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□ 過ぎ去りし刻、解かれて □
夕闇に微かに浮かび上がる廃教会のシルエットは、一瞬日本ではなく、外国だと思わせる。
秋空の下、鬱蒼とした樹々に囲まれ、都心から離れた廃教会。
一見、人の住まう所に見えないのか、余程の好奇心を持ちあわせた者か、信仰心に稀薄な者で無い限り、訪れようとする者も居ない。
それは廃教会に居を構えているアドニス・キャロルにとって思ってもない事で、今までは誰か来訪するのを心待ちにしている時も有ったのだが、今では特定の人物を待つのを楽しみになった自分、ひいては相手を思う気持ちが芽生えた事に驚きを感じつつも有りの儘の自分を受け入れている。
夕刻というには、既に闇夜が近づきすぎた空模様。
外と同様、室内にも闇が広がったのを部屋の主は感知したのか、ゆっくりと銀の瞳を開き覚醒する。
アドニスはあまり気にする事も無く、ベッドから気怠げに起きあがると、乱れた髪をそっと手櫛代わりにして、撫でつける。
しっとりとした銀髪は、艶を帯び暗い室内でも鈍く輝く。
サイドテーブルに置かれているのは、ワイン瓶と蝋燭の立てられた燭台。
電気の通っていない廃教会では唯一の光源だが、最近になってアドニスは使う様になった。
廃教会の祭壇に置かれていた燭台だが、蝋燭は過ぎ去った年月の間に風化し砕けていたので、外に出た時に手に入れたのは西洋キャンドルではなく和蝋燭だ。
和風好きの知人が、蝋燭は西洋より日本の物が良いと教えてくれたからだ。
最近は見た目も余り変わらない物があり、室内との違和感は余り無かった。
アドニス自身、蝋燭が主流で使われていた時代から生きているから、和蝋燭の良さに気付いている。炎が西洋キャンドルより大きい割に、発生する煤が随分と少ないのだ。
喉の渇きを覚えたアドニスはワイン瓶を掴み、そのまま口へと運び紅い液体を喉に流し込む。
コルク栓をしていなかった為か赤ワインは酸化し、味が落ちていた。
秀麗な眉を少し顰めるが、残り少なかった赤ワインをそのまま一気に処分する。
口元から顎にかけて紅い液体が伝ったのを、手の甲で拭い去ると、新しいワインを地下にあるワインセラーへ取りに向かった。
石造りの建築物である教会は、所々崩れて仕舞った箇所もあるが、概ね元の形を留めており、地下は完全に建築当初のままで有るようだった。
こつこつと靴音を鳴らして石階段を降り、暗闇の中、目的の物を置いて有る場所で探す。
闇夜を見通す銀色の瞳は、その場所に目的の物が無い事を知る。
買い置きのワインが底をついていた。
「仕方ない……」
時間も遅かったが、今は昔ではない。
24時間営業の店も多く、買いたい物が見つからないと云う事は滅多に無い時代だ。
普段はアルバイトの帰りに手に持てる程度に購入し、保管して有るのだが、此処の所消費が激しかったようだった。
すっかり補充する事を忘れていたアドニスは、久方ぶりに貸金庫へ向かう事を決めた。
ワインセラーの一角に積まれて保管されていたワインは、目に見えるだけでもかなりの数を保管出来るのが分かる。
アルバイトをしてそれなりの金額は持っていたが、生憎と今現在所持している金額では足りなかったのだ。
アドニスが借りている貸金庫は都心部にあり、24時間自由に出し入れ出来、警備もしっかりした信頼ある海外の銀行の支店がサービスとして顧客に貸し出していた。
廃教会に住んではいるが、海外では屋敷を所有しているアドニスだ。
滅多に帰郷する事は無いが。
有人型の貸金庫でない所が気に入っていた。
移動手段をどうするかと、ジャケットを取りにあがると胸ポケットに入れてあった箱から煙草を取りだし、火をつける。
ふう、と紫煙を吐くと携帯電話を取りだし、タクシー会社の電話番号を入力する。番号は何度か使った事があり、記憶していた。
廃教会まで来て貰う訳にはいかず、少し歩いた場所にバスの停留所が有る事を告げて、其処まで来て貰える様に伝える。
到着時間を告げられ、それまで何をするでもなかったが、時間潰しで留まるよりは、歩きながら夜空を見るのも良いかと考え、外へ出た。
