やかに笑っていたような。
 ともかく、満喫したという感じがした。








 目覚ましのベルが鳴る、少し前に目が覚めた。もう起きなければ、というような義務的なものではなく、もう起きよう、という爽やかな目覚め。
 体を起こした勢いでベッドを抜け出し、厚いカーテンを勢いよく開く。窓を開けるとひやりとした空気が頬を撫でたが、それすらも爽やかさに一役買った。
 本日晴天。
 日の出が遅くなりだしたこの時期。ほんのりと赤く染まったビル群は、朝日を浴びて遠目には石碑のようにすら見える。
 そこで、大きく伸びをして。まだなっていない目覚ましを止めて、洗面所に向かう。ばしゃばしゃと顔を洗って、ほぼ習慣だけで洗顔後のお肌の手入れ。
「あれ?」
 何故だか、それに違和感があった。しかし、そのセットはいつもと寸分変わりなく、鏡をまじまじと覗き込んでみても、これと言って肌荒れやにきびも見当たらない。
「あれ?」
 今度は別の意味で首を傾げながら、洗面所を後にした。
 鏡の前に立ってパジャマのボタンに手をかけ―――
「な、何やってるんでしょう……っ!」
 何故か鏡の中で赤面する自分。挙句に、その台詞は下着が覗いた瞬間に、妙に破廉恥な事をしているような気がしたための言葉。
「あ、あれ?」
 そして、鏡をさっきとは違って直視できない。
 鏡の中に、青い髪を背中まで伸ばし、同じ青い瞳を恥らったように伏せて、白い肌をほんのりと赤く染めている少女がいる。そのパジャマは、下着の胸元が見えるくらいまではだけられており―――
「な、なんで、ですか?」
 かかか、と音がしそうなほどに顔が赤くなったのが解った。慌てて鏡から目を逸らし、パジャマから手を離す。逃げるように窓際に下がった。心臓が、全力疾走の後のような速さで脈打ち、頭が混乱する。
 何がなんだか解らずに、おろおろと辺りを見回した。そこはいつもの部屋だ。ベッドと机と、クローゼット。室内にかかった制服を見て、着替えなければ、と思う。のだが、これ以上パジャマが脱げない。
 暫くそこで悶々とした後、彼女は一つの結論を見た。
「鏡を見なければ……」
 ともかく、着替えなければ始まらない。
 ドキドキと緊張したまま、ゆっくりとパジャマのボタンを引き続き外していく。ベビーピンクのインナーが覗き、その下の同じ色のレースをふんだんに使った下着が透けて見えて。
 胸の鼓動が更に駆け上がる。
 右を見て、左を見て、誰もいない事を確認してから、そっと手を伸ばしてみた。
 左胸が、心臓の動機に合わせて微かに上下している。恐る恐る力を入れてみて、その柔らかさに、どきん! と今朝一番の緊張。
 と、そこで我に返った。
「ど、どうなってるんですか?」
 脚に力が入らずに、その場にずるずると崩れ落ちる。ようやく二つボタンを外しただけで、訳の解らない方向に脱線していた。
 何かおかしい。
 何か変だ。
 そう気がついた彼女の視界の中に、深紅が一つ、二つ、と落ちて行く。パジャマに落ちてはじけて、真っ赤なしみを作った。それは、じりじりと赤黒くなっていく。
「血?」
 どこも怪我などしていないはず、と慌てて顔に手をやり、鼻の下に、独特のどろりとした感触。
 ―――鼻血。
「だから、どうしてですかっ!!」
 思わず叫びながら、ティッシュに手を伸ばしたのだった。









