コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム アンティークショップ・レン>


■□■ 天下裏五剣 斬之弐“紅葉・経若” ■□■

 ――鬼
 古来より人の世の闇に隠れ災禍をもたらす、この世ならざる者
 天を翔び、地を駆け、人を襲い、肉を喰らう
 まさに人の天敵と呼び習わすに相応しい恐怖

 だが、人とてただ大人しく喰らわれているだけではない
 童子切を以って、鬼の首魁、酒呑童子を討ち果たした源頼光
 髭切りの太刀を以って、茨木童子を退けた渡辺綱
 いまなお伝わる鬼に纏わる数々の伝説

 そんな伝説の中に、1人の鬼女の伝説がある

 朝廷の勅を受けし武士、平朝臣維茂と
 北向観音の加護を受けた降魔の剣に討たれしも
 彼の者、何時の日にか配下の四鬼と共に黄泉還らん

 伝説の舞台は信州戸隠、語られし鬼女、其の名は紅葉

◆物騒な探し物◆

 ――ジリリリリリリ……
「はい、アンティークショップ・レン……って、なんだアンタかい」
 街の街路樹も俄かに色づき始めた秋の頃。
 いつもの様に煙管を燻らせていた蓮の優雅な時間は、けたたましく鳴り響く電話の音に遮られ終わりを迎えた。
『なんだ、は無ェでしょ姐さん。こちとら姐さんの眼鏡に適う代物を探して日本全国飛びまわってるってのに……』
 電話口から聞こえる声は蓮がたびたび利用する古物商のものだ。
「で、なんか良い物でも見つかったのかい? 下らない話だったらタダじゃおかないよ」
 折角の優雅なひとときを邪魔されて幾分気が立っていた蓮だったが、
『へっへぇ……良いんですかい、そんなコト言って。姐さんが前々から探してた例のブツの話なんですがねェ』
 男のその言葉に蓮の目の色が変わり、受話器を握る手にも無意識のうちに力が入る。
 もし男が目の前に居たならば、その襟元に掴み掛かっていたかもしれない。
「……あんた、いま何処に居るんだい? いったい何処で『アレ』を見つけたんだい!?」
『ま、まぁ少し落ち着きなって姐さん。ちゃんと順を追ってお話しますって』
 蓮の平素ならざる剣幕に、電話越しにも関わらず男の首を冷や汗が伝う。
 男が見つけたもの、蓮が探し求めているもの。
 それは裏の世で天下裏五剣と称されし刀のひとつ。
『ケド、な〜んか物騒な事になってきたんですよねぇ。きな臭いって言うか、血生臭いって言うか……』
「……物騒な事?」
 ことの詳細を蓮に伝え終えた男が電話口にそう呟く。
『警察は事故じゃないかって言ってるんですがね……』
 聞けば、最近になって山や川で次々に謎の死体が発見されているのだという。
 人のものとは思えない巨大な爪痕や牙の痕をその身に刻んだ死体。
 専門家は冬眠を控えた熊や野犬の群れによる仕業だと言うが果たして……。
「そいつぁ……物騒な話だね」
 男の言葉に気の無い相槌を打ちながら、蓮は思案を巡らせる。

 ――あたし独りじゃあ、チョッと手に負えないかもしれないねェ……

◆鬼の無き里 〜戸隠・鬼無里〜◆

 東京から鉄道と車を乗り継ぐこと数時間。
「来るまでに随分と時間を要したが……悪くない。こう言う景色も久しぶりだ」
 長野県、長野市、鬼無里。
 戸隠山を中心として数々の伝説が残る地に、碧摩・蓮とその一行の姿はあった。
「おや、それはナニかい? 交通費ケチった依頼人(あたし)に対する当て付けか何かかい?」
 周囲の景色を見回してポツリとそんな事を口にした上霧・心(かみぎり・しん)に、蓮はニヤリと笑って言葉を返す。
「馬鹿を言うな。家を出て東京に来てからこっち、こんな空気は本当に久しぶりなんでな。少し田舎を思い出しただけだ」
 僅かに口の端をゆがめて答える心。
 美しく、そしてどこか懐かしさを感じさせる秋の雰囲気に、一瞬、事件の事を忘れそうなる。
「……上霧さん。身体の方は本当に大丈夫なんですか? 無理はしないで、なんなら今からでも……」
 そんな、いつもとはどこか違った様子の心を気にしてか、伏見・夜刀(ふしみ・やと)が心配そうに声を掛ける。
 前の事件。天下裏五剣のひとつ『骨喰』を奪われた事件の際に心が負ったダメージは確かに軽いものでは無かった。実際、蓮に「傷の具合が芳しくないのなら来るな」と言われもした。だが、
「大丈夫だ。自分の身体の事は自分が一番良く知っている」
 もとより刀匠である心の興味は天下裏五剣。それに、裏五剣のうちの二振りを携えて消えたあの男、相模・影正と名乗ったあの男の行く末が、心にはどうしても気になるのだった。
「……そうですか。そこまで言われるのでしたら……でも、決して無理はなさらないでくださいね」
 心の言わんとすることを理解はしてくれたが納得はしていない。そんな夜刀の様子に心は、
『夜刀の方こそ、前回の失敗を気にして、無茶をしなければいいが……』
 そんな事を思わずにはいられなかった。
「……えと、それじゃあ碧摩さん。これからどうするんです? 件の剣とかその辺について何組かに分かれて調査でもしますか?」
「そうですね。住民の方のお話や刀が発見されたときの詳細。そして、それが流れたという闇ルートについても……色々と調べることはありそうです」
 まるで事を急ぐかのように話を切り出す夜刀に、花東沖・椛司(かさおき・もみじ)が言葉を続ける。だが、
「まぁ、そう急ぐんじゃないよ。何事もモノには順序ってモンがあるんだ。とりあえず、先に会っときたいヤツもいるしね」
 蓮はそう言って煙管を一服。その態度は言外に「落ち着け」と夜刀を諭しているかの様にも見えた。
「……もしかして、蓮さんに連絡を入れてきたという古物商の方ですか?」
「正解(あたり)。イイ勘してるじゃないか」
 櫻・紫桜(さくら・しおう)のその言葉に蓮は嬉しそうにニヤリと笑う。
「巨大な爪や牙の痕を負った死体が……発見されてるんでしたよね?」
「ああ、そうさ。まぁ、それが今回の件と関わりがあるのかどうか、まだ判らないケド……闇雲に情報を集める前に、アイツから話を訊いておいて損は無いさ」
 実は、これから松巌寺で会う事になってる。
 なにやら考え込む紫桜や他の面々にそう告げると、蓮は静かに歩き出す。
「……松巌寺。確か、私達の探す刀と同じ名を持つ鬼女に縁のあるお寺ですね……」
 この地に古くから伝わる鬼女伝説。
 奇しくも同じ韻の名を持つ椛司。
 一行は伝説に語られたその鬼女の事を思い出さずにはいられなかった。

◆人が消える村◆

「いったい、どうなってるんだ……」
 日も落ちて、村の民宿に宿を取った一行。
「ええ、あの村の人たちの反応は……どう考えても不自然です」
 今後の行動の決定やこれまでに得た情報の整理をするために宿の一室に集まった一行だったが、
「すくなくとも、普通の人間の反応じゃあないわね」
 あまりに予想を超えた事態を前にして、話し合いは遅々として進まずにいた。

