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<東京怪談ウェブゲーム 神聖都学園>


鳴らないピアノ

【プロローグ】
 ――鳴らないはずのピアノが、鳴っている。
 ここしばらく、神聖都学園高等部では、ひそかにそんな噂が囁かれていた。
 校舎の一画に、今は使われていない空き教室がいくつか並んでいる。その中の一つに、古いグランドピアノが放置されているのだ。
 おそらく、その教室はかつては音楽室として使われていたのだろう。とはいえ、すでに壁に掛けられていた音楽家たちの肖像画などは、かたずけられてしまっている。そんな中に、ピアノだけがぽつんと忘れられたように、埃をかぶって置きっぱなしになっているのだった。
 ピアノは、鳴らない。もとから壊れていて、それでそこに放置されていたのか、それとも手入れもされずに放置されたままなので、鳴らなくなったのか。それは誰も知らなかった。
 ただ、ピアノはどれだけ鍵盤を叩いてみても、鳴らないことがはっきりしている。
 それなのに。
 二ヶ月ほど前から、この教室からピアノの音が聞こえて来るのを聞いた、という生徒が出始めたのだ。
「幽霊っていうのも、なんだかピンと来ないよね。……だって、ピアノが鳴り始めたのは、二ヶ月前からでしょ。でもあれって、もっと前からあそこに放置されてたよね」
 放課後の怪奇探検クラブの部室で、雫は一人呟く。そうして、しばし考え込んでいたが、ふいに顔を上げると、うなずいた。
「なんだか面白そうだよね。真相究明しちゃうっていうのは、どうかな。でも、一人で調べるのは、ちょっと大変そうだよね。……そうだ。手伝ってくれる人を、募集しちゃおう」
 呟いて、彼女は手伝ってくれる人を探すべく、部室を後にした。

【1】
 翌日の午後。
 シュライン・エマは、怪奇探検クラブの部室にいた。「鳴らないはずのピアノが鳴る」という噂は、すでに神聖都学園の外までも流れ出して、彼女の耳にも届いていた。それで、雫がその噂を調べるつもりらしいと聞いて、手伝いを申し出たのである。
 雫が、それを歓迎したのは、言うまでもない。なぜなら、彼女の本業は翻訳家だが、普段は草間興信所の事務員をしており、時には調査員として事務所に来た依頼に関わることもあるからだ。
 部室には、彼女と雫、それにもう一人、青島萩がいた。
 彼は、シュラインより三つ年上の、二十九歳。刑事で、それも怪奇事件や心霊がらみの事件を追うことが多かった。短い黒髪と黒い目の、長身の男だ。
 彼もどうやら、噂を聞きつけて、雫を手伝うことにしたようだ。
「噂は、二ヶ月前からなのよね? ということは、その時期に何かあったのかしら」
 シュラインは、二人を前にして考え込みながら言った。
「さあ。それはわかんないけど、それ以前には、そんな噂はなかったことは、たしかだよ」
「その噂の出所そのものは、わかってないのか? 一番最初に、そのピアノの音を聞いた奴のこととかさ」
 首をかしげて言う雫に、萩も訊く。
「たしか、学校で肝試ししようとした人たちがいて、その人たちが聞いたのが、最初だって話だよ」
「学校で?」
「そう。夏休み中にね、退屈だからって、夜中に学校にもぐり込んで、使われてない教室を覗いたり、写真撮ったりしてたんだって。それで、ピアノの音を聞いて騒いで、警備員とか宿直の先生とかに見つかって、大騒ぎだったって」
 驚いて問うシュラインに、雫がうなずいて言う。
 萩が、笑い出した。
「バカなことする連中がいたもんだな。ま、気持ちはわかるけどよ」
 言って、彼は肩をすくめる。
「とにかく、俺はいくつか、気になることを調べてみるわ」
「気になることって?」
 雫に問われて、彼は言った。
