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<東京怪談ノベル(シングル)>


いとしき日々

 赤い血に彩られた足の痛みに耐えながら、桐姫は、必死に手を伸ばしていた。
 いつも通っている獣道に、罠が仕掛けられていたのだ。気づけなかった自分と、逃げられない現状に腹を立てるも、それで状況が変わるわけではない。
 いくつかの術を使えるものの、この罠を除けられるほど強力な念動力はまだ使えないし、この罠だけを壊すなんて芸当もできない。
 だから桐姫は、自力でこの罠をはずすしかないのだ。
 けれどまだまだ幼い桐姫ではそれほどの腕力もなく、体力ばかりが削られていく。
 人の姿になれば、獣のそれよりずっと器用な指先でどうにかできるかもしれない。だがそれを思いついたのは、人の姿に変化する体力もなくなってからだったのだ。
 ……どうしようもない。
 でも、諦めたくはない。
 なおも罠を外そうともがいていたその時、ふいに、声がかかった。
「どうしたんだ、おまえ?」
 顔を上げるとすぐ傍に、少年が立っていた。
 見たことはあった。けれどこうして直に関わるのは初めてだった。
 にこりと笑った少年は、しゃがみこんで不思議そうな顔をした。
「面白いなあ。尾が二本もある。……狐、だよな?」
 だが少年はその意味を深く考えることはなかったようで、ただ、珍しい狐に興味を惹かれた顔で。桐姫の足を傷つけていた罠を外してくれた。
 傷口をきれいな布で拭いて、包帯を巻いてくれ。そうして桐姫を山の中にあった安全そうな洞穴まで運んでくれて。少年は、優しい手で桐姫の毛並みを撫ぜてくれる。
「その足じゃろくに動けないだろ。明日もまた、見に来るよ。ご飯持ってさ。だから、大人しくしてろよ」
 そうして少年は、山に通うようになった。
 桐姫の看病をしながら少年は、いろいろなことを話してくれる。
 自分がここより歩いて一時間ほどの、山間の小さな村に住んでいること。
 少年が庄屋の一人息子で、山を歩き回るのをよく思われていないこと――ゆえに、家族に隠れてここに通っていることも教えてくれた。
 何日も何日も、静かに過ごして、出会いから一月近くも経ったころ。
 桐姫の傷はとうとう完治し、その日桐姫は人の姿で少年を迎えた。
「おおきに。本当、たすかったわ。うちは、桐姫、言うんよ」
 にこりと無邪気に笑った桐姫に、少年はただただ驚きの表情を返すだけだった。
 ぽかんと間抜けな顔で沈黙する少年に痺れを切らして、桐姫は自身を指差し宣言する。
「だから、その狐がうちなんよ!」
 言うとともに、狐の姿になってみせる。
 少年はぽかんと、言葉もなく桐姫を見つめていた。
「うち、あんたと友達になりたい!」
 人の姿に戻って告げた言葉を、少年はしばしの間を置いてからうなずいた。
 驚きはもうなく、純粋な嬉しさが前面に現れた笑顔で。


 その日から、桐姫の生活は変わった。
 ひとりきり。
 山の中を好き勝手に走り回り、気ままに生きる毎日から。
 待つ日々へと。
 毎日のように遊びに来る、少年と会うのを楽しみに待つ毎日へ。


◆ ◆ ◆


 出会いから数年が経ち、桐姫は美しく輝く綺麗な長い髪を持つ女性へと成長していた。
 あの日の少年は立派な青年へと成長していたが、二人の毎日は、今も変わらなかった。毎日のように顔をあわせ、ともに過ごし、他愛もない会話をして別れる。
 けれど変わったこともあった。子供たちの楽しい日々は、いつしか、恋人たちの時間へと。
 幸せな、暖かな時が過ぎていく――そんな、ある日。
 いつものように山にやってきた青年は、少々緊張しているようだった。
「どうしたん?」
 傾けた小首とともに、長い髪がさらりと揺れる。
 こんな山奥の村にはめったにない、きれいな顔立ちと、上品さの漂う振る舞い。
 たいていの人はその美しさに気後れさえするだろう。けれど桐姫自身は、それを自覚していなかった。
 桐姫が知る、自分と会話できる相手は、彼一人。
 生きるために狡賢くなる必要もなく、在るのは変わりゆく穏やかな季節と、たった一人の大切な人。
 だからこそ桐姫は、純粋で、無知だった。
 お嫁さんになって欲しいと言われたときも、ただ、ともにいられる喜びで頷いた。
 幼い感情は素直で、好きとよく似ているけれど、好きよりは愛に近い。透明で綺麗な想い。


 ――その日。
 毎日のように山に出て行く青年を不振に思って、ここまでつけてきていた者がいたことに、二人は気づかなかった。
 気づいていれば、何か、変わったかもしれない。
 けれど不運なことに――二人は自分たちの幸せに手一杯で、周囲への警戒なんて、気が回らなかった。
 いやそもそも、この逢瀬が人に歓迎されない、その本当の意味を……二人ともにまったくわかっていなかったのだ。


◆ ◆ ◆


 告白の日から、青年の姿がなくなった。
「なにしてるんやろ……」
 住処の洞穴の中で、桐姫は現れない青年を思って呟いた。
 あの日からもう何日も経っているのに。あの日を境に、まったく姿を見せなくなったのだ。
 さっきまで雨が降っていた空は、まだ重くたちこめた灰色の雲に覆われていた。
 暗い空が桐姫の心をますます不安に追い込んでいく。
 名を、呼ぶ。
 聞こえないとはわかっているけれど、呼ぶことで不安が少し晴れていく。
 ざわりと身震いがして、桐姫はハッと外に目を向けた。
「なんや……?」
 夜が近づく藍色の空の下、村の方から近づく、気配。
 たくさんの明かりが動くその光景。
 不安。
「大丈夫」
 自分でも信じることのできない言葉を紡いで。
 桐姫は、青年に会いに行こうと立ち上がった。