†††

「……あれが松巌寺ですか」
 蓮の先導で鬼無里村落をしばらく歩くと、小高い丘の上に建てられた寺の姿が見えてくる。鬼女紅葉の守護仏を祀ってあるという松巌寺だ。
 蓮はそこで天下裏五剣『紅葉』と『経若』を発見したと連絡を入れてきた例の古物商と落ち合う手筈になっていた。
「……待て。なにか様子がおかしい。上の方が妙に騒がしい」
 しかし、山門へと至る石段まで来たところで心が何かに気がついた。
 寺の境内から聴こえてくる何かに驚き、ざわめく様な人の声。そして微かに漂うそれは、心にとって鉄の焼けるにおいと同等かそれ以上に嗅ぎ慣れた……。
「これは……血!?」
 椛司が言うよりも早く心は駆け出していた。
 粟立つ肌と心臓を一喝し一気に石段を駆け上る。僅かに遅れてそれに続く紫桜と椛司。
 山門をくぐり境内へと辿り着いた三人を迎える、何かを取り囲むような人の群れと、浄域とは思えぬほど強烈に鼻をつく錆びた鉄の臭い。
「……うっ」
 追いついてきた夜刀が、強烈な臭いのもたらす不快感と、その先にあるであろう光景を夢想して口元に手を当てる。
「まさか!?」
 ほとんど叫び声のような声を上げて、蓮が人の群れへと歩み寄る。
「蓮!」 「蓮さん!」 「……碧摩さん!」
 心たちもまた蓮の後を追う。そして……見た。
「……なんてこった」
 一足遅かった。そんな事を呟いて蓮が唇の端を噛む。
 人の輪を押しのけて、その中心に蓮たちが見たものは……まさしく予想したとおりのもの。
 その身にヒトのものとは思えぬ巨大な爪痕を刻み、臓腑を食い破られ、恐怖に貌を歪ませて血の海に横たわる男の姿。蓮がよく知り、そして今日この場所で落ち合う事になっていたはずの人物。
 蓮に連絡をして着たあの古物商が、無残に変わり果てた姿でそこに転がっていた。
「おい、いったいどういうことだ。いったい誰がこんな事を!」
「な、なんだねキミは!」
 おそらく現場を検分してたのだろう。心が近くにいた刑事と思しき男に掴みかかる。
「ちょ、上霧さん落ち着いてください!」
 そんな心に夜刀が慌てて駆けより制止を促す。
 見慣れぬ男達の乱入にザワザワと喧騒の度合いを増す野次馬たち。
「ゲホッ、ゴホッ……ったく、何なんだねキミ達は?」
「すまないね、若いモンが取り乱しちまって。あたしらはソコに転がってるホトケさんの知り合いでね。今日ここで待ち合わせをしてたんだよ」
 心の腕から開放され咳き込みながらそう尋ねる刑事に対し、蓮はそう言って妖艶な笑みを浮かべる。
「そうか、そいつは気の毒だったな」
 すると、刑事は乱れた襟元を調えながら事も無げにそう答える。
 普通、こういった場合は容疑者……とまではいかなくとも、事件の重要参考人として身柄を拘束されるものだが、刑事たちにそう言った気配はまるで見られない。
「何があったのか詳しく教えてください、刑事さん」
 そう言って質問を向ける紫桜の姿に刑事の1人が、『こんな場所にこんな年の子供を連れて来て、いったいなに考えてるんだ』そう言いたげな視線で蓮を見る。
 確かに一般的に見ればそうかもしれないが……。そんな様子に気付いた夜刀が紫桜に代わって質問を続ける。
「……どんな些細な事でも結構です。何があったのか、教えては頂けませんか?」
「何が……って言われてもねェ。見りゃ分かるだろ?」
 夜刀の質問に、刑事はやれやれ、といった口調で語りだす。だが、その口から出た言葉は……
「熊だよ、熊。冬眠前で山から下りてきたのに襲われでもしたんだろ」
「なん……だと?」
 蓮たちには到底信じられない。いや、この遺体の損傷具合を見た者なら誰も信じないような、そんな台詞だった。
「あ〜、いや、うん。熊じゃなくて野犬の仕業かもしれんが……まぁ、どっちにしろ大した事じゃないよ」
 頭を掻きながら更に続ける刑事。
 確かに刑事の言うとおり、この遺体の損傷は人の手によるものではないだろう。それは判る。だが、果たしてここまで残忍な肉体の破壊が熊や野犬などの獣に出来るのだろうか?
 考えずとも判る、答えは否。過剰とも取れるその暴力の痕は、高度な知性を備えた生物特有の嗜虐性によるものに他ならない。
「それ……本気で仰ってるんですか?」
 冗談のようなその言葉に椛司が問う。しかし、
「本気も何も、こんな事は別に珍しくもなんとも無いだろう? あんた等は旅の人のようだから知らないかもしれないがね」
 人死にが珍しくない。刑事はそう言って逆に椛司に不審そうな視線を向ける。そして周囲を取り囲む野次馬たちも、
「熊か……」
「なに、いつものことさ……」
「……運が悪かったねぇ」
 口々にそんな事を言いながら、やがて興味も失せたのか三々五々に散ってゆく。
『いつものこと……だと。コイツら正気か!?』
 こんな田舎の町で人が1人死んだというのに、それを「いつものこと」だと言う。そのあまりに自然な、蓮たちから見ればあまりに異常な人々の言行に、心は薄ら寒いものを感じずにはいられなかった。
「まぁ、そんな訳だからアンタたちも気ィつけな。……よし、署に戻るぞ」
 そして、現場の検分をしていた刑事や警官たちも、まるで何事も無かったかのように去ってゆく。無残に引き裂かれた遺体をその場に残したまま……。
「いったい、何が起きてるって言うんだ……ここで……」
 濃密な血の臭いが立ち込める松巌寺。足の速い秋の陽は既に山の端に差し掛かり、残照が辺りを血のように赤く染めていた。

†††

「とにかく、あの古物商が死んだ事で天下裏五剣への道は完全に途絶えちまった訳か……」
「そう言うことに、なりますね」
 こうなってくると、あとは地道に足で情報収集をするより他にない。だが、どこか不気味な雰囲気の漂うこの村で、果たしてまともな情報が得られるのだろうか。
「みんな、この宿に着いたときに女将が言った言葉を覚えてるかい?」
 そんなとき、部屋の衾を開け入ってきた蓮が唐突にそんな事を言い出した。
「蓮さん、一体どこに行ってたんですか? みんな心配してたんですよ」
 宿に着いてからしばらくして、「ちょっと出かけて来る」と言ったきり行き先も告げず姿を消していた蓮の登場に、紫桜が慌てて声を掛ける。
「すまないね。ちょっと気になる事があって……調べものをしていたのさ」
 そう言って畳の上に腰を下ろすと、すかさず煙管に火を付け言葉を続ける。
「で、女将が言ったコト覚えてるかい?」
「……女将って言うと、あの気の良さそうなお婆さんのことですか?」
 答える夜刀に蓮はこくりと頷いてみせる。
「確か……こんなに大勢のお客さんをお迎えするのは久しぶりだ……とか何とか……」
「違う、その後だよ」
 夜刀の後を次いで答える椛司。だが、蓮は首を振って次の答えを待つ。
「もう長い事、旦那と2人きりだから賑やかなのは嬉しい……。そんな事を言っていたな」
 おそらくはそれなりに由緒ある旧家なのだろう。一般家屋としては多すぎる部屋数を民宿や下宿として活用している。そんな風な感じだった。
「そう、確かにあの老婦人はそう言った。2人きりで住んでいる……ってね」
「……それが、どうかしたんですか?」
 蓮が何を言わんとしているのか、夜刀には判らない。他の皆も同様のようだ。
「…………生活感がありすぎる。そう言うことですか?」
 しばらくの沈黙の後、ふと、何かに気がついたかのように紫桜が呟いた。それを聞いて蓮がニヤリと笑う。
「よく気付いたね。やっぱりあんた今日はイイ勘してるよ」
 思い返してみれば、確かに紫桜の言う通りかもしれない。老夫婦が2人だけで住んでいるにしては、この家にはあまりにも生活感がありすぎる。
 玄関には大人から子供まで様々な種類の靴が並んでいたし、部屋の隅や庭先には補助輪付きの幼児用の自転車や真新しい車のオモチャなどが散見し、よくよく考えれば、この家の表札には老夫婦以外にも数人の名前が刻まれてはいなかったか……。
 しかし、それらが指し示す事とは裏腹に、老婦人はもう長い間主人と2人きりで暮らしていたと言う。
「……どういう、ことだ?」
 いったい何がどうなっているのか。何が本当で何が嘘なのか。松巌寺での事といい、この宿での事といい、判らない事が多すぎる。
 いったいこの小さな村で、何が起こっているというのか……。