「どうしてその音楽室が使われなくなったのかとか、ピアノが鳴らなくなった理由とか。あと、音楽室の肖像画の行方も気になるな。それから、調律師とか、部屋に出入りする人間の有無と。もちろん、実際にその部屋も調べてみる必要があるだろうしな」
 彼が列挙したのは、さすがに刑事だと思うような事柄だった。彼は、事件捜査と同じような方法で、ピアノの謎を追うつもりなのだろう。
 そのことに感心しながらシュラインは、自分も問題の音楽室を調べる必要があると考えていたので、うなずいた。
「そうね。でも、もし鳴る時間帯とかが決まっているなら、そこを調べるのは、その時間を避けた方がいいかも」
 言って彼女は、雫をふり返る。
「雫ちゃん、何か、そのあたりのことは、噂になってないの?」
「あたしが知ってる限りだと、だいたい夕方の五時ごろから、夜の八時ぐらいの間にピアノが鳴るのを聞いたって人が、集中してるみたいだよ。部活で遅くまで残ってる生徒とか、宿直の先生とかが、聞いてるみたい」
 雫の答えに、シュラインは自分の腕時計を見やった。時刻は、四時を少し回ったところだ。
「時間的には、大丈夫みたいね。じゃあ、先に音楽室へ行ってみましょうか」
「そうだな」
 萩もうなずく。
 三人は、立ち上がると、部室を出て件(くだん)の音楽室へ向かった。
 雫に案内されて行ったそこはしかし、シュラインが想像していたのよりも、ずっと寂れていた。そもそも、その教室のある一画自体が、ひどい朽ちようだ。廊下は歩くたびに大きな音を立ててきしみ、天井や壁もところどころはがれている。むろん、どこも埃だらけだ。
 どうやら、この一帯が使われていないのは、老朽化にも原因があるようだった。
 もっとも、その音楽室はさほど老朽化しているようでもない。ただ、机や教卓は全て取り払われ、埃の積もったそこは、妙にがらんとしてうら寂しく見えるだけだ。
 ピアノは、その隅の一画に埃避けの白い布をかけて、据えられていた。
 萩が、ざっとそれを見やって、誰かが触れた形跡がないことを、確認する。念のためにと布をはいで見てみると、ピアノの蓋には、しっかりと鍵がかかっていた。雫によれば、鍵は今でも音楽担当の教師の一人が、保管しているという。
 シュラインが提案して、三人は手分けして室内を調べることにした。彼女は、ピアノの音が人為的なものである可能性をも考えていたのだ。
 しかし、壁や床、はては天井まで調べたが、何も異常は見つからなかった。
 シュラインたちは、改めてピアノの傍に集まった。
 と。萩がふいにピアノの傍の何もない一点を見やる。彼は、しばしそうしていたが、軽く眉をひそめて考え込むと、シュラインと雫をふり返って言った。
「やっぱり、心霊現象かもしれないぞ。はっきりした霊じゃないが、今そこに、霞みたいにおぼろげな少女が見えたんだ。まるで、何かの記憶か想いの切れっぱしみたいな、かすかなものだったけどな」
 シュラインは、驚いて雫と顔を見合わせる。そして訊いた。
「じゃあ、鳴らないはずのピアノを鳴らしているのは、その少女だってこと?」
「まだ、よくわからないけど……何か関わりがあるのは、たしかだ。そんな気がする。とにかく、さっき言ったように、気になることはいくらもあるからな。それらを調べてみてからだな」
 萩は、慎重に言った。
「そうね」
 シュラインも、うなずく。
「じゃあ、私は二ヶ月前に、このこと以外に何か変わったことがなかったかどうか、教師や生徒、少し手を広げてOBやOGにまで当たってみるわ」
 言って彼女は、雫をふり返った。
「ところで、雫ちゃん。鳴らないはずのこのピアノが奏でている曲って、なんなのかしら。いつも同じ曲なの?」
 問われて、雫は首をかしげる。
