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黄昏時の後悔
今、わたくしめはお茶の用意をして参りました。
それが、リンスターに、セレスティ・カーニンガム様に雇われております料理人でもあるわたくしめの――池田屋兎月のお役目の一つで御座います。
セレスティ様――主様が喜んで下さる事なら何でもして差し上げる所存。
わたくしめで出来る事ならば。
そしてお茶の用意は、わたくしめが主様にして差し上げられる、数少ない事の一つ。
ですからいつも申し付けられては心弾ませ、主様のお部屋まで伺います。
…わたくしめの煎れたお茶で、お茶のお好きな主様に喜んで頂けるのならば、わたくしめも本望で御座いますから。
心地好い秋晴れの日の、夕暮れ時の事になります。
その時もまた、兎月はお茶の用意をして主様のお部屋まで直接お持ち致しました。
お持ち――したのですが。
扉の前、部屋の外から中へとお声を掛けても、主様のお声がしません。
わたくしめが来た事に気付いてらっしゃらないようで御座います。
どうかなさったので御座いましょうか?
兎月は扉の前で暫し考えます。
…まさか、お部屋の中で主様に何か大事が。
思いつつ――それでもそれが早とちりの可能性もあると自分に言い聞かせ、極力抑えて冷静に、それでいて万が一何か大事があってもすぐに対処出来るようにとも考えて…兎月はそうっと主様のお部屋の扉を開けました。
すると、主様は。
部屋の奥。
窓際で。
椅子に座ったままで。
膝の上に、読み止しの本を置いたままで。
静かに、寝息を立てておいででした。
カーテンと主様の銀糸の如き髪が、ほんの少し――微風に吹かれています。
ほっとしました。
…きっと、お疲れになっておいでなのだ。
思い、兎月はそのままそっとしておきましょうと――そのまま、部屋を退出し掛けます。
が。
その時ふと、人伝に耳にした事を思い出しました。
急に冷え込んできたから、風邪に注意――云々。
…天気予報か何かだったかもしれません。
御屋敷のどなたか、もしくは御屋敷にいらっしゃったどなたかだったかもしれません。
何処から得た情報だったか、兎月は良くは記憶しておりません。元々情報は多く拾ってしまう耳、何処で聞いたか知ったのか――あまりはっきりしません。
ですが――その話が、もっともな事であるのは確かで。
そしてこのお部屋には――目の前には、主様。
開け放たれたままの窓。
微かに吹き込んでいる、心地好い微風――但し、眠っているそこで、直接当たってしまっているとなれば。このまま冷え込んでくるとなれば。
心地好い、では済みません。
…主様がお風邪を召しては大変です。
慌てて思い直し、兎月は用意して来たお茶を――急いで、けれど静かに丁寧にサイドテーブルに置きました。
そして――主様を起こさないように気を付けつつ、開け放したままであった窓を音を立てぬよう注意して閉めます。それから、傍らのベッドにあるパシュミナの毛布――薄くて軽く、暖かい物ですのであまり邪魔にもならないでしょう――を掛けて差し上げました。
主様はそれでも気付かれる気配はありません。
それに。
毛布――これだけでは心許無いように思えます。
…どうしましょう。
と、暫し考えてから、兎月は主様のお部屋をそーっと退出する事にしました。
そして主様のお部屋を出るなり、急いで屋敷の別棟にある自室に向かいます。
■
…で。
戻って来た時、兎月の手には自分のものである秋冬物の羽織がありました。…特に、暖かいものを選んで来たつもりです。
主様の様子を窺えば、まだ、お目覚めになられた――気が付かれた様子も御座いません。
わたくしめが毛布をかけたそのまま、まどろんでおられます。
兎月はそれを見てから、持参した羽織を主様の肩にそっと掛けます。静かに、起こさないように気を付けながら。落ちないように気を付けて。主様の静かな寝息が聞こえます。それと、時折身じろぎを。少し驚き、兎月は停止して主様の顔を覗き込みました。ですが、目覚める様子はありません。起こしてしまわなくて良かった。思いつつ、主様に掛けた羽織をもう少し深く確り肩に掛かるようにしていました。…主様はほんの少し、毛布を手繰り寄せるような仕草もなさっています。そして――実際に少し毛布を手繰ると、それで落ち着いたように動きを止めていました。
兎月はそれを見、満足げに頷きます。
…これで寒くは御座いませんでしょう。
兎月はそう思い、今度こそ――本当に部屋を退出しました。
■
…が。
それから後の事。
主様は…体調を崩されてしまっていました。
それもやはり…ちゃんとベッドでお休みになられていなかった、それが一番の原因のようで。
知らされました時…頭を殴られたような衝撃を覚えました。開け放たれていた窓を閉め、毛布を、羽織を掛けて差し上げたのに――それでは駄目だった。良かれと思ってした事が、何の役にも立たなかった。…わたくしめが、あの時もっとちゃんと対応できていれば。
悔やんでも悔やみ切れず。
後悔頻りで御座います。
その事を訴え、兎月は何度も何度も謝罪致しました。…到底、それで許されるような事では御座いませんが、言わずにはいられませんでした。わたくしめのせいで。わたくしめが至らないばっかりに。
が――主様も他の皆様も、兎月のした事に礼を言って下さるばかりで、兎月を責めるような事は一切言われませんでした。
兎月君の気持ちはわかってますから気になさらないで下さい、と主様までわたくしめに仰います。
その事にもまた、申し訳無さでいっぱいで。
お役に立てなければと思うのに、お守りせねばと思うのに。
その逆に――わたくしめは何も出来ていない。
今回の主様の事も、そう。
…ああ、わたくしめが至らないばっかりに。
【了】
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