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<東京怪談ノベル(シングル)>


第四話 垣間見る四精霊のきざはし

 夜半には雪になろうかという雨が、修道院の窓ガラスを伝い落ちていた。
 そろそろ暖房が必要な季節がやってくる。
 鮮やかに森を染めた木の葉も今は色褪せ、降り積もった葉の隙間にしっとりと雨を吸っている。
「主よ、この食事を祝福して下さい。
身体の糧が、私たちの心の糧になりますように。
今日、食べ物に事欠く人々にも必要な助けを与えて下さい」
 蝋燭を灯された夕餉のテーブル、シスターたちは目を閉じそれぞれに祈りを捧げている。
 その末席で伏見夜刀も瞳を閉じていた。
 しかし少年の意識は、祈りよりも別の方向に漂っていた。
 夕べ遅くまで読み込んでいた17世紀の紋章書『遁走のアタランタ』の図説が、脈絡無い連想となって夜刀の脳裏に描かれる。
 ――岩の頂で休む鴉、壁にコンパスで縁を描く女性……二つ尾の翼ある獅子……燃え盛る四つの宝珠。
 細やかな寓意画の示す意味をたどり始めると、夜刀の意識は内面へと向かい、時を忘れてしまう。
 ラテン語が正しく読み解けているのではないが、寓意画にこめられた魔術への道標が夜刀には感じられるのだ。
「……主に感謝を。同胞に労わりを。
父と子と聖霊の御名によって……」
 一斉にシスターたちが「アーメン」という言葉を口にした時も、夜刀はまだ寓意画に意識を取られており、慌てて「アーメン」と口にした時は一人遅れてしまった。
「夜刀様。祈りはご自身を謙虚に保つ為のものです。
ほんの一時ですが、大切な時間ですよ?」
 静かに諭すようにシスターは言う。
 夜刀は他のシスターたちの意識が自分に集中しているのを感じ、頬を赤らめた。
「……はい……すみません」
 食事の味もわからないまま夕餉を終えた夜刀は、自室に向かう前に蔵書室へと足を運んだ。
 窓の無い蔵書室の四方の壁は本棚が天井まで覆い、部屋の中央に閲覧用のテーブルと椅子が置かれている。 
 蔵書室は伏見家にあったものに比べれば小さな部屋で、蔵書量もごくわずかだった。
 しかし納められた魔術関連の本は、全てが貴重な原書や初版に近いものばかりだ。
 この教会が密かに<聖洞>――サクラ・グロクタとも呼ばれる所以だった。
 貴重な本とはいえ、教会の人間ならばそれらは自由に借り出せる。
 夜刀は幾つかの本を手にして自室に戻った。