「さあ……。誰も、どんな曲が流れるのかは、言ってなかったと思うよ。でも、シュラインちゃんが気になるなら、それは、あたしが調べておくね。他に何か、あたしが調べた方がいいこと、ある?」
「そうだな……。さっき言ってた、最初にこのピアノが鳴るのを聞いたって連中に、話を聞くことはできないかな」
 少し考えて、萩は言った。
「私は、本当にそのピアノの音が、ここからのものだったのかが、ちょっと気になるわね。他から流れて来たのを、ここからと勘違いした可能性もあるし」
 シュラインも、軽く天井をふり仰ぎながら言う。
「あ、そうだね。……じゃあ、あたしは音を聞いたって人たちに、できる限り当たって、そのあたりのことを、詳しく聞いてみることにするね」
「ええ、お願い」
 雫の言葉に、シュラインはうなずく。
「じゃあ、ともかく手分けして調査ね」
「ああ」
 三人は、うなずき合うと、そのままそこを後にしたのだった。

【2】
 それから、数日が過ぎた。
 シュラインたち三人は、再び怪奇探検クラブの部室に集まっていた。それぞれの調査結果を報告するためだ。
 まず最初に口を開いたのは、雫だった。
 彼女によれば、やはり初めてピアノが鳴るのを聞いたのは、夏休み中に学校に入り込んで肝試しをしていた連中だったようだ。そして、彼らもそれ以外の音を聞いた人々も皆、他から流れて来る音ではなかったことを、断言したという。というのも、彼らのほとんどは、他の場所で音を聞いても、その音源を確認するために、教室の前まで行っていたからだ。更に、あの周辺はシュラインたちも見たとおり、使われていない教室ばかりで、他の部屋にしろピアノの音を流すような場所は存在しないのだ。
 ちなみに、彼らが聞いた曲は、ベートーヴェンの『月光』だったという。
「ああ……。あの、物悲しくて、静かな曲ね」
 シュラインは、うなずいて言った。
 雫が話し終えると、今度は萩が口を開いた。
 まず、音楽室にあった音楽家たちの肖像画は、全てはずされた時点で捨てられていた。それ自体も、かなり古いものだったからだそうだ。また、現在あの音楽室に出入りする人間は皆無だった。むろん、夜間など警備員や宿直の教師らは、見回りのために部屋をざっと覗いたりはするが、中に留まり長時間何かをするということはないそうだ。
 それから、ピアノが鳴らなくなった理由は、教師らにも不明らしい。あの音楽室を使わないことが決定した時、ピアノは本当は別の教室へ移すはずだったのだそうだ。ところが、ピアノはなぜかびくとも動かず、しかも鳴らなくなってしまった。それで、しかたなく放置してあるのだという。
 そして。その音楽室が使われなくなった理由だが。
「五年前、ある事件があそこで、あったらしい」
「事件?」
 シュラインは、萩の言葉に問い返す。
「ああ。この神聖都学園高等部の二年の女子生徒が、音楽教師で義兄だった男に、あの音楽室で刺されたんだそうだ。女子生徒は重傷で、病院に運ばれたが意識不明で、男の方も自殺を図ったらしいが、こっちは軽傷だったらしい」
 萩は、うなずいて言うと、更に事件の詳細を語った。
 その女生徒と教師は、日ごろから実の兄妹のように仲良く、放課後は毎日のようにあの音楽室で女生徒が教師にピアノのレッスンを受けていたのだという。時間は、教師の都合もあって、たいていは夕方の五時ごろから始めていたらしい。
 ところが、男はいつしか、女生徒に妹以上の感情を抱くようになって行った。とはいえ、相手は自分の教え子であり、妻の妹でもある。たとえ相思相愛だったとしても、世間に認められる仲ではない。思い余った男は、その日、女生徒を殺して自分も死のうとしたのだった。
