|
終焉
山間の小さな村からそう遠くない山の中。その洞穴に、妖狐・桐姫はその居を構えていた。
桐姫は人間のことなどほとんど知らなかったけれど、唯一ひとりだけ。友達であり、今は恋人でもある人間がいた。
ほんの数日前までは、幸せに満ち満ちた毎日だったのに。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
目の前。洞穴のすぐ前に集う、たくさんの松明の灯りと、集う人々の怖い顔。
「なに……?」
この数日、なぜか恋人がきてくれなくて。桐姫はたいそう不安になっていたのだ。
それに追い討ちをかけるようにやってきた、たくさんの人々。
恋人に少しだけ顔立ちの似た男が、一歩。前に出て桐姫を見つめる。
恐怖と憎しみのこもった瞳に、桐姫は思わず数歩あとずさった。
桐姫が知る瞳は、恋人の持つやさしい瞳。野生の獣たちが持つ鋭くも潔い瞳。
ある種、純粋なものばかりで、こんな……こんな感情は桐姫は、知らない。
だから――怖かった。
知らないそれが、どうみても桐姫をよく思っていないそれが。
切り裂くような鋭さで、突きつけられるのが怖かった。
「貴様のせいで、息子が死んだのだ!!」
突然の怒号。
その、意味が。
桐姫はわからなかった。
「……死んだ……?」
それは、なんだ?
死。
それは、遠いものではなかった。
野生の獣が狩りをし、草食動物を殺して食う。
そんな光景を見たことがある。
だけどそれが、自身と重ならない。
「あれは、この雨の中を貴様に会いに出かけた先で、土砂崩れに遭って死んだのだ!!」
目の前の現実が遠い。遠いどこかで、誰かが叫ぶ。
そもそもの原因を作ったのは、桐姫ではない。
妖怪を厭い、妖怪に会わぬよう青年を閉じ込めた村人たちにも非はあった。
けれど彼らはそれを認めなかったし、桐姫にも言わなかった。
ただ、桐姫が悪いのだと……それだけを言い、責める。
「貴様のせいで死んだのだ。この化け物め!!」
叫ぶ声と同時、人影がひとつ、桐姫の前に立つ。いつ目の前にまで迫ってきていたのか、桐姫はまったく気づけなかった。
恋人の死に呆然となっていた桐姫は、その動きを見ることも、避けることもできなかった。
強かに殴られ、ぬかるんだ土の上に倒れこむ。
最初のひとりの一撃を皮切りに、人々が動き出した。
顔を殴られ、髪を引っ張られ、手足を踏みつけられて。
痛みに耐えながらも桐姫は、今自身を痛めつけている人々のことなど頭になかった。
あるのは、桐姫の恋人が――彼が、死んだという言葉。
獣は、わかる。
だって彼らは弱肉強食の世界に生きている。殺され、食われ、それが日常の世界を生きている。
だが、人間は、違うのではなかったのか?
お金というもので物を買い、話し合いで事を解決する。
強い、生き物。
その認識は、ある意味では、正しかった。
……だが、桐姫の中には、根本的なものがひとつ、抜けていた。
人間と妖怪の差異。
人間と獣の差異は知っていても、人間と妖怪の差異を知らなかった。
だって彼は、桐姫を同じように扱った。
少なくとも二人の間では、人間とか、妖怪とか。そんなものは関係なかったのだ。
だから桐姫は、知らなかった。
人間の体は、妖怪に比べればずっとずっと脆くて、弱くて。
桐姫よりもずっと短命の、儚いものだと。
それを、理解していなかったのだ。
死は、それは、知っている。
二度と動かない。話せない、その笑顔を見れないということ。
思えば思うほど、浮かぶのはともに過ごした日々。
まぶしい笑顔。やさしい言葉。
「なぶり殺してやる!!」
どこか遠くで声が聞こえて、ひどく近くで、音が聞こえた。
散る、細い金色。
髪だ。
桐姫の、髪。
明るい金色が、幸せだったあの日を鮮明に思い出させた。
そして最後にあった日――青年の、言葉を。
ずっと一緒に、と。
告げたあの人は、もういない。
崩れる。
日常が。
桐姫の幸せな毎日が。
すべて崩れて砕けていく。
「いやぁーーーーっ!!」
行かないで!
崩れ行く日常に追いすがり、あらん限りの声で叫んだ。
同時に、何かが体の中から溢れ出す。
自身の意思では留めておけない、何かが。
人々を覆い、山を駆け、植物たちを包み込み、獣を追う。
……それからどれくらいの時間が、経っただろう。
桐姫はふらつく足取りで立ち上がり、歩き出す。
再び降り出した雨が桐姫の体を冷やしていくけれど、そんなもの、気にならなかった。
土砂崩れが起きたというその場所で。
桐姫は、見つけてしまう。
動かぬ身体を。
ほんの数日前まで、暖かい笑顔を見せてくれた人の、冷たい死に顔を。
降りしきる雨の中。
いつまでも、いつまでも。
動かない身体を抱きしめていた。
|
|
|