†††

「争いや犯罪、騒ぎや事故。人の関心を引く出来事ってのはとかく外部に伝わりやすい。情報ネットワークが発達した今の世の中じゃあ尚更ね」
 そう言って、蓮は紫煙を燻らせながら話を続ける。
「ヒトが1人死んだり行方をくらますような事が起これば……それが1人じゃなく数人、十数人と連続しての事なら……それはもう大事件さね。その情報はテレビや新聞、インターネットなんかで数時間後、遅くともその日のうちに日本全国に知れ渡る」
 蓮の言う事は全面的に正しい。だが、何かが引っ掛かる。
「じゃあ、もしも普通なら事件になるような出来事……例えば人死になんかが起きたときに『誰もソレを事件だと思わなかった』としたら、どうなると思う?」
 蓮の言葉が核心を衝く。蓮の言うそれは、つい先ほど一行が目にした人々の異様な反応に他ならない。
 もしヒトが死んでも、それが日常珍しくない『あたりまえ』の出来事として、毎日朝起きて夜寝るのと同じくらいに『なんでもない』出来事として人々が認識していたら。更に言えば、誰かにそう認識させられているとしたら……。
「……人の死と言う重大な事件が事件足りえず、外部に伝わる事も無く、誰にも気付かれることなく、忘れ去られていく……」
 口にしたその言葉の意味を理解した瞬間、心の奥底から言い知れぬ不安感と止めようのない悪寒が湧き上がり、夜刀はたまらず自分の肩を掻き抱く。
「役所に行って調べたんだけど、この家ね……」
 蓮の言葉に全員が息を飲む。
「あの老夫婦と、その息子と娘夫婦。あわせて3家族10人が住んでるって住基台帳に記載されてたよ」

◆紅葉、経若、そして鬼◆

「……じょ、冗談ですよね? そんな、8人もの人間が消えて、それを家族が気付かないなんて……そんな夢みたいな話……」
 震える声を必死に抑えて夜刀が呟く。
 確かに、尋常ではない。夢物語や御伽草子にだってこんな突飛な話ありはしない。だが、そんな有り得ない出来事が、ここ鬼無里・戸隠一帯で起きている。
 信じられない事だが、それは紛れも無い事実。蓮が調べた限りでは、その被害はこの村落だけで数十人を超えていた。
「夜刀、お前の言いたい事も分かるが……」
「シッ、静かに……ッ!」
 取り乱す夜刀をなだめ様と心が声を掛けた……その時。静かに威圧するような椛司の声が、その場にいた全員の動きを制する。
『……誰か来る』
 視線と口真似で椛司が告げる。
 椛司に備わった鋭い勘と気配を察知する能力が、何者かがこの部屋に近づいている事を告げていた。無論、宿の女将や主人などではない。
 ―― トン、トン。
 廊下と部屋とを仕切る衾が鳴らされる。近づいてくる足音と気配は1人分。だが、いま衾を叩いた者とは別に1人、足音と気配を殺して着いて来た者がいる。
『何者ですか?』
『判らない。こんなに気殺の上手い奴は初めてよ』
 衾を叩いたのは足音や気配、息遣いから宿の女将と早々に知れた。だが、もう1人の方には皆目見当がつかない。
 ―― トン、トン。
 再び衾が鳴らされ、静かにゆっくりと開けられる。果たして、そこに居たのは……
「すみません、遅くなりました……って、皆さん、どうかしたんですか?」
 椛司以外の5人にとっては良く見知った、そして頼れる男の顔だった。

†††

「なるほど、それは何とも奇妙な話ですね……」
 座敷に上がりこれまでの経緯を聞かされ開口一番、その男、加藤・忍(かとう・しのぶ)はそう言って首を捻った。
「それはそうなんですが……忍さん。今まで何処で何をしていたんです?」
 考え込む忍を余所に、紫桜が至極当然の疑問を口にする。
「ああ、私ですか? 私は……少し思うところがありましてね、現地に赴く前に色々と調べていたんですよ。泥棒は下調べが第一、ですからね」
 泥棒、と言う特殊な職業柄、忍には色々と独自の情報ルートやコネクションを持っていた。前回の事件での反省を踏まえ、今回は事前の調べや準備を万全にしようと蓮たち一行とは別に情報集めを行っていたのだ。
「で、何か分かったのかい?」
「ええ、分かりましたよ、色々と……」
 蓮に問われ、忍はいつものゆっくりとした口調でそう答えると、今回の事件に関して彼が集めた様々な情報を語り始めた。

「今から三ヶ月ほど前、贓品を専門に扱う裏の市場に、二振りの……正確には一振一口一対の刀剣が出品され大きな注目を集めたそうです」
 贓品とは、盗品やそれに類するいわゆる表沙汰に出来ない品物の事で、こういった市場は一般にはまず知られる事はないが、美術品を筆頭にかなり古くから存在していた。
「一方はもともと大太刀だったものを磨り上げたと思しき刃長一尺八寸の小太刀。もう一方は刃長七寸ほどの刀子。白鞘拵で刃紋は中直刃、地肌は綾杉肌。大幅に磨り上げられた小太刀はもとより刀子の方にもそれらしい表銘は入ってなかったそうですが、茎裏にそれぞれ『紅葉』と『経若丸』と裏銘が入っていたそうです」
 表銘には通常、作刀者の名が掻かれ、裏銘には作られた年月日、または所有者の名前などが刻まれ、ともに刀剣を鑑定する上での重要なポイントとされる。
「市場の関係者に出品者が誰なのか尋ねてはみたのですが……『互いに詮索しない事』を暗黙の掟とするこの世界では、それを突き止める事は適いませんでした。ただ、物を競り落とした人物が信州・戸隠あたりで名の知れた人物だという事は分かりました」
「おそらく、それと同じ情報をあの古物商も掴んだんだろうね。競り落とした奴が天下裏五剣なんて物騒な代物について知っていたとは思えないけど」
 なおも続く忍の話に蓮が合いの手を入れる。
「ええ、なんでもこの辺りじゃあ有名な資産家で、刀剣蒐集を趣味にしていた人物のようです。『紅葉』と『経若』を一目見るなり気に入って、相当な額だったにも関わらずその場で、しかも現金で買い取っていったそうです。それを知って、こちらに来てすぐその人物の家を訪ねてみたんですが……」
 そこで忍は言葉に詰まり瞼を閉じる。何か自分自身でも納得できない不可解な事でも思い出すかのように。
「家は蛻けの殻だった……ってコトかい?」
 そんな忍の様子に蓮が言葉を接ぐが、忍はゆっくりと首を横に振り……
「それならまだ良かった……死んでいたんですよ、家人全員。皆が見た古物商の死体と同じような無残な状態でね」
 目を瞑ったまま大きく溜息を吐いてそう答える忍。その様子から現場がどれほど凄惨な様子だったかが窺い知れるというものだ。
 誰かがゴクリと息を飲む音がやけに大きく耳につく。
「念のため探してみましたが『紅葉』と『経若』は見つかりませんでした。付近の住民に尋ねてみたんですが、奇妙な事に『あそこは随分昔から空き家だよ』とおかしな事を言うばかりで……」
 結局、それ以上の情報を得る事は適わなかった。忍はそう言って言葉を締めた。
 『紅葉』と『経若』に関わる者が次々に謎を死を遂げる一方で、はじめから居なかったかのように人々の記憶から消えゆく人々。
「もし、身近で人が消えたり、殺されたりしたら、あんたはどうする?」
 何事か考え込んでいた蓮が不意に口を開き、心にそう問い掛ける。
「対象の如何に拠るが、普通に考えれば警察に通報するだろうな。当然、事件としてマスコミなんかにも流れる」
「そうだね……普通はそうだ。じゃあ、それが警察なんかには解決できないような特異な……俗に言うオカルト絡みの事件だったら、どうなる?」
 心の答えに頷き、次の問いを椛司に向ける。
「ん……魔的な事件だとすれば、高野や比叡といった組織は勿論……在野の退魔師とか、私の様な裏の請負人に話が回ってくる……かな」
 答えを噛み締めるように言葉を紡ぐ椛司。
「そう。それが現在のヒト社会に於ける事件解決のシステムさ。じゃあ、逆に『事件を解決されたくない』ときはどうすれば良い?」
 ゆっくりと、全員の顔を眺めながら、蓮は言葉を続ける。
「答えは簡単。事件の発生を知られなきゃ良い。事件が事件じゃなくなれば解決する者だって来る筈はないんだからね」
 忍が来る前に言った事をもう一度、今度はハッキリと口にする。
「……それが、いまこの鬼無里の地で、起こっている事の正体」
 天下裏五剣を求めて辿り着いた、古の伝説が残る鬼無里・戸隠。
 その地で起こる不可解な事件と背後に見え隠れする常ならざる力と人外の者の影。
「頼みつる 北向山の 風さそひ あやし紅葉は とく散りにける」
 忍が口ずさむそれは、この地に伝わる伝説の鬼女の最期を詠んだうた。
「……鬼女、紅葉……か」
 思うところは皆同じ。心の呟きに誰も何も答えないのはその証左。
 この地に纏ろう伝説の鬼女の名を思い起こさずにはいられなかった。

