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水面の下で
「海原さーん、宅急便でーす」
海原みなもの平穏な午後は、やはりこの元気の良い声に破られた。
「サインか印鑑お願いしまーす。あ、あと重たいですからね、玄関先まで入れておきますね」
とはいっても、何もボーダー柄のTシャツに身を包み、額に汗の粒を輝かせてさわやかな営業スマイルを浮かべるこのセールスドライバーに咎があるわけではない。
「いつもご苦労様です」
などとねぎらいながら、みなもは受領証にサインをした。
「ありがとうございましたー」
セールスドライバーはいつものように清々しい挨拶を残し、去っていく。後に残されたのは、下駄箱の上に鎮座している1つの箱。大きさと形からして、どうやら分厚い本のようだ。
そして、何よりも問題なのは、伝票に書かれた差出人の名前。
そこには、例によって例のごとく、父の名前が書かれていた。
「……」
みなもは、じっと箱を睨んだ。
あの父からの荷物だ。今までに何度ひどい目に遭ったことだろう。今回のこれだって怪しい。この上なく怪しい。
そうは思っていても結局開けてしまうのは、やはりみなもの生真面目さだろうか。あるいはひょっとしたら、ある種の達観にも似ているのかもしれない。
封をしているテープをカッターで切り、みなもは箱を開けた。中から出てきたのはやはり、とにかく「豪華」と形容するにふさわしい分厚い本だった。革の装丁が施されたその重たい本を、みなもはまず裏返した。そして、裏表紙をちらりとめくる。
所帯染みていると言われるかもしれないが、これほど豪華な本を見れば値段が気になってしまうのもまた人情というやつだろう。
出版社名やその住所を記しているらしいアルファベットの羅列の下に、Eに横棒2本が並んだマークがあり、その横に数字が並んでいる。
「これ、確かユーロマーク……。1ユーロっていくらだったけ……」
みなもは軽く首を傾げたが、あえて新聞を広げてまで調べようとは思わなかった。そのままでも十分、数字の桁数は多い。円に直したらさらに増えるのだろう、というだけで十分だった。
みなもは、本を表に返し、ページを繰り始める。左ページには、丹念に描き込まれた美しい挿絵が、そして右ページにはアルファベットが並んでいる。
一応は、と英文を目で追って、すぐにみなもは諦めた。
みなもの名誉のために断っておくと、みなもは決して学校の英語で赤点をとってくるようなことはない。中学一年生の彼女が英語の本を読めなかったところで、それは彼女の咎ではないだろう。
それでもみなもは、律儀にも1ページずつ本を繰った。心のどこかで、せっかく送ってくれた父に申し訳ないというような気持ちがあったのかもしれない。
「でも、挿絵は綺麗だなぁ〜」
字が読めない以上、それくらいの感想しかわいてこないのは致し方ないところだろうか。とはいえ、美麗な挿絵を眺めているのもそこそこに楽しいものだ。
花畑で花を摘む王女と、その前に現れた魔法使。白鳥へと姿を変える王女。華やかな王宮ともの憂げな王子。そして白鳥の舞う湖と、月光の元、元の姿を取り戻す王女、と細やかなシーンごとに描かれているため、ストーリーを追うこともできる。
「この本って『白鳥の湖』の原書……かな」
みなもは小さく首を傾げた。
英語で書かれている時点で、本来なら原書ではあり得ないのだが、この本にはそう思いたくなるだけの風格や物々しさがある。
とりあえず、みなもは王子と王女が永遠に結ばれる最後の挿絵までを眺め、本を閉じた。
「もしかしてこれって、あたしに英語の勉強しなさいってことなのかな」
みなもは小さく呟き、苦笑を漏らす。けれど、あの父がそんな普通の親が考えるようなことを考えるだろうか。
