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『楓舞う宿にて』
喧騒と狂宴の街から高速に乗り、ランドクルーザーを飛ばして一時間と少し。
ゼファー・タウィルは静寂へと辿り着く。山あいの温泉地は、日本に長く住むオーストラリア人にとって、馴染みのある場所だった。そう、ドラッグストアで購入する入浴剤によく名前が載っている。
舗装道路から砂利道の駐車場へ入ると、予約した旅館の建物が見えた。ビンゴ。敷石の庭園からがらりと引き戸を鳴らして出入りするような、日本家屋の旅館だった。
この辺りは観光地でもあるので、ホテルタイプの宿も多い。山道を昇って来る時も、何軒か横目で通り過ぎた。ゼファーはディスコもカラオケもいらない。ただのんびりとしたいだけだ。大袈裟でない造りの宿はありがたかった。
格闘家の旬は短いものだ。若い頃は骨休めなど望みもしなかった。ただ次々と足を振り上げ闘いに向かった。だが、今はもう無理はしない。一戦ずつ大事に闘い、その後は『のんびりして』ケアをしたい。
荷物はディバッグだけ。肩にひょいとかけ、ポリスのサングラスを外したが、考え直してまた装着してから車を降りた。ウィンドブレーカーのフードもかぶる。防寒の為ではないし、K−1選手として顔が売れているなどという奢りからでもない。夕方に近いが、高地での太陽には気をつけた方がいい。ゼファーはアルビノ(白皮症)であり、皮膚をさらす事や目に強い光を当てる事には配慮が必要だった。
外に出ると、清涼な空気に身が引き締まった。これは、草木のけむる匂いなのか、庭に並ぶ大きな石の苔の匂いなのか。インセンスに似た香りが鼻孔をくすぐった。いにしえを感じさせる匂いだ。
砂利を踏みしめる足を止めた。何かの声が聞こえないか耳を澄ます。背筋に寒けが走った。
ゼファーは自分の能力に気付いてから、『時間』に関することに想いを馳せる度、心に鈍い痛みを感じるようになった。無意識に時の流れを停止してしまうなんて、迷惑な力だった。望んだわけでなく、一族の遺伝らしい。この色素の無さ同様に。
玄関の黒塗りの引き戸に手をかけようとすると、するりと開いた。
「なんだよ。自動ドアか」
宿の外見とは裏腹に、文明はここにも浸透している。陽の届かない場所に入り、やっとサングラスをウィンドブレーカーのポケットに突っ込んだ。首を振ってフードを落とすと銀の短髪が現れた。血管が覗いて赤く見える目は、色のヤバさに比べ穏やかで、優しさをたたえている。
「いらっしゃいませ」と出迎えた和服の女性は、「あら、外国のかた!」と目を丸くした。
「予約していたタウィルだ。少し早く着きすぎちまったかな?」
「た・・・田粳(たうる)様?あら、まあ、タウィル様ですか。
浴衣がキングサイズのかたですね?
お電話では日本語が流暢でしたので、てっきり日本のかただと思っていました」
女将は破顔し、膝を付いてスリッパを揃えゼファーを迎えた。
外国人も多く訪れるのだろう、特に外人だからと臆する様子もなく、階段を先に立って案内してくれた。
建物は綺麗に整えられているが、新しくはないようだ。柱は所々黒ずみ、砂壁も落ちた箇所がある。だがゼファーには、それも風情があるように思えた。照明を控え目にした長い廊下には、飴色の艶があった。
通された部屋は角部屋で、室内の窓からもベランダからも四方の山が見渡せた。今年は暖かく、11月末で紅葉は6、7割という感じだが、緑が残っているからこそ赤や黄色も引き立って見えた。空気が澄んでいるせいか、遠くまで冴え冴えと木々が臨める。一本ずつの形さえ見極められそうだ。下には、さっきランクルで通った村がジオラマの細かさで彩を添える。赤や青のトタン屋根の下には、フィギアの人々が息づいているのだろう。
部屋は秋のシーズンに向けて畳を新調したのか、まだ新しい井草が淡く青い。
女将は、和食は大丈夫かとか箸は使えるかとか散々気を回して尋ねたが、ゼファーの苦笑まじりの「日本は長いので、ご心配なく」の一言で、あまり構うのは辞めたらしい。「ごゆっくり」と三つ指を付いて退室してくれた。
露天風呂には夜間照明設備があり、11時まで入れるという。皮膚のことを考えると、入浴は陽が落ちてからの方が無難だ。
熱い茶で一服しベランダの景色を愛でた後、ゼファーは畳に寝ころがって腹筋100回と腕立伏せ50回をこなした。運転席に座りっぱなしでうんざりしていたのだ。その後、階下の屋内風呂で汗を流し、浴衣に着替えた。試合で地方のホテルに泊まることもあるゼファーは、旅館の浴衣ぐらいなら自分で着ることができた。
風呂から出て部屋に戻ると、もう食事の用意が出来ていた。刺身の盛り合わせには鮑も混じり、山菜と茸の天麩羅、そして玩具のような黒い鉄鍋で沸騰しかけているのは猪鍋だろうか。11月半ばを過ぎると、猪料理が解禁になると聞いたことがあった。
