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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


『茜色の傷痕が消えるとき』

 心に負った傷はいつ完全に癒えるのだろう。
 この問題は偕巽にとって避けることのできない問題だった。父が家族を殺害した事件はいまだに癒えることのない心の傷となって巽を蝕み続けている。精神科医となっても、自分の心を分析してトラウマを克服することができない。
 その日も、巽はぼんやりと心理学の専門書を読んでいた。
 午前の診療が終わり、巽が助手を務める門屋将太郎の帰りを待っていた。午前の診療が終わると、将太郎はぶらりと外に出かけてなかなか戻ってこないことがある。
「……ふう」
 午前の診療も子供を虐待する母親の相談や、酒におぼれて暴れる夫の相談など陰鬱な相談ばかり押し寄せられた。そんな感情を受ける精神科医の負担は並大抵のものではない。
 もしかすると将太郎が出かけるのは、気分転換なのかもしれない。
 感情のない巽には、患者たちの心の痛みを真正面から受けとめることができない。いや、受けとめられないからこそ、こんな仕事を淡々とこなすことができるのかもしれない。
 ソファに寄りかかりながら、うららかな陽を浴びていると、ふと睡魔に襲われる。
 午後の診療までに準備する仕事があるが、将太郎もよく昼寝をしている。
「たまにはこんな午後もいいだろう」
 あたたかな陽射しに身を任せて眠りへと落ちていった。

 気づけば、巽は茜色に染まる街に立っていた。
「ん? 俺は確か事務所で昼寝してたはずじゃ……」
 まわりの景色を見ている間にだんだんと気が付いた。
「そうか。これは夢か」
 夢の中で自分が夢の中にいると気が付くのは、おもしろい体験だ。
 街並みには、人ひとりいない。静寂と沈黙が街を支配している。夕陽もまた、いつまでも沈むことなく、茜色に街並みを染めあげている。
 ぼんやりと街並みを見回していると、ふと妙に懐かしい感覚が体を駆けめぐった。
「ここは俺の住んでいた街、なのか」
 そう気づいた途端に、巽の足はせき立てられるようにある場所へと主を誘った。
 やがて巽は古びた小さなアパートにたどり着いた。
 このアパートにはつらい記憶しか残されていない。
 狂った父に何度も殴られた記憶。ただ体を丸くして暴力に耐えていた記憶。
 巽の耳はふと奥からか細い泣き声を聞き取った。誰もいないこの街で泣き声がするなんて。巽は不思議に思いながらアパートの奥へと向かうと、かつての自分が住んでいた部屋の前で少年がひとり膝を抱えて泣いていた。
「どうしたんだい?」
 巽が触れようとすると、少年はびくりと体を震わせて顔をあげた。何もするつもりはなかったのだが、少年は奥歯をかちかちと鳴らし、後退るように体を壁に押しつける。
 よく見れば、少年は口許を血で汚していた。それだけではない。頬は拳大にまで腫れ上がり、腕や太股には無数の青痣まである。
「君、その怪我……」
 巽が怪我に触れようとすると、慌てて少年は口許の血を手で拭き取った。
「これはなんでもないの」
 必死に怪我を隠そうとする。
 なるほど、と巽は思った。たぶんこの少年は午前の診療の影響で見ているのだろう。この少年の怪我はおそらく親から虐待だろう。近所の住民が騒ぎ立てれば親からの暴力はひどくなる。それが怖くて少年は怪我を隠そうとしてる。
『汚ねぇもん出すんじゃねぇよ!』
 口の中を切って血を吐いたときの父の声がよみがえってくる。
 父に嫌というほど殴られた。泣き叫べば、ますます暴力はひどくなり、泣かなくても、父が不機嫌なときは彼が疲れるまで殴られ続けた。
 すでに少年の様子からPTSDを引き起こしかけている。このまま放っておけば、少年は体の傷が治っても、心の傷から来る体の震えや恐怖に何年も悩まされることだろう。
 小さな子供は親から逃げることなどできない。誰かが救わないかぎり、苦しみ続ける。
 自分と同じ痛みを持つ少年。親から殴れ続けた少年。胸が苦しくなる。
 目の前の少年は、夢の中の住人だとわかっている。目が覚めれば消える幻だとわかっている。けれど、この少年を放っておくことなどできなかった。
「こっちにおいで」
 ふと口から意外な言葉が出た。自分でも驚くくらいやさしい声だった。
 少年も目を見開いてこちらを見た。何か信じられないものでも見た顔だった。たぶん彼はこんなふうに誰かに言われたことがなかったんだろう。
「お兄ちゃん、何もしない? ぶったりしない?」
「ああ、もちろん。ぶったりなんかしない」
 巽は精いっぱいの笑顔を引き出して少年に向ける。普段は笑顔を他人に見せることなどないが、相手を安心させるための一番の方法は笑顔だ。
 我ながらぎこちない笑顔だと思ったが、少年はおずおずと側に近づいてきた。
 巽は少年の側に寄りそうように、少年と一緒にアパートの端に座った。
「この傷は誰にされたの?」
 少年はうつむいたまま答えない。その気持ちは巽にもわかる。誰かに告げ口したことが知られれば、また親に暴力を振るわれるのが怖いのだろう。
 巽はそっと少年の頭を抱き寄せた。少年の体が一瞬びくりと強ばる。
「誰も君の心の叫びを聞いてくれなかったんだね。でも、もう大丈夫。俺が側にいる間は誰にも君を傷つけさせない」
 巽がきっぱりと告げると、少年の目にじわりと涙があふれてきた。
「……ううっ」
 少年は唇を噛んで必死に泣き声を堪えていた。
「無理しなくていい。悲しいときは泣いてかまわないんだ」
 巽がやわらかく告げると、ふいに少年が巽の体に飛びついてきた。
 それからはもう少年は声を上げて泣き続けた。体にたまり続けていた悲しみや苦しみを吐き出すかのように大声をあげて泣いた。
 巽は彼が泣きやむまで、そっと彼の体を抱きしめていた。
 自分の感情を内に閉じ込め続けていれば、いつか心は凍りついてしまう。誰かの痛みや苦しみを分かち合うことができなくなる。だから、感情は吐き出して、誰かに伝えなくてはならない。
 ようやく泣き終わると、少年は巽から離れ、アパートの階段の上に駆け上がった。
 夕陽を浴びた少年の体に不思議な現象が現れた。
「……傷が消えていく」
 少年の体から傷痕が消えていくのだ。腫れた頬も体中の青痣も跡形もなく消えていく。巽は自分が夢の中にいることも忘れて、不思議な現象にただ目を奪われていた。
 元のきれいな姿へと戻った少年は、巽に向かって頭をさげた。
「ごめんなさい、お兄ちゃん。服を汚しちゃって」
「いや、かまわないよ」
 少年が照れくさそうに笑うから、巽も微笑んだ。
その瞬間、夕陽が真っ白に輝いた。
 目がくらむようなまぶしさに巽は目を覆う。まぶしくて少年の顔がよく見えない。
「ねえ、お兄ちゃんの名前はなんて言うの?」
「俺は巽。偕巽。君の名前も教えてくれないかな」
「ぼくもお兄ちゃんと同じだよ。ぼくも楷巽だよ」
 えっ、と巽は目を見開いた。その間にもまわりの風景は白く染まっていき、少年の姿も太陽の中へと霞んでいく。少年がなにか言っているが、よく聞こえない。
「何? なんて言ってるんだ?」
 なんとか目をこらして少年の口許を見つめていると、ようやくその意味がわかった。
 ありがとう、巽お兄ちゃん。
 少年の姿が消えると共に、巽の意識もまた白く塗りつぶれされていった。