 しかしながら、こういう場合、往々にして無理心中をしかけた側は、死なないのが定石だ。この男もまさにそうで、彼は軽傷で助かり、女生徒は意識不明の重体――そして、五年経った今もまだ、昏睡状態のまま病院に収容されているという。一方の男は、神聖都学園をクビにはなったものの、教員免許は取り上げられることがなかった。だから、今も地方の高校で音楽教師をやっているはずだという。
「何それ、ひどい。信じらんない!」
 話を聞くなり、憤慨の声を上げたのは、雫だった。
 その声を聞きながら、シュラインは眉をしかめて、思わず考え込んだ。
 五年前に意識不明になった元神聖都学園の女生徒が、今も昏睡状態のまま病院に収容されているという話に、彼女はひっかかるものを感じたのだ。
 シュラインは、二ヶ月前にこの学園の生徒や教師、OBやOGらに何か変わったことがなかったかを、訊いて回った。もちろん、膨大な数のその人々全てに当たれたわけではないが――その中にあったのだ。その事件の被害者とおぼしい少女の話が。
 彼女は、顔を上げると訊いた。
「青島くん、その女生徒の名前、わかる?」
「ああ。女生徒は、松本百合香。教師の方は、岡崎努だ」
 萩は、うなずいて答える。
 それを聞いた途端、シュラインは目を見張った。
「じゃあ、あの人が……」
「シュラインさん?」
 思わず呟く彼女に、萩は怪訝そうに問い返す。それへ、彼女は言った。
「その、松本百合香さんって人、死んでるわ。ちょうど、二ヶ月前よ」
「なんだって?」
 萩が驚いて、再び問い返して来る。雫も、目を丸くした。シュラインは、続ける。
「二ヶ月前に何か異変がなかったか、と聞いて回ったら、何人かのOGと先生たちが百合香さんの死のことを上げたわ。さすがに、誰も事件のことは口にしなかったけど……事故に遭ったって言ってたわね。五年前に事故に遭って、ずっと昏睡状態だった元神聖都学園の生徒が、二ヶ月前に亡くなったって。その人の名前が、松本百合香さんよ」
 それを聞いて、萩と雫は顔を見合わせる。
「鳴らないピアノが鳴るのは、その百合香ちゃんが死んだせい?」
 雫が、小さく目をしばたたかせて問うた。
「かもな。どうやらこれは、五年前の事件が原因と見て、よさそうだ。ピアノが鳴るのが夕方の五時から八時あたりに集中していたのは、元気だったころの百合香さんが、ピアノのレッスンをしていた時間帯だと考えれば、辻褄も合う」
 萩も、うなずく。
「そうね。……もしかしたら、この前、青島くんが音楽室で見た少女が、松本百合香さんだったんじゃないかしら」
 シュラインは、ふと思いついて言った。そして、OGの一人から借りた写真を、萩に見せる。彼は、見るなり目を見張ってうなずいた。
「ああ。この少女だ。間違いない」
「じゃあ、ピアノを弾いているのは、この百合香ちゃんってこと? 死んだから、化けて出てるのかな」
「う〜ん。俺が見たのは、『化けて出る』っていうほど、意志の強いもんじゃなかったけどな。単に、あの音楽室に想いが残っているだけっていうか……」
 雫に問われて、萩は唸る。見たものを、うまく言葉にできないのか、もどかしげだ。
 シュラインはしかし、彼の言わんとするところを、なんとなく感じて、どう解釈したものかと考え込んだ。
「つまり、恨みとかではないってことよね。なら、百合香さんって人は、よほどピアノを弾くのが好きだったのかしら。それとも……」
 彼女は、言いかけて、口をつぐむ。そして、ふと思った。
(教師の方は、百合香さんを好きだったっていうけど、百合香さんの方は、どうだったのかしら。もし、彼女もその人を好きだったのなら……想いが、二人で過ごしたあの音楽室に残っていても、おかしくないわ)
 事件だけを聞けば、全ては男の勝手な横恋慕による無理心中と見える。だが、百合香が本当は何を思っていたのか、男をどんなふうに見ていたのかは、当人でなければ、けしてわからないことだと、彼女は思うのだ。だから、そんな可能性もある。少なくとも、考えには入れておくべきだろう。