煙草の灰を携帯灰皿に落とし、道路の端を歩く。
不意に廃教会へと振り向き眺める。
相変わらず人の住まう場所には見えなかったが、一人ではない事に気付いた今では寂しいと思う事も無くなった。
時折、妬く事も有るが、それは相手が居るからこそ出来る事。
停留所に立ち、やがてタクシーの灯すライトが側で停車し、ドアを開けた。
行き先を告げると、運転手はドアを閉め、アドニスは時折漏れてくるFMラジオの声に自然と耳を傾けた。
対向車のライトが光の流れの様に見え、それは過去へと遡る道標の様で。
知らず、自然と思い出すのは狩人時代の自分の姿。
今になって思い出す事も過去の出来事として割り切れる様になった自分を受け入れ、記憶の海へとアドニスは身を任せた。
煌びやかな衣装に身を包んだ貴族達は連日連夜、時間を何処かに置き忘れた様に飽きる事無く踊り続けている。
その光景をキャロルはストイックな黒の衣装を身につけ、ワイングラスに満たされた紅い液体を呷ると、冷めた目で眺めた。
何時終わるとも分からない世界で、まるで世界の全ては此処に有るとでも思っているのか貴族達は傲慢で満足を知らない。
振りかけた香水の匂いと獣油を使った蝋燭の匂いが混じり合った空間に居る事に耐えられなくなったキャロルは側にいた貴族にグラスを押しつけ、その場に留まり相手をする様命を出し、自分はテラスから続く中庭へと足を踏み入れた。
あのまま留まれば、衝動に身を任せて仕舞いそうだった。
闇に身を浸して生きる様になってから随分と経つと云うのに、貴族的な振る舞いや礼儀に慣れる事は無かった。
自分が貴族達と同じ様になるのが耐えられ無かったのかも知れない。
けれどあの当時は振り返る事無く、勝手気儘に自由に生きて居たと云えた。
保護者と云う鎖がある自由だったが。
彼は貴族の中の貴族と褒め称えられる程の人物で、どうして俺を眷属にしたのか。
貴族の気紛れだと、酒を飲み交わし夜を共にした時に語ったのが本当かどうかは分からない。
言葉に出したものだけが真実では無いと分かっていたからだ。
ただ、俺があの様に変わったとしても、変わらずにいた事は本当に呆れるしか無かったのだが。
目が覚め、不意に周りを振り払う様にして、館を出た事は今でも後悔はしていない。
自分に降りかかる災難は後悔すべきものでは無く、もしするのならば相手にかかった場合だろう。
調教された黒馬に乗り、遠出をした日。
空は相変わらず闇に閉ざされ、先の見えない世界は未来に希望を持たない自分と同じだった。
領地から随分と外れ、もう少しで彼の領域から出ようと云う時。
茂みから現れた数人の男達が道を塞ぐ様に現れ、黒馬を立ち上がらせ動きを止める。
混乱した黒馬に振り落とされたキャロルは、一瞬それが自分を狙ったものなのか、唯の物盗りなのか判断がつかなかった。
戦いに置いて一瞬の判断を誤れば直ぐ死に繋がる。
落馬の衝撃で身体を痛め、咄嗟の動きに移れなかった。
周囲を囲まれても冷静に判断し、突破口を考える。
剣を交え、確実に一人、二人と倒す事が出来たが、残った二人の内の一人が手にした剣を見て固まった。
物盗りが持つには分不相応な装飾が施された銀剣。
今まで襲撃した貴族や商人から奪ったのかは分からなかったが、今この状態では不利だった。
頭の回転が速いのだろう、キャロルの動きが鈍ったのを察知し、銀剣を持った男が目を見張る剣技で責め立てる。
通常の剣よりも重い筈なのだが、軽々と操り防戦一方にキャロルを追い込んでいく。
受ける剣の重さに幾分顔を顰め、攻撃に転じようと勢い転じたキャロルだが、相手が一枚上手だった。
男は剣で受ける事なく間合いに入ると、下から剣を突き上げ、鳩尾へ剣を沈めた。
背に生えた剣先が紅く染まる。
素早く剣を抜き、血を振り払った後、装飾品を奪い去っていった。
キャロルは仰向けになり、空を見た。
流れる血そのままに、息絶えるのも良いかと考え始めた時、側に誰か居た。
意識が時折飛んで居たのだろう、その事に気づき、留めを刺すのなら刺せば良いと掠れる声で云ったつもりだったが、肺を傷つけていた為に声にはならなかった。