「……ま、いっか」
みなもはいつものように、父からの贈り物が眠る棚に、その本も片付けた。
その夜、みなもは夢を見た。夢の中でみなもはお姫様だった。そこまではまあよかったのだが。
「お前を白鳥にしてやろう」
いきなり現れた悪い魔法使いに、いきなり白鳥にされてしまうのだ。前後の事情も脈絡も、ついでに台詞のセンスもあったものではない。
「え……、きゃあああ」
抗議どころか戸惑いの声を漏らす間もなく、両腕が勝手にぐるりと後ろに回ったかと思うと、全身がかぁっと熱くなり、みなもの身体は変化を始めていた。
「いやああああ」
バランスを失い、前へつんのめったみなもは、したたかに胸を地面に打ち付けた。
「けふっ……」
思わず咳き込んだ途端、のどが乱暴に引き延ばされ、肩は逆にものすごい力で押さえつけられているかのように、沈んでいく。足も無理矢理折り畳まれ、胴体へとめり込んだ。ぎしぎしと、体中がきしむ。よく馴染んだはずの自分の身体が、知らないものへと変わっていく。
それは、美しいお姫様が、魔法使いの杖の一振りで美しい白鳥へと姿を変える、おとぎ話のシーンからはほど遠い。それとも、お姫様たちもこんな絶望的な気分を味わったのだろうか。
みなもは、地面につんのめったまま、どうすることもできず、ただただ自分の身体が変わっていく感覚を味わっていた。
半ば本能的に顔をあげると、薄い笑みを浮かべている魔法使いと目があった。その深淵のような漆黒の瞳に愉悦の色が浮かんでいるのを見ると、みなもの背筋に何とも言えない悪寒が走った。
そんなみなもをあざ笑うかのように、身体の変化はますます速度を増した。体中の骨がきしみながら内側からひび割れて、空洞になっていくのが目に見えるような気がした。腕が伸び、指が引き延ばされ、乱暴に腕中の毛穴が引っ張られ、そこから勢い良く羽根が生えだす。骨が軋む痛みと、皮膚がさけそうな痛みに、みなもは顔をしかめた。が、食いしばろうとした歯はもうない。唇は前へと引き延ばされ、平らなくちばしへと変わってしまっていた。
「あはははははは」
魔法使いが高笑いを残し、去っていった後には、ひとりうずくまる白鳥のみなもが残された。
完全に白鳥になってしまったみなもは途方に暮れた。けれど、いつまでもここにうずくまっているわけにはいかない。夜には王子様と対面しなくてはいけないのだ。そこで、舞踏会で愛を誓ってもらう約束をとりつけなければならない。
夢だからだろうか、これが「白鳥の湖」のワンシーンであると理解していたみなもは、まず湖を目指して歩き始めた。白鳥になってもお姫様はお姫様。すっくと背筋――厳密には首筋だろうか――を伸ばして。
が。
一歩踏み出した途端、みなもはよろけて尻餅をついた。
人間の時と足を踏み出す感覚も、身体のバランスの取り方も全然違うのだ。当然と言えば当然のことだが、実際に体感してみると、その違いはあまりに大きすぎた。
――よいっしょっと。
みなもは、なんとか起き上がりだるまのように、転がりながら起き上がった。が、先ほどバランスをとろうと反射的に広げた翼は、思っていたよりもずっと大きく、畳むのに一苦労だった。あやうく途中で再び転びそうになったくらいだ。
――あ。
思わずため息をついた後で、みなもはくちばしを開けた。
そうだ、飛べばいいのだ。こんなに立派な翼があるのだから。飛んでしまえば湖なんてすぐそこだろう。
みなもは翼を広げながら地面を蹴ろうとした。が、その身体はふわりと宙に浮くことなく、地面につんのめった。
――飛ぶのも意外と難しいんですね……。
みなもはよたよたしながら起き上がり、軽くため息をついた。空を自由に飛ぶ鳥たちも、決して楽をしているわけではないのだ。
けれど今は感心している場合でもない。みなもは再び翼を広げ、飛び上がった。そして、やはり直後に地面に墜落する。