「それとも、なんだ?」
 萩が、訝しげに尋ねた。が、シュラインは小さくかぶりをふる。考えにいれておくべきだとは思うが、今はまだ、その可能性を口にしていいかどうか、わからなかった。
「ううん。なんでもない。……それより、もう一度あの音楽室に行ってみない? 前とは違う目であの部屋を調べたら、残されたのがどんな想いなのか、わかるかもしれないわ」
「そうだな」
 萩もうなずいた。そして言う。
「それに、俺はあのピアノを弾いてみたらどうかと思うんだ。いや、音を出すだけでも、いいと思うんだけどな」
「別にそれはかまわないと思うけど、弾いても音、出ないよ?」
 怪訝そうに言ったのは、雫だ。
「かもしれないけど、そうしたら、何か起こりそうな気がするのさ」
 萩は、笑って言った。
「青島くんの直感? いいわ。とにかく、行ってみましょ」
 シュラインも、小さく笑って問うと、二人を促す。
 彼女たちはそうして、再びあの音楽室へ向かったのだった。

【3】
 音楽室は、先日来た時と同じく、がらんとして静まり返っていた。
 三人は、ここへ来る前に職員室に立ち寄って、雫が訳を話して音楽教師の一人から、ピアノの鍵を借りていた。
 なので彼女たちは、音楽室に入ると、真っ直ぐにピアノの所へ向かう。萩が、掛けてある布をはいで、鍵を使って蓋を開けた。蓋をしてあったせいか、鍵盤は埃もなく、きれいだ。
 萩は、それを見やって一つ深呼吸すると、鍵盤を叩こうとした。が、ふと動きを止めて、顔を上げる。そのまましばらく、ピアノの傍の何もない空間を見やっていた。もしかしたら彼にはそこに、百合香の姿が見えているのかもしれない。
 やがて彼は、小さくうなずくと、思いきったように鍵盤を叩いた。意外にも高く澄んだ音が出る。五年も放置されたままのピアノの音とは、ちょっと思えなかった。
 彼は、まるでその音に促されるかのように、埃まみれの椅子に腰を下ろすと、ピアノを弾き始めた。その指と鍵盤が紡ぎ出す曲は、ベートーヴェンの『月光』だ。
 実際に萩が弾けるのは、せいぜいが『猫ふんじゃった』ぐらいのはずだった。
 それなのに、今彼が奏でるそれは、まさに名ピアニストの演奏のようだ。静かで悲しく、どこか物憂げで、寂しい。
 その演奏と同時に、シュラインの脳裏には、鮮明な映像がまるで映画のそれのように、次々と閃いた。いや、それは彼女だけではなく、萩も雫も同じだった。
 その映像の中で、百合香は楽しげにピアノを弾いていた。音楽室は清潔に整えられ、机と椅子が整然と並び、そして壁にはクラシックの作曲家たちの肖像画が並ぶ。百合香の傍には、ひょろりと背の高い、幾分気弱げだが優しそうな青年が立っていた。この青年が、岡崎努だろう。
 映像の中で、二人はたしかに、実の兄妹のように屈託なく笑い合っていた。だが、流れる音楽と共に、彼女の想いが、シュラインたちの胸に染み込んで来る。
(これは……)
 シュラインは、胸を抉られるようなその想いのせつなさに、思わず小さくうめいた。
(やっぱり、彼女も岡崎努さんのことを、好きだったのね……)
 そう。それは、彼女の胸の奥深くにひそめられたまま、当人によって封印された想いだった。彼女にとって、努は姉の夫であり、自分の師でもある。その想いは、努自身にすらけして知られてはならない――きっと彼女は、そう思っていたのだろう。
(せめて、誰かに話すぐらいできればよかったのに……)
 シュラインは、そう思わずにはいられない。
 だが、彼女の思いには関係なく、映像はその脳裏の中でひたすら展開して行く。
 やがて現れたそれは、事件当日のものだった。