「おはよう、みなも」
「珍しいね、海原さん」
 口々にそう声をかけてもらいながら、彼女、海原みなもは少し覇気のない笑顔でそれに答えながら、自分の席に着いた。ショートホームルームが始まる少し前の、担任の先生が来るまでのざわついた時間。
 彼女は、ぎりぎりで遅刻してしまった。真面目なみなもに珍しい失態である。
 それもこれも、朝から着替えに四苦八苦し、目を閉じて着替えるという荒療治に出て、血のついたパジャマがしみになるから、と部分洗いまでしてきた所為である。
 自分に一体何の落ち度があったのか、と嘆きたい気分でいつもの通学路をひた走ったが、ぎりぎりで、間に合わなかった。そこにいた教師が、少しばかり苦く笑って「規則だからな」と、生徒手帳に遅刻証明をはさんでくれた。どうせ遅れるなら歩いてこればよかった、とは思わないのが彼女の美点。
 しかし、今朝はいつもよりもずっと早く、ずっと爽やかに目覚めたはずだったのだ。朝食を心持ゆっくり食べて、人気の少ない通学路を、始まりかけた紅葉を眺めながら歩けるはずだったのだ。それを考えると、溜息も出ようというものだ。
「おーい、海原、見たぞ!」
 と、完全に遅刻の時間にやってきたクラスの男子が、からかい混じりで声を上げた。え? と振り返ると、彼は楽しげに破顔して。
「お前、パンくわえて走ってただろ?」
「ちょっとー、みなもがそんな事するわけないでしょ」
 仲のいいクラスメイトがそう講義する。しかし、みなもはまったく別の事に気を取られていた。
「え? 普通はしません、よね?」
 静まり返る教室。
 そう。今朝は本当に時間がなかった。だから、トースターの中にあったパンにバターを適当に塗りつけて、牛乳をパックで一気飲みにし、そのパンをくわえて走った。
 今考えれば、それは女子のする行動ではない。だが、する時は何の疑問もなかった。おろおろとするみなもを見て、先ほどの男子生徒が何か言おうとする。それを、別の女子が殴りつけて黙らせて。
「そ、そんな日もあるって。ね?」
 周りに同意を求め、あぁ、とか、そうだよな、とか、朝は忙しいしな、と口々にフォローの言葉を掛けてくれた。それに乾いた笑顔を浮かべ、担任の教師が入ってくるのに合わせて席に着く。
 今朝は何かおかしかったのだ、と彼女は自分に言い聞かせる。
 しかし。
 おかしいのは何も今朝だけではなかった。
「みなも! そっちは男子トイレ!」
「え?」
 休み時間、ポーチ片手で入ろうとしたのは、青いタイルのトイレ。この学校は男子トイレが青いタイルで、女子トイレがピンクのタイル。上を見て、男性用をあらわすマークがついている事を確認。
 確かに男子トイレ。
 では、自分は?
「えぇぇぇぇぇぇっ!!?」
 思わず素っ頓狂な悲鳴を上げて、壁にぶつかる勢いで後退る。それで余計回りの注目を浴びてしまった。
 その次の時間。
「おい、海原! 待て、着替えるなって! 女子は更衣室だろ!?」
「え?」
 ふと気がついて周りを見渡すと、同じクラスの少年ばかりで、体育のために男女は分かれて着替えを行っているのだと認識する。狭い日本の狭い東京。そこにある学校は必然的にそれほど広くない。だから、更衣室は女子の分しかなく、男子は教室で着替えることとなっている。
 みなもは改めて回りを見渡し、あれ? と首を傾げた。
 ここは教室。回りは男子ばかり。そして、自分は鞄を広げて中から体操服を出そうとしている。
 ここは、教室。
「きゃぁぁぁぁぁぁあっ!!」
 悲鳴を上げてしまって、一番近くにいた男子が耳を塞ぐ。完全にパニックを起してしまったみなもを、中々来ないと探しに着てくれたクラスメイトが引きずって更衣室に連行してくれた。
 その後の体育も散々だった。何故だか、制服よりも体にフィットした服を着ている友達に囲まれているのが、恥ずかしい。話し掛けられても顔もまともに見られない。お陰でバレーボールを顔面で受けてしまい、今朝、何とか止まった鼻血の恐怖が再び。
「みなも!?」
「海原さん!?」
「先生呼んできて―――っ!」
 