◆鬼闘◆

 『紅葉』と『経若』。そのふたつが何時の頃から、如何なる理由で天下裏五剣のひとつに数えられるようになったのか、それは蓮にも分からない。
 だが、伝説の鬼女紅葉とその息子の経若丸の遺愛刀とも言われ、幻術を操る力を持つとされる魔性の剣を只人の手に委ねておく事はできない。
 同じく天下裏五剣のひとつ『骨喰』を携えて冥府魔道を歩むあの男のような者を、これ以上、生み出す訳にはいかないのだ……。

†††

「よし、それじゃあ昨夜の打ち合わせどおり、まずは手分けして紅葉にまつわる場所を徹底的に洗うとしようか」
 一夜明けて。宿の門前で今日これからの行動を確認する蓮たち6人。
 いったい何者が今回の事件を引き起こしているのかは定かではないが、それがこの地に伝わる伝説の鬼女紅葉に関係しているであろうという事を、否定し難い奇妙な確信としてそれぞれが感じていた。
「俺と忍は荒倉山にある『鬼の岩屋』付近を当たってみよう」
「……僕は花東沖さんと一緒に『鬼の塚』を詳しく調べてきます」
「それじゃあ俺は、『毒の平』のあたりかな? 蓮さんは……どうしますか?」
「あたしはここに残って皆との繋ぎをやらせてもらうよ。そう言う役をやる奴がいないと、いざと言う時に困るだろうしね」
 そう言って皆を見送る蓮の表情は、いつにも増して不安気なものだった。

†††

 荒倉山にある、紅葉一党が隠れ住んだという岩穴『鬼の岩屋』
「……上霧さん、気付いてますか?」
 そこへと向かう途中、隣を歩く心に忍が小声で問い掛ける。
「ああ、宿を出てからずっと……いや、正確に言えば昨夜からずっとだな」
 背後に感じる何者かの視線と気配。心は努めて平静を装いながらそう答える。
 昨夜、宿で皆が寝静まった時分くらいから感じ始めた『何者かに見張られているような気配』
「何者、でしょうか?」
「判らん。だが相当の手練であることは間違いない。大した穏形だ」
 付かず離れず、一定の距離を保ったまま張り付くように追ってくるその気配。常人なら気づく事すらままならなかっただろう。
「……撒きますか?」
 忍のその提案に心はしばらく考えて、
「山に入ったら二手に分かれよう。相手は幸いにして1人のようだからな」
 心のその答えに、忍は視線を以って答える。こちらの会話に気付いた相手が、その内容を聞き取るべく距離を詰めて来た為だ。
『他の皆は大丈夫でしょうか……』
 忍たちに追っ手が付いている様に、他の3人にも追っ手が付いている可能性は十分にある。
 忍にはそれが心配でならなかった。

†††

「……ここが『鬼の塚』ですか」
 鬼女紅葉の首を埋めたとされる鬼の塚。その入り口に立てられた鳥居を前にして夜刀は奇妙な感覚を味わっていた。
「人々を苦しめた鬼の墓なのに、その入り口に鳥居が建ってるなんて……」
 椛司もまた夜刀と同様の感想を抱いたようだった。
 鳥居とは本来、俗界と神域とを隔てる門であり、神の使いである鳥の止まり木とされる神聖なもののはず。なのにそれが鬼の墓の前に建っている。普通に考えればあり得ない光景だ。
「……っと、呆けている場合ではありませんね。何か手がかりがないか調べないと」
「そうね、行きましょう」
 気を取り直して鳥居をくぐる。そして幾らも歩かぬうちに、それは見えてきた。
 木々の間に隠れるようにしてひっそりと佇む五輪の塔。見る者にどこか物悲しさを感じさせるそれこそが、千年の昔にこの地で果てたと云われる鬼女紅葉の墓だった。
「なんか、想像していたのとは違ったわ……」
「……そうですね」
 一説には、讒言により都を追われ戸隠の地へと流された貴女であったとも伝えられる紅葉の墓。
「それじゃあ、伏見さん……」
「……ええ」
 そんな千年前の悲劇であったかも知れぬ女の墓をその金色の瞳で見つめながら、夜刀はそっと五輪の塔に手を触れる。
「……ッッ!」
 触れた瞬間、夜刀の脳に直接語りかけてくるような声が響く。それは、物に宿った声なき声や思念・想念を辿る夜刀の力。
 千年の間に蓄えられた記憶。力を込めれば容易く崩れ去ってしまいそうなそれを、一つずつ丁寧に拾い上げては記憶の海へとまた戻す。そんな作業の繰り返し。
「どう、何か見つかりそう?」
 傍らに佇む椛司が心配そうに声をかける。
『…………』
 だが、どんな些細な記憶も逃すまいと精神を限界近くまで集中させている夜刀に、返事を返す余裕はない。
――そして、どれほどの時間が過ぎた頃だろうか。
『これはッ!?』
 夜刀は遂に『それ』に辿り着いた。
 紅葉の墓を前にして何事かを語る1人の男。その手に握られた白鞘に包まれた刃長50センチメートルほどの刀。
 その特徴は昨夜聞かされた天下裏五剣のひとつ『紅葉』のそれに他ならない。
 夜刀は慎重に慎重に、その記憶を手繰り寄せ『紅葉』を手にした男の顔を……
「伏見さん、危ないッ!!」
 次の瞬間、張り裂けるような椛司の声と、身体を何者かが突き飛ばされたような衝撃に、夜刀の意識は記憶の海から引き戻された。
「……これは……か、花東沖さんッ!?」
 夜刀を突き飛ばしたのは誰あろう傍らにいた椛司その人。
「大丈夫、何ともありません」
 そう言うと、夜刀を抱いていた手を離し椛司はスッと立ち上がる。
 どうやら塚の前で屈み込んでいた夜刀を抱えるようにして横に飛んだらしい。
「……いったい、何が」
 それに続いて頭を振ってヨロヨロと立ち上がる夜刀。そして一瞬前まで自分の居た場所に眼を向ける。
「なッ、あれは!?」
「気をつけてください。アイツ、私たちを逃がすつもり、ないみたいですから」
 そう言って腰に下げていた刀を抜く椛司の視線の先に、夜刀は信じられないモノを見た。