 すっかり日の落ちた教室で、百合香はいつものようにピアノのレッスンに励んでいた。傍には努がいたが、なんだか沈んだ様子だった。
『お義兄さん、今日はなんだか元気がないけど、どうしたの?』
 それを気にして、ふと百合香は手を止め、訊いた。その声が、口調までも生々しく、彼女たち三人の脳裏に響く。
『いや……』
 努は、なんでもないと言いたげにかぶりをふった後、ためらいがちに、口を開いた。
『百合香、その……君は、私のことを、どう思っている?』
『え?』
 百合香は、驚いて顔を上げた。それへ、努は続ける。
『私は……私は、ずっと君が好きだった。最初は、本当の妹みたいに思っていたんだ。でも、気がついたら、いつの間にか……』
『お義兄さん……』
『お義兄さんなんて、呼ぶな!』
 とまどう彼女に、ふいに努は激しく叫んだ。そして、彼女の肩をつかんで、ゆすぶる。
『百合香、答えてくれ。私を、どう思っている?』
 彼女は、怯えたように努を見やって、しばし呆然としていた。が、やがてその手をふり払うと、立ち上がる。
『私は、あなたのことを、義兄(あに)としか思っていません。だから、もう二度とそんなこと言わないで。今日のことは、誰にも言いません。もちろん、姉さんにも。だから、忘れて下さい』
 彼女は、決然と言って、努に背を向けた。
 その時の、激しい胸の震えと痛みが、映像と共にシュラインたち三人の脳裏に伝わって来る。私も同じ思いだと、叫んでその胸に飛び込みたい衝動を、彼女はただ必死に抑えつけていたのだ。
 しかし、そんな彼女の胸の内も、努には届かなかった。
 努は立ち去ろうとする彼女に追いすがり、その肩を捕えて、ナイフで背中を一突きにする。百合香は、撃ち落された鳥のようにその場に倒れた。血走った目でそれを見下ろし、努もまた、彼女を襲ったのと同じナイフで、自分の手首を切りつける。
 その刹那。
 鍵盤を叩きつけたかのような大きな音がして、シュラインは我に返った。
 ふと見ると、ピアノは真っ二つに割れている。まるで、落雷に遭った木のようだ。
 あたりを見回すと、雫と萩も夢から覚めたような目で、そのピアノを見詰めていた。
 シュラインは、つとピアノの傍に歩み寄る。そして、やるせない思いで言った。
「百合香さんも、本当は努さんが好きだったのね。でも、それは誰にも知られてはいけないと思っていた。だから、ピアノに想いを閉じ込めたんだわ」
 事件のあった日、努の告白に、百合香も真実の想いを告げていればよかったのかもしれない。そうすれば、少なくともあの悲劇は起こらなかっただろう。けれど。
(彼女は、それを善しとしなかったのね。……ただ一途に、誰にも知られてはいけないと、そう思い詰めてしまったんだわ)
 だからといって、それで満足できるほど、人間は単純ではないだろう。その想いの一端がピアノに宿り、怪異を引き起こしたとしても、少しも不思議ではない。シュラインには、そう思えた。
「悲しいね。……もしかしたら、ピアノが鳴らなくなったのも、そのせいだったのかな」
 雫が、しんみりと言う。
「その可能性は、高いな」
 萩も、苦い顔で言った。
 シュラインは、二人の言葉にうなずく。
「そうね。ピアノが鳴らなくなったのは、彼女の想いを閉じ込めすぎて、誰かが触れたら、それが外にあふれ出してしまいそうだったから、かもしれないわね。それともピアノが、誰にも知られてはいけないという、彼女の気持ちに反応したからかも」
 言って彼女は、労いの気持ちを込めて、そっとピアノを撫でる。そして、ふと顔を上げた。真剣な目で、萩を見やる。
「彼女の想いを、せめて努さんにだけでも、知らせてあげることはできないかしら。きっと本当は、彼にだけは、知ってほしかったと思うのよ、百合香さんも」
