|
■笑っていてほしいから■
初めて額に触れられた姉のゆびさきは、つめたかった。
あめにぬれたの
まだ赤ん坊の真雄を覗き込んで、涙をこらえるように笑った、姉の真癒圭。
あのとき、ぽつりと真雄の頬に落ちたのは。
ゆびさきが冷たかったのは。
雨などではなく、涙だったのだ、と分かったのは、かなりの後のこと。
◇
夏になると、真癒圭の左腕にあるあざが気になり、真雄はよく、そこをなでた。
「いあーい?」
舌のまわらない真雄に、優しいね、とつぶやいて真癒圭は抱きなおしてこういったものだ。
「痛くないの、ぜんぜん。これはね、もうすぎた傷だから。あとが、のこっているだけなの」
そして季節が3回、5回とめぐるころ。
真雄は「それ」を、目撃したのだ。
もうすぐ小学校へあがる、という、春休みのこと。
13年上の真癒圭は早生まれの誕生日もすぎ、18歳になっていた、と思う。
真雄たちの両親は、よく外に出かけていた。旅行だったり、仕事だったり理由は様々だったが、よく真癒圭に真雄を預け、家を留守にした。
この日も同じ───はずだった。
「まゆこ!」
もうすぐ、台風がやってくる。雨風が強いのがやけにわくわくとして、真雄は息せき切って家の中に飛び込んだ。
もうすぐ夕方、台風が近いということで暗くなっているというのに、電気もついていない。元からカンのよかった真雄は妙に思い、そろそろと足を忍ばせて真癒圭の部屋へあがっていった。
「……っ、……す、ぐ……もう、すぐ」
苦しそうな、真癒圭の声。泣いて───いる?
「もうす、ぐ……まゆが、かえって───くる、から」
それに声変わりしたばかりの声で応じたのは、真癒圭の両手首を片手で掴み、壁に押しつけている少年だった。
「それまでにはおわらせる」
なにを?
な に
を───?
扉の隙間から見える、光景。
わずかな明かりで見える、少年の顔は。
親戚の、もの。
「───!!!」
何を叫んだか、真雄は覚えていない。
そのような行為がこの世にあるということよりも、何よりも。
真癒圭の苦しい涙が、あまりにも衝撃的で。
(まもられてたんだ)
そのことが、なぜだかとても悔しくて。腹立たしくて。
自分の大切な姉に、こんなにも苦しい顔をさせている少年が───自分でもわけが分からなくなるほど、憎くてたまらなくて。
「───真雄!」
真癒圭の息を呑むような悲鳴で、真雄はようやく我に返った。
(あ───)
そのとき、だ。
真雄の「世界」が、「ひろがった」のは。
真雄の外見が、一時的にでも───真癒圭に少しでも、ちかづいたのは。
気がつけば、真雄がやったのだろう───少年は、血だらけになって倒れていた。
「真雄、」
「まゆこ」
おびえているというよりは、驚いている真癒圭のはだけた身体ごと、包み込むように真雄は抱きしめる。
「ぼくが、まもるから。もうかくさないで。なんにもこわいことなんか、ないよ。ぼくが、いるんだから。ぼくがずっとそばにいて、」
「真雄、でもね、わたし」
真雄・みたいに・やさしいこにそんなこと・言ってもらえるほど・きれいじゃ・ない・か・ら
嗚咽と共に、13も年下の弟にすがりつくように、ひとりこらえてきたものを吐き出す、真癒圭。決定的なことはなかったけれど、もう小さな頃からこの少年に性的な悪戯を受けていたのだと。それからずっと男性恐怖にあるのだと。
真癒圭も、限界にあったのかもしれない。
真雄はそれを感じ取り、「きめた」。
「まゆこ。まゆこがきたないなら、ぼくがきれいにする。なんでもなおしてあげられる、せかいいちのいしゃになる。まゆこをわるくいうものから、きずつけるものから、ぼくがまもるから」
つよくなるから
けれど。
このとき、真雄はまだ、
『覚醒』した自分が如何に凶暴なちからをもつのか。
分かって、
いなかった。
◇
それから更に数年が過ぎると、真雄はすっかりおとなびた顔つきになっており、自分で決める服のセンスも抜群のものになった。
「あれ」
ざわざわと、煩い大学構内を、真雄は見渡す。
確かに、ここで待ってろって言ったのに。
今日は、真癒圭の友達の大学の学園祭。
よばれて、遊びにきたのだが───決してはぐれないようにと注意していたのに。
何故なら、こういう「人間の集まり」には必ず、「邪悪」なものも紛れ込んでいるからだ。
真雄にはもう、そんなものも難なく見えるようになっていた。