†††

「獣を操る能力か、鎌鼬を操る能力か、そのくらいは想像していたが……」
 数メートル先。低い唸り声を上げながら、いまにも襲い掛からんと身を屈めるその姿に、紫桜は左の掌から剣を引き出し構えながら、
「まさか、本物の『鬼』が相手なんて考えもしなかった」
 そう声に出さずにはいられなかった。
 伝説に紅葉とその一党の山塞があったと云われる毒の平、竜虎ヶ原に事件の手がかりを求めてやってきた紫桜を迎えたのは、
「まさか、コイツが蓮さんの知り合いの古物商を殺した犯人なのか!?」
 鋭い爪と牙、そして何よりも特徴的な一対の角を額に生やした、身の丈2メートルを越す、まさに人が世に言う『鬼』そのもの姿をした物の怪だった。

「ガァァァァッ!」
 腹の底から震えがくるようなおぞましい叫び声を上げ、人を遥かに上回るその膂力に任せて襲い来る鬼の爪牙。
「フッ……セイッ!」
 袈裟懸けに振り下ろされた右腕を僅かに左に逸れて避け、幼子の胴回りほどもあろうかという太い腕が大地を穿ち動きの止まったその隙に、手にした剣を首筋へ叩き下す。
――ガチンッ!!
 しかし、紫桜が渾身の力を込めたその一撃は、通常では在り得ない鉄と鉄とがぶつかり合う様な奇妙な打撃音を響かせるのみで、鬼の身体に毛ほどの傷をつけることも適わない。
「くそ、バケモノめ……」
 予想通りの結果に紫桜は大きく飛び退いて鬼と己との間を空ける。
 力任せに敵が繰り出す攻撃を躱し、間をおかずして一撃を呉れる。人が相手ならばその一合で勝負は決するのだが、此度の相手は人外の化生。
 その身に纏った鉄の如き硬度の肌と産毛は紫桜の斬撃その悉くを無力化させる。
 如何に紫桜の手にした刀に木刀並の切れ味しかないとは言え、腕、脚、股、脇腹、肩、そして首。総身のすべてが鉄の如くではまさしく手の出しようが無い。
『分が悪い……なんてもんじゃない……』
 対して相手の攻撃は、膂力に任せた大振りで幾ら避けるに易いとは言っても、もし喰らえば生身の紫桜はひとたまりも無い。加えて刀で受けるにしても、よほどの技量が無い限り力で圧し潰されるだろう。
 己の攻撃は一切通らず、敵は一撃を当てればそれで終い。まさに絶体絶命。紫桜にできる事はもはや神仏に祈る事のみ……
「やるしか……ないか!」
 しかし、紫桜の瞳に諦念はカケラも無い。手にした刀を八相に構え、呼気と同時に両の手足へ気を込める。
「ぐるるるるぅ……」
 得物を見定めた鬼が低く唸るように喉を鳴らす。
 紫桜が狙うはただ一点。勝機は未だ其処に在る。

†††

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
 木の幹の影に身を隠しながら、心は神経を研ぎ澄まして周囲の様子を探る。
『撒いたか?』
 調息しつつ間断なく辺りを窺いながら、今まさに自分を追ってくるモノの姿形、動きと攻撃、それに対する方法、そして相対して屠る術。それらを頭の中で組み立てる。
――にちゃり。
 木の上から何か、僅かに粘性をもった液体が心の肩へと落ちる。
『なん……ッッ!!!』
 何事か、考えるよりも先に身体が動く。地を蹴り、間をひらき、振り返ったそこで心は見た。
「ギ、ガゥ……」
 爛々と輝く瞳に大きく裂けた口。先ほど心の肩に滴り落ちたのはその口蓋から零れ落ちた涎だろう。
「間一髪……だな」
 先ほどまで心が身を預けていた木は、無残にも幹の中ほどから断ち折られている。僅かでも逃げるのが遅れれば、ああなっていたのは心の胴体だったハズだ。
 異様なまでの上背と痩せ細った身体に反して大きく突き出た腹。地獄の餓鬼をそのまま大きくしたようなその姿。よく見れば右腕だけが異様に長く、尺にして六尺……いや、七尺はある。
「まさか、生きてるうちに餓鬼と戦う羽目になるとはな……」
 そう言って、心は手にした得物を構える。二手に分かれた忍との距離は十分にとった。今度はこちらから仕掛ける番だ。
 戦場が山中になるであろう事を見越して持ってきた小太刀と短刀。両手に構えるそれはもちろん心が手ずから鍛え上げた業物だ。
 まず折れぬ事を要として作ってある為、小太刀にしては重ねが厚い。短刀の方も同様。
 前の事件で相対した敵に剣を折られたことを訓として打った物だったが、今回の相手にも存外役に立ってくれそうだ。
『得物は持っていない……か。だとすると、あの左手の一撃を躱して懐に潜り込み、急所を突いて仕留めるのが最良手』
 手にした二振りの刀。その鍔元で軽く指を切り刀身を血で濡らす。こうする事で心の持つ刀は切れ味、強度ともに飛躍的な上昇をみる。
『準備完了』
 左手の刀を逆手に持ち替えて、眼前で腕を十字に組み合わせる。この姿勢は敵に己の呼吸を悟らせないという利点を持つと同時に急所への防御になる。まあ、鬼の膂力を前に人の細腕ではその用を成すまいが……。
 そのまま一歩、左足を前に出し腰を屈めて敵の攻撃を待つ。
 敵もまた、腰を屈めて機を窺う。右腕は……だらんと力なく垂らしたまま、未だ攻撃を行う体勢には無い。
 更に一歩、歩を進める。辺り一面に敷き詰められた落ち葉がガサリと無遠慮な音を立てる。
『槍を、相手にするのと同じだ。敵の攻撃を掻い潜り懐に入れば俺の勝ち……さぁ、来い』
 静かに、そして大きく息を吸い……止める。呼吸は身体の反応を遅らせる。故に止める。
 彼我の距離、メートルにしておよそ3。心の間合いにはまだ遠いが、敵の間合いには十分な距離。
――ヒュン!
 鋭く研ぎ澄まされた『何か』が空を切る。そんな音。
『クッ……』
 心の顔面を狙って繰り出されたその一撃を、右足で地を蹴り身体を低くして躱す。
 頭上数センチを吹き抜けるそれは、驚くべき事に何の予備動作も無しに繰り出された鬼の右腕。刺突の一撃だった。
『構えも無ければ踏み込みも無しか……バケモノめ』
 人であれば攻撃を繰り出す前には必ず予備動作が必要になる。
 例えば、構えや踏み込みといった予備動作を省き、腕の力に任せて刀を振ったとしても、その攻撃に人の命を奪う程の十分な殺傷力を持たせることは適わない。人の膂力の限界がそこにある。
 だが敵は、その身に備えた人外の膂力を以ってそれを成す。
 鬼に人の道理が通じる筈がない。心はそれを見通せなかった自分の甘さに歯噛みせずにはいられなかった。
 吹きぬけた敵の右腕が巻き戻るその隙に心は大きく間合いを詰める。……だが、まだ足りない。
 右腕が敵の手の内に収まり、次なる一撃に必倒を期すべく肩の筋肉が大きく撓む。それは先の一撃には見られなかった人で言うところの予備動作。そこから繰り出される一撃に込められたスピードとパワーは先程の比では無い。
『間に合えッ!』
 更に大きく一歩を踏み込み、そこでようやく心の間合い。だが……
「ガァッ!!」
 雄叫びと同時に撃ち出される右腕。撃ち出される、そう形容するに相応しい圧倒的な威力の刺突。人の身で受ければ身体に風穴が開く程度では済むまい。
「……ッッ!!」
 間合いが詰まれば自然と敵から見た的……つまり心の身体は大きくなり、それ目掛けて繰り出される攻撃を躱すことは容易ではない。だが、心はすんでのところでソレを躱す。
 当たらずに掠めて過ぎただけだというのに、その一撃は心のこめかみに裂傷を刻む。直撃していれば心の首から上はこの世に存在しなかっただろう。
 吹き抜けた右肩に心は手にした刃を突き立てる。左手を伝う何か硬い物を貫いた様な異様な手ごたえ。しかし、これで敵の右腕は用を成さない。少なくともこの戦いのうちは。
「もらったッ!!」
 突き立てた刃から左手を離し、右手で握る小太刀の柄頭に添える。
 同時に大きく弓を引き、脇の下から突き入れる。狙うは敵の心の臓。
 その一撃は鬼の胸骨に阻まれること無く、確実に心の臓へと至りその命を奪う。
「なッ……」
 だがそこで、心は信じられないものを目にする。
 見上げた鬼のその顔がニヤリと笑う。まるで罠に掛かった獲物を見るような眼で。
 刃を突きたてられた右腕は、もはや戻すこと適わず、これ以上何があるというのか。
――ヒュン!!
 再び響く、鋭く研ぎ澄まされた『何か』が空を切る。そんな音。
『なんだとぉ!?』
 人には成し得ぬ、人外の攻撃方法。吹き抜けた右腕の、その肘を軸として撃ち出される懐の内に対する刺突。
 脇に突き入れた刀を抜いて迎撃するには圧倒的に時間が足りない。
『どうすれば躱せる? 考えろ、考えろ、考えろ、考えろ!』
 思考する心の視界の端に映ったもの。それは敵の右肩に突き刺さったままの短刀。
『コレしかないッ……』
 心は刃と血に命じる。短刀を敵の肩から抜き放ち、背後から迫る刺突を打ち払うイメージ。そして、一瞬の間も置かず、それは現実のものと成る。心が思い描いた軌道のままに宙を舞い、短刀が迫り来る刺突を薙ぎ払う。
「……助かった、か」
 血を与える事であらゆる刃を思いのままに動かす心の能力。その能力が土壇場で心の命を救った。
 薙ぎ払われた敵の右腕はだらりと力なく垂れ下がり、見れば鬼は既に息絶えていた。
「間一髪……だな」
 辛勝とさえ言えないような薄氷の上の勝利。
 人でない者と相対することの恐ろしさを心は心の底から思い知った。