それを何度か繰り返し、みなもはため息をついた。湖は少し近くなったとはいえ、今のみなもにはまだまだ絶望的な距離だった。その湖では、何羽もの白鳥が水面に遊ぶ。
その様子を遠目に眺めていると、何羽かの白鳥が空へと飛び立った。くっと上体を持ち上げ、翼を羽ばたかせながら水面を走り、そして上空へと舞い上がる。
――ああすればいいんですね。
みなもは、さっそく真似をこころみた。くいっと胸を持ち上げ、翼を勢い良く動かす。
が、思っていたよりもはるかに翼は重かった。腕から胸へとつながる筋肉がきりりと痛み、翼の動きからは予想よりはるかに大きな反動が生まれ、みなもは再び尻餅をついた。
――……うまくいかないもんですね。
いつしか、湖にむける眼差しには羨望がこもっていた。ああ、でも、あそこの白鳥たちに頼めば飛び方を教えてくれるかもしれない。そう思ったみなもは、白鳥たちに向かって呼びかけた。
「ぐがぁ」
けれど、そのくちばしから出た声は、とうてい白鳥の鳴き声ですらない、しわがれた声だった。長くのびた喉のあちこちに引っかかり、うまく声が出ないのだ。当然、仲間の声とも思わなかったらしく、こちらを振り返る白鳥はいない。
これでは、「白鳥の湖」じゃなくて「みにくいアヒルの子」ではないか。みなもはがくりとうなだれた。
西の空はすっかりオレンジ色になっていた。夕日は稜線の向こうに姿を消し、東の空は夜色に染まっていく。
みなもは、何度も転びながらどうにかたどりついた湖の水面にぷっかりと浮いていた。この水面に浮くのだって大変だったのだ。何度もひっくり返り、水に頭をつっこんだ後で、ようやくどうにか浮けるようになった。
よく、俗に「優雅に見える水鳥も、水面の下では必死に足を動かしているのだ」と言うが、実際に体験してみると、そのたとえさえもがきれいごとに思えてしまう。
くたくたになったみなもは、すっかりお腹も空いてしまったのだが、何分、浮いているだけで精一杯。泳いだり潜ったりなど雲の上の話だ。とても食べ物を探す余裕などない。
それに、もうすぐ月が昇る。確か、夜になれば人間の姿に戻れるはずだし、王子様とも出会えるはずだ。
きちんとお姫様らしく振る舞わなくては、と気を引き締める一方で、やはり人間の身体に戻れることには安堵の思いがあった。みなもは、今か今かと月の出を待ち遠しく思いながら、東の空を見つめていた。
やがて、ゆっくりと大きな月が昇る。辺りに明るい満月の光が溢れ出す。そして、王子様たちらしき話し声が遠くから聞こえてくる。
いよいよだ、とみなもの胸は高鳴った。
――けど、それにしても少し明るすぎないかしら。
ふとそんなことを思ってみなもは軽く首を傾げた。
明るい朝の光に浮かび上がるのは、見慣れた天井、使い慣れた家具、いつもの自分の部屋。
「……夢……かぁ。また変な夢見ちゃったな。それにしても肝心なところで目が覚めちゃうなんて……うぐっ」
ひとつ大きく息をつき、起きあがろうとしてみなもは思わず顔をしかめた。腕から胸にかけて、引き裂かれるような筋肉痛が走ったのだ。
「そ、そんなに変な寝方してたかなぁ」
半ば涙目になりながら、みなもは小さく呟いた。胸中に、夢の中での、あの飛ぶための涙ぐましい努力が浮かぶ。
「まさかね……」
あきれ笑いを漏らし、みなもはそろそろと起き上がる。今度は向こうずねが筋肉痛だ。みなもの胸に、あの歩こうと短い足を必死に動かした記憶がよぎる。
「……」
やはり父からの贈り物はうかつに開けるべきではなかったのかもしれない。朝っぱらから、みなもは首を振りながら大きなため息をついたのだった。
<了>
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