|
◇◆ Sweet Cage ◆◇
「きゃあッ」
微かな悲鳴が、唇から飛び出す。
ざざざ――……っと食器棚から零れ出したのは、横倒しになって溢れ出した白い粉。
少しくすんだ紙製のパッケージには、『ふらわあ印の薄力粉』と、やっぱりぼやけた文字と花柄がプリントされている。ちなみに、それが入っていた観音開きの棚には、同じ袋がぎっしりと。それでは、勝手に開いて飛び出してきてもおかしくないですね、と高式透花は頭の片隅、多分意識と一番遠いところでぼんやりと考えた。
――違う。考えるところは、そこではない。
何故。
こんなところに。
大量の薄力粉が。
「何故でしょうか……」
嫌な予感に頭を抱えて、視線を巡らせた先。
ダイニングテーブルの上に飾られた花瓶には、まるでオブジェの如く不可思議な銀色の物体――可愛らしくもハート型をしたケーキ型が、白々しくも堂々と被せられていた。
透花の手によるものではない。この部屋の主の、仕業だった。
ことの発端は、二週間前。透花が、『初めてのお仕事』をやり遂げたことまで遡る。
マンションに掛かってきた電話をあの日偶然、透花が取った。
主である志木凍夜への、仕事の依頼。
それが血生臭いものであったなら透花はそのまま電話を切り、凍夜への伝言で済ませてしまったかも知れない。だが、その依頼は暴力沙汰からは遠そうで、透花にもなにか手伝えそうで、どこか後ろめたくも思いながら透花は斡旋してくれたアンティークショップに向かってしまったのだ。
その結果味わったのは、甘ったるいはずの飴が紡いだ、苦い夢の後先。
仕事を終えて、ほろ苦い思いのまま買い物をして。走ってコケてまた走って帰ったのに、すでにマンションには志木凍夜は帰っていた。
「こんな遅くに、どこに行っていた?」
片眉を跳ね上げながらの、不機嫌そうな問い。
「嘘をついても好いよ。透花の嘘なんて、すぐにばれるけどね」
そんな風に切り出されたら、透花は黙っていることさえできない。ぼそぼそと、いまにも消えそうな声で顛末を語る羽目に陥る。
「ふん」
ちらりと、上目遣いに見上げた端正な顔に、不可解な表情。
「凍……」
「まあ、透花にしては頑張った方じゃない?」
その意味を訊ねようとしたのに、続けられた言葉に声を失う。
予想よりも軽いお咎めの言葉と、予想以上のお褒めの言葉。
ふたつを両手に握り締めて、透花はしばし、呆然としてしまった。
凍夜がそれらを、余りにも全開の笑顔で紡ぎ出したから。
もともと、凍夜はそれほど笑うタイプではない。笑みと云えばまず、唇をくっと歪ませてつくる皮肉な笑み。嘲笑。冷笑。それに苦笑。どれも透花にはお馴染みのものだけれども、今回の笑顔はどれとも違う。どれとも違って――なんだかうそ臭くて、怖い。本心を隠すための、つくりものの仮面みたいだった。
その笑顔が二週間続き、正直、透花はかたちない消耗でへとへとだった。笑みを向けられるたびに、じわじわと柔らかい真綿で首を絞められていくような気がするのは、気のせいだろうか?