†††

「……これは、まさか……鬼!?」
「どうも、そうみたいですね」
 つい先程まで夜刀がいた場所。土は抉られ五輪の塔は既に跡形も無い。その光景に、もし椛司に突き飛ばされていなければどうなっていたか……それを考えると背筋を冷たいものが走る。
「いきなり襲ってくるなんて……そうまでして知られたくない事が、この場にあるようですね」
 唸り声を上げる鬼を前にして、些かも臆する事無く椛司は毅然と言い放つ。
『伏見さんは……消耗が激しすぎる。とてもじゃないけど戦えるような状態じゃない』
 確かに立ってはいる。だがその足元はおぼつかず、顔にも疲労の色が濃い。千年分の記憶を拾い上げるという作業の困難さは、魔術・方術の類にそれほど明るくない椛司でも容易に想像できた。
「僕も……戦います」
 だがそれでも夜刀はそう言って椛司の傍らへ立とうとする。何かに急き立てられるかのように。
「大丈夫、伏見さんはそこで休んでいてください」
 椛司には知りえぬ何かがあるのかもしれない。だがそれでも、椛司はそう言って夜刀を制止した。
 その一片の揺るぎも感じられない椛司の言葉に夜刀もようやく観念したのか、近くの木に寄りかかるようにして、ズルズルと腰を落とす。
「……すいません、お役に立てなくて」
 そんなコトは無い。椛司は心の中でそう告げる。
「すぐに……片付けます」
 そう言って椛司は剣を構える。
 構えは青眼。しかし敵に向けられた鋒を、まるで鶺鴒の尾の如く絶えず揺り動かすその独特の構えは、幕末に隆盛し現代剣道の基礎ともなったと云われる北辰一刀流、その星眼の構えに他ならない。
「ゴアァァァァッ!」
 天に向かって鬼が吼え、その勢いのままに椛司に向かって拳を繰り出す。
 常人の倍はあるであろうその巨躯から繰り出される攻撃にどれほどの威力があるのか、想像するだに恐ろしい。だが、
「遅いッ!」
 精妙な動きと合理性、なにより返し技の妙を奥義とする北辰一刀流を修めた剣士にとって、膂力に任せた攻撃などは攻撃のうちにも入らない。
 鬼の拳が大地を穿つ。一瞬前まで椛司が立っていたその場所に既に椛司の姿は無い。
「ハッ!」
 相手の攻撃を正確に読み、僅かに仰け反り後ずさってそれを避け、避けたと同時に仰け反った背筋の反動と踏み込みで以って敵の内懐へ潜り込み、左片手突きにて喉を裂く。
 北辰一刀流『抜突』
 しかし此度の相手は鬼。名にし負う人外の化生。人相手の技では鬼を倒すには至るまい。
 故に椛司は更にそれに一手を加える。
「真羽刃ッ!!」
 突き入れた刀の柄に右手を添えて、気を込めると同時に叫び、駆け抜け様に首を飛ばす。
 椛司がその身に宿した魔剣ウルヴァの力にて繰り出す『真羽刃』は、その対象がなんであれ有無を言わさず斬って捨てる。鬼の身体が如何に強固であろうとも、これに抗える道理は無い。
『とった……』
 剣を振り抜き駆け抜けて、残心。敵の命を絶ったと、迷い無く断じられる会心の一刀。
 だが……それは誤り。敵は人ではなく鬼なのだ。
 椛司に切り飛ばされて高く宙を舞う鬼の首。その首が、その顔が、まるで亀裂が入ったかのようにニタリと笑う。
 それは生きていた。首だけとなってなお生きていた。
 鬼ならぬ人が技と術とで鬼を屠るならば、人ならぬ鬼は人外の力と人の想像すら及ばぬ生命力でそれを凌駕する。
「ハッ!?」
 そのことに夜刀が気付く。宙を舞う鬼の首が、その獰猛な牙が、何も知らずにいる椛司の首筋を狙っている。
「花東沖さん、避けてください!」
「えっ?」
 力を振り絞り、叫ぶ。その声に椛司も事に気付くが……間に合わない。
『風よ、僕に力を!!』
 手を差し向けて心の内で強く念じる。
 四大精霊の行使。魔術師としての基本中の基本。しかし夜刀はそれが兎に角不得手だった。それ故に一人前とは認めてもらえず未だに見習いのままなのだ。しかし、
――ビュウウウゥゥゥッ!!
 夜刀の声に応えるように突如として突風が吹き荒れる。
 その風に背を押され、椛司はすんでのところで鬼の首を躱す。
「セイッ!」
 そして振り向き様に一閃。その一刀は今度こそ確実に鬼の命を奪い去っていた。

「伏見さん、有難う御座います。助かりました」
 刀を納めた椛司が、己の掌を見詰めて動かない夜刀に駆け寄り礼を述べる。
「…………いえ、僕の方こそ……」
 呆然としながらも何とか椛司に答える夜刀だったが、心ここに在らずと言った風。
「……本当に大丈夫ですか? お疲れのようなら、一旦宿に戻って蓮さんに……」
 と、そこまで言われて夜刀はハッと思い出す。
 鬼の塚に触れて、その記憶の海から拾い上げた光景。『紅葉』を手にした謎の男。
 なぜ自分に精霊魔術が使えたのかも確かに気になるが、まずはそのことを蓮に報告しなくてはならない。
「……すいません。もうホントに大丈夫です……っとと」
 夜刀はそう言って立ち上が……ろうとするが、消耗した身体は思うように動いてくれない。
「ふふ、全然大丈夫そうに見えませんよ。さ、掴まってください」
 少し恥ずかしい気もしたが、そう言って寄り添うように肩を差し出す椛司の好意に、夜刀は素直に甘える事にする。
「ありがとうございます。それじゃあ戻りましょうか」
「はい」
 2人はそう言って鬼の塚を後にした。