「みなも、言わせて貰うけど、あんた変よ」
 保健室から帰ってきた頃には既に昼休み。特別に仲のいい友達同士で机を引っ付けて、そこでお弁当を広げる。
 その場で、フォークをびし、と突きつけて断言された言葉に、みなもは何もいえなかった。自分でも大分変だと思ったのだから。
「男子トイレに入ろうとするわ」
 その後、女子トイレに入ろうとして赤面して。
「男子の中で着替えようとするわ」
 その後、女子更衣室で卒倒しそうになって。
「挙句、顔面にボール。運動神経いいでしょ? あんた」
 結局チームが負けてしまったじゃない、と唇を尖らす彼女に、あなたの太ももから目が離せませんでした、などと白状できるわけもなく。
「ごめんなさい」
 しょんぼりと告げる。お弁当に入ったブロッコリーを箸先でつついた。
「あ、違うのよ? 責めてるんじゃなくて」
「そうそう。何かあったのかと思って。あんた色んなバイトしてるし」
「力になれないかもしれないけど、相談くらいには乗るからね? 言うだけで楽になるもんだしさ。誰にも言ってほしくないなら、ちゃんと黙ってるし」
 顔も上げないみなもに、クラスメイトたちは口々に優しい言葉を掛けてくれる。じーん、と温かいものが胸にこみ上げ、目頭まで熱くなった。
 ありがとう、と顔を上げようとして、少女たちが体を乗り出してきていることに気がつく。机に肘を突いて、ずずい、とばかりに。
 その格好だと、胸元からちらりと下着が覗くのをご存知だろうか。
「あ、ありがとうございます、でも、これといって別に何もないんですけど………なんか、調子おかしいみたい……です」
 慌てて視線を逸らし、真っ赤になったのを自覚する。本当におかしい。
「照れちゃってー。可愛い子!」
「ほーんと。今時こんな言葉でここまで真っ赤になったりしないわよねー」
「でも、嘘じゃないからね? 何かったら言ってよ?」
「は、はい」
 だから、早くもとの体制に戻ってください……っ!
 あえて否定の言葉も口にせず、みなもは心中穏やかではない。それを同誤解してくれたのか、クラスメイトたちは別の話題にうつっていく。
 最近のファッション。ケーキの美味しいお店。クラスの好きな男の子……
 いつもの会話。いつもの光景。
 なのに、何故か居心地が悪い。
 ちらりと男子のほうを見ると、彼らは週刊誌を広げたり宿題の話をしたり、話しこんでいるというよりは、たむろしているという感じ。時々何か話しては、どっと沸いたりする程度。少女たちの芸能ニュースを聞き流しながら、向こうの方が居心地がよさそうだと思ってしまった自分に愕然とする。
 そう。
 それで、朝からずっとあった疑問が解る。
 自分が『女の子』であることに、違和感がある。
「なんですか、それ」
 思わず口に出たその声に、一緒に机を囲んでいたクラスメイトたちが、一様に「え?」と顔を向けた。
「あ、いえ、何でもないです」
 あはは、と笑って手を振るも、彼女たちは納得してくれない。
「やっぱり変よ。熱でもあるんじゃない?」
 すい、と何気なく伸ばされた掌が、ひやりと額に乗せられる。その柔らかな感触に、ドキドキしてしまった。
「少し熱いわよ? 早退したほうが良くない?」
「大丈夫です。あと二時間ですし」
 そこまで大事にされてしまうと困ってしまう。慌てて手と顔を振って、追求から逃れた。心配してくれるのは嬉しいが、今は自分でもよく解らない。ふわりとした甘い匂い。シャンプーだろうか、それが気になって仕方がないのだ。
 変だといわれても、一切否定の仕様がない。











 残りの午後からの授業が終わった頃には、朝にあったような混乱はなくなっていた。トイレもちゃんと女子トイレに入れたし、少し恥ずかしかったが、露骨に慌てることもなかった。スカートが風で揺れるたびにドキドキすることもなくなった。
 他愛のない話しに笑えるようにもなった。
 男子たちに冷やかされて、苦笑いで応じ、早く帰って安静にするように、と女子たちには言明されて。
 早々と日が傾きだした下校時刻。空を見上げると、少し斜めに傾いだ陽光がまぶしい。今ではすっかり朝の違和感はなくなった。
 何故あれほど、と思ってしまうほど。
 あれぇ? と首を傾げても、今更理由など解ろう筈もない。
 帰って洗濯をしなければならないし、数学と国語の宿題がある。明日の家庭科が実習で、裁縫箱を出さなければならない。英語の予習として単語と熟語の意味調べもしておかなくては。
 毎日の学校生活は、結構忙しい。
 こんな些細な事は、直ぐに忘れてしまうだろうと思った。

 寧ろ早く忘れたかった。

 海原みなも、十三歳。
 郷愁と今日かいた恥を背負ってとぼとぼと歩く。
「恥はかき捨て、ですね」
 何とか自分を鼓舞しようとする口調が痛々しい。旅の、と突っ込む相手はいなかった。









END