 目を開いたとき、ひと筋の涙がこぼれ落ちた。けれど、心を縛り付けていた枷が外れたような楽な気分になっていた。
「……そうか。あの子は幼い頃の俺か」
 最後の少年の笑顔は、とても自分とは思えないほど、倖せな感情にあふれていた。
 誰かに救われることができたならば、自分もあんな無邪気な笑顔を誰かに見せることができたんだろうか。誰かが心の叫びを聞いてくれて、手を差しのばしてくれたならば、今とは別の自分になれただろうか。
「よう。帰ったぜ」
 そのとき、将太郎が診療所に戻ってきた。
「さて、午後の診療もちゃっちゃと終わらせようぜ」
「先生。その発言は不謹慎ですよ。仮にも先生は医者なんですから」
 巽は思わず笑った。おっ、と将太郎が声をあげる。
「おまえが笑った顔なんてめずらしいな。何かいいことでもあったか」
「いえ。何も」
 首をかしげる将太郎を横目に、巽は午後の患者のカルテを取り出す。
「先生。ひとつ質問してもいいですか」
「なんだ?」
「人間の心の傷が完全に癒えるのは、いったいいつなんでしょうか」
 巽の質問に、将太郎は事務作業を続けながら、
「さあな。俺にもわからん。精神科医だカウンセラーだと言っても、患者の心の傷を完全に治すことはできん。心の傷は患者自身が乗り越えなければならんからだ」
「だったら、俺たち精神科医は何をすればいいんですか」
「患者の心の叫びを引き出すことだよ。話を聞いて痛みをやわらげ、彼ら自身が自らの力で心の傷を克服できるように導いてやることだ」
「先生らしい答えですね」
 患者の心の傷を完全には治すことはできないかもしれない。けれど、話を聞いてあげれば、彼ら自身の心の痛みをやわらげることはできる。ひとりで泣いているよりも心は遙かに救われる。
「まあ、俺の講釈をゆっくり聞きたいなら、仕事が終わったら飲みに行こうぜ」
「お断りしますよ。先生は途中から説教に変わりますから」
 巽は苦笑して診療所の入口へと向かった。
 そこには患者がもう待っていた。あたりをおどおどと見回している。
「どうかなさいましたか?」
 やわらかく声をかけると、患者の顔がわずかに和らいだ。
「さあ、どうぞ。中でゆっくり話を聞かせてください」
 巽が招き入れると、患者は慌てたように中に入ってきた。
 これから午後の診療もさまざまに心に傷を負った患者が訪れる。陰鬱な感情に気がめいるかもしれない。けれど、誰かの心を癒すことで巽自身の心が癒えることもあるだろう。
 いつか自分もあの少年のように、無邪気に笑うことができるだろうか。
 ふと空を見上げれば、午後の陽射しが白く輝いていた。