†††

「セヤァァァァッ!」
「グオオォォォッ!」
 雄叫びを上げながら襲い来る鋼鉄の如き鬼の拳を、紫桜は真正面から迎え撃つ。
 八相上段に構えた刀の鋒が狙うはただひとつ。襲い繰る鬼の左胸。
 繰り出される右の拳を掻い潜り、間髪いれずに振り下ろされる左の爪撃は急制動をかけて躱す。制服の胸元が大きく裂かれるが、実際に切られたのは胸の皮一枚のみ!
 大きく躱せば、その動きは隙を作り敵に次の攻撃を許してしまう。それをさせないギリギリのところを見極めて躱すその動きは、普段より学んだ武道の賜物。
「ウオオオオォッ!!!」
 打撃に気を巡らせる要領で脚に気を溜めその勢いのままに大地を蹴る。
 八相に構えた刀を持って突き進むその姿は、敵を貫かんとする一本の矢の如く、鬼の胸へと突き進み……その本懐がついに至る。
――ガシッ。
 しかし、鉄の肌を持つ鬼を相手に、その一撃は浅すぎた。胸元に突き立った刀の刀身を、鬼はまるで勝ち誇ったような顔を浮かべてガシリと握る。
 敵の左胸に僅かに二寸。木刀ほどの切れ味しかもたぬ紫桜の刀では心臓に達するほどの傷を穿つ事は出来なかった。
「なんだ、その顔は? まさか俺に勝ったつもりなのか? だとしたら……」
 しかし、己の剣の切れ味などは誰よりも紫桜が知っている。
 己の刀が相手に致命傷を与えられぬ事など先刻承知。
「おまえの負けだッ!」
 そう言って、紫桜は刀の柄頭から手を離す。次の瞬間。
「グ、ギャァァァァァッッッ!!!!」
 断末魔のような叫びを上げて鬼が大地に倒れ付す。
 その胸に突き立った紫桜の刀が淡い光を放ちながら、ぞぶり、と鬼の胸へと食い込んでゆく。
 『鞘』たる紫桜の手の内にあるうちは木刀ほどの威力しか持たぬその刀も、ひとたび紫桜の手を離れれば、周囲に存在するあらゆるものから気を奪い、鉄であろうが霊であろうが蒟蒻だろうが皆一様に斬って捨てる。
 これこそが、紫桜が企図した決着。他者の気を喰らい斬れ味を増す妖刀。その力を最大限に解放し鬼を討つ。
「ガ、ア……ァ……」
 そして遂に、宿した気のすべてを剣に食い尽くされ鬼の断末魔の声が止む。気を吸い尽くされたその姿は、さながら鬼の木乃伊を思わせた。
「……ん?」
 砂のように崩れ去る鬼を身体を見つめながら、紫桜はその中から現れた『あるもの』に気を留める。
「短刀、それに、これは……」
 崩れ去った鬼の骸から現れたもの、それは刃長七寸ほどの白鞘の短刀。
 拾い上げて抜いてみれば、その特徴から短刀が忍から聞いた『経若』であろう事は容易に推察できる。だが……『経若』とともに現れたもう一つのもの。
「人形(ひとかた)?」
 それは和紙を人の形に切り抜いたもの。禊や祓、流し雛などに用いられる形代の符。
「いったい、どういうことなんだ……」
 抜いた刀を左の掌へと納めながら、そう呟く。鬼の骸は風に融けて消え既に跡形も無い。
 紫桜は、この事件の背後に何者かの意思を、存在を、感じずにはいられなかった。

◆鬼を追うもの◆

 追っ手を撒くために途中で心と別れ、ようやく辿り着いた『鬼の岩屋』
「やはり、この事件にも、貴方が関係していたんですね」
 そこで忍は再び『あの男』と相見えていた。
「……相模、影正さん」
 天下裏五剣のひとつ骨喰厳十郎影正を携えて、家族を喰い殺した敵の鬼を追う剣士。
「…………」
 何がしかの意図を以って投げかけられる忍の言葉。だが、男は黙して語らない。
「答えてください。今回の事も、貴方がやったんですか!?」
 東京で、32人もの人間を結界の人柱としたように、今回もまた関係のない無辜の民をその手に掛けたと言うのか? 忍はそう問うていた。
 殺さず、犯さず、貧しき者からは奪わず。それは忍が師より教えられた義賊の心得。
「答えてください……ッ!」
 昂ぶる感情に、我知らず忍の手が腰の差料にのびる。
「……勘違いするな。俺は、鬼の気配を追ってこの地に来たまで」
 そこでようやく男が静かに口を開く。
「だが、違った。俺の追っていた鬼ではなかった……」
 そう言って男が指し示したその先に、
「あれは!?」
 男の存在に眼を奪われ言われるまで気がつかなかったが、男が立つ場所から少し離れた岩屋の前庭。そこに、脳天から真っ二つに両断され、今まさに崩れ去らんとする鬼の骸が転がっていた。
「……見ろ」
 崩れ去る骸から舞い上がる、何か紙切れのようなものを視線で示して、
「形代の符だ。おそらく何者かが、この地に残る鬼の魂を形代に依り憑かせ、式として使役していたのだろう」
 吐き捨てるように言い放つ。そこに滲む感情は蔑みと怒りと、そして自嘲。
「お前達は……『あれ』を探しに来たのだろう?」
 鬼の骸から現れた刃長一尺八寸の小太刀。探し求める天下裏五剣のひとつ。
「……貴方は、どうなんです? 貴方も鬼を討つための力を、天下裏五剣を求めていたのではないのですか?」
 骸の元へ駆け寄って『紅葉』を拾い上げる。拵えの白鞘が所々朱に染まっているのは、この刀の名が『紅葉』ゆえか……。
「俺はそいつに興味はない。この骨喰と、もう一振りが在れば十分にやれる。言っただろう? 俺は鬼の気配を辿って来ただけだと」
 真実、『紅葉』に興味はないのだろう。男は、抜き身を晒していた骨喰を鞘へと納めそう呟くと、忍に背を向け……立ち止まる。
「……俺を追うか?」
 男が問う。
「……追いません。私が今回この地に来たのは、この『紅葉』の回収が目的です」
「そうか……」
 忍の答えを聞いて、男が一歩踏み出そうとした、その時。
「……ただ」
 そう言って忍は腰の剣を抜く。背後で感じる抜刀の気配に、男も骨喰の柄に手をかける。
「負けっぱなしってのは趣味じゃない。いま一度、手合わせ願います」
 そして再び、2人の男は相対す。