女将より少しだけ若そうな仲居が、茶碗に暖かい飯をよそってくれた。
「お刺身は大丈夫ですか?」と、ここでも『大丈夫か攻撃』が出た。
「山葵は、この小さなおろし金で擦り下ろしてくださいね」
「ワサビ?このミニ・パイナップルみたいなのがか?」
ゼファーの知るワサビは、黄緑色のペースト状のもので、和食の店では皿の隅に小山になって盛りつけられていたが。
再び「ごゆっくり」と一人にされ、ゼファーは太くごつい指で、それよりもさらにごつい生山葵をすりおろした。繊維の混じるそれを恐る恐る摘んで口に入れる。
「うわち!」
鼻の奥に痺れる痛みが走った。このパンチは効いた。
料理を楽しんだ後、いよいよ露天風呂の扉を開けた。脱衣場に居た数人は、巨躯の外国人に一瞬ぎょっとしたようだが、父親は息子の髪をタオルでこするのをやめなかった。皆、すぐに平常に戻ろうと努める。日本人は『差別はいけない』という意志が強過ぎるように思うが。でも『概ね善良』だ。
浴衣を脱いだゼファーの肩や腕のみごとな筋肉に、若い父親がちらりと視線を走らせる。部屋に戻って息子と二人で『ママ』に報告するだろうか。
風呂場は、露天と言っても床は石タイル敷きで、蛇口が岩からにょきりと幾つも飛び出している。人の手が入るのは仕方ないか。だが、提燈型の電灯や木々に囲まれた岩風呂にゼファーはにんまりと微笑む。二人の先客に会釈してさっそく湯に浸かった。六畳ほどの大きさの湯船だった。すべらかな岩に背を寄せる。湯は熱過ぎず、呼吸すると湯気がしっとりと体に入って行く。効能がしみ込んで行くような心地よさだ。
楓の木が風呂場をぐるりと囲んでいた。照明が明るいので星明りは薄いが、朱に染まる楓がライティングされた様は、神の社の門に似た荘厳さだ。夜桜を見たような高揚感があった。そういえば、冬の夜に降りしきる雪を見上げた時もこんな風に感じた。あれらの静かさにも魔を感じた。が、こっちの魔は、葉が炎のように燃え出しそうだ。炎の先が細い女の手の形に変わりゼファーを招くような妖しさに、ぶるっと身震いする。もう湯にのぼせたのだろうかと苦笑した。いや紅葉に酔ったか。
その時急に強い風が起こり、ザワザワと葉が鳴った。幾枚もの紅い葉が踊る。初老の男が「おおっ」と感嘆の声をあげた。一枚、二枚、湯に楓が着地して浮いた。
首を上げると、暗い空に朱や黄金の楓が舞っていた。ひらりひらりと扇を返すように、裏と表を繰り返し、虚と真のはざまを行き来して。
「・・・。」
ゼファーは知らず息を止めていた。
『時間よ止まれ』と、美しい瞬間に念じるのは人の性なのか。
* * *
「またやっちまったか」
宙に停止したままのモミジを凝視し、ゼファーは銀の頭を掻いた。同席の二人は、楓の舞いをマネキンのような笑顔で眺めて凍っていた。全てが停止している。葉擦れの音ひとつしない。
気付かずに時を止めてしまう彼は、それを解除する事にも堪能ではなかった。
「ええい、動け!動きだせ!」
ゼファーの叫びだけが虚しく岩場に響く。
『また、先祖に頭を下げろってか?』
それは御免だった。
<ご主人様・・・>と呼ぶ声に、湯の中で飛び上がった。声に振り向くと、止まった葉の上に小人が立っていた。黒いヴェールをかぶる小さな魔女のような姿だ。自分を『ご主人様』と呼ぶからには、例の血筋の従者なのだろうか。
<あなた様には、時を操る力がございます。止めるだけでは有りませんよ>
ゼファーはじろりと小人を睨み返す。つまり、時間を戻したり、飛ばしたりできるってことか。世界征服でもできそうな能力だ。世界征服。なんて無粋な響きなんだ。
眉を寄せるゼファーの前で、顔の見えない小人が下卑た笑みを浮かべているのが感じられた。
流れる時間が美しいからこそ、止めたいと思う瞬間ができる。水は不自然に留めると滞って腐り、いやな臭いを発するだろう。
葉が色づくのは、季節のうつろいがあるからだ。紅葉に見惚れる男に、時間を好きにしていいと耳打ちするのは愚かな行為だった。ゼファーは鼻で笑う。
「俺は、雪が降るのも見たいし、夜桜もまた見たいんだよ」
ストップモーションのモミジに風情は感じない。唇の端を上げ、大きな掌で朱の掌を握った。黒マントの小人は消え、クシャリと枯葉が潰れた。粉々に崩れた葉屑が湯に散った。
その途端、水音が戻り、葉擦れの音が戻った。楓たちは舞いながら落下を再開させた。
「雅びですねえ」
背後の老人が誰にともなく話しかける。
初老の男もゼファーも、声は出さずに、だが楓の樹をゆっくりと見上げることでその言葉に頷いていた。
< END >
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