「そうだな。岡崎努が今どこにいるのか、なんとか連絡先を調べてみるよ」
 彼女の言葉に、萩もうなずいた。

【エピローグ】
 三日後の午後。
 シュラインたちは、またもや怪奇探検クラブの部室にいた。
 刑事という立場を使って、岡崎努の連絡先を突き止めることに成功した萩が、シュラインと雫を呼び集めたのだ。
 シュラインが雫と見守る中、萩は自分の携帯で努に電話をかけた。
 さほど長く呼び出すことなく出た相手に、彼は身分と名前を名乗った後、百合香の死とその後に起こった神聖都学園内での出来事、そして自分たちが知った彼女の想いを告げる。
 相手がどう反応しているのかは、シュラインと雫には、当然ながらわからない。しかし、萩の表情を見ていると、相手はさほど驚いているわけでもないが、かといって百合香の想いを知ることができたのを、喜んでいるふうにも思えなかった。
(私の提案は、余計なことだったのかしら)
 そんなふうにも思えて、シュラインは小さく唇を噛みしめる。
「おい、ちょっと待てよ。おい……!」
 ふいに、萩が慌てたように叫んだ。が、どうやら制止も聞かずに、相手は一方的に通話を断ち切ってしまったようだ。萩は小さく舌打ちして、通話終了ボタンを押す。そして、彼女と雫をふり返った。
「切られちまった。……彼女のことはもう思い出したくない、そっとしておいてくれ、だとさ」
「それって……」
 シュラインは、思わずうめくような声を上げる。やはり、自分の提案は、寝た子を起こすようなものだったのだろうか。
「何それ。ひどい!」
 雫が、憤慨して拳を突き上げる。
 それを見やって、萩が溜息をついて、頭を掻いた。
「まあ、わからなくもないけどよ。結果的に、惚れた女を殺したわけだからさ」
「そうね……」
 シュラインは、やりきれない気持ちになりながら、うなずく。
 雫が、声を上げた。
「でも、だからって、やっぱりひどいよ」
「雫ちゃん」
 わずかに涙ぐんでいる雫の頭を、シュラインはそっと撫でた。そうしながら、彼女はやりきれない気持ちのまま、窓の外に視線を巡らす。夕暮れの迫った空に、ふと金木犀の香りを嗅いだ。途端、彼女の脳裏にあの時、萩の手を借りて紡がれた『月光』の戦慄がよみがえり、その馥郁とした香りに重なる。
(遠くまで香るこの花の香りのように、百合香さんの想いも、いつか努さんの胸に届けばいいわね。……ううん、きっと本当は、もう届いているのよ。そしてきっと、いつか気づくわ)
 シュラインは、あの幻の中で見た、どこか気弱げで優しそうな男の横顔を思い出しながら、少しだけ祈るような気持ちで、胸に呟くのだった。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0086 /シュライン・エマ /女性 /26歳 /翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1570 /青島萩(あおしま・しゅう) /男性 /29歳 /刑事(主に怪奇・霊・不思議事件担当)】

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■         ライター通信          ■
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●シュライン・エマさま
いつもお世話になっています。ライターの織人文です。
今回も依頼に参加いただき、ありがとうございます。

さて、今回は少しせつない感じのお話になりましたが、いかがだったでしょうか。
少しでも楽しんでいただければ、幸いです。
それでは、またの機会がありましたら、よろしくお願いします。