相手はどうするべきか悩んだのか、暫くその場に留まり何を思ったのかキャロルを抱き上げた。
馬の背に乗せると、自身も馬上の人となり走らせる。
常人と違う事に気付いて居たのだろう。
物好きな、と内心苦笑し、意識が途絶えようと云う時、間近に見たのは自身と同じ顔だった。
彼の領地から外れた所にある館だった。
気付いたのはキャロルを助けた男がご丁寧に説明をしたからだった。
瓜二つの顔をした男は狩人だった。
キャロルが身を寄せる彼とは間逆の存在だった。
それはキャロルにしても同様だ。
銀剣で傷つけられた傷はなかなか癒える事は無く、期間だけが過ぎていた。
焦りと自分と全く同じ顔を持つ男の存在がキャロルを追いつめていったのを、男は理解している様だった。
それでも命を絶つでも無く、保護しているのは言葉に表せない何かが有ったのだ。
二人の微妙な均衡を崩したのはキャロルだった。
癒えない傷を彼の血で贖おうとしたのだ。
抵抗するでも無く、吸血の牙を受け入れた彼はそのままキャロルと共に一つになった。
同じ姿形。
けれども立っていた場所は正に逆。
キャロルは銀剣で穢れた己の身体を捨て、アドニスの身体を手に入れた。
逃げようとは思わなかった。
成り代わるには色々と条件が良かったのも有ったからだ。
自身が未だ吸血鬼の彼の眷属として繋がっているのを感じて居たが、狩人になると決めた。
何もない未来に少しは変化があると思ったのかも知れない。
狩人としての仕事は多かった。
依頼される事が無くても、遭遇する状況は時代的に多かったからだ。
やり方は徹底的だった。
逃げ場がない様、炎で燃やし、眷属に連なる者全てを焼き尽くした。
後に残るのは灰だけだった。
時折、彼の元を訪れ、彼は窘めたが、アドニスは苦笑するだけだ。
彼は眷属であるアドニスのしでかした事で色々と云われている筈なのに、以前と変わらずに接しているからだ。
人が良いのにも程があると。
それが彼の元を完全に離れない理由なのかも知れなかったが、今のままではいけない事は分かっていた。
最後にしようと内心決意をすると、いつもと変わらず素っ気ない言葉で彼の元を去った。
彼も変わらずに、気が向けばおいで、と優しく返した。
不変の種族としての別れ方だったのかも知れない。
……今でも変わらずに接してくれるのだろうか。
タクシーの運転手が着きましたよ、と声をかけたのはアドニスが目的地に到着したのに気付かず目を閉じて居たからだ。
眠ってしまったのを起こすのは忍びなかったのか、遠慮がちな声だった。
待たせて悪かったと謝り、料金を払って車外に出た。
目が光に慣れ、辺りを見渡す。
貸金庫の受付に名前を告げ、カードを見せる。
本人確認を済ませ、プライベートルームに足を踏み入れ、認証装置に暗証番号を入力する。
借りているスペースの扉が自動的に開いたのを確認すると、アドニスは苦笑を漏らし足を踏み入れた。
壁際の棚全てに装飾品や織物、絵画が並べられている。
湿度調節されている此処が一番良い保管場所の為、換金しやすい美術品を貸金庫に収めてあった。
貸金庫で選んだ美術品を持ち出し、古美術商に売り、換金する。
買いたたかれているわけではなかったが、蒐集家にすればもったいない話だろう。
需要が有れば供給も有る。
因果な時代に手に入れた品々だったが、捨てる事無く今も手元に有るのは生きる為にはお金が必要で、今がその時だと云う事だ。
並ぶ美術品一つ一つに思い出が有るわけでは無かったが、過去へと引きずられて仕舞うのは確かだった。
アドニスは貴金属一つで十分だろうと、サファイアのラリエットを手にして箱に収めた。
ポケットに箱を入れると、貸金庫のドアを閉じ、外に出た。
換金を無事済ませた後、ワイン専門店で当分の間困らないだけの本数を購入し、包装して貰っている間、冷蔵庫に入れられている別扱いのワインを眺めて、もう一本追加で購入した。
余り自分から連絡を取る事のないアドニスだが、携帯電話を開くと相手の電話番号を確かめコールする。
アドニスは微かに笑みを浮かべ話し出した。
Ende
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