そして、少しずつ増えてくるお菓子作りの道具。
それは唐突に、壁にオブジェにように掛けられていたり、玄関に飾られていたり。あからさまにおかしいのに、凍夜はなにも云わない。
「今日は、六時には帰る。仕事もないから、透花の『初めての仕事』を祝ってやるよ」
今朝、やっぱり笑顔で凍夜は云い残して出て行った。
そしていま、透花は、大量の薄力粉を前に途方に暮れている。
「これは、なにに使うものでしょうか……」
薄力粉。薄力粉。
クッキーにケーキ、甘い甘いお菓子。
「……」
考えただけで、胸焼けがしてくる。
「『お祝い』に、なにをしていただけるのでしょう……」
『お祝い』の言葉を無邪気に喜べるほど、透花は、凍夜を知らないわけではない。
呟いて、白い粉を見詰める。
甘い甘いお菓子に、不気味なほど甘い甘い笑顔。
透花の不安は募るばかり。
「……逃げ出してしまいましょうか……」
むっとした凍夜の顔が思い浮かぶ。……怖い。駄目だ。できない。
ぶんぶんと、透花は首を振った。
「取り敢えずは……粉を、片付けなきゃ……」
現実逃避と知りながら、透花は半分零れてしまった小麦粉の袋を掬い上げ、床に広がる粉をほうきで掃き始めた。
ひと掃きごとに、嫌な予感は募っていく。
ふっと視線をやれば、デジタル時計が示す時間は、17:50。
あと少しで、凍夜が帰ってくる。
「さあ、パーティの準備をしようか」
ご機嫌で帰ってきた凍夜が、テーブルに並べ出したもの。
それを見た瞬間、さっと透花の顔から血の気が引いた。
「あの……これ……」
「ああ。今日は僕が、透花のためにご馳走をつくってやろうと思ってね。嬉しいだろう? 透花」
ふふんと笑った凍夜の顔は、やっぱり満面の笑み。
「もしかして……私が、勝手にお仕事を請けたこと、怒っていらっしゃるんですね……」
「なんのことだい? おまえが、ひとりで立派に仕事を片付けたことは、喜ばしいじゃないか」
笑みを変えないまま、凍夜はテーブルの上の一冊を手に取る。
表紙には、綺麗な写真付きで『美味しいお菓子の作り方』。テーブルに残されているものは、『簡単パーティケーキ』『らくらくオーブン教室〜お菓子編〜』等々。全て、お菓子に関する料理本だった。
「だから、今日はお前のために腕によりを掛けようと思ってね。無論、手伝ってくれるだろう? 透花」
「いままで……お菓子をつくったことは……」
「勿論、ないよ。だが僕にできないことはないね」
「あうう……」
透花の目には、大粒の涙。
だが凍夜は、拒むのを許さないようににっこりと、綺麗な笑みを浮かべながら鋭い視線で透花を串刺しにする。
――神様……。
きゅっと両手を組んで、透花はいるとも知れない神にお祈りをする。
「おいで、透花」
差し伸べられたのは、凍夜の、すべらかな手。
どうやら、神様は時間内に救いを下されないようだった。
お砂糖を加えてしっかりと掻き混ぜられたバターに、甘い甘い蜂蜜。これでもか、これでもかとばかりに、凍夜は注ぎ入れた。
ぴき、と涙ぐみながら卵白を泡立てていた透花が、凍り付く。
「あのう……入れすぎじゃあ……?」
と云うよりも致死量です、こんなものは食べられません! と目を潤ませながら、引き攣った顔で透花が呻く。
とろり、と蕩ける満月色のはちみつが、まるで悪魔の滴のようだ。
「甘い方が美味しいだろう?」
にんまり、と凍夜が笑って応える。段々段々、仮面じみた嘘優しさの笑みではなく、普段の、少し意地悪い笑みに摩り替わっている。それを安堵する余裕は、透花にはない。
「もうちょっと、入れてみようかな」
くすくす笑いながら、更に砂糖をプラス。既に広げられた本の適量の、倍以上を投入している。
テーブルの上には、バター、ミルク、バニラビーンズに砂糖、卵がころころ数個、ベーキングパウダー、生クリーム。そして銀色の艶々したボールにミキサー。篩に軽量カップ。篩われた薄力粉が、うず高く中央を陣取る。
それらを愉しそうに操りながら、凍夜が『自称・お祝いケーキ』の生地を練り上げていく。砂糖増量、蜂蜜追加、の荒業を重ねながら、である。
すでに、生地の時点でふんわり漂う匂いだけで透花はノックアウト寸前だ。
「私……なんだか体調が優れなくなって来たんですけど……」
半泣きを飛び越し全泣き状態。透花はふにゃけた声で呟く。
だが、そんな逃げを許す凍夜ではない。
「へえ……この僕が、丹精込めて焼き上げた祝いのケーキを、食べないつもりなんだ。粋花は。ふうん」
さっくり生地を混ぜる手を止め、ゆっくりと両腕を組んで見下ろすようにして透花を眺める。
――うっすら口許に浮かんだ笑みが、怖い。
「……」
ぶんぶんぶんと力いっぱい首を振ってしまった透花に、なんの罪があろうか。
「お利巧さんだ」
再びボールを手にした凍夜に、がっくりと透花は肩を落とした。
花と一緒に飾られていたハート型のケーキ型に、凍夜は生地を滑らかに落としていく。意外と器用な手つきだった。だからと云って、それが透花の食欲には繋がらない。
オーブンに型を放り込んだ時、透花は、本気で抵抗する意思を固めた。
「あの!」
「なに?」
ちろり、と凍夜が横目で透花を見遣る。正直、身が竦む。だが、こんな――砂糖増量、しかも凍夜の手作りケーキを食べた日には、きっと透花は死んでしまう。
「私……ッ! やっぱり体調が悪いので部屋に下がらせて頂きます!」
一息に云い切って、脱兎の勢いで身を翻す。
だが、敵も去るもの。さっと伸ばした腕が、透花の手首を掴み取る。
「体調が悪いときって、甘いものが好いんだよ? 知らないの?」
「……知りませんんんんッ……」
目を潤ませながら、いやいやと首を振る。
「あ……あとで食べさせて頂きますから……ッ」
「嘘」
「本当ですううッ!」
――神様仏様、誰か助けてええ……!