「───こっちかな」
真癒圭ののこしたわずかな香りと共に、煙草のにおいをかぎとって、真雄は厳しい顔つきできびすを返した。
ここ数年、「あの時」から。
真癒圭は真雄のおかげで、「あぶないめ」にはあわないでこれていた。
なのに。
(今になって、傷を蒸し返すなんてしたくない)
イヤな予感に、自然と歩く足が速くなる。
ガタリ
音がしたのは、大学のグラウンド、その倉庫。
今はもう使われていないのだろう。その中に。
真癒圭は、いた。
二人の男が煙草をくゆらしながら───真癒圭を小突いて遊んでいる。既に一枚、服ははぎとられていた。
抵抗できるはずがない。
真癒圭の男性恐怖は、重度のものなのだから。
この、真雄にすら治せていないものなのだから。
「! 真雄!」
開いた扉、そこから飛び込んできた弟が自分の前に、かばうように立ったのを見て、真癒圭はすがりついた。
いつかのように。
あ……───
か・く・せ・い・す る ───………
◇
覚えているのは、
炎と、血のにおい。
真癒圭の、自分をよぶ泣き声と、涙のにおい。
『覚醒』したそのときには、まだ明確な殺意、というものは彼にはなかった。
今、
生まれて初めて。
真雄は殺意を持ってしまったのだ。
男達二人は、一生治らぬ傷を負い、病院に運ばれた。
真雄は、まだ子供だから、ということで、それほどの事件には発展しなかった。
煙草の火が不運にも、何かについて燃え広がり、危険物でも置いてあって爆発したのだろう───犠牲となった二人は気の毒にもすぐそばにいたのだろう───世間では、そういうことに、
なった。
◇
あれ以来、真雄の『覚醒』を真雄を心配するがために恐れる真癒圭の、ために。
真雄は、なるべく自分というものを隠すようにこころがけた。
「今じゃ、どれがホントの自分か分からないくらいだもんね」
ふう、と、ゆうべ診た急患のカルテを作りながら、「こんなことをしてるなんて、ぼくもマメだね」とくすくす笑う、現在の真雄である。既にだいぶ前に家を出て、真癒圭と二人暮しをしている。
「なあに、ひとりで笑って」
真癒圭が、お茶とお茶菓子を持って入ってくる。ノックをしなくても真雄の部屋に入れるのは、彼女だけだ。
「んー? 真癒圭のこの前の寝顔を思い出してたよ」
「なっ……わ、わたしそんなにおかしな寝顔、してる!?」
「うそうそ。相変わらずだよね、真癒圭は」
軽快に───真癒圭以外には絶対に見せないだろうという、優しい微笑みをみせて真雄は姉の頭を優しく撫でる。
「もう、子供は真雄のほうなんだからねっ。少しはオトナ扱いしてくれてもいいんじゃない?」
「あれ。真癒圭、今夜の料理はぼくじゃなくてもいいの?」
「───意地悪」
「ありがとう」
いつもこんなふうに、やり込められてしまう。けれど、どんな悪態をついても、真雄は「ありがとう」としか言わない。
自分が悪人だと、充分に理解しているのだろう。色々な意味で。
今も、あの時の二人は病院生活を送っているのだろう。
けれど、真雄は決して治療してやろうとはしない。思いもしない。
「ぼくの大事なものを毀そうとするんだから、命ぐらいはもらわないとね」
ぽつりとつぶやく真雄の言葉は、幸いにも心優しい姉の耳には届かなかったらしい。
「ねえ、真雄」
真癒圭が、ふと心配そうにたずねてくる。
「もう、───『だいじょうぶ』?」
それは、「あの事件」から何度も聞いた言葉。
真雄が『覚醒』なんかするようになったのは、自分のせいだと思っているから。
だから、真雄は笑ってみせる。
「心配いらないよ、ただ───」
笑ってみせる───大切な、真癒圭のために。
何故なら彼は、生まれ落ちて一番最初に自分のためにわらってくれた───まもってくれた、彼女に。
「この前真癒圭が料理した金平ゴボウの辛味が、未だに胃にきいててさ」
「っ……もう、真雄! 絶対二度と、料理なんかしないから!」
───笑っていて、ほしいから。
ずっと、
ずっと。
そのためならば、自分は神にでも悪魔にでも、なろう。
偽善者にでも、殺人鬼にでも、なろう。
いつか、彼女を本当に「幸せに」してくれる伴侶が、あらわれるのは分かっている。
けれど、今は。
今は、まだ。
真雄のそばに、真癒圭は、
───いる、から。
《END》
【執筆者:東圭真喜愛】
2005/11/15 Makito Touko
|
|
|