『この人を相手に後の先を取るのはまず不可能』
 忍は手にした刀を八相に、そこから更に手首を刀ごと後ろに倒して構える。鋒を相手から隠しその太刀筋を悟られぬように……。
 一刀流『隠剣』の構え。
 対して、男に構えはない。こちらを振り向きはしたものの、全身の力を抜いた自然体。ただ左手のみが差料の鯉口へと添えられている。
『……居合い、か』
 その構えなき構えから、忍は瞬時に相手の狙いを察知する。
 居合いとは、納刀の状態から刃を迅らせると同時に抜き放ち、抜刀をして斬撃と成す術の事。それは通常の剣術とは体系を全く異にする。
 これを実戦で行うには、相当の技量と研鑽が必要とされるのは言うに及ばず、それ以上に敵と己との間合いを計る眼が何より重要となってくる。間合いを見誤り刀を抜けば、それは即ち空を斬るのみで敵に届かず、次の瞬間には敵の刃をその身に受け命を落とす。
 だが、男の手にする妖刀『骨喰』。この妖刀に『間合い』などと言うものは存在しない。言うなれば視界のすべてがその間合いとなる。
『抜刀されていれば四肢の動作で攻撃の起点と剣筋を見抜くことも出来るだろうが……』
 骨喰と居合術との組み合わせ。それは、これ以上無いほどに理に適っていると言えた。
『抜かれれば負け……ならば、抜かせずに倒すまで!』
 意を決し、忍が走る。
 男と忍との距離はおよそ10メートル。地面は岩場、足場は悪い。だが、そんなものなど意に介さずとばかりに忍は走る。鋼を携え、右と思えば左、左と思えば右、変幻自在の風の如き速さで疾走る。
『先の戦い。貴方にあって私に足りなかったもの、それは敵を斬ると言う意思。巌の如き揺るがぬ覚悟!』
 致命的なまでに迫る両者の間合い。男の右手が動く。だが柄頭にはまだ遠い。
「テヤァァァァッ!!!」
 忍が跳ぶように大きく踏み込む。裂帛の気合とともに、隠されていた刃が袈裟懸けに打ち出される。
 男の右手が柄頭に届く。同時に左手で鯉口を切り、更にそのまま鞘を大きく腰から引き出す。
――ゴウッ!
 男の眼前を颶風を孕んだ鋼が吹きすぎる。腰を引いて後ずさり忍の繰り出す一撃を躱す。だが――
――ビュウ!
 吹き抜けたはずの颶風が、振り抜かれたはずの忍の一撃が、更なる颶風を孕んで巻き戻り逆袈裟の一刀となって襲い来る。
『ヌウッ!?』
 袈裟斬りから一瞬の間もおかずに繰り出される逆袈裟。更に袈裟、逆袈裟と続く怒涛の連続攻撃。先を取り、躱され防がれてなお先を制する圧倒的な剣速。
 それは、神も仏も斬り捨てんとする修羅の覚悟を以ってはじめて成される慮外の剣。技名は『仏棄刀』。
『このままでは……ッ!!』
 五撃目の袈裟を躱した瞬、これ以上の回避は不可能と悟った男が剣を抜く。
 忍の繰り出す逆袈裟の一閃。
 男が抜き放つ裏切上の一刀。

――キィン……

 鬼の岩屋に響く澄んだ音色。剣戟の閃光が収まり、そこにあったのは……
「ぐぅッ……」
 右肩を押さえ蹲る男の姿。
「つぅ……」
 対して、忍もまた右の手首を押さえ、斬り合ったその場所から大きく飛び退いていた。
 忍の一刀は確かに男の肩口を捉えた。だが、次の瞬間、繰り出された男の一閃もまた忍の剣を弾き飛ばしていたのだ。
 2人の仕合の結果は、合い打ちと言う形で、とりあえずの終わりを迎えた。

†††

「…………」
 背を向けて去ってゆく男を見つめながら忍は思う。
 先の戦いで負った手首の傷。この傷が無ければ、或いは自分は勝利を得たのではないか。
 去り際に男は言った。『いい、覚悟だ』と。
 その覚悟に従うならば、忍には男を追って止めを刺す、と言う選択肢もあったはずだ。手傷を負った者が相手であれば、不可能ではないだろう。だが、忍はそれをしなかった。
「やれやれ、新しい刀が必要ですね……」
 忍の刀は、男と打ち合ったその場所から真っ二つに折れていた。骨喰の一閃が刀の心鉄を喰らった結果だろう。
 そして、それを理由にして忍は引き上げる事にした。もしかするとこれは『覚悟が足りない』のかもしれない。
「ふふっ……」
 そんな事を思うと、我知らず口の端から笑みが漏れる。
 だが、忍はそれでいいと思う。人を殺すような覚悟など自分には必要ない。
 殺さず、犯さず、貧しい者からは奪わず。
 それこそが忍の覚悟なのだから。

◆エピローグ◆

「お疲れ様。みんなご苦労だったね。おかげでこうして無事に……『紅葉』と『経若』を回収する事が出来たよ」
 宿に戻った5人を、蓮はそう言って出迎えた。
「確かに、剣は回収できたが……」
 しかし、対する5人の表情は明るいとは言い難い。
「……ええ、今回も大勢の犠牲を出してしまいました……」
 心に続いて夜刀がそう呟く。
 村へ戻ったとき。そこは大変な騒ぎとなっていた。
 何しろ村民の3割もの人が行方知れずになっていたのだ。騒ぎにならなかった今までが異常だったとは言え、それでも村は上を下への大騒ぎ。消えた子や孫を探して山へ分け入る老人の姿も数多く見られた。
「如何に天下裏五剣の異名を持つ妖刀とは言え、たった一対の刀がこれほどの騒ぎを起こすなんて、未だに信じられません」
「違うよ。悪いのは刀じゃなく、それを使う人の方さ」
 そう言って俯く椛司を蓮が嗜める。だからこそ、悪用されないように力ある刀は厳重に保管しなければいけないのだと。
「しかし、式鬼を用いて結界を張るなんて……いったい誰の仕業なんでしょう」
 今回の事件。その背後に居たのは骨喰を奪ったあの男ではなかった。忍の言葉が全員の表情に影を落とす。
 この周囲一帯に幻の結界を張り、式鬼を用いて何事かを成そうとしていた人物がいたという事は間違いない。これほどの式と結界を使えるのだから、並の者ではないはずだが……。
「さぁね、その目的や正体を考えるにしても、いまは情報が足りなすぎる。馬鹿の考え休むに似たり……じゃあないけど、この状況でアレコレ考えたって答えなんか出やしないよ」
 事実、蓮の言うとおりだった。今の段階で判っている事といえば、敵が式を使う術師であるという事くらい。その目的にいたっては皆目見当もつかないのだ。
「ただ……」
 しかし、蓮にも、そして5人にも、たった一つだけ判る事があった。
「この事件、まだまだ底が知れないねェ……」
 天下裏五剣とそれに付随して起こる謎の事件。それがこれからも続くであろうと言う事だけは……。


■□■ 登場人物 ■□■

整理番号:5653
 PC名 :伏見・夜刀(ふしみ・やと)
 性別 :男性
 年齢 :19歳
 職業 :魔術師見習、兼、助手

整理番号:5745
 PC名 :加藤・忍(かとう・しのぶ)
 性別 :男性
 年齢 :25歳
 職業 :泥棒

整理番号:4925
 PC名 :上霧・心(かみぎり・しん)
 性別 :男性
 年齢 :24歳
 職業 :刀匠

整理番号:5453
 PC名 :櫻・紫桜(さくら・しおう)
 性別 :男性
 年齢 :15歳
 職業 :高校生

整理番号:4816
 PC名 :花東沖・椛司(かさおき・もみじ)
 性別 :女性
 年齢 :27歳
 職業 :フリーター兼不思議系請負人


■□■ ライターあとがき ■□■

 注1:この物語はフィクションであり実在する人物、物品、団体、施設等とは一切関係ありません。
 注2:筆者は長野県観光協会の回し者でもありません。

 と、言うワケではじめまして、こんばんわ。或いはおはよう御座います、こんにちわ。
 この度は『天下裏五剣 斬之弐“紅葉・経若”』への御参加、誠に有難う御座います。担当ライターのウメと申します。

 哀しき鬼女伝説の残る地で繰り広げられる謎の事件と鬼との死闘。お楽しみ頂けましたでしょうか?
 今回、作中に登場する紅葉伝説に関しては明治時代に書かれた『北向山霊験記』という本を大筋で参考にしています。
 鬼女紅葉に関しては本当に色々な説があり、中には八面大王の奥さんだったとか、金太郎の母親だったとか、「ええッ!?」と思う話が色々と見つかりました。
 そんなワケで資料を集めるにあたって色々と苦労しましたが、その分楽しく書くことが出来ました。……比例して文量も多くなりましたけど……
 今回もまた統一エピローグと言う形となっておりますが、その辺りは何卒ご容赦のほど……

 シリーズ物と言うことで、この勢いが無くならない内に続編を発表したいとは思いますが……正直いつになると断言は出来ません。
 ですが、出来る限り迅速にストーリーを練って発表したいと思いますので、楽しみに待っていて下さい。
 最期に、ご参加くださった皆様への感謝と、長野県、とくに鬼無里・戸隠付近の皆様に「ゴメンナサイ、もうしません (´・ω・`)」と謝りつつ、あとがきを締めさせて頂きます。

 それでは、また何時の日かお会いできることを願って、有難う御座いました。