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<東京怪談ノベル(シングル)>


甘い幻


 空は薄闇に包まれ、辺りに人影は見当たらない。どこか、寂しい風景を見せる住宅街の一角で、菊坂静はひとつの家の前に立っていた。
 東京郊外の、ごくごく普通の一軒家。傍目には、立ち並ぶ家々とまったく変わらない、普通の家。
 だが、この家の中では今、普通ではない出来事が繰り広げられているはずだった。
 ……その話を聞いたのはつい昨日。
 どこからか噂を聞きつけてきたのだろう、最近めっきり休業気味になっている静の裏の顔に依頼が入った。
 普段は地元の高校生をやっている静には実は、表立っては言えない仕事があった。
 ――通称・気狂い屋。
 人を狂気に誘い、社会的もしくは身体的に抹殺するのだ。
 最近はその仕事にも興味が薄れ、休業に近い状態になっているが。それでも、依頼してくる者はいる。
 静にコンタクトをとってきたのは、東京に住むとある老夫婦であった。
 対象は、老夫婦の娘。
「…………」
 老夫婦の娘は結婚していたが、つい先日、事件に巻き込まれて夫を殺されたそうだ。
 夫を亡くした彼女は、どっからそれを見つけたのか……死者を蘇らせる方法を入手したという。
 だが死者の復活などそう簡単にいくわけがない。彼女が見つけたその方法も、犠牲無しには行えない――多数の、生贄が必要となるものだった。
 すでに彼女はそれを実行しようと、何人もの命を手にかけたらしい。
 術の領分はともかくとして、殺人は、警察の領域だろう。刑務所に入ってしまえば、それ以上の殺人はもう無理だ。
 当初の静はそう告げたのだが、それに対して老夫婦は、それではダメだと返してきた。
 気狂い屋への依頼条件に、彼女の生存は含まれていなかった。
 そんなに世間への体裁が大事なのか。娘が刑務所に入れられるより、娘を亡くす方がいいというのか?
 依頼者に軽い嫌悪感を抱きもしたが、これといって断る理由もなかったので、静はこの家までやってきた。
 預かっていた合鍵で玄関の扉を開ける。
 家の中にたちこめる淀んだ空気は、閉め切られていたせいではない。
 見た目はごく普通の一般家庭。けれど静は、二階から流れてくる瘴気の気配に気づいていた。
 そう。
 この淀んだ空気。それは瘴気と呼べるもの……おそらく普通の人間では気づくまい、静だから気づけたものだった。
 そっと階段を上がっていく。瘴気は濃くなったような雰囲気があるものの、やはり傍目には普通の家だ。
 瘴気を追って、静は寝室へと足を踏み入れた。
 瞬間、目に飛び込んできたのは異常な部屋。ここまでが普通だったから余計に際だつ、異様な空気。
 反魂を意図した祭壇と血痕があり、壁には無数の写真が貼り付けられていた。
 部屋の中にただひとり立っていた女性が、こちらを見る。その瞳に刻み付けられているのは、狂気。
「愛していた者を甦らせる為に生きている者の命を奪っても……こんな方法では甦りはしません。戻るのは死の苦しみが続く体と魂だけです」
 ピクリと、彼女の肩が震えた。
「それでも私は、これに縋るしかないの。あの人がいない家なんて、耐えられない!!」
 言うと同時に彼女は右手に刃物を持って飛び掛ってきたが、所詮は素人。
 あっさりと避け、静は幻を生み出した。
 彼女が殺してきた人たちの幻を。
 狂気に抱かれつつある彼女も、まだ、人の心を失ってはいなかったのだろうか……。
 刃を取り落とし、ガクンとその場に膝をついた。
 彼女が大人しくなったのを見て、静は宙に目を向ける。
 どうやら彼女が行った反魂の法はそれなりに正しいものだったらしい。還りかけている魂を見つけ、静は、それを黄泉へと送り返してやった。
 その、瞬間。
 悲鳴が、部屋中に響き渡った。
 静は咄嗟に悲鳴の主に目を向けたが、間近からの突然の攻撃を避けきることはできなかった。致命傷は避けたものの、左手首に裂傷を負う。
 彼女を、見つめる。
 そこにはもう狂気しかなかった。正気と狂気の間にあった精神は、完全に狂気の側に引き込まれてしまっている――もう、戻ることはなかろう。
 大切な人を失った悲しみは、よく、わかる。
「悲しいですよ……僕も、人間ですから」
 思わず、呟く。
 表情に浮かぶのは、静寂を思わせる微笑。
 幼い頃の記憶は薄いが、それでも、家族の暖かな団欒の空気は微かに覚えている。
 大切な人を失った悲しみはわからなくもない。
 けれどだからといって、多くの人間の命を奪っていいわけではない。
「僕には、奪う他はこれ位しか出来ません……」
 一転して、静の笑みから静寂が消えた。
 冷たく澄んだ氷の微笑から、どこか優しげな空気さえ漂う穏やかな微笑みへ。
 静は、彼女の望みの幻を見せる。
 狂気の世界の中で、彼女は、幸せそうな顔を見せた。