 部屋のベッドにかけていたカーディガンをはおり、夜刀は机に向かった。
 手元を照らすのは蝋燭ではなくランプで、丸く広がったほのかな明かりが本の表紙を照らし出す。
 もう何度も開いて手になじんだ革製の表紙をめくると、扉絵が夜刀の目に飛び込んでくる。
 台座にはアテネとヘルメスという学知の神々、門柱にはアルカディアの住人パンの男女、構築の道具をぶら下げた童子や幾何学モデルが配されている。
 誘われるようにページを開けば、具体的な実践魔術の手順が図式と共に記されている。
 最初のページにはまず四大元素――火・水・土・風を示す象徴とその制御について書かれている。
 錬金術にも用いられるサラマンダー、ウンディーネ、ノーム、シルフ。 
 それらの精霊の姿は、魔術師のイメージが不確定な四大元素を確実に認識する為の象徴だ。
 そしてそれを制御する事が、全ての魔術の基本にもなる。
 正式にはより安全に意識を潜在的最下層まで降ろす為、潔斎した身体を法衣に包んで儀式を行う。
 しかし今は予備召喚とも言える段階なので、床に描いた魔方陣の中に立つのみだ。
 つい最近までは魔術図式が何を示した図式なのか夜刀にはわからなかったのだが、自ら学ぼうという姿勢で読み始めると面白いように内容が頭に入っていった。
 冷たい床に裸足で立ち、夜刀はページの上の図形に指を置いて瞳を閉じる。
 意識を静め、精霊の姿を魔方陣の外に思い描く。
 今、イメージしているのは風の精霊・シルフ。
 何者にも縛られる事無い、自由を抱いた空の乙女。
 普段ならば言葉を口にする前に何度も思考を重ねて逡巡する夜刀だったが、召喚呪文はつかえる事無く唱えられる。
「……我は、汝を召喚す。
精霊シルフよ、至高の天主よりの力を持ちて我は力をこめ汝に命ず。
盲目の占星術師が手にする金剛石。
沈まぬ太陽の光。
砂礫に咲く青き薔薇の香り。
とこしえの凍土に眠る暗黒の地の名により。
最も気高き姫皇子エルモニーク、ハイ・ラ・ナ、およびタタールの住処の司祭によりて。
および黒鍵騎士団における第十三騎長・風迅ティルダの名によりて……」
 流れるように詠唱を続けながらも、夜刀の意識は見覚えのある図形に懐かしい面影を重ねている。
 ――前に……父様や母様が教えてくれた図形に、似てる……。
 今よりももっと幼い、意味など知らないでただ両親に褒められるのが嬉しくて魔方陣の形を覚えていたあの頃。
 両親の面影を懐かしむ行為は同時に、一年前の夏に起こった事件も夜刀の心によみがえらせてしまう。
 激しく吹きすさぶ風、むせ返る潮の匂い、重なる血の真紅。
 命を失った者が崩れ落ちる音。
 ぬめる手の平に残された血の――両親を殺めた感触。
 ――あの時の、『僕』はまだ……心の……ずっと深い所に眠ってる。
 それが目覚めそうで。
 四精霊のうち、シルフの存在が淡く感じられ始める瞬間。
 そっと頬に触れる温かな感触と声――いや、意志のようなものを夜刀は感知した。
『そんなに怖がってちゃ、私たちを呼べないわよ?』
「……っわ!」
 頬に強い風を感じて瞳を開けると、ランプの炎が消えてしまっていた。
 瞳が暗闇に慣れるまで、雨だれの音だけが耳を打つ。
 ――また、失敗しちゃったな……。
 夜刀は無意識のうちに恐怖で思考と集中力を断ち切ってしまい、シルフ……いや四大精霊を上手く召喚・制御できないでいた。
 自己流で魔術を再び学び始めたものの、独学でやれる事には限界があるのだろうか。
 夜刀はしばらく暗闇の中佇んでいたが、その夜はそれ以上精霊に働きかけるのをやめてベッドに入った。
 シーツが温まるまで、夜刀は思いをめぐらせる。
 ――きっとこのままじゃ、召喚に失敗した時……教会の皆にも、迷惑をかけてしまう……。
 シルフではなくこれがサラマンダーを召喚したのだったら、部屋に炎が振りまかれていたはずだ。
 今でも時折意識の海から立ち上った紅い光景の夢は、繰り返し夜刀の心に恐怖を上書きしている。
 それがあの日意識の深奥へと沈んだ『水底の支配者』の意志によるものか、『もう一人の自分』が与える試練なのかわからない。
 いずれにせよ、暴走した自分が何をするかわからないのが、怖い。
 自分の内側に抱え込んだものは地底深くたぎるマグマのように、わずかな亀裂を探して身体中を駆け巡っているのかもしれない。
 それが何のきっかけで噴出してしまうのか、予想できない。
 ――……守りたいのに。もう……誰も、失いたくないのに。
 眠りに落ちる前、もどかしいやるせなさが夜刀の思考を覆っていく。
 ――やっぱり、誰か……魔術を使っている人に、直接教えてもらった方がいいのかな……。
 冷え込みが一段と厳しくなった最近は、老シスターもベッドで過ごす時間が多く、教えを請うのはためらわれる。
 思わずついたため息が雨だれの音に重なって響いた。


 普段よりも眩しさを感じて夜刀は目を覚ました。
 窓の外が白く光に満ちている。
「ね、寝坊した!?」
 あわてて起き上がり枕元の時計を見ると、気象時間に合わせた時刻よりも早い。
 部屋の中は昨夜シルフの召喚に失敗したせいで、ハンガーにかけたコートが床に落ち、カーテンが捲れ上がり開いてしまっていた。
 ――ああ、それで……いつもより明るく感じられたんだ。
 ほ、と吐いた息も白い。
 黒い鉄の窓枠に近寄ると、湖に続く緩やかな丘は白く雪で覆われていた。
 灰色の雲は東へと抜けて、晴れ渡った青空を映した湖水には早々と渡り鳥の姿も見える。
「……初雪だ」
 昨日から続く今日なのに、世界はたった数時間で――いや一秒ごとに姿を変える。
 その光に触れたくて、夜刀は窓を開けた。
 窓から伸ばした両腕に、頬に、冷ややかな風が触れて過ぎてゆく。
『まだ怖いの?』
 ――怖くないよ。
 ごく自然に答えて、唐突に夜刀は四大元素・四大精霊が実はとても身近に、初めから常に存在しているのだと感じた。
 あれはシルフの囁き。
 姿は見えなくても、軽やかに浮き立つものを夜刀の感覚は確かに捉えた。
 召喚儀式はそれをもっと強く認識するためのものだったのだ。
 ――もし叶うなら……短い間でもいいから、直接魔術を教えてもらえるよう、頼もう。
 場合によっては、この修道院を出る事になるかもしれない。
 それは夜刀にとって寂しさを伴う決意ではあったけれど。
 ――あんな風に誰かを……また失くすよりも、絶対にいい。
 夜刀はそう思い、冴えた冬の空気を大きく吸い込んだ。


(終)