そんな透花の二度目の祈りが通じたのか。
振り回した腕が、なにかにぶち当たった。
「……え?」
ぽち、と指先が、どこかのボタンを押した感覚。
時間差で響いたのは、衝撃音。
「あ……」
凍夜が、珍しくぽかん、とした顔で振り向いた、その先には。
ぽん、と小さな音を立てて壊れた、ケーキ製作中のオーブンの姿が、あった。
「甘ったるいですう……」
「おいしそうな匂いだね。きっと僕が焼いたケーキだけに、出来上がればさぞ美味だったんだろうねえ……」
ちろり、と横目で見られて、透花は身を竦めた。
オーブンを不用意に触れて、壊したのは確かに、機械音痴の透花の仕業だった。
焼き途中のケーキは何故か破裂の憂き目に遭い、壊れたオーブンはやたらスイートな飛沫を飛び散らせている。
ケーキ爆弾、爆発。重傷者、約一名。
「掃除が結構大変そうだねえ」
そう呟きつつも、凍夜はソファに優雅に身を沈め、雑巾で床を拭く透花の姿を眺めている。
「ケーキ……駄目になってしまいましたね……」
ぽつん、と透花は呟く。
あの、甘さ爆裂のケーキを透花が美味しく頂けたとは、決して思えない。でも、それでも凍夜が手ずから焼こうとした、透花のためのお祝いのケーキだったのだ。こんな風に台無しにしてしまい、胸が痛む。
「透花は、素直だね。そういうところが結構、気に入っている」
凍夜は苦笑めいた笑みを、口許に閃かせた。
意地悪だったはずなのに、そんなことを云われてしまうと困ってしまう、とその表情は語っていた。
「結構、時間が掛かりそうかな? 二日? 三日? それとも一週間?」
「そんなに掛かりませんよ」
凍夜の問いに、生真面目に透花は首を振る。
「ふうん……残念」
――掃除に忙しくなれば、外に出て仕事をしよう、なんて考えないだろうにね。
小さく、凍夜が呟いたのを、透花は知らない。
籠の鳥にしておきたい。
そんな気持ちを、凍夜が持っていることなんて。
「透花」
ちょいちょい、と凍夜が、指先で透花を手招きする。
素直に駆け寄った透花の唇に押し付けられたのは、生クリームを掬い取った凍夜の、指。
「これだけ、残っていたんだよね」
蜂蜜を混ぜ込んであわ立てた、デコレーション用の生クリーム。甘いクリーム。
ひく、と身体が引いてしまうのは、甘い物嫌いとしては、仕方のないところ。
「お祝いだよ?」
――罰、だよ?
まるでそう告げるような顔をして、凍夜が囁く。
逡巡は、数瞬。
躊躇いがちに、唇を開く。甘ったるい味が、口中に広がった。
「……甘いですう……」
じわりと、透花の目に涙が滲む。
「当然」
潤んだ眸に、凍夜がにっこり、微笑んだ。
|
|
|